そなたんパパの備忘録
2010-08-06T00:47:50+09:00
seutaro
日々思うことを適当に書いていくブログです
Excite Blog
<日常>夕食
http://seutaro.exblog.jp/13716062/
2010-08-06T00:47:33+09:00
2010-08-06T00:47:50+09:00
2010-08-06T00:47:50+09:00
seutaro
日常
今日の夕食はチヂミだったのだが、子どもたちはいたく気に入ったらしい。既に夕食を食べたはずなのに、僕が食べてるのをもらおうとして、二人とも一緒に大口をあけて「あ~ん」と言っている。
そうなると、さすがにあげないわけにはいかず、僕のチヂミはどんどん小さくなっていくのであった。]]>
<政治・社会>官僚組織の「動機の語彙」
http://seutaro.exblog.jp/13355489/
2010-05-25T00:39:00+09:00
2010-05-25T01:18:40+09:00
2010-05-25T00:39:20+09:00
seutaro
政治・社会
我々は、自分たちの目から見て非常におかしな行動をしている人や集団を見るとき、往々にして問いかける。「彼/彼女はいったい、なぜこんなことをしているのか?」あるいは「なぜ、このようにしないのか?」と。
とりわけ、その行動が重大な帰結をもたらすばあい、そうした問いかけはより一層切実なものとなる。典型的には、人を殺してしまったケースだ。当然、多くの人が「なぜ殺したのか?」という問いを発するだろう。
そうしたとき、あたかもカミュの『異邦人』のように、その回答が「太陽がまぶしかったから」というものだったとしよう。我々は納得することができず、その人物をさらに問い詰める。我々が納得できる動機、つまり「奴が憎かったから」や「金を奪おうとしたら抵抗したから」といった動機を聞くために。
そのようなばあい、実際に彼がどう考えて人を殺してしまったのかは、実は大して重要な問題ではない。むしろ、我々が納得できることが重要なのだ。したがって、語られる動機とは、実は人びとの内面に固着したものというよりも、他者との相互作用のなかで生み出されるものと考えたほうが妥当なのではないか…
米国のライト・ミルズという社会学者は「動機の語彙」をそのようなものとしたうえで、人びとを説得しうる動機が時代の変化に応じて変わってくると論じた。すなわち、かつてであれば宗教的な動機(「神のために」)は多くの人びとを納得させるに足る動機だったのだが、世俗化が進んだ現在ではそうした動機によって人びとは納得しなくなり、より世俗的な動機がより説得的になってきたのだという。
翻って現在の日本。政治家や官僚に対する不信は極めて大きく、マス・メディアが流布する彼らの動機の語彙は、極めてシニカルな色彩を帯びている。「省益のため」、「天下り先確保のため」、「選挙のため」などなど。それらの動機の語彙はたしかに説得力があり、多くの人びとを納得させることができる。
しかしながら、そうした動機の語彙で全てが説明できるのかと言われると、やはり首をひねってしまう。いままさに大学を卒業して官僚にならんとする若者たちはみな、いつか次官になって権力を握るか、それとも天下りによって厚遇を得ることを夢見ながら官庁の扉をくぐるのだろうか?そこに彼らなりの使命感はまったく存在しないのだろうか?
もちろん、組織には自らの利益を追求する傾向が強くあるので、組織での生活が長くなればそうした論理に絡め取られ、気づけばそれが国益に反することを知りながらも組織の利益や保身に追従する者も出てくるかもしれない。
しかし、もし組織全体が欲望や保身を主目的として動いていると知ったならば、少なからぬ人材がそこから流出し、外部から非難を声を上げることなるだろう。どれだけ多くの人材が流出しているのかは僕には確認できないが、少くとも日銀OBによる日銀への批判はあまり行われていないのが現状のようだ。
OBから日銀への批判が上がらない理由としては、以下の二つが挙げられる。一つは日銀によってOBに対する何らかの言論統制が行われている場合。そしてもう一つが、日銀を離れたとはいえOBの多くは日銀の政策を妥当あるいはやむなしと考えている場合だ。
田中さんの『デフレ不況』は前者の見解を採用している。ただ、僕個人としては、そういう言論統制の効果よりもむしろ、現役の人たちと同様にOBの人たちもまた日銀の正しさを信じているがゆえに批判をあまりしないというほうに説得力を感じる。
