<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 1

もう十数年の前のことになる。僕は当時、大阪の高校に通っていた。
大阪人の会話は漫才の形式(ボケとツッコミ)になっているということはしばしば言われることだが、僕の周囲は実際、そうした「お笑い」志向が極めて強い空間だった。なんと言えばいいのか、要するに全てが「オモロイ」か「オモロナイ」かによって判断されるような世界である。

こう書くと、楽しい高校生活だったかのように聞こえるかもしれないが、実際にはそれほど楽しいものではなかった。この空間での僕の役回りは、基本的にはヘタレ役であり、そのヘタレっぷりによってしか笑いを取れないようなキャラであった。テレビのタレントであれば、収録が終わった瞬間にヘタレ役からは解放されるのだろうが、実生活で常にヘタレ役を続けるのは結構きついものがある。特に、敏感な自意識を持つ高校生にとって、そうした役回りは決して愉快なものではなかった。

しかも、こうした「お笑い空間」では、「ベタ」なコミュニケーションがほぼ不可能であり、全てが「ネタ」に回収されてしまうことに僕は非常に悩まされることになった。こう書くとよく分からないかもしれないが、要するに「真面目な話=ベタなコミュニケーション」をしようとしても、それが真剣に受け取られることなく、常に嘲笑にさらされる(=「ネタ」として扱われる)ということである。僕は基本的にはベタな人間なので、それがネタとしてしか扱われないことに非常な苛立ちと歯がゆさを覚えることになった。

そして僕は、全てが「ネタ」に回収されてしまうこのようなコミュニケーション空間と類似した雰囲気を、2ちゃんねるに代表される匿名掲示板でのやり取りにしばしば感じる。全てのコミュニケーションが「ネタ」として扱われるようになる背景には、インターネットの特質が強く作用していることは言うまでもない。

そもそも、インターネットの登場以前には、不特定多数の人々に自分の意見を公表するなどという機会が稀であった。インターネットの登場は、そのような機会を飛躍的に増大させたと言いうる。しかし、他方でそれは、自らの主義主張が、これまででは考えられないような規模での批判や中傷に晒される可能性を生じさせることになった。

たとえば、僕が掲示板に書き込みをするときには、その書き込みにどのような反応が生じるのかが非常に気になる。いくらさして推敲もせずに書き込んだことであったとしても、その書き込みが人びとから嘲笑されればやはり傷つくものだ。特に、インターネットでのコミュニケーションは、対面的なそれよりも遥かに情け容赦のないコメントを生じさせる傾向にある(逆に、対面的なコミュニケーションを2ちゃんねる的なノリで行えば、あっという間に殴り合いの喧嘩になる可能性が高い)。

ここから、インターネット上でのコミュニケーションは全てが「ネタ」になるという様相を呈してくることになる。つまり、書き込んだことが全て「ネタ」であるなら、それがいくら中傷されようとも、批判されようとも、自分の自我が傷つけられることはない。むしろ、批判してきた側こそが「ネタにマジレスかっこ悪い」ということになる。そこから、わざと非常に愚直な書き込みをして、それに対する反応を楽しむ(=釣り)といった行為が行われることになる。

他方、北田暁大氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で指摘しているように、「電車男」スレッドに見られるような妙にベタなやり取りも2ちゃんねるでは観察される。たとえば、失恋板の「相手に死なれて終わった恋愛」など、僕は涙なしに読むことができない。

けれども、こと時事ネタに関しては、全てが「ネタ」になる傾向が非常に強いように思う。そこではベタなコミュニケーションは嘲笑の対象としかならない。そして、そうしたコミュニケーション空間においては、実質的な討議はほぼ不可能になる。無論、匿名掲示板などその程度の存在などだと考えることもできるが、ここで僕が危惧するのは、そうしたコミュニケーション様式がインターネットの世界を超えて、実社会のほうにも浸透してくるということである。言い換えれば、僕が高校時代に体験したような「お笑い空間」の拡大である。

う~ん、自分で書いてても、うまくまとまっていないと思うのであるが、続きは次回。
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  by seutaro | 2005-09-18 00:45 | 政治・社会

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