<日常>夕食

 仕事から帰ると、さすがに子どもたちは夕食を食べ終わっていることが多い。そのため、子どもたちがテレビを見ていたりする横で、一人で夕食を食べる。

 今日の夕食はチヂミだったのだが、子どもたちはいたく気に入ったらしい。既に夕食を食べたはずなのに、僕が食べてるのをもらおうとして、二人とも一緒に大口をあけて「あ~ん」と言っている。

 そうなると、さすがにあげないわけにはいかず、僕のチヂミはどんどん小さくなっていくのであった。
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  # by seutaro | 2010-08-06 00:47 | 日常

<政治・社会>官僚組織の「動機の語彙」

 なんとなくどこかでチクチクと批判されているような気もするので、前回の補足エントリをば。

 我々は、自分たちの目から見て非常におかしな行動をしている人や集団を見るとき、往々にして問いかける。「彼/彼女はいったい、なぜこんなことをしているのか?」あるいは「なぜ、このようにしないのか?」と。

 とりわけ、その行動が重大な帰結をもたらすばあい、そうした問いかけはより一層切実なものとなる。典型的には、人を殺してしまったケースだ。当然、多くの人が「なぜ殺したのか?」という問いを発するだろう。

 そうしたとき、あたかもカミュの『異邦人』のように、その回答が「太陽がまぶしかったから」というものだったとしよう。我々は納得することができず、その人物をさらに問い詰める。我々が納得できる動機、つまり「奴が憎かったから」や「金を奪おうとしたら抵抗したから」といった動機を聞くために。

 そのようなばあい、実際に彼がどう考えて人を殺してしまったのかは、実は大して重要な問題ではない。むしろ、我々が納得できることが重要なのだ。したがって、語られる動機とは、実は人びとの内面に固着したものというよりも、他者との相互作用のなかで生み出されるものと考えたほうが妥当なのではないか…

 米国のライト・ミルズという社会学者は「動機の語彙」をそのようなものとしたうえで、人びとを説得しうる動機が時代の変化に応じて変わってくると論じた。すなわち、かつてであれば宗教的な動機(「神のために」)は多くの人びとを納得させるに足る動機だったのだが、世俗化が進んだ現在ではそうした動機によって人びとは納得しなくなり、より世俗的な動機がより説得的になってきたのだという。

 翻って現在の日本。政治家や官僚に対する不信は極めて大きく、マス・メディアが流布する彼らの動機の語彙は、極めてシニカルな色彩を帯びている。「省益のため」、「天下り先確保のため」、「選挙のため」などなど。それらの動機の語彙はたしかに説得力があり、多くの人びとを納得させることができる。

 しかしながら、そうした動機の語彙で全てが説明できるのかと言われると、やはり首をひねってしまう。いままさに大学を卒業して官僚にならんとする若者たちはみな、いつか次官になって権力を握るか、それとも天下りによって厚遇を得ることを夢見ながら官庁の扉をくぐるのだろうか?そこに彼らなりの使命感はまったく存在しないのだろうか?

 もちろん、組織には自らの利益を追求する傾向が強くあるので、組織での生活が長くなればそうした論理に絡め取られ、気づけばそれが国益に反することを知りながらも組織の利益や保身に追従する者も出てくるかもしれない。

 しかし、もし組織全体が欲望や保身を主目的として動いていると知ったならば、少なからぬ人材がそこから流出し、外部から非難を声を上げることなるだろう。どれだけ多くの人材が流出しているのかは僕には確認できないが、少くとも日銀OBによる日銀への批判はあまり行われていないのが現状のようだ。

 OBから日銀への批判が上がらない理由としては、以下の二つが挙げられる。一つは日銀によってOBに対する何らかの言論統制が行われている場合。そしてもう一つが、日銀を離れたとはいえOBの多くは日銀の政策を妥当あるいはやむなしと考えている場合だ。

 田中さんの『デフレ不況』は前者の見解を採用している。ただ、僕個人としては、そういう言論統制の効果よりもむしろ、現役の人たちと同様にOBの人たちもまた日銀の正しさを信じているがゆえに批判をあまりしないというほうに説得力を感じる。

 言論統制のための組織や資源をとりたててもたない組織が、長期間にわたって広範囲の言論をコントロールするというのにはやはり無理があるように思う。日銀のなかに秘密組織があって、日銀を批判するOBを誘拐・洗脳しているというのであれば理解できなくもないが、そこまでいくとさすがに本当の陰謀論だろう。

 ともあれ、以上の点を勘案するなら、日銀の行動原理を説明するためには、組織としての欲望や保身のみならず、やはり「それを正しいと信じている」という動機をも考慮に入れる必要があるように思う。「日銀陰謀論はやめましょう」というときのbewaadさんの発想もこのあたりにあるのではあるまいか。

 bewaadさんがお薦めしている行政学の入門書に、今村都南雄『官庁セクショナリズム』(東京大学出版会)という著作がある。この著作には、セクショナリズム発生の原因に関して、以下のような記述がある。

身近な問題の一例として、都市計画道路の整備事業を取り上げてみよう。土木建設部門からすれば、その整備事業の推進は任務であり使命である。「どうせつくるなら、いい道路をつくりたい」と考えるであろう。財政部門からすると、それ以外にさまざま事業があるのだから、道路整備事業だけを特別扱いすることはできない。「限られた予算の中で、よりよい道路を作ってもらいたい」と言わざるをえない。生活環境の保全を担当する保険衛生部門からすると、通過車両の増大にともなう環境被害のことを考え、「地域住民の健康を第一優先に」と注文をつけるだろう。仮にその道路整備事業が歴史的な文化遺産の保存にかかわるようなことにでもなれば、その担当部門は慎重な配慮を要請し、たとえ事業の遂行に重大な影響があっても、「文化財の保全あっての豊かさであり生活利便ではないか」と迫るかもしれない。どの部門の言い分にも理があるということである。
(出典)今村都南雄(2006)『官庁セクショナリズム』東京大学出版会、pp.224-225。

