<日常>ホワイトデー

 そう、昨日はホワイトデーだったのだ。
 会社の同僚からそのことを聞くまですっかり忘れていた僕は、いつもよりちょっとだけ早く会社を出て、新宿に向かった。途中、電車のなかで周囲の人を見ていると、いかにも洋菓子店の紙袋を下げたサラリーマンの姿が目立つ。
 そして、閉店間際の京王百貨店に飛び込んだわけだが、おそらくデパートの食品売り場がこれほどまでにスーツ姿のサラリーマンで埋めつくされる日は他にないだろうと思われるほど、サラリーマンの姿が目立つ。そして、売り子の側もここぞとばかりに試食のお菓子を配っている。
 思えばこのホワイトデー、お菓子屋の陰謀としか思えない行事なのであるが、それでも少なからぬ人びとに受け入れられているようだ。しかし、3月14日にチョコを購入するお父さん方にホワイトデーの意味について聞けば、やっぱり同じように「お菓子屋の陰謀」であるとの返事が返ってきそうである。要するに、3月14日に何らかの宗教的な意味を見出している人など皆無に近いだろうし、バレンタインデーにしても同様であろう。
 にもかかわらず、こうした行事が成立しているということは、結局のところ、人びとが行事に参加するのは、その行事の意味に個々人が納得しているというよりも、「自分以外の人びとはその行事を受け入れている」という認識を個々人が有しているからに他ならない。だから、バレンタインデーやホワイトデーなんて面倒臭いと考えている人が実際には多数存在していたとしても、それらの行事は存続していくのである。
 こういう現象は「多元的無知」と呼ばれる。つまり、ある価値観や規範に大多数の人びとはが納得していなかったとしても、彼らが他方において「他の人びとはそれらの価値観や規範を受け入れているのだ」という認識を有している限りにおいて、それらの価値観や規範は表面的に存続し続けるわけだ。従って、バレンタインデーやホワイトデーについての不満が本格的に表面化しるようになれば、「多元的無知」の状態が崩れ、これらの行事が廃れていく要因になりうるのである。
 などと、いろいろと御託を並べてはみたものの、実際にデパートでお菓子を買っていくサラリーマンの顔が「お菓子屋の陰謀」に対する怒りで満ちているかと言えば、そんなことはない。結局、バレンタインデーにせよ、ホワイトデーにせよ、人びとがそれを受け入れる素地があったがゆえに、受け入れられたのであり、普段は贈り物など恥ずかしくてできない日本のお父さんたちが大手を振ってデパートの食品売り場を歩き、家族にお土産を買うための口実を提供しているという点において、ホワイトデーの存在意義はあるのではないだろうか。
 というわけで、僕もゴディバのチョコレートを片手に昨日は家路についたのである。
 
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  by seutaro | 2006-03-15 02:21 | 日常

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