2006年 01月 08日 ( 1 )

 

<読書>『限界の思考』その2

 さて、前回は『限界の思考』を乱暴に要約しただけで終わってしまったので、今回は簡単にコメントをば。
 自由に参加/離脱が可能なコミットメントの対象として、「亜細亜主義」だの「天皇主義」だのを持ち出すのはあまり説得的ではないというのは、前回の最後で述べたとおり。一部のおじさん連中が大好きな「武士道」と同じで、ネタと承知しつつコミットメントするにしても、なんというか、その、あまりにアナクロすぎるような気がするのだ。まあ、それが好きなら全然構わないとは思うのだが。
 それはさておき、「亜細亜主義」云々を除けば、本書で言われていることについて、僕は結構同意してしまうのだ。特に、強迫的とも言える相対主義の蔓延については、まったくもって同意する。つまり、なんらかの主義主張について、つねにその背後にある動機に言及し、それを冷笑することで高みに立とうとする立場だと言えるだろうか。
 たとえば、「現代社会について○○の言っていることは正しい」という発言があったとする。それに対して、「出たよ、○○信者が」と反応して、何かにコミットメントしようとする態度をくさし、その上で「○○の言っていることは、○○の既得権益を補強するだけの主張なんだよ」というように、社会全体に関する普遍的な主張を部分的な利益に還元してしまう、といった態度が挙げられよう。このような態度が広く共有されるならば、あらゆる主義主張が部分的利益の反映ということにされてしまい、結局のところ、なんらかの主義主張を行ったり、同意したりすること自体が愚かなことであり、それをただくさしている連中だけが賢明ということになる。
 しかし、このような相対化のなかで、唯一、相対化されないものがある。それは、相対化を行っている自分自身の存在である。つまり、特定の主義主張を相対化せずにはいられない自分を一歩離れて見ることができないのだ。宮台氏が「2ちゃんねる」でのコミュニケーションが、見た目とは異なり、非常に重苦しいものだというとき、それは特定の立場を有する人びとを「信者」と呼ばすにはいられない、強迫的なシニシズムの蔓延を指摘しているのだと思われる。
 このようなテーマをめぐる、宮台氏と北田氏とのやりとりは非常に面白いし、読んでいて勉強になる。しかし、本書の、というより宮台氏流の議論には大きな欠陥があるように思う。それは、「そもそも、この本はいったい誰に向けて書かれているのか?」という問題とかかわってくる。
本書の最初のほうで、この本は一種の社会学入門としての意図もあるというようなことが述べられている。しかし、正直、社会学に何の素養もない人がこの本を読んで、十分に理解できるかといえば、それはかなり疑問ではないだろうか。少なくとも僕であれば、社会学を初めて学びたいという人であれば、もっと体系だった社会学の入門書を薦めるだろう。
 だとすれば、本書の想定されうる読者は、それなりに社会学や思想の蓄積をもった層ということになろう。しかし、そのような場合、宮台氏流の議論の進め方にはかなりの問題があるように思う。その問題とは、一言で言えば、宮台氏はあまりに「エラそう」なのである。氏は、「馬鹿左翼」をくさし、「エセ右翼」を嘲笑し、果ては「日本のアカデミズム」を見放しているのだそうである(そのなかでの唯一の希望が、対談相手である北田氏なのだそうな)。
 要するに、宮台氏の観点からすれば、氏の言っていることに(かなりの程度まで)同調してくれそうな人たちのみが「知的エリート」たりえ、それ以外の連中は救いようもなく頭の悪い連中だということになる。したがって、読者の側からすれば、自分が宮台氏が認めてくれそうな知性レベルを有しているかどうかを常にテストされているような気持ちになる。
 このような一種の「知性テスト」的な書籍に接したとき、素直に「ああ、俺は宮台真司の言っていることに同調できる知的エリートなんだ」などというお気楽な感想を抱ける者がいるとすれば、それこそまさしく「宮台信者」でしかないだろう。
 そうではなく、様々な学問の潮流に関して一定の知識を有し、それらに対して敬意を払っている者であれば、宮台氏の唯我独尊的なコミュニケーション・スタイルは鼻につくどころの話ではない。むしろ、逆説的に、自分に対する自信のなさから発せされる防衛機制ではないかと思われるほどだ。そのため、せっかく説得的な議論を展開していたとしても、それが額面通りに受け入れられる可能性はかなり低くなってしまうのではないだろうか。その意味では、対談相手である北田氏のほうが、はるかに「大人」である。
 まとめれば、宮台氏が現在のコミュニケーション・スタイルを貫いているかぎり、氏についてくるのは批判的な思考のできない(したがって、自分自身を相対化することもできない)「信者」でしかなく、氏の啓蒙プロジェクトは失敗に終わることが運命付けられているのではないかと思う今日このごろである。
 なお、このような批判については、「内容」ではなく「語り口」を問題にしただけの枝葉末節なものにすぎないとの捉え方も可能だろう。しかし、コミュニケーションの役割を重視するものであれば、「語り口」の問題が決して無視しえるほど軽いものではないことを認識できるはずである。
 な~んちゃってw
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  by seutaro | 2006-01-08 17:48 | 読書

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