<政治・社会>教育の矛盾

先日、職場からの帰りに同僚の先生と一緒になった。ゼミの運営の話などをつらつらと話していたのだが、そのうちに現在の社会状況における教育の意味というような話になった。

その先生いわく、受験勉強で頑張り、大学を卒業し、正社員として企業に入りこんでも、右肩下がりのこの日本社会ではそれが本当に幸せなことなのかわからないのだという。つまり、正社員であっても、長時間労働や低賃金に苛まれるこの時代に、学生(あるいは自分の子ども)を競争へと駆り立てるようなことをしていても良いのかという疑問だ。

加えて、分野にもよるだろうが、我々教員はしばしば教育の場で企業のあり方について批判を行う(僕もそうだ)。それが就職活動の時期になると、手のひらを返したように、その企業の尖兵となることを推奨するというのは自己矛盾ではないか、というのだ。

これと似たような話が、別の機会にもあった。それは学科のミーティングにおいて、将来の人材育成について話合っていたときのことだ。もちろん、大学の教員ごときにそもそも「人材育成」が可能なのかという話もあるだろうが、とりあえずその話は措こう。

そのミーティングでは、何人かの教員が人材育成のヴィジョンについて話したのだが、そのなかではもはや企業に入ってナンボという世界は終わったのではないかとの発言があった。つまり、これからはフリーランスで生きていけるスキルを身につけさせることが必要なのであり、極端な話をすれば、就職実績が0でも構わないのではないのか、というのだ。

要するに、これからの時代に学生を企業に送り込むことが本当に妥当なのかを疑問に思う大学教員がいる、ということだ。

ちなみに、上のミーティングで僕は、大学を出てそのままフリーランスになりたいという学生がいたら、すぐに就職課に行かせて正社員を目指すように指導すると発言した。

正直、僕はフリーランスの時代云々という発言に結構腹を立てていた。自分は大学教員という安定的な仕事に就いておきながら、指導する学生には極めてリスクの高い道を選ばせようというのか!それは無責任以外の何物でもないし、そういうことを言うならまずは自分が専任教員の職を辞するべきだろう。

確かに、正社員になれたからといって、それが幸せに繋がるとも限らない。僕と同じような30代、あるいは20代の人たちならなおさらそうだろう。しかも、正社員と非正規の被雇用者との格差を問題にするような発言を行うことの多い立場の人間が、自分の教え子には正社員を目指させるというのは、確かに矛盾と言えば矛盾かもしれない。

けれども、湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)などを読んだうえでなお、あるいはそうだからこそ、僕は自分の教え子や子どもには過剰なリスクを背負わせるようなまねをしたくない。彼らが最初から大きなリスクを背負い、人生に行き詰まったとしても、僕にはそもそも責任の取りようがないからだ。安定を重視させることで、彼らの才能の開花を妨げることになるかもしれない、という批判は甘んじて受ける。

格差の問題にしても、僕個人の力では社会構造を変えることなどできやしない以上、その格差のなかでどうすれば有利に振舞うことができるのかを一緒に考えることぐらいしか僕にはできない。パイが縮小していくとしても、政府や日銀にその縮小を出来るだけ食い止めることを期待しつつ、その小さくなっていくパイの争奪戦をいかに勝ち抜くのかを考える以外、一介の教員にいったい何ができるというのだろう。

教員の立場との矛盾ということで言えば、ウチダ先生流に「教員の矛盾が引き起こす葛藤のなかにこそ成熟はあるのだ」と思うしかない。企業を批判する目をもちつつ、企業に入って、その尖兵になる。もちろん、そんなややこしいことをするよりも、指示されたことに何らの疑問も抱かないようなソルジャー型の社員のほうがずっと楽だろうし、出世も早いかもしれない。

ただ、それでも、どこかの某人材派遣会社の経営者のような、あまりにも他者への想像力を欠いた人間を生み出さないためにも、そういう教育の営みというのは必要なのだと思う。

もちろん、それが上述したパイの争奪戦にとって不利に作用するとするならば、それすらもやめて大学の講義では企業社会の素晴らしさを説き、自己責任論を吹聴すべきなのかもしれない。でも、さすがに僕にはそこまで踏み込むことができない。中途半端、と言われれば確かにそうなのだけれども。
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  by seutaro | 2009-05-08 00:29 | 政治・社会

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