<政治・社会>この後に及んでマルクス主義

今さら、というか何と言うか、ネットサーフィンをしていたらこの間の総選挙に関するブログにぶつかった。

http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/d/20050914

このブログの筆者である佐々木氏は、『朝日新聞』の選挙に関する記事を紹介し、次のように述べている。
しかしブロゴスフィアの外側――特にマスメディアでの有識者たちの発言には、有権者を愚弄しているとしか思えないような内容のものも目立っている。たとえば投開票日の翌朝の朝日新聞の社会面には、何人かの有識者がコメントを寄せていて、本田由紀・東大助教授は<経済的弱者が、政策的に手を差し伸べてもらうことよりも、「ぶっ壊す」ことを訴える小泉首相に、希望を見いだした可能性はある。現状が厳しいほど、単純なカリスマに自分を同一化して、「この人だったら何かをやってくれるかもしれない」と>と指摘した。相当に辛辣というか、弱者に厳しい意見ではないか。朝日新聞とは思えない。

しかし、左翼が大衆を愚弄するような意見を言うべきではないと考えているのだとすれば、佐々木氏の認識は相当に間違っていると言わざるをえない。むしろ、左翼の総本山であるマルクス主義の歴史は「衆愚」といかに対峙するのかを論じてきた歴史であるとすら言いうる。

僕のマルクス主義に関する知識は相当にいい加減なので話半分で読んで欲しいのだが、よく言われているようにマルクスは革命が最初に起こるのは、資本主義が最も高度に発達したイギリスだと考えていた。ところが、革命の兆しのようなものはあったにせよ、実際に革命によって社会主義政権が誕生する気配はない。

そこで、出てきたのが「前衛」という考え方である。要するに革命エリートたる共産主義者たちが、革命の何たるかを理解できない大衆を指導する必要がある、というものだ。でもって、レーニンはこの前衛論でもって共産党独裁型のソ連という国家を築き上げることになった。

他方、西欧では、なんでそもそも大衆は革命を起こさないのかという問題に研究者たちは取り組むことになった(ここに、「なぜ切り捨てられるはずの弱者が小泉首相を支持するのか」という問題意識と共通するものを見つけ出すことは困難ではないだろう)。そこで、彼らが注目したのは、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の「ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想にすぎない」(大内・向坂訳、p.66)という一節である。要するに、彼らは「虚偽意識」を植え付けられているがゆえに、自分たちの真の利益を認識することができず、支配階級の利益に沿った行動をしてしまう、ということだ。

こうした考えに基づいて、大衆の革命精神をそぎ落としてしまう要因を考察したのが、イタリアで言えばアントニオ・グラムシであり、ドイツで言えばフランクフルト学派だということになるだろう。グラムシは「ヘゲモニー」という発想を取り入れ、文化の領域において闘争を進めることで革命を発生させうることを主張した。他方、アドルノやホルクハイマーといったいったフランクフルト学派は、大衆の革命精神を堕落させる大衆文化の研究を行った。

ところで、このアドルノらの研究は難解を極め、僕も『啓蒙の弁証法』のあまりの難しさに途中で挫折している。ノルベルト・ボルツが『意味に飢える社会』という著作で述べている「(アドルノの言う)否定弁証法とは何かを理解するための努力は並大抵ではなかったので、その内容は真理だと思うしかなかった」との皮肉は(p.188)、まさにこうした批判理論がごくごく一部の層にしか理解されていなかったことを的確に表している。

このような難解な言語を駆使し、それによって大衆の愚かさの源を探ろうとする理論家たちに強烈なエリート意識があることは明らかであり、ここからも大衆への蔑視と左翼思想とが決してかけ離れたものではないことが理解できよう。

以上のようにマルクス主義の研究者たちの分析対象は、下部構造(経済)から上部構造(イデオロギーや文化)へと徐々に移行していくことになる。近年、日本でも流行しているカルチュラル・スタティーズもこの流れに位置づけることができる。

さらに、こうしたマルクス主義の変貌のなかで、下部構造によって規定された階級の存在そのものを疑う学派が登場することになる。つまり、それまでのマルクス主義では、大衆は確かに支配的なイデオロギーによって自らを階級構造のなかに位置づけることはできないかもしれないが、「客観的」に見れば階級構造は厳然と存在しているとの立場を取っていた。それに対して、ラクラウやムフらの「ポスト・マルクス主義」では、人びとがその経済的な地位によって本質的に帰属させられるような階級など存在せず、階級帰属を決定するのは文化的なヘゲモニーであることが宣言されることになったのである。

このようなポスト・マルクス主義の発想は、今日では大きく揺らいでいるとは言え、社会階層的に見れば最上層や最下層に位置づけられうるような人びとまでもが「中流意識」を持っていた日本社会に暮らす我々にとっては非常に馴染みやすいものだろう。

むしろ、我々の観点からすれば、逆になぜ西欧では「階級」というカテゴリーが、革命を起こすほどではなかったにせよ、大きな影響力を持ちえたのかということが疑問として浮かびあがることになろう。僕はイギリス留学中、たびたびイギリスが「階級社会」であることを意識させられたし、労働者の多くは「第三の道」を採用して大きく変化したにしても労働党を明確に支持し続けている。

僕の見解では、それは「労働者」という一般的には「弱者」に分類されうるカテゴリーが、決してネガティブで弱々しい意味合いだけを持っていたわけではなかったということに起因している。が、そろそろ長くなってきたので、とりあえず続きは次回ということにしよう。
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  by seutaro | 2005-09-30 00:45 | 政治・社会

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