<日常>才能の残酷

 政治や社会に関しては首をかしげることが少なくないウチダ先生のブログだが、文学に関する文章の切れ味はさすがである。

内田樹の研究室(村上春樹恐怖症)
内田樹の研究室(詩人と批評家)

 これらの文章を読んでいて、改めて痛感させられるのは才能というものの残酷さである。なぜ才能が残酷なのかといえば、結局のところ、それが事後的にしか分からないということに起因するように思う。
 たとえ一時、才能があるともてはやされたとしても、あっという間に忘れ去られてしまうこともある。また、存命中は人びとから見向きもされなかったにもかかわらず、死んだ後に「早すぎた天才」として評価されることもある。だから、才能の有無を判断することは、自分自身にとってすら困難なのである。
 とりわけ、ウチダ先生のブログで取り上げられているような「作家としての才能」などは、その有無を判断することは極めて難しい。たとえば、野球のようなスポーツであれば、僕がいくら努力したところでイチローや松井のようにはなれないことを悟ることは容易である。ところが、文筆業の場合、才能の形が眼に見えにくいがゆえに、往々にして自分の才能を見誤ってしまう。
 もちろん、たとえ自分の才能を見誤ったとしても、才能の無さに気付いた時点で引き返せばよい。ところが、才能がさらに残酷なのは、それを発揮するためには自分自身に対する「根拠なき自信」が不可欠だという点にある。この「根拠なき自信」を欠き、自分自身を信じられない者は、早々に退場するか、退場しないにしても歪んだ劣等感を持ってその道に留まらざるをえない(そういう人々は僕も何人か見てきた)。稀有な才能を真に発揮するためには、「自分に才能があるか否か」を常に自問するような方法では不可能なのであり、自らの才能がいつか開花し、それが世間に認められることを盲信し続けねばならない。
 ウチダ先生のブログで取り上げられている安原氏は、編集や批評では卓越した才を有していたのだろう。けれども、作家と日常的に関わるという編集という業務に就いていたがゆえに、彼は自分自身の心のベクトルを編集や批評ではなく、「作家」という方向に向けてしまった。これが、氏にとっての最大の不幸だったのだろう。彼は自分自身に対して「根拠なき自信」を持てるほど厚顔無恥ではなかったがゆえに、村上春樹という世界的な作家に対して劣等感を抱き続け、そのことが村上の自筆原稿を古本屋に売却するという暴挙につながったのではないだろうか。
 しかし、「根拠なき自信」を持ったからといって、上述のように才能の有無は事後的にしか判断できない。仮に才能があり、運にも恵まれたとするならば、その人物の自己評価と外部評価とはそれほどの乖離を生じさせないだろう。しかし、才能を持たないのに「根拠なき自信」を持ってしまった人物は悲惨である。結局、自分が認められないことを、(水準の低い)世間のせいにしながら生きていかざるをえないからだ。
 さて、作家ほどシビアではないものの、一応は文章を書くことを生業の一部としている僕は、30年後か40年後に人生を振り返ったとき、自分自身の才能にどのような評価を下すのであろうか。
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  by seutaro | 2006-03-14 02:15 | 日常

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