<歴史>「ナショナリスト」の気概

 なんというか、時流に乗り遅れたテーマで申し訳ないのだが、「嫌韓流」についてである。この本に限らず、韓国批判の話でよく出てくるのが、そもそも日本が韓国を合併したときには、韓国はぼろぼろであって、それを日本が出血大サービスで近代化させてやったのだ、だから韓国は日本に感謝すべきなのだ、というような話である。
 この手の話を聞くと、僕は「う~ん」と唸ってしまう。確かに、日本のおかげで朝鮮半島のインフラ整備が大きく進んだのは否定しようのない事実であると思う。が、だからといって「韓国は日本に感謝すべき」というのは、話の筋がちょっと違うのではないかと思ってしまうわけだ。ただ、僕は歴史の専門家でも何でもないので、ここは小熊英二さんの『<日本人>の境界』からの引用で逃げてしまおう(同書、p.163)。

 台湾でもそうだったが、朝鮮においても、一般論壇の(朝鮮の日本への:引用者)同化論はほとんど経済的利害には関心を示さなかった。むしろ、併合によって朝鮮に大量の補助金をつぎこまなければならないことはメディア上で多く指摘され、『万朝報』の社説が「要するに我財界は韓国併合の為に好影響を受くるよりも、寧ろ悪影響を受くること大なるべし」と述べたように、経済的不利がなかば常識となっていた。…コスト論からの併合反対論や経費節減論も存在したが、より多かったのは、「韓国の併合は・・・義侠的行為たるを賞すべし」という自己陶酔だった。当時の論調では、併合はロシアなどの脅威を防ぐ「東洋平和」のために行われたもので、国防力も経済力もない朝鮮の側から併合を申し入れ、日本は義侠心から不利を承知でそれに応じたのだとされていた。

 このように、現代における韓国併合の正当化も、実は当時のメディアの論調とさして変わるところのないものだということができるだろう。ところが、実際には、同じ「日本人」であるはずの内地の人間と朝鮮や台湾の人々の間には様々な差別が存在していた。そのような差別を正当化する論拠とされたのが、「文明化」の度合いであった。要するに、朝鮮・台湾の人々は野蛮であるがゆえに、内地の人間と同じ権利を享受する資格がないとされたのである。そして、朝鮮・台湾の人々が内地の人間と同じ扱いを受けるためには、「日本人」化することが必要だとされた。小熊さんは、松田正久なる人物が『太陽』に掲載した次のような主張を引用している(p.165)。

日本人として用をなさざる人口を幾許加えた処で国家の慶事でない、却って厄介を増すばかりである。故に是非とも之を同化して日本人としての用をなすに至らしめなければならぬ。乃ち結局は兵役にも服して帝国北門の干城たるに至らしめなければならぬ。・・・朝鮮人が日本に同化して北門の干城たるに至つた日こそ始めて帝国は朝鮮併合の報償を得たりと謂ふべきである。

 この主張に典型的に示されるように、韓国併合はロシアの脅威への対抗という意味合いがかなり強かったことは否定しえない。そして、国防という観点から併合を行ったのであれば、近代化のための投資を行うことは当たり前ではないだろうか。

 ロシアが実際に攻めてきたとして、橋もかかってません、道路も整備されていませんでは、兵站が確保できないではないか。朝鮮人の徴兵は、彼らに武器を渡すことの抵抗感から実際には慎重であったようだが、遠い将来には「日本人」として国防の任に就くことも期待されていたのだろう(1944年に導入された)。そのためには、社会保障や教育制度の充実が不可欠になる。

 実際、たとえば英国などでも、社会保障の充実が図られた背景には、労働者から徴兵された人びとの健康状態があまりに酷く、兵士として使い物にならなかったということがある。従って、日本による朝鮮半島の近代化が日本人の「義侠心」によるものというのはあまりにファンタジックな見解であり、その背後には冷徹な軍事的な計算が働いていたというほうが妥当ではないだろうか。

 ここで問題となるのは、このような観点から行われた日本による朝鮮半島の「近代化」にそこに暮していた人々が感謝すべきか、ということだろう。経済的な合理性の観点からすれば、答えは「イエス」である。実は、僕は民族の独立や尊厳といった問題よりも、人びとの生活水準の向上を重視する傾向にあるので、外国の支配であろうとなんだろうと、そこに暮らす人々が幸せになるならそれで良いじゃないかと思ってしまうわけだ。

