<政治・社会>官僚組織の「動機の語彙」

 なんとなくどこかでチクチクと批判されているような気もするので、前回の補足エントリをば。

 我々は、自分たちの目から見て非常におかしな行動をしている人や集団を見るとき、往々にして問いかける。「彼/彼女はいったい、なぜこんなことをしているのか?」あるいは「なぜ、このようにしないのか?」と。

 とりわけ、その行動が重大な帰結をもたらすばあい、そうした問いかけはより一層切実なものとなる。典型的には、人を殺してしまったケースだ。当然、多くの人が「なぜ殺したのか?」という問いを発するだろう。

 そうしたとき、あたかもカミュの『異邦人』のように、その回答が「太陽がまぶしかったから」というものだったとしよう。我々は納得することができず、その人物をさらに問い詰める。我々が納得できる動機、つまり「奴が憎かったから」や「金を奪おうとしたら抵抗したから」といった動機を聞くために。

 そのようなばあい、実際に彼がどう考えて人を殺してしまったのかは、実は大して重要な問題ではない。むしろ、我々が納得できることが重要なのだ。したがって、語られる動機とは、実は人びとの内面に固着したものというよりも、他者との相互作用のなかで生み出されるものと考えたほうが妥当なのではないか…

 米国のライト・ミルズという社会学者は「動機の語彙」をそのようなものとしたうえで、人びとを説得しうる動機が時代の変化に応じて変わってくると論じた。すなわち、かつてであれば宗教的な動機(「神のために」)は多くの人びとを納得させるに足る動機だったのだが、世俗化が進んだ現在ではそうした動機によって人びとは納得しなくなり、より世俗的な動機がより説得的になってきたのだという。

 翻って現在の日本。政治家や官僚に対する不信は極めて大きく、マス・メディアが流布する彼らの動機の語彙は、極めてシニカルな色彩を帯びている。「省益のため」、「天下り先確保のため」、「選挙のため」などなど。それらの動機の語彙はたしかに説得力があり、多くの人びとを納得させることができる。

 しかしながら、そうした動機の語彙で全てが説明できるのかと言われると、やはり首をひねってしまう。いままさに大学を卒業して官僚にならんとする若者たちはみな、いつか次官になって権力を握るか、それとも天下りによって厚遇を得ることを夢見ながら官庁の扉をくぐるのだろうか?そこに彼らなりの使命感はまったく存在しないのだろうか?

 もちろん、組織には自らの利益を追求する傾向が強くあるので、組織での生活が長くなればそうした論理に絡め取られ、気づけばそれが国益に反することを知りながらも組織の利益や保身に追従する者も出てくるかもしれない。

 しかし、もし組織全体が欲望や保身を主目的として動いていると知ったならば、少なからぬ人材がそこから流出し、外部から非難を声を上げることなるだろう。どれだけ多くの人材が流出しているのかは僕には確認できないが、少くとも日銀OBによる日銀への批判はあまり行われていないのが現状のようだ。

 OBから日銀への批判が上がらない理由としては、以下の二つが挙げられる。一つは日銀によってOBに対する何らかの言論統制が行われている場合。そしてもう一つが、日銀を離れたとはいえOBの多くは日銀の政策を妥当あるいはやむなしと考えている場合だ。

 田中さんの『デフレ不況』は前者の見解を採用している。ただ、僕個人としては、そういう言論統制の効果よりもむしろ、現役の人たちと同様にOBの人たちもまた日銀の正しさを信じているがゆえに批判をあまりしないというほうに説得力を感じる。

 言論統制のための組織や資源をとりたててもたない組織が、長期間にわたって広範囲の言論をコントロールするというのにはやはり無理があるように思う。日銀のなかに秘密組織があって、日銀を批判するOBを誘拐・洗脳しているというのであれば理解できなくもないが、そこまでいくとさすがに本当の陰謀論だろう。

 ともあれ、以上の点を勘案するなら、日銀の行動原理を説明するためには、組織としての欲望や保身のみならず、やはり「それを正しいと信じている」という動機をも考慮に入れる必要があるように思う。「日銀陰謀論はやめましょう」というときのbewaadさんの発想もこのあたりにあるのではあるまいか。

 bewaadさんがお薦めしている行政学の入門書に、今村都南雄『官庁セクショナリズム』(東京大学出版会)という著作がある。この著作には、セクショナリズム発生の原因に関して、以下のような記述がある。

身近な問題の一例として、都市計画道路の整備事業を取り上げてみよう。土木建設部門からすれば、その整備事業の推進は任務であり使命である。「どうせつくるなら、いい道路をつくりたい」と考えるであろう。財政部門からすると、それ以外にさまざま事業があるのだから、道路整備事業だけを特別扱いすることはできない。「限られた予算の中で、よりよい道路を作ってもらいたい」と言わざるをえない。生活環境の保全を担当する保険衛生部門からすると、通過車両の増大にともなう環境被害のことを考え、「地域住民の健康を第一優先に」と注文をつけるだろう。仮にその道路整備事業が歴史的な文化遺産の保存にかかわるようなことにでもなれば、その担当部門は慎重な配慮を要請し、たとえ事業の遂行に重大な影響があっても、「文化財の保全あっての豊かさであり生活利便ではないか」と迫るかもしれない。どの部門の言い分にも理があるということである。
(出典)今村都南雄(2006)『官庁セクショナリズム』東京大学出版会、pp.224-225。

 かつての通信事業をめぐる郵政省と通産省の対立のように、セクショナリズムは官庁間での利権の競合として描かれることが多い。ところが、上の著作でセクショナリズムは理念と理念との対立として描き出されている。官僚のこのような描写に共感するからこそ、欲望や保身といった動機の語彙を日銀に適用することにたいしてbewaadさんは抵抗を覚えるのではないだろうか。というか、「公共選択論的分析」というのは一歩間違えると、下衆の勘ぐりでしかないような。

 ただし、これだけは強調しておかねばならないのは、たとえ仮に日銀の中の人が真摯であったとしても、これだけの経済的停滞が続いていることの責任は絶対に負わねばならないということだ。マックス・ヴェーバーの言葉を借りるならば、心情倫理ではなく責任倫理ということになるだろうが、その心情がいくら純粋なものであったとしても、人びとの生活に大きな影響を与える職責に就いている以上、その結果に対して責任を負わねばならない。

 まあ、こんなことは改めて言うまでもないことだし、そもそも議論の前提であるはずなのだが、それにもかかわらず、「日銀の中の人は実は結構まじめなのではないか」と言っただけで「日銀の代弁をしている」という解釈が出てくるのには、正直閉口する。あまりこういう言い方はしたくないのだが、言われたからには言わねばなるまい。

 教養が足りないんじゃない?

(追記)
 実はもう一点、還元論について論じておきたいのだが、明日は1限なのでもうやめときます。
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  by seutaro | 2010-05-25 00:39 | 政治・社会

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