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<読書>宮台真司・北田暁大『限界の思考』

あっという間に年も明けて、気付けばもう7日。時が経つのは早いものだ。
さて、この正月は、重松清『流星ワゴン』や東野圭吾『時生』なんかを読んでいたわけだが、それ以外には宮台真司氏と北田暁大氏による対談が本になった『限界の思考』(双風舎)を読了した。
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基本的には、リベラル派から「亜細亜主義」や「天皇主義」に「転向」したとされる宮台氏に、北田氏が疑問をぶつけるという形をとっている。宮台氏は、かつて人生に過剰な意味を求めるオウム的生き方を批判し、意味がなくとも「まったり」と生きることを称揚し、その流れで意味を求めない援交女子高生を高く評価していた。
ところが、その後、人生に意味を求めなかったはずの援交女子高生たちは、そろいもそろってメンヘルとなり、宮台氏は現代社会への処方箋の再考を迫られることになる。そこで、人生に意味づけを行うために「あえて」コミットメントする対象として宮台氏が持ち出してきたのが「亜細亜主義」や「天皇主義」だということになる。
ただし、ここで注意すべきは、それが「あえて」するコミットメントなのであり、それが強迫的なものになってはならない、という点である。すなわち、「亜細亜主義」なしには、「天皇主義」なしには生きられないというような状態になってしまうのであれば、それは強迫的なコミットメントであり、オウム信者とさして変わらない。そうではなく、あくまでコミットする対象からいつでも離脱できるようなスキルが必要となる。そのためには、現在の自分自身のあり方をも相対化しうるようなパースペクティブこそが不可欠なのであり、宮台氏はそれを「戦略的アイロニズム」と呼ぶのである。
以上、強引にまとめてみたが、とりあえず宮台氏がコミュニケーションの中身ではなく、コミュニケーションの形式を問題にしているということはなんとなくわかった。しかし、コミットメントの対象がなぜ「亜細亜主義」であり、「天皇主義」なのかという疑問は最後まですっきりと理解できなかったように思う。
って、ここまで書いたら眠くてしょうがなくなってきたので、残りは次回。

  by seutaro | 2006-01-07 03:45 | 読書

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