<映画>パッチギ!
このサイトのエントリを見て、思わずこの週末に映画「パッチギ!」を見てしまった。一言で言えば、在日朝鮮人と日本人高校生との友情と恋愛とを扱った映画である。
正直、僕の笑いのツボにはあんまりはまらなかったらしく、爆笑ということはなかった。また、僕の涙腺は相当に緩くできているのだが、これで泣けたということもなかった。さらに言えば、僕はかなりの小心者なので、喧嘩のシーンの生々しさにちょっとひいてしまった…。
と、ネガティブな評価ばかりしてしまったが、だからといってこの映画を全否定しようとも思わない。特に、この作品の思想的な意味合いについては、リンク先のkaikaji氏にほぼ全面的に賛同したい。
在日朝鮮人に限らず、エスニック・マイノリティの描き方というのは非常に困難な問題を抱えている。一般に進歩派と呼ばれる人々は、マイノリティに対するマジョリティの差別や暴力を強調するあまり、マイノリティの側を「無垢の被害者」として描き出してしまう傾向にある。これは決して日本に特殊な現象ではなく、たとえばロバート・マートンは「すべての白人が悪魔だと考えるのが間違っているのと同様に、全ての黒人が天使だと考えるのは間違っている」といったような発言をどこかでしていたと思うが、ここからは黒人差別を批判するあまり黒人の存在を美化して語るような傾向がアメリカにも存在していたことが窺える。
このようにマイノリティを「可哀相」な存在としてのみ描き出すことの問題性については、奥村隆氏が『他者といる技法』で優れた指摘を行っている。要するに、「可哀相」であるだけの存在としてマイノリティが描かれてしまうと、彼らが実は純粋無垢な存在ではなかったことが明らかになった時に、「可哀相」な存在から一気に「がめつく」「狡猾で」「恐怖すべき」存在へと移行してしまう傾向にあるということである。
しかし、他方において問題となりうるのは以下の点である。マイノリティの「実像」を描こうとすれば、その「がめつさ」や「狡猾さ」を描き出すことは不可避となるが(それが人間というものだ)、その「がめつさ」や「狡猾さ」のみを強調することが、それをより大きな構図のなかで捉える作業を怠らせる傾向にあるということである。つまり、一部の在日朝鮮人の強欲な商売や犯罪を殊更に言い立てることによって、日本人の側の差別を免責し、すべてを在日朝鮮人の側の問題に帰してしまいたいとの欲望がどうにも見え隠れしてしまうのである。
まとめるならば、いわゆる進歩派と呼ばれる人々は、差別という大きな構図を重視するあまり、マイノリティの側にも存在する「がめつさ」や「狡猾さ」を過小評価してしまう傾向にある。他方、「嫌韓流」な人々は、マイノリティの「がめつさ」や「狡猾さ」を強調するあまり、あらゆる責任をマイノリティの側に帰してしまう傾向にある*1。
ここで話を「パッチギ!」に戻すと、在日朝鮮人の「被害者」としての側面を強調しすぎだとの批判は当然に出てくるだろう。けれども、そうした「被害者」としての側面ばかりでなく、暴力も振るえば犯罪も行うような人間の負の側面をも持ち合わせた存在としてマイノリティを描き出そうとした試みとして、この映画は評価されるべきだと思う。
と、まあ、いろいろと御託を並べてはみたものの、(僕のツボにはそれほどはまらなかったが)あくまでこれは娯楽として、難しいことをさして考えずに見るべき作品だというのが実は正解なんだろうと思う。
*1 80年代に大阪の小中高を卒業した僕は(特に中学校の裏手には朝鮮人学校があった)、在日朝鮮人の「怖さ」をしばしば見聞した一方で、日本人の側に存在していた強固な差別意識についても記憶している。
追記:ところで、この映画では「イムジン河」という歌が重要な役割を果たしている。この歌は、いわゆる「放送禁止歌」だったのであるが、この「放送禁止歌」に関しては森達也氏の『放送禁止歌』が非常に面白い。自主規制というものがどのようにして出来上がっていくのかに興味がある人にはオススメである。
