<メディア>メディア・バッシング

 日本のメディアにもいろいろあるというのはご存知の通りだと思う。革新系、リベラル系、保守系など、さまざまだ。で、『朝日新聞』と『産経新聞』の仲が悪いのに代表されるように、それぞれのメディアは結構いがみあっていたりする。

 ところが、時に、右から左まで殆どのメディアが足並みを揃えて特定の対象をバッシングし始めることがある。あるいは、ある問題を徹底的に黙殺することがある。後者の例でいえば、再販制度の是非がその最たるものだろう。

 マス・メディアに接するさいに、最も注意すべきはそうした瞬間だ。特定の集団をみなでバッシングするとき、そこにはある種の安心感が生まれる。普段はいがみ合っていて、すぐに揚げ足を取られるにもかかわらず、その瞬間だけはみな安心して言いたいことを言えるからだ。バッシングを受ける側は、通常は圧倒的な少数者であり、その声が大手のマス・メディアできちんと報じられることは殆どない。

 そのため、そうした集団的なバッシングのなかでは、本来は語られるべき出来事がどんどんと報道から削り取られていってしまう。その結果、バッシングを受ける側を「絶対悪」とするストーリーが簡単に出来上がってしまう。

 ただし、そうした状況がずっと続くとは限らない。バッシングが終わり、その出来事が殆どの人の記憶から消えうせたあとに、以前には全く語られなかったストーリーが姿を現す。「絶対悪」とされたはずの側にもそれなりに妥当な事情と考え方があることが明らかになる。佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)などは、まさしくそうした事例だと言えるだろう(ただ、佐藤氏の場合、その緻密な情報戦略により(世論的には)見事なカムバックを果たしたと言える)。

 けれども、それはバッシングが終わったずっとあとの話なのであり、殆どの人はそうした「語られなかったストーリー」を知ることすらない。そして、バッシングをした側は、自らの罪業を反省することもなく、次なるバッシングのターゲットを探す。バッシングによって世の中が良くなるという大いなる錯覚を抱えながら。

 いったい、我々はいつまでそんなことを続けるのだろうか。
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  by seutaro | 2007-06-01 02:34 | メディア

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