<政治・社会>自己責任の底が抜けたとき

 現代の若者は「他罰的だ」との指摘がある。要するに、問題の責任を自分ではなく、他人に押し付ける傾向があるということだ。たとえば、ウチダ先生はかつて、ブログにこんなことを書いていた。

現在の若い日本人のほとんどは自分の不幸や失敗を「他の人のせい」にする他罰的説明に依存している。「社会が悪い」「親が悪い」「学校が悪い」「メディアが悪い」などなど。(出典)http://blog.tatsuru.com/archives/000739.php

こういう意見は他でも散見されて、たとえば先月の秋葉原の事件についても、犯人は自分の苦境を「社会のせい」に転化したがゆえに犯行を及んだとの解釈が『毎日新聞』や『産経新聞』のコラムで見られた。
 しかし、本当にその解釈は妥当なのだろうか。たとえば、加害者がネットに書き込んだとされる文章には以下のような記述がある。

『で、また俺は人のせいにしてると言われるのか
悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺だけ
別にいいけど 実際全部俺が悪いんだろうし 』

 この記述を見るかぎり、彼には自己の現状に対する過剰な責任感があったように思えてならない。この件はむしろ、なんでもかんでも自分一人の責任であるという自己責任論の底が抜けたケースとして解釈すべきなのではないだろうか。

 つまり、なんでもかんでも一人で背負い込んでしまった結果として暴発は起きたのであり、やり場のない憤りが、自分と同じように見える秋葉原の人びとを無差別的に殺傷するという行為につながったのではないだろうか。

 仮に、彼がもう少し自分の置かれた状況を社会のなかに位置づけて考えることができたのなら、言い換えれば「社会のせい」にすることができたのなら、ひょっとして道を踏み外さずに済んだのかもしれないと僕は思う。だから、この犯人に対して「甘ったれるなと一喝するしかない」という産経抄的ソリューションは、無意味であるばかりでなく、逆効果ですらありうる。

 さらに言えば、イタリアの落書き事件における過剰なバッシングもまた、自己責任論の蔓延の帰結なのかもしれない。すべてが自己責任の世界では、他者の過失を攻めることがある種の開放感をもたらすのだろう。こういうバッシングを招いたのも他者自身の責任であり、苦心しながら自分で自分を律している我々には彼ら/彼女らを攻撃する権利がある、というわけだ。自己責任感の強いひとほどクレーマーになりやすい、なんてこともあるかもしれない。

 その結果はといえば、ただただ息苦しいだけの、閉塞的な社会だろう。ネットの発達により、バッシングの対象は公人ばかりではなく一般人にまで及ぶようになった。他者のあら捜しに血眼になっている連中が、隙を見せたターゲットに対して情け容赦なく襲い掛かる。

 しかし、まあ、好むと好まざるとに関わらず、我々はこういう密告型の社会を生きていかざるをえないのだろう。あまり胸弾むような状況ではないのだが。
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  by seutaro | 2008-07-10 02:14 | 政治・社会

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