正直、僕の笑いのツボにはあんまりはまらなかったらしく、爆笑ということはなかった。また、僕の涙腺は相当に緩くできているのだが、これで泣けたということもなかった。さらに言えば、僕はかなりの小心者なので、喧嘩のシーンの生々しさにちょっとひいてしまった…。
と、ネガティブな評価ばかりしてしまったが、だからといってこの映画を全否定しようとも思わない。特に、この作品の思想的な意味合いについては、リンク先のkaikaji氏にほぼ全面的に賛同したい。
在日朝鮮人に限らず、エスニック・マイノリティの描き方というのは非常に困難な問題を抱えている。一般に進歩派と呼ばれる人々は、マイノリティに対するマジョリティの差別や暴力を強調するあまり、マイノリティの側を「無垢の被害者」として描き出してしまう傾向にある。これは決して日本に特殊な現象ではなく、たとえばロバート・マートンは「すべての白人が悪魔だと考えるのが間違っているのと同様に、全ての黒人が天使だと考えるのは間違っている」といったような発言をどこかでしていたと思うが、ここからは黒人差別を批判するあまり黒人の存在を美化して語るような傾向がアメリカにも存在していたことが窺える。
このようにマイノリティを「可哀相」な存在としてのみ描き出すことの問題性については、奥村隆氏が『他者といる技法』で優れた指摘を行っている。要するに、「可哀相」であるだけの存在としてマイノリティが描かれてしまうと、彼らが実は純粋無垢な存在ではなかったことが明らかになった時に、「可哀相」な存在から一気に「がめつく」「狡猾で」「恐怖すべき」存在へと移行してしまう傾向にあるということである。
しかし、他方において問題となりうるのは以下の点である。マイノリティの「実像」を描こうとすれば、その「がめつさ」や「狡猾さ」を描き出すことは不可避となるが(それが人間というものだ)、その「がめつさ」や「狡猾さ」のみを強調することが、それをより大きな構図のなかで捉える作業を怠らせる傾向にあるということである。つまり、一部の在日朝鮮人の強欲な商売や犯罪を殊更に言い立てることによって、日本人の側の差別を免責し、すべてを在日朝鮮人の側の問題に帰してしまいたいとの欲望がどうにも見え隠れしてしまうのである。
まとめるならば、いわゆる進歩派と呼ばれる人々は、差別という大きな構図を重視するあまり、マイノリティの側にも存在する「がめつさ」や「狡猾さ」を過小評価してしまう傾向にある。他方、「嫌韓流」な人々は、マイノリティの「がめつさ」や「狡猾さ」を強調するあまり、あらゆる責任をマイノリティの側に帰してしまう傾向にある*1。
ここで話を「パッチギ!」に戻すと、在日朝鮮人の「被害者」としての側面を強調しすぎだとの批判は当然に出てくるだろう。けれども、そうした「被害者」としての側面ばかりでなく、暴力も振るえば犯罪も行うような人間の負の側面をも持ち合わせた存在としてマイノリティを描き出そうとした試みとして、この映画は評価されるべきだと思う。
と、まあ、いろいろと御託を並べてはみたものの、(僕のツボにはそれほどはまらなかったが)あくまでこれは娯楽として、難しいことをさして考えずに見るべき作品だというのが実は正解なんだろうと思う。
*1 80年代に大阪の小中高を卒業した僕は(特に中学校の裏手には朝鮮人学校があった)、在日朝鮮人の「怖さ」をしばしば見聞した一方で、日本人の側に存在していた強固な差別意識についても記憶している。
追記:ところで、この映画では「イムジン河」という歌が重要な役割を果たしている。この歌は、いわゆる「放送禁止歌」だったのであるが、この「放送禁止歌」に関しては森達也氏の『放送禁止歌』が非常に面白い。自主規制というものがどのようにして出来上がっていくのかに興味がある人にはオススメである。
by seutaro | 2005-10-03 02:33 | 映画