言論統制のための組織や資源をとりたててもたない組織が、長期間にわたって広範囲の言論をコントロールするというのにはやはり無理があるように思う。日銀のなかに秘密組織があって、日銀を批判するOBを誘拐・洗脳しているというのであれば理解できなくもないが、そこまでいくとさすがに本当の陰謀論だろう。
ともあれ、以上の点を勘案するなら、日銀の行動原理を説明するためには、組織としての欲望や保身のみならず、やはり「それを正しいと信じている」という動機をも考慮に入れる必要があるように思う。「日銀陰謀論はやめましょう」というときのbewaadさんの発想もこのあたりにあるのではあるまいか。
bewaadさんがお薦めしている行政学の入門書に、今村都南雄『官庁セクショナリズム』(東京大学出版会)という著作がある。この著作には、セクショナリズム発生の原因に関して、以下のような記述がある。
身近な問題の一例として、都市計画道路の整備事業を取り上げてみよう。土木建設部門からすれば、その整備事業の推進は任務であり使命である。「どうせつくるなら、いい道路をつくりたい」と考えるであろう。財政部門からすると、それ以外にさまざま事業があるのだから、道路整備事業だけを特別扱いすることはできない。「限られた予算の中で、よりよい道路を作ってもらいたい」と言わざるをえない。生活環境の保全を担当する保険衛生部門からすると、通過車両の増大にともなう環境被害のことを考え、「地域住民の健康を第一優先に」と注文をつけるだろう。仮にその道路整備事業が歴史的な文化遺産の保存にかかわるようなことにでもなれば、その担当部門は慎重な配慮を要請し、たとえ事業の遂行に重大な影響があっても、「文化財の保全あっての豊かさであり生活利便ではないか」と迫るかもしれない。どの部門の言い分にも理があるということである。
(出典)今村都南雄(2006)『官庁セクショナリズム』東京大学出版会、pp.224-225。
かつての通信事業をめぐる郵政省と通産省の対立のように、セクショナリズムは官庁間での利権の競合として描かれることが多い。ところが、上の著作でセクショナリズムは理念と理念との対立として描き出されている。官僚のこのような描写に共感するからこそ、欲望や保身といった動機の語彙を日銀に適用することにたいしてbewaadさんは抵抗を覚えるのではないだろうか。というか、「公共選択論的分析」というのは一歩間違えると、下衆の勘ぐりでしかないような。
ただし、これだけは強調しておかねばならないのは、たとえ仮に日銀の中の人が真摯であったとしても、これだけの経済的停滞が続いていることの責任は絶対に負わねばならないということだ。マックス・ヴェーバーの言葉を借りるならば、心情倫理ではなく責任倫理ということになるだろうが、その心情がいくら純粋なものであったとしても、人びとの生活に大きな影響を与える職責に就いている以上、その結果に対して責任を負わねばならない。
まあ、こんなことは改めて言うまでもないことだし、そもそも議論の前提であるはずなのだが、それにもかかわらず、「日銀の中の人は実は結構まじめなのではないか」と言っただけで「日銀の代弁をしている」という解釈が出てくるのには、正直閉口する。あまりこういう言い方はしたくないのだが、言われたからには言わねばなるまい。
教養が足りないんじゃない?
(追記)
実はもう一点、還元論について論じておきたいのだが、明日は1限なのでもうやめときます。]]>
<政治・社会>デフレ不況
http://seutaro.exblog.jp/13344708/
2010-05-23T00:08:00+09:00
2010-05-23T13:01:48+09:00
2010-05-23T00:08:45+09:00
seutaro
政治・社会
僕がよく読んでいる経済系ブログに田中秀臣さんという方とbewaadさんという方によって書かれているものがある。
ところが最近、田中さんが出版した『デフレ不況』(朝日新聞出版)という著作をめぐり、お二人のあいだで論争が起きている。両方を読んできた僕としては寂しい限りの話なので、お二人の論争を僕なりに整理してみたい。無論、経済学についてはまるで無知なので、「耳から脳みそが出ている」と言われても仕方がないと思っている。
まず、「日銀はなぜリフレ政策を採用しないのか」という問いに対して、とりあえず以下の3つの説を提起してみたい。
(1)陰謀説
「日銀の利益にとってデフレが継続することは都合がよい」という利己的な目的に基づいてリフレ政策を採用しない。つまり、その理由は「欲望」。
(2)無能説
「日本の景気が悪いのはわかるが、どうしていいのかわからない」ので、とりあえずこれまでの政策とできるだけ矛盾しないような方針を採用し、過去の責任を問われないようにしている。外部からの批判にも弱いので、「デフレの定義もいろいろ」と言ったり、「デフレです」と言ったりする。つまり、その理由は「保身」。
(3)信念説
「デフレよりもバブルのほうが脅威である」、「日本にとってリフレ政策は有害である」という信念に基づき、日銀法の規定は忘れてインフレ抑止にのみ中央銀行の使命を見いだしている。つまり、その理由は「考え方の相違」。
この分類を頭に置いて田中さんの著作を眺めると、とりわけ(1)と(2)の分類に当てはまりそうな記述が多いように思う。
たとえば、(1)については、「日銀は主要な天下り先である地方銀行や短期会社を保護するため、ゼロ金利政策などを避ける傾向があるのではないか」という堀内昭義・清水克俊の両氏の見解や、「伝統的日銀マンにとっては、金融緩和は自分たちの権力と存在意義の衰えであり、金融引き締めは権力の誇示、存在意義の発揚になる」という中原伸之氏の見解が紹介されている(pp.160-161)。
(2)については、日銀の企画局における「官僚の無謬性」に関する記述が当てはまるのではないだろうか。この日銀の無謬性に対する固執のため、自らの過去の過ちを認めることもできず、前例を否定するような批判や政策的改革も認められないと述べられている(p.60)。
ただ、田中さんの主たる強調点は、おそらく(1)というよりも(2)に近いんじゃないかと思う。実際、ご自身のブログで田中さんは日銀が「特定のミッションをとっているようにはまったくみえない」と述べている。
それに対して、bewaadさんが危惧しているのが、(3)の可能性ではないだろうか。つまり、彼らは利己的に動いているわけでも、保身に走っているわけでもなく、ある意味で信念をもって現在の反リフレ的な政策を採用しているのではあるまいか、ということだ。bewaadさんの「日銀にはマイルドインフレ実現よりバブル防止を優先すべしというミッションが課せられている」という言葉を僕はそのように解釈した。無論、日銀とて世論の動向にも気を使っているので白川総裁の発言が妙にブレたり、小手先の政策変更をやったりもするが、基本のところ(実質的なデフレターゲット)は頑として変えないということになるだろうか。
もちろん、(1)(2)(3)はあくまで理念的な分類なので、実際にはこれらの動機が混ざり合っているのだろうし、これ以外の要因も働いているかもしれない。ただし、上述の分類のうち、リフレ政策を採用しない主要因がどれなのかによって日銀へのアプローチの仕方も変わってくる。
(1)が主要因のばあい、その陰謀の根を断つことが必要だ。つまり、彼らの陰謀を白日のもとに晒し、日銀からパージするなりそれこそ貨幣洗浄のお仕事にまわってもらい、本当に日本の金融政策を危惧している人たちに日銀を委ねるべき、ということになるだろう。
(2)のばあい、そこまで極端ではないにせよ、日銀のガバナンスを改善し、政策委員の人選をもっと公正なものとするとともに、日銀理論に固執する企画局ではなく調査統計局に主導権を委ねるというような形になるかもしれない。まあ、このあたりはここでの話にとってそれほど重要ではない。
問題なのは、(3)が主要因だった場合だ。つまり、彼らが現在の日銀の方針は「妥当」または「それに代わる選択肢がない」と本気で信じている場合である。
この場合、日銀の中の人のイメージは上述の(1)や(2)とは全く違ってくる。(1)や(2)のばあい、なかには優秀な人物もいるかもしれないが、基本的には欲望や保身に身を委ねており、「国益」のことなど全く眼中にない姑息な連中ということになる。ところが、(3)のばあい、彼らは「国益」のことを真剣に考えており、信念をもって日銀理論の妥当性を信奉しているということになる。まさに平成の関東軍といったところだろうか。
もし(3)が主要因のばあい、(1)や(2)の場合よりも、日銀の金融政策への介入に対する彼らの抵抗はより激烈なものとなるだろう。なにせ彼らには信念があるからだ。欲望や保身が原動力ならガバナンスの変更で対処可能なのかもしれないが、人の考え方を改めるのはとても難しい。
実際、半径5メートルの話で恐縮だが、保身とかそういうのではなく、日銀OBの大学教員は本当に日銀理論を信じているんだなあと感じたことがある。その人物はリフレ的な主張に関して、金融がわかっていない連中の戯言といった感じで切り捨てていた。bewaadさんが「自らの分析は誤りで、田中先生と同じ意見であればと切に思っている」というのは、そういうことなのではないだろうか。
ただ、(3)が主要因のばあい、日銀の中の人は基本的に真摯なので、日本の経済学会の大多数がリフレ政策を支持するのであれば、それに従うのではないかという期待もある。すなわち、(3)の想定はある意味で性善説的な発想に乗っかっており、説得の余地もまたあるということになる。bewaadさんが日本の経済学学界でのコンセンサスを気にするのも、たぶんそのあたりに理由があるのだろう。
というわけで、田中さんとbewaadさんの対立点を僕なりの観点から整理してみた。想像するに、世間的には利権と天下りのことしか頭にないと見なされているにもかかわらず、(それが正しい方向を向いているかどうかは別として)実際には極めて真摯に仕事をしている官僚たちのあいだで働いているbewaadさんには、(1)や(2)での説明には素直に首肯できない心情が働いているのではないだろうか。
なお、田中さん自身もブログで言っているように『デフレ不況』は日銀のガバナンスだけを論じた本ではなく、リフレ派の論点を幅広くカバーしたものだし、記述も平易で読みやすい。なので、この種のテーマに関心がある人は読んでみてはどうだろうか。
(追記)
ちなみに、僕自身も『デフレ不況』は面白いと思いながら、ちょっと複雑な感覚を覚えるのも確かだ。
ブログ論壇を見ていてもそうなのだが、社会問題を論じるときに、非常に単純化された説明を目にすることがある。たとえば、「子どもたちの学力が低下しているのは日教組が悪いからだ」、「経済格差が広がっているのは小泉改革が悪いのだ」、「日本の景気回復の足を引っ張っているのは労組だ」、「政府財政が悪化しているのは官僚が悪い」、「若者がフリーターや派遣になるのは若者自身に原因がある」といった類の話だ。
こういう話を聞いて「いやいや、ちょっと待ちなよ」と思うのは、僕だけではないだろう。つまり、それらの問題の根底にはもっと幅広い社会的、経済的あるいは言説的な要因があって、単純に単一の要因に起因させることはできない、と考えるわけだ。リフレ派と呼ばれる人たちにもそう考える人はいるんじゃないだろうか。「世の中、もっと複雑だぜ」、と。
ところが、その経済的要因について考えようとするときだけ、「日銀が悪い!」という論法に依拠するというのは、どうにも居心地が悪いのだ。もちろん、責任者というのは責任をとるためにいるのであって、物価に責任を持つ日銀が責めを負うのは当然だ。ただ、上で述べた「幅広い社会・経済的な要因」を論じることに慣れた身からすれば、日銀がリフレ政策に否定的なのは、実は組織内的な要因だけではなくて、もっと幅広い要因があるのではないか、という疑念がどうしても浮かんでくる。
つまり、日銀の組織内部の話のみならず、その日銀の価値観を支える支配的な言説の構造がそこにあるのではないか…、だとすれば対決すべきはそうした言説の構造ではあるまいか…というような話になってしまうのだ。
もちろん、そんなのは責任回避の論法でしかないというのは確かなのだが、ヘタレ人文系としてはそういうことも考えてしまうのだ。ひょっとして、リフレ政策に対して反発が生じる要因のひとつには、「世の中、もっと複雑だぜ」という発想があるのかもしれない。
いやいや、ヘタレ人文系の戯言である。]]>
<日常>断乳
http://seutaro.exblog.jp/12997968/
2010-03-16T00:49:00+09:00
2010-03-16T01:05:59+09:00
2010-03-16T00:49:21+09:00
seutaro
日常
これは結構、大変な決断なのである。なぜなら、母乳を貰えないゆき坊は夜中に大泣きする。特に奥さんの顔を見ると、母乳が欲しくなるので、いつまで経っても泣き止まない。
そこで、登場するのが乳ならぬ父なのである。むう、下らないぜ。
午前3時だろうが5時だろうが、そんなの関係ないのである。眠気の充満した頭で、ゆき坊をだっこしながらリビングを行ったり来たり。夏場なら外に出ても構わないのだが、いまの時期はさすがに寒い。それに花粉が充満している外気は有毒だ。
そういえば、そなたんが1歳の夏も夜泣きがひどかった。当時住んでいた家は防音がしっかりしていなさそうだったので、夜泣きのたびに僕はそなたんと一緒に家の周りを徘徊していた。家の外に出た瞬間に泣き止みはするのだが、すぐに帰ると寝かしつける間もなくまた泣き出してしまう。長いときには1時間ぐらいは外にいたように思う。
ゆき坊の話に戻すと、ようやく落ち着いてきたかと思ったら、今度は奥さんが「つわり」みたいになってきた。もちろん、第三子という話ではない。人によっては、断乳したあとにホルモンバランスが変化するせいか、つわりに似た症状を発するのだという。
というわけで、今日の晩ご飯は某オリ◯ン弁当であった。いざ買いに行こうとすると、そなたんが一緒に行くという。可愛い奴め。
って、なんだ、その手に持っているのは…。缶ぽっくり?
