<政治・社会>「負け組」を越えて

 さて、予告しておいたイギリスの労働者階級のお話である。といっても、「労働者階級」というのは、イギリスでも決して一枚岩ではない。たとえば、多くの労働者は労働党を支持しているとはいえ、選挙法改正によって労働者にも選挙権が与えられるようになって以来、保守党を支持する労働者は決して少なくなかったし、特に1980年代のサッチャー政権時代には保守党による労働者の取り込み戦略が大きく効を奏していた。

 とはいえ、やはりイギリスでは、階級の存在を感じさせられる機会が日本に比べてずっと多いように思う。その大きな理由のひとつは、既に述べたように、労働者というカテゴリーが「弱者」としては位置づけられていなかったということにある。

 ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』は、イギリス労働者の文化に注目したカルチュラル・スタディーズの古典の1つであるが、ここでは労働者階級の男性の自尊心のありようが克明に描き出されている。彼らは社会階層的には低い層に属する「労働者」だからといって、決して自らを弱者であると考えているわけではない。むしろ、彼らの観点からすれば、ホワイトカラーの連中というのは、「女のような」仕事をしている体制に従順な連中でしかない。むしろ、彼らのほうこそが「男らしい」仕事をしている強者なのである。すなわち、彼らは「労働者」であることに誇りを見出しているがゆえに、労働者階級に自己を位置づけていることが出来ているのである。

 ここで日本への視点を移すならば、社会階層の低い人々が積極的に自らを位置付けることができるようなカテゴリーは今のところ存在していないのではないだろうか。無論、イギリスの労働者に見られるようなアイデンティティを持って仕事に取り組んでいる人びとは日本でも無数にいるだろう。けれども、それが社会で幅広く流通するようなカテゴリーとして成長するには至っていないというのが現状であろう。

 近年、社会階層の低い人々に対して頻繁に用いられるカテゴリーとしては「負け組」が挙げられよう。けれども、自嘲的に自分のことを「負け組」と呼ぶ人びとがいるにせよ、「負け組」は決して多くの人びとが誇りをもって自己を表現するために用いることの出来るカテゴリーではない。特に、能力主義の哲学が浸透した社会においては、「負け組」=「無能者」という等式が暗黙のうちに成立することになる。こうした状況においては、社会の大多数が自らを「負け組」あるいは「弱者」と認めるようになる事態はすぐにはやってこないだろう。そのことが「弱者ってそもそも誰のことだ?」という疑問をあちこちで噴出させているのである。

 従って、たとえば選挙戦において「負け組」または「弱者」にターゲットにした選挙戦略は、最初から失敗することが定められている。無論、だからと言って「プロレタリアート」や「労働者」といった手垢のついたカテゴリーによってよりポジティブなアイデンティティを構築することを目指すのもナンセンスだろう。

 それでも、社会のごく一部の層だけが利益を得るような政策を推進する政権を「弱者」が熱狂的に支持するような状況を変えたいと願うのであれば、自己を「弱者」として卑下することなく支持できるような代替政策を打ち出していく必要があるだろう。

 無論、僕にはそのための戦略を生み出す能力などない。けれども、そのための重要な要素となりうるのは現在のシバキアゲ型資本主義とは異なるタイプの資本主義のヴィジョンを描きだすことだろう。そういう意味で、僕はたとえば稲葉振一郎氏の『経済学という教養』に見られるような試みを高く評価したい(アマゾンのカスタマーレビューでは、非常にナンセンスな評価も散見されるが)。無論、問題はそれをどうやって「ネタ」が支配する劇場型政治のなかで多くの人びとに受け入れられるような形にしていくのかということなのであるが。
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  by seutaro | 2005-10-02 12:28 | 政治・社会

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