<政治・社会>日本人であることの誇り

 以前、同僚にさる「経済学者」がいた。彼は、会社での仕事に自分の専門的な知識を生かせないことに非常に腹を立てており、いつも職場への不満を漏らしていた。まあ、その点については、僕も同じなのであるが、彼が興味深いのは、自らの経済学の知識を誇るがゆえに、他の社会科学、とりわけ社会学に対して非常に激しい憎悪を抱いていた点である。彼によれば、社会学などを専攻している連中は、数学ができないために経済学を専攻することができなかったからだ、ということになるらしい。そして、この職場ではそうした社会学を専攻する数学のできない連中がのさばっているために、経済学の方法論が軽視されてしまっているのだという。
 社会学を専攻している人たちからすれば、数学ができないから経済学ではなく社会学を学んでいるなどと言われると「はぁ?」としか言いようがないだろう。しかし、この「経済学者」の発想は、ある種のアイデンティティ形成の典型的なあり方だと言うこともできる。アイデンティティとは、石川准氏風に言えば、「自分は他の人間とは異なる、特別な存在だ」という一種の思い込みである。このアイデンティティを維持するため指標にはさまざまなものがあるが、典型的なものとしては学歴がある。「○○大学出身である」というのはアイデンティティの維持にとってしばしば重要な位置を占めることになる。
 ただし、この際に重要になるのは、アイデンティティというのは他者との比較によってしか維持されえないということである。「○○大学出身」がアイデンティティの源泉になるということは、それよりも偏差値や格の点で劣る「××大学出身者」が存在するという点で初めて成り立つのだ。ここで、先の「経済学者」の話に戻れば、彼は職場で自らの不遇を感じており、アイデンティティの危機に晒されていた。そこで、彼が自らのアイデンティティを維持するために持ち出してきたのが、社会学に対する経済学の優位性である。つまり、彼は社会学を見下すことで、経済学の価値を高め、したがってそれを専攻する自分自身の価値を(彼自身のなかで)高めていたわけだ。
 ここでもうひとつ重要なのは、「経済学者」という彼のアイデンティティの維持に必要とされたのが、学歴でも容姿でもなく、社会学という他の社会科学の一分野だったという点である。当たり前のことであるが、学歴にとって重要なのが大学間の比較であるのと同様に、「経済学者」というアイデンティティに固執するのであれば、それと比較されるのは他の学問分野でなくてはならない(念のために言っておくが、世の経済学者の方々の大半は、社会学を見下すような形でのアイデンティティ形成を行っているわけではない、と思う)。
 以上の点を踏まえて、今日の主題にようやく入る。それは、「ナショナル・アイデンティティ」の問題である。ここで言うナショナル・アイデンティティとは、「自分は日本人である」という自己認識のことを意味する。このナショナル・アイデンティティというのは、通常、普通に日常生活を送っている際にはあまり意識されないことが多い。というのも、一人の人間はさまざまな種類のアイデンティティの束を抱えており、どのアイデンティティが顕在化するのかは、その人が置かれた状況に強く左右されるからだ。たとえば、僕が若い日本人女性と話しているときに「ああ、僕はやっぱり日本人なんだなぁ」と思うことはあまりない。むしろ、そういう場合に顕在化しやすいのは、僕が三十路を過ぎた男性だというアイデンティティである。
 では、ナショナル・アイデンティティがもっとも発露しやすいのはどのような状況であるかといえば、それは「日本人ではない」存在と直接的または間接的に接したときである。間接的に接するというのは、たとえばワールド・ベースボール・クラシックなどの外国との試合をテレビで見る場合などがそれにあたる。したがって、日本のプロ野球を見ているときに、「ああ、日本人って凄いっ」などと思う人は少数派で、むしろ「虎ファン」や「アンチ巨人」といったアイデンティティを顕在化させている人が多いと思われる。
 ここから、海外に留学または仕事で滞在すると熱烈なナショナリストになって帰ってくる人が多いということが説明できる。海外では、「自分は日本人である」ということを常に意識されられ続ける。そのため、「日本人であること」に非常に重きを置く人が増えることになる。とりわけ、海外で不愉快な目にあった人は、そうなる傾向が強い。