うまく説明できないが、要はあれだ、空き缶2つに紐をつけて、下駄みたいにして歩くやつだ。そ、それで行くというのか…
普通に歩けば5分の道のりを3倍ぐらいの時間をかけて行く。いったい、いつになったらオ◯ジン弁当に着くんだろう、と空を仰ぐのであった。]]>
<日常>この週末
http://seutaro.exblog.jp/12918718/
2010-03-01T02:20:00+09:00
2010-03-01T02:21:08+09:00
2010-03-01T02:20:37+09:00
seutaro
日常
今日は夕方から奥さんがママ友の食事会で不在。なので、そなたんとゆき坊を僕一人で面倒見ることに。
夕方に近所の遊戯施設で1時間ほど遊び、その後、そなたんのリクエストにより某ファミレスへ。なんでも、そこで売っているドラえもんのキーホルダーを買いたいのだそうな。
それにしても、そなたんはまあよい。もう5歳だし、一人でドリンクバーのジュースを注いでこれる。問題はゆき坊だ。まだ1歳2ヶ月で、なにをするか本当に予測できない。突然、椅子から立ち上がるなんてのは序の口である。奥さん抜きで本当にくぐり抜けられるのか、正直に言えば不安である。
最初、ゆき坊にポテトを与えてご機嫌をとろうとしたがうまくいかない。ただ、どうやらレタスが食べたかったらしく、前半はそれをあげることでしのげた。まあ、足元はレタスの残骸だらけにはなったが。後半はポテト。これまたポテトの残骸が足元に。
しかし、最後のほうは集中力が切れたか大暴れ。僕はアイスコーヒーを一気飲みしつつ、残飯の散乱する足元を綺麗にし、なんとか帰途につくことに成功した。本当に薄氷を踏む思いである。
帰りの車中、そなたんが突然、「パパ、一人で出来たね。ご苦労様。おうちに帰ったらゆっくり休んで」と言う。誰の真似だかは知らないけれど、とりあえず大いに笑わせてもらった。
<日曜日>
今日の午前中は、奥さんが所用のため早朝から実家に。僕はそなたんとゆき坊と一緒に『ハートキャッチ・プリキュア』を鑑賞。ゆき坊はストーリーを全く理解していないだろうが、エンディング・テーマはノリノリで聞いていた。
昼前に奥さんが帰ってきて、今度は家族4人でさいたまスーパーアリーナへ。NHKの『おかあさんといっしょ』のコンサートがあるのだ。
抜群に良い席で、体操のお姉さんやモノランモノラン、ぐーチョコランタンたちを間近で見た。子どもたちもさすがに最後のほうは疲れていたものの、全体としては大興奮であった。ちなみに、うちの奥さんも言っていたが、体操のお姉さんはテレビで見るより、実物のほうがよい。
それにしても、『おかあさんといっしょ』の動員力は凄まじい。やたらめったら人がいたが、それでも今日行われた3回の公演のうちの1回にすぎない。関連グッズも飛ぶように売れていた。
コンサート後は会場近くのイトーヨーカドーで買い物をして帰宅。帰宅後、今日買った折り紙でそなたんがオリンピックのメダルを作り出した。そなたんは言う。
「浅田真央ちゃんに銀メダルをあげたい」
「いやいや、銀メダルはもう持っているから、金メダルにすれば?」
ところがである。蓋を明けてみれば、金メダルはそなたん本人がもらうのだという。ただ、本人も釈然としないところがあるらしく、「でも、そなたん、何にもしてなのに、金メダルもらっちゃっていいのかなぁ」などと言っている。
それを聞き、金メダルをもらうには、ひたむきな努力と才能が必要なのだということを娘に訥々と説く父であった。
いや、まあ金メダルもらったことないから知らないけど。]]>
<日常>連続テレビ小説
http://seutaro.exblog.jp/12578077/
2009-12-29T11:18:25+09:00
2009-12-29T11:18:11+09:00
2009-12-29T11:18:11+09:00
seutaro
日常
このあいだ、朝食を食べているとき、たまたまテレビでNHKの連続テレビ小説をやっていた。それが終わり、ニュースへと切り替わったとき、娘が一言。
「『つづく』って出てたのに、終わっちゃったよ」
文字も読めるようになって、いろいろなことが分かり始めたものの、まだまだ不思議や誤解の多い4歳の冬。]]>
<日常>むかしばなし
http://seutaro.exblog.jp/11709778/
2009-08-12T02:00:05+09:00
2009-08-12T01:59:49+09:00
2009-08-12T01:59:49+09:00
seutaro
日常
そのころ、僕はまだ大学生で、夏休みを実家で漫然と過ごしていた。とても暑い夏だった。テレビでは連日、観測史上~位といった最高気温が報じられていた。
その夏の後半、僕には特に何の予定もなかったので、一人で旅に出ることにした。といっても、わずか数日の、ごく短いものだ。
青春18きっぷを片手に、僕は電車でひたすら西へ向かった。車中では暇つぶしにヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を読んでいた。この小説は脱線が多く、ナポレオン戦争での地形の話や、パリの地下下水道がいかに複雑怪奇なつくりになっているかといったことが延々と論じられる。どちらかといえば、物語を楽しむというよりも、我慢大会的な書物だが、長い移動時間を潰すにはちょうどいい。
とりあえずは萩で電車を降りる。さすがにもう夕方になっていたので、ユースホステルに宿をとった。
