<学問>文型学者の辛さ

 昨日、このブログを読んだ人から、「読みにくい」、「文体がなってない」、「内容がばらばら」などと厳しい評価をもらった。
 そう言われて、改めてこのブログを見直してみると、確かにその通りである。そうこうしているうちに、だんだんと適当に書き飛ばした駄文を人様に公開していることが急に恥ずかしくなってきた。訪問客もほとんどいないので、このサイトを閉じようかどうか悩み中である。
 まあ、急に閉じるというのもなんなので、とりあえず最近、気になった『毎日新聞』の記事をコピペ。

理系文化人:エッセーが人気 藤原正彦さん、養老孟司さん……大局観に世間が期待
理系の研究者が専門外の現代社会を論じたエッセーが売れている。今の日本社会にもの申す--などのメッセージを放つ本は常に書店の一角を占めているが、社会学などベテラン評論家による分厚くて小さな文字の本ではなく、新書に代表される手軽で平易な文体の本が目立ち、ベストセラーになっているのが特徴だ。背景を探った。【岸桂子、手塚さや香】

 ◇半年で200万部

 新潮社は先月上旬、数学者の藤原正彦さんが執筆した「国家の品格」(新潮新書)を、一挙に40万部増刷することを決めた。新書の1回の増刷としては「おそらく前代未聞の数字」(新潮新書編集部)。その後も増刷を重ね1日現在で計197万部となり、昨年11月の刊行以来、半年で200万部に達するのは確実だ。

 「国家の品格」は、米国追随一辺倒の政治からの脱却を説き、武士道精神など日本人が持っていた価値観や美徳を取り戻すべきだと明快な文章で主張したエッセー。藤原さんは「若き数学者のアメリカ」(77年)など、叙情に満ちた多数のエッセーを発表しているものの「国家のありよう」を明確に打ち出したのは初めて。自身「こんな売れ方は普通じゃない」と戸惑いを隠さないが、ヒットの要因を四つのポイントを挙げて分析した。

 「文系だと右、左の色がついて中身も類推できるが、理系は色がつきにくい。だから読者は『何を書いているのか』と興味を持つ。第二に、常に視線を世界に広げているから、日本の良さも悪さも自信を持って発言できる。第三に、自説をはっきり主張する人が少ない文系に対し、理系は直線的で主張が明快。第四に理系は斬新さで勝負している。この本も、他の本にはないハッとすることがいくつも書いてあるので、読む人は興味を持ってくれたのではないでしょうか」

 新潮新書からは、415万部と新書の最高部数を更新し続けている養老孟司著「バカの壁」(03年)も生まれた。養老さんは解剖学者だが、「バカの壁」も現代社会について論じた本。つまり、超ベストセラー2冊は、理系学者が専門分野の外に向けた論評となっているのだ。

 ◇拒否反応薄れ

 ただし、「理系」は必ずしもキーワードでないという指摘がある。大手出版社の理工書担当編集者は「読者の立場で考えると、数学者や解剖学者の本であることを意識して買っているかどうかは疑問だ。2人とも文章がうまくて含蓄があり、読んでみると『数学者と情緒』のような意外な組み合わせの面白さがあった」と話す。

 社会論に限らず、「理系」人による本への抵抗が薄れているという見方も。ジュンク堂書店池袋本店の文芸担当者は「小川洋子さんの小説『博士の愛した数式』(新潮社)のヒットを契機に、数学入門書も売れています。これまでは理系の人の執筆というだけでちゅうちょされがちだった本が、違和感なく受け入れられつつあるのでは」と話す。

 ◇「大家」の不在

 かつて、文化芸術から社会時評に至るまで常に発言を期待された人として、作家の司馬遼太郎さんがいた。

 養老、藤原両氏に社会時評を依頼した理由について三重博一・新潮新書編集長は「独創的な視点を持ち、固定観念にとらわれない柔軟さがあるから。理系を意識したわけではない」としたうえで、「2人とも文系理系の枠に収まらない『知性』を持っている。読者は今、大柄な構えをもった思想を説く人を求めている気がします」と話し、専門性に縛られない大局観をもつ人の登場を願う世間の期待が、養老・藤原本のメガヒットにつながったという分析に共感を寄せる。

 藤原さんは「司馬さんのような広い視野は、文化や芸術、歴史、思想という一見何の役にも立たないような教養がなければ身に着かない。そんな人は多くは登場しないけれど、活字文化の衰退と、政治家でさえ大局観を喪失している現状を考えると、出現の頻度はますます低くなるだろう」と将来を懸念する。

 ライターの永江朗さんは「『専門バカ』ではない、『長屋のご隠居』的な存在はいつの時代にも求められる。文系は70~90年代にイデオロギーに左右されて権威を失ったりしたが、理系の人たちは、世界観の変化の荒波をそんなに受けずに済んだのでは」と語る。

