<政治・社会>少年犯罪論争(2)

昨日は、少年犯罪の「現実」をめぐって、議論が真っ二つに分かれているという話をした。
そこで、今日はそうした「現実」それ自体について見解が分かれている場合、「現実主義」および「理想主義」の立場からはどのような主張が聞かれうるのかを予想してみることにしよう。
まず、「少年犯罪の凶悪化」が実際に生じているとする立場に立つと、次のような感じになるのではないだろうか。

(a)「現実主義」
少年犯罪の凶悪化の背景には、現行の少年法の罰則が十分でないという背景がある。そこで、犯罪を犯した少年を厳しく罰することで、犯罪の抑止を行うべきだ。
(b)「理想主義」
少年犯罪が凶悪化している背景には、現代という時代がもたらした少年の心の病がある。そうした根本的な問題を解決することなしには、少年犯罪を防ぐことはできない。

他方、「少年犯罪の凶悪化」は幻想だという立場に立つと「現実主義」と「理想主義」は次のような主張を行うと想定される。

(c)「現実主義」
少年犯罪が過去に比べて減少していることを考えれば、現行の少年法はうまく機能しているのであり、いたずらに制度をいじることはかえって問題を生じさせうる。そもそも、社会から犯罪を撲滅することは不可能だ。
(d)「理想主義 その1」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年法の厳罰化が必要なのであり、それによって被害者の心労を軽減することができる。
(d')「理想主義 その2」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年の心の病と向き合い、根本的な問題の解決を図ることが必要だ。

まあ、これはあくまで適当な推論であって、実際にはもっとバリエーションに富んだ見解がでてくるであろうが、ここで注目したいのは(a)と(c)だ。つまり、何を現実と見なすかによって、現実主義的な立場から引き出される結論が180度変わってくるのである。
そういう意味で、「現実主義」というのは結構難しい立場ではある。だが、これまで(だらだらと)書いてきたことをひっくり返すようでなんなのだが、多くの場合、人間の思考は「現実の判断→主張」という過程を辿らない。むしろ、昨日の丸山真男の引用にもあるように、何らかの主張を有している人はその主張に適した現実を見る場合が多いのだ。その場合には、「主張→現実の判断」という過程を経ることになる。
かつてウェルター・リップマンは『世論』のなかで「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(p.111)と述べているが、少年犯罪が凶悪化していると主張する人びとは、たいてい若者はろくでもないと最初からきめつけている(あるいは戦後民主主義の「歪んだ人権感覚」が嫌い)のではないかと思われる節が多々ある。
その逆ももちろんしかり。少年犯罪の凶悪化が幻想だと主張する人びとには、国家による統制・罰則というものが最初から好きじゃないんだろうなぁ、と思わせる人が多いように思う。
そういう意味では、戦後民主主義が大嫌いだが少年犯罪が減っていることを認める人や、国家統制は大嫌いだが少年犯罪の凶悪化を認めるという人は、逆に面白い。上で論じたような一般的な認知過程から外れているからだ。
そこで次の回では、そういう「ねじれ」の面白さについてもうちょっと考えていくことにしよう。
[PR]

  by seutaro | 2004-10-14 20:58 | 政治・社会

<< <歴史>「南京大虐殺」について(1) <政治・社会>少年犯罪論争(1) >>

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE