<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 2

自分で書きながら、どうにも違和感を拭い切れないのだが、前回の続きである。

前回で述べたように、高校時代に僕が体験した「お笑い空間」では、僕はヘタレ役であり、いつも嘲笑を受ける立場にあった。だから、その「お笑い空間」を構成する1人ひとりが、僕を心底馬鹿にしているのだとずっと思っていた。

ところがあるとき、そのなかの1人とふたりきりで長時間過ごすことがあった。その際の彼は、普段の厳しい「ツッコミ」とは見違えるように親切かつ友好的で僕はびっくりしたことを覚えている。それ以外でも僕は似たような体験をすることになり、どうやらみんな普段はいい奴であっても、「お笑い空間」に入るや否や、それぞれの役回りを演じるのだということを認識するようになった。

ところで、こうした「お笑い空間」で、しばしば多用されていたのが「空気」という言葉である。僕がついベタな発言をしてしまうと、決まって言われたのが「空気読めや」という言葉であった。ここで思い出さずにはいられないのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。要するに、ある「空気」が支配してしまうと、その空気を乱すような真実を語りえなくなるというメカニズムである。たとえば、戦艦大和の出撃に際して、戦術的に見れば無謀な行動であることは明確であったにもかかわらず、「大和出すべし」との空気が充満するなかでは反対意見を述べる余地などなかった、といった事例が挙げられている*1。

ここでの観点から言えば、「空気」が支配している空間では、各々がそれぞれが「空気」に適合する役割を果たすように求められており、「空気」を台無しにするような発言を行おうとする者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる*2。これまで述べてきた「お笑い空間」に戻るならば、たとえ1人ひとりと話す分にはベタなコミュニケーションを友好的に行うことができたとしても、彼らが集団となったときには、全てが「ネタ」として処理されねばならない「空気」が瞬く間に醸成されることになる。

すなわち、そうした「お笑い空間」では、それぞれの役柄(ボケ、ツッコミ、ヘタレ、etc.)が所詮は演じられているものでしかないことを各人が薄々認識しているものの、その演技から逸脱することは禁じられているのである。言い換えるならば、「お笑い空間」とは一種の劇場なのであり(アーヴィング・ゴフマンが指摘するように、全ての人間の相互行為には演劇的な要素が含まれているのであるが)、そこでは明確に割り振られた役割を遂行することが厳しく個々人に要求されるのである。

ここで、ようやくこのエントリの(実は)メインテーマである「劇場型政治」の問題へと辿りつくことができた。が、疲れたので、今日はここまで。


*1 山本氏はこの「空気」の支配を特殊日本的な現象として捉えている。しかし、たとえばノエル-ノイマンの「沈黙の螺旋理論」は、ある「空気」が支配的になっていくことにより、それとは異なる見解を持つ人々が自発的に意見表明を差し止めるようになるメカニズムを説明していると言いうる。したがって、「空気」の支配は日本に限らず、他の国々でも生じうる現象ではないだろうか。

*2 山本氏は、「空気」の高揚を抑えるメカニズムとして、情況を知らせる「水」の存在を挙げている。つまり、現状もわきまえずに盛り上がっている連中に対して、情況を知らせる(=水をさす)ことで、人々を冷静にさせる役割を果たすのだという。ただし、この情況の規定が、客観的なものではなく、人間的な判断に基づいたものであるがゆえに、空気支配に対して水を差すにしても、真理を認識するまでには至らないのだと山本氏は述べている。この点に関して、山本氏は「真理」の存在をあまりにもナイーブに捉えすぎているのではないだろうか。
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  by seutaro | 2005-09-18 23:12 | 政治・社会

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