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<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 4

この「すべてが『ネタ』になる」シリーズも第4回目であるが、実はこの「すべネタ」話は、以下のブログに触発されて書いている。

猿虎日記「コイズミ・オブ・ジョイトイ?」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050828
つまり、余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです。「独裁者小泉をマジで熱烈に支持」なんて人はめったにいない。どこか、半分馬鹿にしているし、自分自身も半分醒めている(つもり)なのです。逆に、小泉のことを独裁者だとベタに批判する人を見ると「何マジになってんの? あんな面白いもの、支持するしかないでしょう」と嗤うわけです。小泉は危険なんかじゃないのです。……いや、危険であってはならないのです。なぜなら、小泉は、テレビの中の住人だからです。政治とは、テレビの中のプロレスと同じで、自分たちと関係ない、いや、関係があってはならないのです。だから、私たちは、安全なお茶の間にいて、四角いマットの上で繰り広げられる血しぶきを上げた闘いを眺めることができるのです。

前回、ナチスドイツの話を書いたが、だからといって小泉首相=ヒトラー的独裁者などと言うつもりはない。ただ、この上の指摘にもあるように、実は我々が考えているほどに、ヒトラーの信奉者たちはのぼせ上がっていたわけではなかったかもしれない、むしろ「ネタ」として楽しんでいた部分があったのかもしれない、ということを前回のエントリでは言いたかったのである。

以上のように、「ネタ」であることを承知しつつそれを受け入れるという立場は、現在のネオナチ的なムーブメントにも見られる。彼らの多くは「人種的」な「純潔」だとか「優越性」に意味などないことを知りながら、それらの主張をもとに移民や外国人の排斥運動を行っているという。

このように考えてくると、古今東西の様々な政治的・社会的運動には「ネタ」的な側面があったのではないかとも思えるような気がする。無論、そうした運動を支える人々の間に信仰心に近いような純粋な側面が存在することは否定できない(だからと言って、それが良いことではないのは後で述べる)。しかし、特に運動が拡大していくにつれて、それが「ネタ」でしかないことを知りつつも、大勢に順応するかたちで支持にまわる連中が増えてくるのではないだろうか。

ただし、時間が経つにつれて、そうした「ネタ」を「ベタ」なものとして受け取る層が出てくることに注意する必要がある。特に、こう言っては失礼にあたるかもしれないが、若年層は社会的な経験を欠いているがゆえに、そうした「ネタ」を額面通りに受け取る傾向にある。従って、運動側からすれば、若年層は非常に利用しやすい層だと言える。実際、ファシズム等の社会運動は若者にターゲットを当てることが多く、また実際に数多くの若者が熱狂的にそれを支持することになる。

そして、このように運動の参加者たちが「ネタ」を「ベタ」として受け入れるようになると、運動は決定的に変質していく。つまり、その運動が持っていたある種の批評性は失われ、ドグマ化した「ネタ」が暴走を始めることになる。

繰り返しになるが、僕は小泉首相が云々ということを言いたいのではない。ただ、ある思想や運動が「ネタ」であるからと言って、取るに足りないと考えるべきではない、ということが言いたいのである。

そうした「ネタ」に対するベタな反論は意味をなさないばかりか、逆効果ですらある。「ネタ」が支配する空間におけるベタのコミュニケーションの空しさは筆舌に尽くしがたいものがある。小林よしのり氏に対する批判にどうにも空しさが漂っているのは、「ネタ」に対してベタな批判を試みているからに他ならない。氏の立論がいかに論理的に破綻していようとも、「ネタ」である以上、それはさして重要な問題ではないのである。

だからと言って、「ネタ」に対して「ネタ」で対抗するという戦略にも自ずと限界がある。結局それは、プレゼンテーションの巧拙を競うだけの争い(どちらがより「面白い」のかという争い)となり、結局は資本を多く投下できる側、つまり「声の大きい者」の勝利しかもたらさないだろう。

「『ネタ』の支配する空間において、いかに真摯なコミュニケーションを回復するのか。」現在の僕には、この問いに対する回答はどうも出せそうにない。

  by seutaro | 2005-09-26 00:26 | 政治・社会

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