<読書>佐藤卓己『言論統制』について

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現実逃避からか、博論とは直接関係のない本を読んでしまう。
最近、読み終わったのが佐藤卓己さんの『言論統制』という本。いろいろな書評で取り上げられており、かなり話題になっている本だが、僕もなかなか楽しく読むことができた。

内容はと言えば、戦中の言論統制において作家や編集者に「弾圧」を加えたとして、戦後、多くの人びとに糾弾されるに至った鈴木庫三という人物を、全く新たな角度から描きだした著作だ。言論統制に加担した無学で粗野な人物というイメージとは異なり、鈴木は苦学して日大を主席で卒業、帝大でもかなりの業績を上げたというインテリであり、その真面目さゆえに、周囲から煙たがられることになったということが論じられている。また、戦後において、鈴木の悪辣なイメージが作り上げられる過程で、文化人たちがいかに嘘をついていたかも明らかにされている。

全体的に見れば、これまでのイメージを覆すという意図から、鈴木に対しては好意的な角度から描かれており、他方、鈴木と対立した出版社や海軍の人びとには厳しい評価が加えられている。もちろん、佐藤さんがこれによって戦前の言論統制を正当化しようとしたり、通俗的「戦後民主主義批判」に加担したりといったことは全くない。この著作に何らかの批判的意図があるとすれば、それは鈴木という人物を生み出した時代的背景(貧富の格差)を全く無視して、それを<加害者としての軍>と<被害者としての作家や編集者>という安易な構図に安住していたマスコミ史、言論史に向けられているということになろう。

ただ、全体を読み終えて思ったことは、たとえ鈴木が貧困のなかから苦学して身を立てた人物で、清廉かつ実直であったとしても、僕はやはりこの鈴木庫三という人物を好きにはなれないだろうな、ということだ。橋川文三の『昭和ナショナリズムの諸相』などでも明らかにされているように、「超国家主義」が台頭する背景には、多くの不遇な人びとの国家体制に対する不満があり、現在からすれば意外なほどにそこには社会主義的発想との重なりがあった。鈴木庫三の思想にも、社会主義的発想が色濃く反映されており、その最大の敵意はむしろ自由主義的な文化人に向けられていると言ってよい。

確かに、戦前の日本における貧富の差はきわめて大きく、貧困層の人びとがどのような生活環境に置かれていたのかは、やや時期は遡るが紀田順一郎『東京の下層社会』で垣間見ることができる。そうした社会状況のなか、貧困に苦しむ人びとを尻目に享楽に耽っていた自由主義的文化人に対して、鈴木が憤りを覚えていたことは理解できる。鈴木が行った「言論統制」は、鈴木が「平等」を追求していく上での副産物として生じてきたものであり、仮に僕が彼と同時代に生きていたなら、むしろ鈴木に共感する立場にあった可能性は高い。

しかし、後知恵的発想であり、また鈴木が言論統制を始めた張本人でもないことを承知しつつあえて言うのだが、やはり鈴木的な「言論統制」が社会にある種の息苦しさを与え、山本七平の言葉で言えば「空気の支配」を後押しすることに貢献してしまったのではないだろうか。そして、それが最終的には、政府や軍の方針に人びとが疑問をもちつつも、それを言い出せない状況を生み出し、より早い段階での敗戦を不可能にしてしまったのではないだろうか。

さらに言えば、この鈴木庫三という人物はとても勤勉で立派な人だ。だから、酒宴で鈴木の機嫌を取ろうとする「退廃した」自由主義的文化人を嫌悪したというのも判る。だが、人がみな鈴木的モラルに忠実に生きることができるわけではないのだ。そういう厳格なモラルに沿って社会を営もうとするとき、そのモラルによって表面的に抑圧された欲望や退廃は急速に社会を蝕んでいく。戦前派によって語られる美化された過去とは異なり、実際には戦中の体制は「モラルの焦土」とも言うべき状況にあったことは、小熊英二『民主と愛国』によって語られている。

最後に、『言論統制』そのものから話を大きく逸脱させてしまうのだが、戦前的な「言論統制」にはそうした不可避の限界が存在し、また、貧者を放置する弱肉強食的自由主義にも問題があったとすれば、言論の自由をかなりの程度まで保証し、また、貧富の格差を縮小させることに成功した戦後民主主義体制というのは、それなりに評価されてしかるべきではないか、などとも思う。

なんだか、まとまりがなくなってしまったが、このあたりで今日は終わることにしよう。ああ~、論文じゃなかったら、こんなにスラスラものが書けるんだよな~(T-T)。
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  by seutaro | 2004-10-11 11:43 | 読書

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