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<日常>ありふれた日々

 子どもというのは案外、保守的なんだという話を聞いたことがある。

 何度も読み聞かせている絵本の筋をたまに変えてみたりすると、子どもが怒るというのである。つまり、子どもは何度も何度も同じ話を聞き、同じ結末を楽しみたいのだという。

 その理由は、子どもの生活が「新しいこと」に満ち溢れているからだ、ということらしい。子どもにとっては毎日が驚きの連続であり、絵本などに驚きを求める必要はない。そのため、絵本の中にこそ「変わらないもの」を見つけ出したいという欲求がある…ということになるのだろうか。

 僕は心理学に詳しいわけでも何でもないので、この話の正否はわからない。けれども、自分の子どもが生活の「流れ」を少しずつ理解していくのを見ると、納得できなくもない。

 最近、我が家の一人娘は、お出かけというムードになると、勝手に玄関までとことこと歩いていき、座りこむようになった。要は、サンダルを履かせてもらうのを待っているのだ。これは、娘が「お出かけ→サンダルを履く」という流れを予測できるようになったということなのだろう。

 けれども、娘の流れの読みはまだまだ甘く、両親の準備が出来上がるかなり前から玄関に座り込んでいたりする。そういう姿は、思わず抱きしめたくなるほどいとおしい。

 彼女にとって、生活はまだまだ理解できないことだらけで、そのなかで何とかパターンを見つけ出そうとしているのかもしれない。だとすれば、それはかなり疲れる作業だろうし、安定した何かを欲しがる気持ちになるというのもわかる気がする。もっとも、うちの娘が絵本を楽しむことができるようになるのは、まだちょっと先の話だとは思うのだが。

 翻って、大人について考えてみると、我々の日常のほとんどは決まりきったルーティンのなかで流れていく。そのため、日常では味わえないような刺激、もしくは「新しいこと」を求めて、本を読んだり、映画を見たりするわけだ。

 とはいえ、大人にしても、日々の生活が非常に不安定で、次の展開が全く読めないようなときには、「安定した何か」を欲することになる。高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』なんかの分析に基づくならば、たとえばそれは「国家」とか「民族」であったりするのかもしれない。

 まあ、その話は措くにしても、人は退屈な日常のなかに埋没していくにつれて、フィクションに刺激を求めるようになっていくという傾向はあるのかもしれない。だとすれば、フィクションに安定を求める時期と、刺激を求めるようになる時期との境目というのは、いったいいつごろのことなのだろうか。

  by seutaro | 2006-08-20 01:29 | 日常

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