 ところが、そういう発想だけで動かないのが世の常である。たとえば、政治学者のハロルド・ラスキは「善政といえども、それは自治の代用物ではない」との言葉を引用しているが(『近代国家における自由』、p.245)、1950年代から1960年代にかけて世界各地で行われた反植民地闘争も多くの場合、経済的な合理性に反して行われた。つまり、先進国の植民地支配に置かれていたほうが経済的な利点が大きかったにもかかわらず、人びとはそれを放棄し、自らの自治と尊厳を勝ち取るための闘いに身を投じたわけだ。

 ここで気になるのが、「近代化してやったのだから、韓国人は日本の統治に感謝すべき」とか言っている人たちは、同時にまた、経済的利害を「尊厳の問題」に優先させることをもっとも嫌がりそうな人たちだということだ。たとえば、靖国問題にしても、最大の貿易相手国とトラブルに陥るぐらいだったら、首相の靖国参拝なんか止めちまえ、というのが経済合理的判断ではないかと思われる。実際、財界では首相の靖国参拝に批判的な声が多い。

 ところが、それでも靖国参拝にこだわる人たちが盛んに持ち出すのが「国家の尊厳」だとか「内政干渉」だとかいう話であり、要は「心の問題」にカネを絡ませるなということだ。ということは、韓国人には尊厳は必要ないが、我々には必要だということなのだろうか。

 付け加えると、たとえば今後、仮に日本経済が破綻し、多くの人たちが生活苦にあえぐようになったとしよう。そこで、アメリカが「我々に併合されれば、経済を再生させてあげるよ。ただし、日本は完全に対中国のための軍事拠点にするからよろしく」と言ってきた場合、そういう人たちは素直に「うん」と言えるだろうか(僕はそれなりの保証さえあれば「うん」と言ってしまいそうであるが)。基地経済という言葉があるように、沖縄は米軍による駐留によりかなりの経済的メリットを受けているわけでもあるが、沖縄県民は米軍に感謝すべきなのだろうか。

 無論、日本に併合された当時の荒廃した朝鮮半島と、現在の豊かな日本社会とを比較することには無理があるとの批判が生じるだろう。しかし、となると結局は、「民族の独立」だの「尊厳」だは富者または強者のみに許される贅沢品なのだということになる。いわば、「当時の厳しい国際環境を考えれば、朝鮮人の独立なんて夢のまた夢なのであり、日本に併合された分だけまだマシ」みたいな話になるのかもしれない。けれども、後発組とはいえ日本自体が植民地の獲得に乗り出し、そうした厳しい国際環境を作り出す上で一役買っていたのだから、そこで偉そうにふんぞりかえるのも何か筋が違うような気がする。

 長くなってきたので、まとめよう。「嫌韓流」の人は、「日本を貶める韓国」が嫌いなのだから、ナショナリストなのだろう。だが、ナショナリストなのであれば、近代化や投資といった「カネ」の原理を、民族の尊厳や独立といった「心」の原理よりも重視するというのはいかがなものか、と思うわけだ。

 ちなみに、戦前の著名な民族主義者である中野正剛は『満鮮の鏡に映して』という本を著している。最後に、この本に関する小熊さんの記述を引用しておきたい(前掲書、p.227)。

「満朝にはやつれ果てたる大和民族の影が映って居る」という言葉から始められるこの本では、朝鮮人や中国人を差別する日本の醜さが繰り返し告発されている。中野がもっとも非難したのは、「長い物には巻かれよう、弱いものなら踏みつけてやれといふ」「日本人の卑劣思想」から、「米国の排日案の前に叩頭しながら・・・[朝鮮人に対しては:原著者]学校焼討の武勲に誇る我国の現状」であった。

 中野は、朝鮮の独立は国際情勢から見て困難だとの立場を取っていたものの、朝鮮人の民族意識を高く評価していたのだという。要は、自分の民族を大切に思うからこそ、日本人の差別意識を厳しく告発する一方で、朝鮮人の民族意識を理解する、ということなのだろうか。

 ま、ナショナリストではない僕にとっては、遠い話なのではあるが。
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  by seutaro | 2006-04-02 02:05 | 歴史

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