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<政治・社会>劇場としての法廷

 さて、今日はとりわけ重い話を。
 麻原彰晃こと松本智津夫被告の控訴が棄却され、死刑となる公算が高まっている。麻原被告は、かつて「法廷は劇場だ」などと述べたらしいが、少なくともこの点に関しては彼は「真実」を述べたのだと思う。この法廷はまさに劇場だったのだろう。多少の筋書きの変更はあろうとも、結果は最初から麻原被告の死刑ということで決まっていた。
 この裁判のなかでも重要な争点の一つとなったのが、麻原被告が果たして裁判に耐えうる精神状態を維持しているのかということであった。裁判所は、検察側の精神鑑定結果を採用し、麻原の不可解な言動は「詐病」によるものであり、訴訟能力ありとの見解を取った。しかし、弁護側が実施した精神鑑定によれば彼はもはや精神喪失状態にあるのだという。
 テレビなどでは、より詳細な鑑定を行えるがゆえに検察側の精神鑑定のほうがより信頼性があるというようなことが述べられている。無論、僕はそのいずれが正しいのかを判断する立場にはない。けれども、検察側の「精神鑑定」もまた、最初から結果の決められた、つまり「麻原には訴訟能力がある」ということを前提に行われたものではないのかという疑念を拭い去ることができない。この点について、オウム報道に深く関わってきた森達也氏の著書から、長くはなるが引用をしておきたい(森達也『世界が完全に思考停止する前に』、pp.106-108)。

法廷内の視線は、すべて彼(麻原被告:引用者)に集中した。刑務官の誘導されて被告席に腰を下ろしてからも、麻原は子供のように落ち着かない。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいている。
 その表情に、ふいに笑みがにっこりと浮かんだ。まさしく破顔一笑だ。でも次の瞬間には、再び苦々しそうな表情に戻っていた。笑みの時間は一秒あまり。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいてから笑うという一連の動作を、麻原は再び繰り返している。律儀とでも形容したくなるぐらいに正確な反復だ。
(中略)
 同じ動作の反復は、統合失調症など精神的な障害が重度になったときに現れる症状の一つだ。麻原の一連の動作に、周囲との同調や連関はまったくない。つまり、彼は自分だけの世界に閉じている。俗な表現を使えば、「壊れている」ことは明らかだった。
(中略)
「彼の今の状態を詐病だという人もいるようだけど、Sさん(共同通信記者。原著では実名で記載されているが匿名とした:引用者)はどう思う?」
「…僕にはそう思えません。」
少しの間を置いてから、Sはそう答える。口調に苦渋が滲んでいた。
 午前と午後の法廷で、麻原のズボンが変わっていたことが何度かあるんですよと教えてくれたのは、裁判所の廊下ですれ違った旧知の記者だった。東京拘置所職員に知り合いがいる雑誌記者に、麻原の入浴は数人がかりで、服を脱がせてホースで水をかけながらモップで洗うという話も聞いたことがある。
 何よりも麻原は、もうまるまる五年間(2004年当時:引用者)、誰とも口を利いていない。仮にもしこれが演技なら、それこそ怪物だ。

 思えば、地下鉄サリン事件以降、オウムに対しては法を逸脱した処遇がなされてきた。オウム信者の前で刑事が勝手に転び、それによって信者を「公務執行妨害」で逮捕するなどといった手法はよく知られているところであるが、それ以外でも通常ではありえないような微罪での逮捕が相次いだ。マス・メディアは逮捕の事実は報道しても、その逮捕が結局は不起訴に終わったことはほとんど報じていない。こうしたことを考えれば、最初から「精神鑑定」の結果が決まっていたとしても何も不思議ではない。
 しかし、麻原被告を死刑にするとの決断は、個々の裁判官や検察官によって下されたものではないように思う。むしろ、そうした個々の判断や法律の次元をはるかに超えた社会的圧力によってあらかじめ下されていたのであり、裁判所はそのような無言の圧力に応じたに過ぎないのではないだろうか。たとえ麻原被告の精神が崩壊していようとも、彼の肉体を滅ぼすことは社会秩序を維持するために絶対的に必要な「儀式」として位置づけられているのではないだろうか。
 そして、少なくとも今の僕には、その是非を論じる能力はない。森氏の記述が正しいとすれば、麻原被告やその他のオウム信者への処遇は、確かに法治国家としての日本のあり方に深刻な疑問を投げかけている。しかし、傍観者が安易に犠牲者や当事者と「一体化」を行うことの危険性を承知しつつも、12人もの死者を出し、今なお多くの人々がその後遺症に苦しんでいる地下鉄サリン事件や、その他のオウム関連の殺人事件を思えば、オウム真理教が断罪されねばならないことは明白である。とりわけ、その主宰者たる麻原被告が重大な責を負わねばならないことは否定しえない。従って、他の弟子たちに死刑判決が下るなか、麻原被告だけが精神状態を理由に免罪されるということを容認するのは極めて困難であろう。
 ただ、もし麻原被告が本当に「壊れている」のだとすれば、森氏が言うように、もっと早い時期から治療を受けさせ、正気を保たせたまま裁判に向かい合わせるべきであったのだろう。完全に壊れた彼を処刑したとしても、そこには謝罪も、反省も、悔恨も、あるいは怨嗟や呪詛すらも存在しない。それは単に、魂の抜けた器を破壊するだけの作業にすぎないのである。

  by seutaro | 2006-03-30 23:49 | 政治・社会

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