<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 3

どうにも迷走しながら続いていて、書いている本人も一体どこにたどり着くのかがイマイチ明確でないのだが、とりあえず前回の続きである。

前回は、山本七平氏の『「空気」の研究』を引きながら、「空気」の支配する空間では人びとが互いに「ネタ」もしくは演技であることを承知しながらも、ベタなコミュニケーションを行うが許されないことを指摘した。それが出来ない者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる。

人びとが虚偽であることを知りつつもそれにコミットしていく態度というのは、相対主義が蔓延する時代において特に顕著であるように思われる。つまり、全てが真理でないのであれば、数ある「嘘」のなかでより「気持ちの良い嘘」を信じようとする衝動が生じるのではないだろうか。

たとえば、ロバート・マートンによれば、ナチス・ドイツを支持した社会理論家たちは急進的な相対論を採用していたのだという(『社会理論と社会構造』p.496)。強引にこれを言い換えるならば、そうした理論家たちはナチスの言うような「アーリア人種云々」という与太話が「ネタ」であることを予め認識していたのではないだろうか。しかし、たとえそれが「ネタ」であったとしても、当時の疲弊したドイツ社会に暮らす人々に「自信」と「誇り」を与えるがゆえに彼らはその「ネタ」に乗ることにしたのではないだろうか。

さらに言えば、そうした「ネタ」であることを認識しつつも乗ったのは、そうした知識階層の人びとばかりではなく、多くの一般人もまた同様だったように思われる。僕はナチスに関する膨大な既存研究をレヴューする立場にはないが、ナチスとはある意味、壮大な「ネタ」として始まったのではないだろうか。

ところで話は急に変わるが、僕はかつて、人が物事を学ぶのには3つのステップがあると聞いたことがある。まず第一は、ある考え方を熱烈に信奉する段階である。要するに「世界の真理を解き明かせるのは、この理論だけであって、あとはゴミ」だと考える段階である。

第二は、当初は熱烈に信奉していた考え方の問題点が徐々に見えてきて、他の考え方の良さも理解するようになったことから、全ての考え方にはそれなりの利があるという段階である。これはある意味、バランスが取れているように思えるかもしれないが、自分の立ち位置がないために非常に無責任な態度につながりやすい。

そして、第三は、自分の支持する思想の問題点や他の思想の利点を理解しつつも、特定の思想にコミットするようになる段階である。自らの思想の限界を知りつつも、あえてそれを支持するという段階だと言えよう。

それでは、先に述べたような虚偽だと知りつつもコミットする立場は、この第三段階に該当するのだろうか。僕の考えではそれは違う。なぜなら、上で説明した第三段階において特定の立場を支持する根拠となるのは「相対的に見れば」それが正しいからだというものであるのに対し、特定の「ネタ」を支持する根拠となりうるのはそれが「気持ちがよいからだ」というものになるからである。その意味において、後者の立場は決して成熟した思想に至るものではない。

というわけで、ますます混迷の度を深めつつ第3回はここで終わり。
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  by seutaro | 2005-09-22 00:15 | 政治・社会

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