<政治・社会>日本人らしい日本人が他国の人々から尊敬される・・・のか?

今日、「電車男」を見ようと思ってテレビをつけると、日本文化を愛好するイギリス人を扱った番組をやっていた。彼は、自国の文化を理解してこそ初めて他国の文化を理解することができるとか何とか言っていて、イギリスの「伝統」らしい服を着て、踊りを踊っていた。

実際、そのような考え方は決して珍しいものではない。そして、それと似たような発想として、自国の文化を理解していないと国際的には尊敬されないなどといったものがある。だが、僕はこの手の発想に何かしら胡散臭いものを感じてしまう。

確かに、僕がイギリスに留学しているとき、イギリス人や他国からの留学生からは「日本人らしい」ことが期待されていたように思う。たとえば、ちょっとしたパーティーなんかで手巻き寿司なんかを作ると喜ばれたし、お辞儀のような日本の慣習の「再現」すら求められることすらあった。

しかし、それは結局のところ、向こうが勝手に持っているステレオタイプに迎合しているだけなのではないか、という疑念に僕は苛まれることになった。つまり、日本にいたときには作ったことすらなかった手巻き寿司を作ることで、他国の連中が持っている「日本人=寿司好き」というイメージに寄り添っているのではないか、ということだ。

まあ、寿司を作るぐらいであれば別にさしたる害はない。けれども、「日本人」に対するステレオタイプで最たるものが「武士」だの「芸者」だのであることを考えると、やはり問題があるのではないだろうか(「武士道大好き」の人にとってはそうでもないだろうが)。英米圏でよく売れる日本関連の本が「芸者モノ」の"Memories of Geisha"だということは、そういうイメージが勝手に一人歩きしているということを象徴的に示している。

確かに、そういう外国人が日本人に対して持っているステレオタイプに迎合すれば*1、向こうの人々は多くの場合、歓迎してくれるだろう。けれども、それはあくまで「好奇の対象」になるということなのであって、決して「尊敬」されているわけでないように思う。

他方、ステレオタイプを作る側、要するに優位な立場にある側の文化は、たいてい無色透明と見なされ(このエントリで最初に取り上げたようなイギリス人は例外的な存在だと思う)、それ以外の文化こそが好奇の対象となる。言い換えれば、日本人が通俗的なイメージに従って「日本人らしく」振舞うことは、結局、自発的にそうしたステレオタイプの再生産に協力することに他ならないのではないだろうか。

留学中に知り合った僕の友人の1人は、一緒の寮で暮らしていたイギリス人に「君は日本人女性なのに、なんでおしとやかじゃないんだ」というようなことを言われたことがあるという。全くもって余計なお世話である。聞けば、彼がイギリス人なのにわざわざ留学生向けの寮に住んでいた理由が「多文化が好きだから」なのだそうな。おそらく、彼の頭の中の世界地図は、「文化」の境界によってはっきりと区切られており、それぞれの文化の境界の内側では皆が完全に同一の慣習に従って暮らしているというものなのだろう。

そうしたステレオタイプを打ち破り、「あんたが思ってるような日本人ばっかりが日本に暮らしているわけじゃないし、あんたの勝手なイメージに人を合わせようとするべきではない」ということを連中に納得させてようやく、対等な関係を築くことができるのではないだろうか。

*1 ステレオタイプはしばしば、両極端な2つのイメージによって構成される。たとえば日本人に対するステレオタイプの場合、「武士」や「空手家」といったたくましく豪快なイメージがある一方で、「ジャパニーズ・ビジネスマン」に見られるようなひ弱で神経質なイメージがある。それゆえにステレオタイプはうまく機能するのであり、たくましい日本人ならば前者、そうではない日本人には後者のイメージが採用されることで、ステレオタイプが決定的に崩れるのを防いでいる。
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  by seutaro | 2005-09-16 00:01 | 政治・社会

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