<政治・社会>「弱者」への憎悪

そろそろ選挙ネタも飽きてきたんだけれども、今日のウチダ先生のエントリに触発されて、最後にあと1回だけ。

最近、ネットで話題になったのが、広告代理店が政府向けに作ったとされる政治キャンペーン対策用の文書である。なんでこの文書が話題になったのかと言えば、構造改革賛成・反対という軸とIQの高低という軸とでマトリックスを作り、構造改革に賛成なIQの低い層(B層)に対するキャンペーンを強化せよ、と説いていたからである。このB層に関しては、既にいろいろなところで語られているので、別に言うことはない。
僕がここで注目したいのは、A層、つまり構造改革に賛成する「IQの高い層」である(にしても、嫌な言い方である。せめて政治への関心の高低という分類であれば、それほど波風は立たないと思うのだが)。

この文書では、A層に「財界勝ち組企業」、「大学教授」、「マス・メディア(TV)」、「都市部ホワイトカラー」が含まれている。「大学教授」一般をこのA層に入れてよいものなのかどうかは疑問の残るところであるが、このうちで僕が個人的に親交があるのは「都市部ホワイトカラー」である。要は、僕の大学時代の同期の連中であるが、彼らを見ていてつくづく思うのは「本当に大変そうだ」ということである。サービス残業や休日出勤が当たり前なのに加えて、帰宅後は深夜まで資格試験の勉強に勤しんでいる。実際、ある飲み会の席で、僕以外の全員が中小企業診断士や司法書士といった資格試験の勉強をしていることが発覚し、驚愕したことがある。

彼らをそこまで駆り立てている大きな要因は、会社の非情さを見てしまったということであろう。長年、会社に滅私奉公してきた挙句、あっさりとリストラされていく年輩社員を見て(あるいはマスコミ等の報道で知り)、いざとなれば会社は平気で自分を切り捨てるのだという事実に彼らは直面することになった。そのため、いざというときに「自分自身の力」で生きていくための手段として、彼らは資格試験に没頭しているように思える。僕らの世代(30代前半)では、もはや転職は当たり前となっているが、その成否にも資格は大きく作用するようだ。

要するに、何が言いたいのかというと、彼らには「最終的に自分を守ってくれるのは、自分自身の能力しかない」という哲学が染み込んでいる。そういう哲学を持っている者が、「弱者」に対する思いやりを持つ可能性はあまり高くない、ということだ。杉田敦は『権力の系譜学』において、ウィリアム・コノリーのアイデンティティに関する記述を引きながら、次のように述べている(p.37-38)。

人々は「合理的主体」たれという要求を自らに課し、自分の中でそれに逆らう非合理的な部分を服従させようと努力する。そして、めでたく「主体」となった者は、今度は他の人々にも同じことを要求し、枠をはみ出す存在は、排除するか「治療」しようとするであろう。…(労働者層は:引用者)自らの内部の他者性に打ち勝って、初めて辛い労働を続け、一家の大黒柱としてのアイデンティティを保っていくことができる。そうであるからこそ彼らは、労働の意欲がなく福祉に「ただ乗り」している(と彼らに見える)人々、すなわち人種的マイノリティや福祉受益者に対して、きわめて強い反発を感じ、その排除・治療を求めていくし、アメリカ外の「他者」に対しても不寛容になる。

無論、アメリカと日本という土壌の違いはあり、またこの言及は特に白人労働者層を対象としたものであるが、僕がこれまで述べてきたようなホワイトカラー層にもうまく当てはまるように思う。つまり、飲み会に行ったり、ゲームをしたり、漫画を読んだりしたいという自らの「非合理的な」欲求、言い換えれば「もう1人の自分」を無理やり押さえつけながら、残業や資格試験の勉強に邁進する彼らにとって、「弱者」は「もう1人の自分」を克服できないだけの怠惰な存在に過ぎない。従って、彼らに対する富の再配分などを行う必要性は全くない、ということになる*1。

さらに言えば、彼らにとって、たとえばリフレ政策のような国民に痛みを強いることなく景気や雇用を回復する手段などあってはならないことになる。なぜなら、血の滲むような努力がなくとも自らの雇用を維持することが可能なのだとすれば、彼らの努力の意味合いがかなり薄れてしまうからだ。すなわち彼らは、「もう右肩上がりでは経済成長しない」ゼロサムゲームでのルールに基づいて、すでにゲームを始めてしまっているのであり、いまさら「実は経済成長できるんで、そこまで頑張らなくてもいいですよ」と言われても呆然とするしかないだろう。

言うまでもなく、彼らの現在のホワイトカラーとしての立場は、彼ら自身の努力だけに拠るものではない。子供の学歴に親の収入やハビトゥスが強く影響を及ぼすことは、もはや常識の域に達している。しかし、現在の彼らに対して、「君たちの現在の地位はそれなりに恵まれた社会的環境での教育の所産なのであり、したがって君たちにも富の再配分に参加する責任があるのだ」と言うことは、正直、気が引けてしまう。それほどまでに彼らは頑張っているし、その頑張りを彼らの生まれ育った環境だけに帰することはあまりに冷酷であろう(「頑張ろう」というモチベーション自体が環境の所産であったとしても、彼らにしても頑張りたくて頑張っているわけではないことも多い)。

だからと言って、現在のような苛酷なゲームを続けていくことは、「弱者」にとってはもちろん、「勝ち組予備軍」たる「都市部ホワイトカラー」にとっても決して良いことだとは思わない。てか、しんどすぎるでしょ、それ。

というわけで、「頑張っている人」のアイデンティティをなんとか傷つけないようにしながら、「弱者」への富の再配分をうまく行う方法を考えていくことが、これからのリベラルにとっての重要な課題になる、のかもしれない。

*1 確かに、富の再配分の果実を受け取る怠惰な存在ってのはいるのだろうけれども、そうした存在をことさらにクローズアップして「弱者の醜さ」を語るのは、やはり一種のプロパガンダでしかないと思う。しかし、そうした「弱者の醜さ」を強調する物語が多くの人々に受け入れられる背景には、それが上で述べた「弱者」のステレオタイプを補強し、「頑張っている自分」のアイデンティティの維持に役立つということがあるのだろう。
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  by seutaro | 2005-09-14 00:23 | 政治・社会

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