翌日は朝から自転車で萩の街をうろうろする。最初に訪れた萩城跡は、ちょっとした山になっていた。山頂まで上り、さらに雑草の茂みをかきわけて行くと、萩の街が一望できる場所があった。
そこから、萩の街や、その上に広がる見事に晴れ上がった空をしばらく眺めていた。生い茂る木の葉とその向こうに見える空の鮮烈なコントラストに驚く。
近くには中学か高校があって、吹奏楽部が練習しているのか聞こえた。そのとき、僕は高校時代に吹奏楽をやっていたという知人の女性のことを思い出した。別につきあっていたわけでもないし、単なる友人でしかなかったのだが、高校時代の彼女を僕は知らないし、絶対に出会うことはできないことが少し悲しく思えた。
そのあと、松蔭神社や笠山などをまわったが、行った先々でずっと東京でのことを考えていた。ひょっとしたら、僕は萩には全然関心がなくて、東京や実家から単に逃げ出してみたかっただけなのかもしれない。そのせいか、東京でのことばかり考えていた。どうにもうまくいかない人間関係や、何の特技も、何の取り柄もない自分、見当もつかない将来。ずっと自転車に乗っていたせいで、手の甲だけがただ日に焼けていった。
萩での滞在を終えて、次の目的地に向かうべく駅まで歩いていた。途中、3歳か4歳ぐらいの男の子とそのお母さんがキャッチボールをしているところに出くわした。男の子の投げるボールはいろいろなところに飛んでいき、お母さんはうまくキャッチすることができない。何度もボールを拾いにいくお母さんの姿を男の子はやや不満気に眺めている。その二人の姿は、当時の僕には眩しすぎるほど美しかった。
この旅で別に僕は何かを見つけられたわけじゃなかった。旅を終えて実家に帰り、さらには下宿に戻ったあとも、悶々とした日々が続いた。
それから長い年月が流れて、僕はいい歳をしたおじさんになった。ぱっとしない研究者にもなり、ぱっとしない授業やぱっとしない論文の執筆のために時間だけがただ過ぎていく。
それでも、夏を迎えるたびに、萩で見たあの木の葉の向こうの空と、キャッチボールをしていた母子の姿を思い出す。たぶん、それがぱっとしない僕の、ぱっとしない原点なんだろう。]]>
<日常>教え子の就職
http://seutaro.exblog.jp/11457803/
2009-07-07T23:56:21+09:00
2009-07-07T23:56:20+09:00
2009-07-07T23:56:20+09:00
seutaro
日常
去年はなんだかんだいって、だいたいの学生が複数の内定を持っていたのだが、今年は一つももっていない学生のほうがずっと多い。
もはや悟りの境地に入ってきたのか、4年生なのにゼミにもよく出席するようになってきた。毎回、状況を聞いてみるのだが、ここしばらく良い話を聞いていない。
彼らは僕の未熟なゼミ運営に我慢してついてきてくれたし(まあ、時に集団的に欠席することがあったが…)、気のいい連中なので、無事に就職を決めてくれることを切に願う。
僕にものすごいコネがあって、「まあ、この紹介状を持ってどこそこへ行きたまへ。はっはっは」などと言えればよいのだが、そんなものはどこにもないのであった。]]>
<学問>経済学がこの世から消えたら・・・
http://seutaro.exblog.jp/11103986/
2009-05-28T23:43:00+09:00
2009-05-28T23:58:51+09:00
2009-05-28T23:43:42+09:00
seutaro
学問
バーナンキ氏のため息・・・俺の人生返せ!!
http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/ca0d7c7179905fb7ba37900c5e56457f
ただ、このスピーチをよく読むと、別にバーナンキ議長が経済学を全否定しているわけではないのは明らかなので、このエントリの妥当性自体がやや疑わしい。
別に僕は経済学徒ではないので経済学を特に擁護するつもりもないし、その能力もないのだが、経済学は科学じゃない!統計はまやかし!直感が全て!とか吹き上がっている人は、ちと古いがとりあえず下のスレッドの>16以降を読むとよろしいかと思う。
経済学がこの世から消えたら・・・
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/economics/1118660552/
(追記)
なお、正直に言えば、経済学をやっている人はときどき他の社会科学(とくに社会学)を露骨に馬鹿にすることがあるので、あまり好きではない。
ただ、自然科学の権威に寄りかかって、さして深く勉強したわけでもないのに上から目線で幾多の研究者の苦労や苦悩を全否定しようとする輩はもっと好きじゃない。]]>
<政治・社会>教育の矛盾
http://seutaro.exblog.jp/10902102/
2009-05-08T00:29:00+09:00
2009-05-08T00:31:07+09:00
2009-05-08T00:29:09+09:00
seutaro
政治・社会
その先生いわく、受験勉強で頑張り、大学を卒業し、正社員として企業に入りこんでも、右肩下がりのこの日本社会ではそれが本当に幸せなことなのかわからないのだという。つまり、正社員であっても、長時間労働や低賃金に苛まれるこの時代に、学生(あるいは自分の子ども)を競争へと駆り立てるようなことをしていても良いのかという疑問だ。