 「理系文化人」ブームは今後も続くのか。注目されている一人が、1962年生まれの脳科学者、茂木健一郎さんだ。文理の垣根を壊した論壇・研究活動が光り、昨年は小林秀雄賞を受賞。茂木さんの新刊も出した三重編集長は「ポスト養老・藤原は常に探しています」と打ち明けた。

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 ◆識者はこうみる

 ◇文系との境界なくなった--寺門和夫氏・サイエンスウェブ編集長(科学ジャーナリスト)

 科学を極めた専門家はそれなりの自然観、社会観を持っているから、文系の専門家の自然観、社会観と違う見方ができる。その発想が面白くて独創的だから受け入れられているのだろう。そういう人たちが学術論文ではなく、一般向けのエッセーを書いたり分析したりというのは新しい局面かもしれない。新しい問題提起として考えるべきだと思う。つまり、新しい視点で物を考えなきゃいけない時代になってきたということではないか。

 背景として理系と文系の境界がなくなっている現状がある。学問を理系と文系に分けるという明治以来の考え方自体が不可能になってきた。教育や社会現象、犯罪を社会科学的な観点から分析する方法もあるが、理系の立場から見ると異なる分析が可能なことも多いし、実際に発言する人も増えてきた。人口の問題も環境と関係しているし、宗教対立や紛争などの背景も科学的に分析できる点がある。これからの社会は理系の知恵をもっと利用する時代に入った。

 ただ、昨今ベストセラーになった本は、著者のパーソナリティーという要因も大きく、「理系の文化人」というくくりでとらえるのが難しいところもある。この先、文系の文化人が理系のテーマを書いた本がベストセラーになることもあるかもしれない。(談)

 ◇背景に言論ゴミため化--橋爪大三郎氏・東工大教授(社会学)

 理系文化人が政治や社会を論じた本が支持される背景には、「言論のゴミため化」の進行がある。冷戦後、右、左という対立軸がなくなり、イデオロギーがリセットされた。さらにネット上の巨大掲示板などが登場し、オピニオン誌などに代表されるいわゆる「高級な言説」と、出所の分からないうわさ話との区別がつかない言論のゴミため状態になった。政治も劇場化によってサブカルチャーになり、一部の医師や弁護士はタレント化する。こういう状況で「何を信じていいのか分からない」という方向喪失感覚が生まれる。その中で信頼できる存在として理系が注目されるのではないか。

 理系の学問は、客観的法則や事実、物質が存在するところからスタートしているから信頼できそうに感じられる。理系離れと言われて久しいが、養老氏らの本のヒットも「理系は文系とは違う」という文系人間の過度な思い入れや理系への距離感に由来している。

 また、文系の知識人が文系の異分野で発言する場合、既存の常識をひっくり返すことを意図しているために、読者には難解で説教臭く感じられる。その点、理系知識人が文系のテーマを論じる場合は「こんなこと考えてもみなかった」という意外な点を突いてくるため、常識を捨てるという抵抗感が少なく、関心を持たれやすい。(談)

毎日新聞 2006年5月8日 東京朝刊

 おそらく文型学者の代弁者として橋爪氏のコメントが出ているのであろうが、そうなのであれば、もうちょっと同情的な見方をしてくれてもよさそうなものである。
 世の中の様々な社会問題や社会現象を論じるさい、よく知れば知るほど、「○○すべきである!」とか「××は間違っている!」とばっさり切れなくなることが多い。
 だから、文型学者の多くは、持論を展開する際にも、なにかと留保をつける。「・・・という場合には」といって条件を付けたり、「・・・する傾向にある」と断言することを回避したりするレトリックがそれにあたる。そういう書き方をするのは、むしろ学者としての良心の発露だとすら言える。
 けれども、そういう文体は、残念ながら一般の読者にはあまり受けない。非常にもってまわった言い方に感じられるからだ。
 そこで、そういう面倒くさい留保をつけずに、さくっと物事を断言してくれる「文化人」のニーズが出てくることになる。もちろん、そういう「文化人」は理系に限定されるわけではない。今回、養老氏、藤原氏と理系の文化人が続いたが、それはヒットを生み出すうえでさして大きな要因にはなっていないのではないだろうか。
 文型の学者でも、研究の一線を退き、学会での評判などを気にする必要がなくなった人がよく脇の甘い文明論なんかを出してしまったりするが、マーケティングさえ上手ければそういう人でもメガヒットを飛ばせるだろう。
 ああ、なんか愚痴っぽいエントリになったな、これ・・・。
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  by seutaro | 2006-06-01 13:52 | 学問

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