<政治・社会>「納得できない動機」を聞きたくなるとき

 この前のエントリで、人びとは殺人に関して「納得できる動機」を聞こうとすると書いた。けれども、よく考えてみると、場合によって人は「納得できない動機」を好んで聞こうとする瞬間があることに気づいた。

 それを考えるためには、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』(光文社新書、2006、p.86)の以下の記述が参考になる。

 当時、この(宮崎勤被告の:引用者)事件について発言した言論人たちは、足並みをそろえるかのように一斉に検察の示した凡庸なストーリーに反発した。あたかも宮崎の意を汲もうとするかのごとく、事件を凡庸な性犯罪に押し込めることに抗った。

 宮崎勤被告の事件では、劣等感にさいなまれ成人女性への欲望を満たすことができない被告がその代償としてか弱い幼女を狙ったのだというストーリーを描いた。しかし、そうした「凡庸なストーリー」に対しては、まず宮崎被告が反発した。「全体的に、醒めない夢を見て起こった。」さらに、一人の幼女の両手を焼いて食べたと告白したのである。そして、この事件にコメントをしていた識者たちもまた、この犯罪の「特異性」を強調し、宮崎被告をある意味で支持したというのである。

 この事件の場合、むしろオーディエンスは「納得できる動機」ではなく、「納得できない動機」を聞きたがった。その動機が異常であればあるほど人びとの好奇心は掻きたれられ、そうした「異常な犯罪性」が一体なにに起因するのかを知ろうとしたのだ。

 ところが、他の事件においては、仮に犯人がそうした「異常な動機」を告白したとしても、まったく相手にされないか、せいぜいが精神障害を装うための詐術だと断ぜられて終わるだけだろう。

 だとすれば、宮崎被告の事件と他の殺人事件とを区別するものはいったい何なのか。その理由の一つは、前掲書でも論じられているように、宮崎被告の事件が「時代の兆候」として最初から取り上げられたということがあるだろう。

 つまり、宮崎被告は当時の社会が抱える病を体現した存在として「祭り上げられていた」のだ。したがって、その動機が異常であればあるほど、時代の病もまた深刻だという判断がなされ、「近頃の若者」あるいは「オタク」を憂うコメンテーターの格好の材料になりえたのである。

 以上のことから、いかなる動機であれば受け入れられるのかという問題については、その人物がいかなるフレームで論じられるのかが鍵となる。「時代を象徴する異常者」なのか、それとも「凡庸な犯罪者」なのか。「異常な犯罪者」とされた場合、その動機は納得出来ないものであればあるほど多くの人びとをひきつけることができる。逆に、「凡庸な犯罪者」とされた場合、その動機はあくまで「納得できる」ものでなくてはならない。仮に、宮崎被告が「凡庸な犯罪者」とされていたならば、彼の語る「醒めない夢」は一蹴されていた可能性が高い。

 言うまでもなく「異常な犯罪者」と「凡庸な犯罪者」との境界線はきわめて曖昧である。よって、「異常な犯罪者」とされた人物に「納得できる動機」を認めうる余地があるのと同様に、「凡庸な犯罪者」と位置づけられた人物にも「納得できない動機」を認めうる余地を残しておく必要はあるのではないだろうか。

(ちなみに、宮崎被告が「異常な犯罪者」と位置づけられるにあたって重要な役割を果たしたのが彼の部屋の映像であろう。部屋を埋め尽くす雑誌やビデオ。そして、その雑誌のなかでもとりわけ人目をひく一冊のポルノ雑誌。この映像によって、彼が「異常な犯罪者」だとの印象が大きく強まったのではないか。そのポルノ雑誌は、報道陣によって意図的にそこに置かれたのではないかとの指摘もある。その指摘によれば、雑誌のほとんどはポルノ以外の雑誌であったが、事件後にその部屋を撮影した報道陣が宮崎被告の異常性を強調するために、わざと目立つ場所にそれを置いた可能性が高いのだという。)
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  by seutaro | 2007-06-01 16:51 | 政治・社会

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