加えて、分野にもよるだろうが、我々教員はしばしば教育の場で企業のあり方について批判を行う(僕もそうだ)。それが就職活動の時期になると、手のひらを返したように、その企業の尖兵となることを推奨するというのは自己矛盾ではないか、というのだ。
これと似たような話が、別の機会にもあった。それは学科のミーティングにおいて、将来の人材育成について話合っていたときのことだ。もちろん、大学の教員ごときにそもそも「人材育成」が可能なのかという話もあるだろうが、とりあえずその話は措こう。
そのミーティングでは、何人かの教員が人材育成のヴィジョンについて話したのだが、そのなかではもはや企業に入ってナンボという世界は終わったのではないかとの発言があった。つまり、これからはフリーランスで生きていけるスキルを身につけさせることが必要なのであり、極端な話をすれば、就職実績が0でも構わないのではないのか、というのだ。
要するに、これからの時代に学生を企業に送り込むことが本当に妥当なのかを疑問に思う大学教員がいる、ということだ。
ちなみに、上のミーティングで僕は、大学を出てそのままフリーランスになりたいという学生がいたら、すぐに就職課に行かせて正社員を目指すように指導すると発言した。
正直、僕はフリーランスの時代云々という発言に結構腹を立てていた。自分は大学教員という安定的な仕事に就いておきながら、指導する学生には極めてリスクの高い道を選ばせようというのか!それは無責任以外の何物でもないし、そういうことを言うならまずは自分が専任教員の職を辞するべきだろう。
確かに、正社員になれたからといって、それが幸せに繋がるとも限らない。僕と同じような30代、あるいは20代の人たちならなおさらそうだろう。しかも、正社員と非正規の被雇用者との格差を問題にするような発言を行うことの多い立場の人間が、自分の教え子には正社員を目指させるというのは、確かに矛盾と言えば矛盾かもしれない。
けれども、湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)などを読んだうえでなお、あるいはそうだからこそ、僕は自分の教え子や子どもには過剰なリスクを背負わせるようなまねをしたくない。彼らが最初から大きなリスクを背負い、人生に行き詰まったとしても、僕にはそもそも責任の取りようがないからだ。安定を重視させることで、彼らの才能の開花を妨げることになるかもしれない、という批判は甘んじて受ける。
格差の問題にしても、僕個人の力では社会構造を変えることなどできやしない以上、その格差のなかでどうすれば有利に振舞うことができるのかを一緒に考えることぐらいしか僕にはできない。パイが縮小していくとしても、政府や日銀にその縮小を出来るだけ食い止めることを期待しつつ、その小さくなっていくパイの争奪戦をいかに勝ち抜くのかを考える以外、一介の教員にいったい何ができるというのだろう。
教員の立場との矛盾ということで言えば、ウチダ先生流に「教員の矛盾が引き起こす葛藤のなかにこそ成熟はあるのだ」と思うしかない。企業を批判する目をもちつつ、企業に入って、その尖兵になる。もちろん、そんなややこしいことをするよりも、指示されたことに何らの疑問も抱かないようなソルジャー型の社員のほうがずっと楽だろうし、出世も早いかもしれない。
ただ、それでも、どこかの某人材派遣会社の経営者のような、あまりにも他者への想像力を欠いた人間を生み出さないためにも、そういう教育の営みというのは必要なのだと思う。
もちろん、それが上述したパイの争奪戦にとって不利に作用するとするならば、それすらもやめて大学の講義では企業社会の素晴らしさを説き、自己責任論を吹聴すべきなのかもしれない。でも、さすがに僕にはそこまで踏み込むことができない。中途半端、と言われれば確かにそうなのだけれども。]]>
<ネタ>これはいい
http://seutaro.exblog.jp/10802065/
2009-04-26T01:26:15+09:00
2009-04-26T01:26:23+09:00
2009-04-26T01:26:23+09:00
seutaro
ネタ
「うちの母ちゃん凄いぞ」
http://mudainodqnment.blog35.fc2.com/blog-entry-804.html
実はPart5まであって、読むのにかなりの時間がかかる。それでも、一気に最後まで読んでしまった。面白いので、結構お勧め。
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<政治・社会>久々に呆れた
http://seutaro.exblog.jp/10531739/
2009-03-18T02:04:00+09:00
2009-03-18T02:06:02+09:00
2009-03-18T02:04:00+09:00
seutaro
政治・社会
ネットで話題沸騰の七生養護学校の性教育の裁判。とりあえずは原告勝訴となったわけだが、『読売』と『産経』は愚にもつかない社説を書き、「過激な性教育」とやらを批判している。で、その性教育の実態はといえば、以下のエントリが詳しい。
http://neta.ywcafe.net/000964.html
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20090317/p1
そんでもって、負けた側の都議は、開き直ったかようにこんな記述をブログにしている。
過激性教育に関して、古賀、田代、土屋、市議などが学校を視察したことや、教育庁が処分したことを不服として、共産党系が訴えていた裁判の判決が出た。