 ところで、最近では、このナショナル・アイデンティティを教育現場で教える必要性が盛んに論じられている。要するに、「日本人であることの誇り」を叩き込んで、「愛国心」にあふれた人材を育成しよう、というわけだ。確かに、中学時代や高校時代というのは、アイデンティティが非常に不安定で、自分に自信を持つためのなんらかの指標が切に求められる時期である。それは、自我が発達してきたがゆえに、他の人とは違う「自分だけのなにか」が必要とされるようになるからである。そこで、多くの若者は、学力や運動能力、または容姿などを磨くことで、自分のアイデンティティを確立しようとする。しかし、このアイデンティティ形成に失敗すると、自分よりも劣る存在を見出すことで、相対的に自分の地位を高めようとする衝動が生まれることになる。無職の若者がホームレスを襲ったりするのは、そうしたメカニズムの典型的な発露である。
 では、こうした不安定なアイデンティティの確立に「日本人としての誇り」というのは役に立つのだろうか。残念ながら、その確率はあまり高くないように思う。それは、結局、これまで述べてきたように、ナショナル・アイデンティティがもっとも顕在化するのは、「日本人ではない」存在と接触する場合だからである。したがって、周りが日本人ばかりの日本の中学や高校では、「日本人」であることはアイデンティティの確立には役に立たない。差異化の指標にはなりえないからだ。
 しかし、それでも「日本人としての誇り」によってアイデンティティを維持しようとするならば、「日本人ではない」存在や、「日本人らしくない」存在を叩くことが必要になる。つまり、在日や韓国人、中国人、あるいはそれらの人々に「媚びている」反日文化人や『朝日新聞』を叩くことで、自分の存在価値を相対的に確かめることになるわけだ。嫌韓サイトなどを見るたびに、「そんなに嫌いなら放っておけばいいのに」とも思うわけであるが、大嫌いな韓国や中国の情報を必死で集め、わざわざサイトまで立ち上げるという行動を支えているのは、結局のところ、それによって自らのアイデンティティを確立したいという衝動なのだと思われる。
 けれども、そういった形でのアイデンティティ形成が健全なものだとは僕にはとても思えない。「日本人であること」を自己アイデンティティを維持するための核に据えるならば、他の国籍を持っている人を相対的に見下げるしかない。ろくろく会ったことも話したこともない人びとに対して強い優越感を持つというのは、どうがんばってみても精神的退廃である。
 無論、僕は「日本人であること」を否定しているわけではない。海外に行けば、僕もやはり「自分が日本人だ」ということを強く意識させられる。けれども、「日本人であること」によって自分を卑下することが誤っているのと同様に、それによって自分がなにかしら偉くなったかのような観念を抱くとすれば、それは錯覚でしかない。イチローがいかに偉大なバッターであったとしても、彼自身がなんと言おうとも、それは彼自身と彼を取り巻く人々の努力の結果なのであり、それ以外の誰にも帰属しないのだ。まあ、よくあるお国自慢というのは、それほど害があるとも思わないのだが、それを自己アイデンティティの中核に据えてしまうというのは、やはり問題であろう。国籍というのは、結局のところ、数ある属性のうちのひとつにしか過ぎないのだ。
 長くなってしまったのでそろそろ終わるが、まともなアイデンティティの確立していくためには、他者を見下すのではなく、自分で自分の価値を高めていくしかない。勉強やスポーツ、仕事などで地道に努力を積み重ねていくしかないのだ。もっとも、「日本人であることの誇り」を植えつけようというのは、そうした努力ができず、自分自身に自信を持つことができない層の自我を安定させてあげようという、政治家や文部科学省、あるいは保守系文化人あたりのありがた~いご配慮の賜物である可能性も否定できないのだが。 
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  by seutaro | 2006-03-26 07:26 | 政治・社会

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