<政治・社会>みんな被害者

 以前、こういうエントリを書いたことがあるのだが、なんというか、ネットで見かける論客のなかには、途轍もない被害者意識を持っている人がいるように思う。んで、そういう観点から日本の近代史を見た場合、日本という国は常に被害者であり続けたということになるようだ。

 ずらずらと列挙すると、まず併合したはずの朝鮮半島の近代化のために日本人は搾取され、中国共産党の陰謀に乗せられて日中戦争に引きずり込まれ、アメリカの策略に乗せられて真珠湾攻撃を決行させられ、原爆や大空襲によって市民を虐殺され、戦後はGHQに騙されて「東京裁判史観」を植えつけられ、経済的な理由で勝手に日本にやってきた在日朝鮮・韓国人に「加害者意識」を刷り込まれ、韓国や中国に対して謝罪させ続けられ、来日した海外の犯罪者に痛めつけられている…といったところであろうか。

 こういう「被害者史観」から日本という国を眺めると、なんと主体性がなく、愚かで、騙されやすく、挑発に乗せられやすい国家なのだろうという気がしてくる。こういうのって「自虐史観」と呼ばないのだろうか。

 ただ、まあ、こういう「被害者になりたい気持ち」というのは、実は僕にもよくわかる。「加害者」が悪である以上、「被害者」は汚れなき善であり、少なくとも道義的には圧倒的に優位に立つことができるからだ。そしてそこから辛酸をなめさせられ続けた「被害者」がやがて立ち上がり、悪を打ち倒すという物語が夢想されることになる。

 しかし、このような「悪」と「善」が身の回りですっきり割り切れることなど殆どない。上司や教師、隣人やクラスメイトがいかに不愉快な存在であったとしても、小説やテレビドラマとは違い、そうした「悪」が裁かれることなどまずない。上司が「ぎゃふん」と言ったり、教師が首をうな垂れて謝罪したり、隣人が警察に連行されるといった事態は現実には滅多に生じない。むしろ、そうしたカタルシスが日常に存在しないからこそ、勧善懲悪的なドラマや小説の需要があるとも言えるだろう。

 だが、そうした「善」と「悪」とがはっきり分かれる現実の物語が存在する。それこそが、犯罪報道である。平和な日常を送っていた被害者に突如として害を加える極悪非道な犯罪者という物語が報道を通じて流されると「被害者」に飢えていた人びとは一斉に飛びつく。

 そして、加害者の悪に憤り、人によってはその家族に嫌がらせをし、弁護士を非難し、その弁護士を擁護しているようなblogを見かけるや否や炎上させる・・・。このように、被害者と一体化することを通じて「正義」は達成されるのであり、「悪」は成敗されるのである。
 はっきり言えば、こうした過程において被害者は単なる消耗品に過ぎない。あくまで「カワイソー」な同情されるべき存在でなくてはならないのだ。したがって、仮に「被害者」の側になんらかの「利益」や「利権」らしきものが見え、被害者としての立場を逸脱したと見られた場合、攻撃の刃は一斉に被害者の側に向かうことになる。

 古い話で恐縮だが、「ロス疑惑」の容疑者の場合、最初は同情の対象でしかなかったものが、彼に関する「疑惑」が報じられるやいなや、彼は「無垢なる被害者」から「限りなく黒に近い疑惑の人物」へと一気に転化を遂げ、すさまじいバッシングがメディアによって行われることになった。また、北朝鮮による拉致被害者の会が、小泉首相の方針を批判した瞬間に非難の対象となったことも、彼らが単なる「被害者」という立場を超えて、「権利」を主張し始めたと受け止められたことが原因だったのではないだろうか。

 ただ、こういう「被害者の文法」はいまに始まったことではない。そもそも、1980年代以降のポスト・コロニアルやカルチュラル・スタディーズといった左翼系の学問分野でも、このような「被害者の文法」は強烈に作用していた。少なからぬ研究者が、植民地支配や文化的抑圧の「被害者」と一体化を果たしその「代弁者」となる道を選んだ。

 したがって、ネットに吹き荒れている「わたしも被害者」旋風と、左翼系の学問は、実は同じような構造を持っているのではないだろうか。結局のところ、みんな「被害者」や「弱者」(右派なら犯罪被害者や拉致被害者、左派なら在日朝鮮・韓国人や従軍慰安婦etc.)が大好きであり、彼らと一体となって「加害者」を糾弾しているのである。無論、すで述べたように、そうした「被害者」は消費される存在でしかなく、飽きられた時点で次なる「被害者」が必要とされる。

 なんというか、ちょっと息の詰まる光景ではある。
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  by seutaro | 2006-05-17 02:43 | 政治・社会

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