ある意味、面白いと言えば面白い。三都議と教育庁合わせて10万円を養護教諭二人に払えと言うものだ。つまり、ひとり、25000円。交通違反で20キロ超過で払う金額に近い程度のもの。
これは、考えようだが、たったの25000円で過激性教育が東京から、全国から駆逐されたことを考えるとコストとしは安い。
(出典)http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/enter.html
ただ、残念なことに、この手の人物にいくら教育現場の実情を訴えたところで、効果は薄いだろう。なぜなら、確信犯でやっているからだ。つまり、この人物にとって、障害者がどうやったら性の問題を理解できるかということはまったくもって問題ではなく、自分の信奉する純潔教育とやらのイデオロギーの流布にこの問題を利用できればそれでよいのだ。
山本譲司さんの『累犯障害者』を読めばわかるが、障害者の性の問題はきわめて重要だ。被害者にならないためにも、加害者にならないためにも。ところが、そのための創意工夫は、下らないイデオロギーのために否定され、学びの機会は大きく損なわれてしまった。
無論、教育現場にさまざまな課題や問題があることは否定しない。けれども、イデオロギーのプロレスをしたいのなら、どっか別の場所でやってほしい。ホント、頼むよ。]]>
<日常>ゲーマー誕生
http://seutaro.exblog.jp/10363865/
2009-02-16T23:34:21+09:00
2009-02-16T23:35:25+09:00
2009-02-16T23:35:25+09:00
seutaro
日常
娘はまだ4歳になったばかり。先日まで、うまく操作できずに他の車に抜かれまくっていた。
ところが、である。今日見たら、親からの助言もなく、1位を奪取しているではないか。見ていると、コース取りに未熟なところはあれ、器用に他の車をかわしている。
そんな娘を見ながら、嬉しいような、心配なような。まだ、4歳なのに…
とにもかくにも、新たなゲーマーの誕生である。]]>
<学問>学問の「場」
http://seutaro.exblog.jp/10317270/
2009-02-08T01:07:20+09:00
2009-02-08T01:08:22+09:00
2009-02-08T01:08:22+09:00
seutaro
学問
朝、大学院棟のエレベーターを降りる。ちょうど、近代日本政治史を専攻している知人が通りかかる。笑顔で「おはよう」と挨拶を交わす。
自分の机がある部屋のドアを開ける。するとそこには、政治哲学を専攻している別の知人がいて、「おはよう~」と声をかけてくれる。
僕は自分の席(といっても、2人に1つの机しか割り当てられていないのだが)に着くと、鞄から読みかけの英語の論文やサブノートを引っ張りだす。
その時、「ああ、ここが僕の居場所なんだな」と思った。先なんて全然見えない修士課程のころのことだ。英語論文の読解に四苦八苦しながら、指導教授の厳しい指導を受ける日々。それでも、僕のまえには学問の世界が無限に広がっていて、ともにそこに向かって進む仲間がいた。
勉強もよくしたが、議論もよくやった。歴史認識について、学問のあり方について、日本の進むべき道について。談話室で飽きることなく何時間も話した。もちろん、日常の悩みや、馬鹿な話も限りなくした。そこには、確かに「学び」があった。
それから月日は流れて、いま僕は教壇で教える立場になった。最近の大学では、学生の学力向上が盛んにうたわれ、やれFDだのGPだのの導入が進められている。文科省は「学士力」の統一的な基準を決めるだの何だのと息巻いているようだ。
だが、「学び」とは、基本的にそういうものではない。単位や成績などは殆ど関係ないとすら言ってもいい。ある種の「場」のなかで、何かに背中を押されながら、とにかく自分の知りたいこと、わからないことを追求するところにしか「学び」は存在しないのではないか。
もし、日本の少なからぬ大学に問題があるとすれば、そういう「場」が残念なことにあまりにも少ないということではないだろうか。]]>
<日常>多摩テック
http://seutaro.exblog.jp/10316851/
2009-02-07T23:52:00+09:00
2009-02-07T23:52:00+09:00
2009-02-07T23:52:00+09:00
seutaro
日常
僕はうちの娘をつれて2回ほど行ったことがあるのだが、たしかに日曜日にもかかわらず乗り物にはほとんど待たずに乗れたし、閉園時間が近づくと園内はガラガラだった。平日に行くと寂しすぎるので、休日に行ったほうがよいというアドバイスをもらったことがあるぐらいだ。
けれども、なんだかんだ言って、それなりに楽しいところだったので、正直、残念だ。うちの娘にはまだ言ってないけれども、彼女もきっと悲しむことだろう。
もっとも、彼女が大人になったときには、多摩テックに行った思い出なんて記憶の片隅にすら残ってないだろう。
だが、そのとき僕は、聞き分けがなくて、めちゃくちゃに手がかかるけれども、この上なくいとおしかった娘と過ごした場所が、もうどこにもないことを少し寂しく思うんじゃないだろうか。
廃業前にはもう1回ぐらい行っておこうかな。多摩テック。]]>
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