 かつての通信事業をめぐる郵政省と通産省の対立のように、セクショナリズムは官庁間での利権の競合として描かれることが多い。ところが、上の著作でセクショナリズムは理念と理念との対立として描き出されている。官僚のこのような描写に共感するからこそ、欲望や保身といった動機の語彙を日銀に適用することにたいしてbewaadさんは抵抗を覚えるのではないだろうか。というか、「公共選択論的分析」というのは一歩間違えると、下衆の勘ぐりでしかないような。

 ただし、これだけは強調しておかねばならないのは、たとえ仮に日銀の中の人が真摯であったとしても、これだけの経済的停滞が続いていることの責任は絶対に負わねばならないということだ。マックス・ヴェーバーの言葉を借りるならば、心情倫理ではなく責任倫理ということになるだろうが、その心情がいくら純粋なものであったとしても、人びとの生活に大きな影響を与える職責に就いている以上、その結果に対して責任を負わねばならない。

 まあ、こんなことは改めて言うまでもないことだし、そもそも議論の前提であるはずなのだが、それにもかかわらず、「日銀の中の人は実は結構まじめなのではないか」と言っただけで「日銀の代弁をしている」という解釈が出てくるのには、正直閉口する。あまりこういう言い方はしたくないのだが、言われたからには言わねばなるまい。

 教養が足りないんじゃない?

(追記)
 実はもう一点、還元論について論じておきたいのだが、明日は1限なのでもうやめときます。
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  # by seutaro | 2010-05-25 00:39 | 政治・社会

<政治・社会>デフレ不況

b0038577_23584753.jpg 僕がよく読んでいる経済系ブログに田中秀臣さんという方とbewaadさんという方によって書かれているものがある。

 ところが最近、田中さんが出版した『デフレ不況』(朝日新聞出版)という著作をめぐり、お二人のあいだで論争が起きている。両方を読んできた僕としては寂しい限りの話なので、お二人の論争を僕なりに整理してみたい。無論、経済学についてはまるで無知なので、「耳から脳みそが出ている」と言われても仕方がないと思っている。

 まず、「日銀はなぜリフレ政策を採用しないのか」という問いに対して、とりあえず以下の3つの説を提起してみたい。

(1)陰謀説
「日銀の利益にとってデフレが継続することは都合がよい」という利己的な目的に基づいてリフレ政策を採用しない。つまり、その理由は「欲望」。
(2)無能説
「日本の景気が悪いのはわかるが、どうしていいのかわからない」ので、とりあえずこれまでの政策とできるだけ矛盾しないような方針を採用し、過去の責任を問われないようにしている。外部からの批判にも弱いので、「デフレの定義もいろいろ」と言ったり、「デフレです」と言ったりする。つまり、その理由は「保身」。
(3)信念説
「デフレよりもバブルのほうが脅威である」、「日本にとってリフレ政策は有害である」という信念に基づき、日銀法の規定は忘れてインフレ抑止にのみ中央銀行の使命を見いだしている。つまり、その理由は「考え方の相違」。
 
 この分類を頭に置いて田中さんの著作を眺めると、とりわけ(1)と(2)の分類に当てはまりそうな記述が多いように思う。

 たとえば、(1)については、「日銀は主要な天下り先である地方銀行や短期会社を保護するため、ゼロ金利政策などを避ける傾向があるのではないか」という堀内昭義・清水克俊の両氏の見解や、「伝統的日銀マンにとっては、金融緩和は自分たちの権力と存在意義の衰えであり、金融引き締めは権力の誇示、存在意義の発揚になる」という中原伸之氏の見解が紹介されている(pp.160-161)。

 (2)については、日銀の企画局における「官僚の無謬性」に関する記述が当てはまるのではないだろうか。この日銀の無謬性に対する固執のため、自らの過去の過ちを認めることもできず、前例を否定するような批判や政策的改革も認められないと述べられている(p.60)。

 ただ、田中さんの主たる強調点は、おそらく(1)というよりも(2)に近いんじゃないかと思う。実際、ご自身のブログで田中さんは日銀が「特定のミッションをとっているようにはまったくみえない」と述べている。

 それに対して、bewaadさんが危惧しているのが、(3)の可能性ではないだろうか。つまり、彼らは利己的に動いているわけでも、保身に走っているわけでもなく、ある意味で信念をもって現在の反リフレ的な政策を採用しているのではあるまいか、ということだ。bewaadさんの「日銀にはマイルドインフレ実現よりバブル防止を優先すべしというミッションが課せられている」という言葉を僕はそのように解釈した。無論、日銀とて世論の動向にも気を使っているので白川総裁の発言が妙にブレたり、小手先の政策変更をやったりもするが、基本のところ(実質的なデフレターゲット)は頑として変えないということになるだろうか。

 もちろん、(1)(2)(3)はあくまで理念的な分類なので、実際にはこれらの動機が混ざり合っているのだろうし、これ以外の要因も働いているかもしれない。ただし、上述の分類のうち、リフレ政策を採用しない主要因がどれなのかによって日銀へのアプローチの仕方も変わってくる。

 (1)が主要因のばあい、その陰謀の根を断つことが必要だ。つまり、彼らの陰謀を白日のもとに晒し、日銀からパージするなりそれこそ貨幣洗浄のお仕事にまわってもらい、本当に日本の金融政策を危惧している人たちに日銀を委ねるべき、ということになるだろう。

 (2)のばあい、そこまで極端ではないにせよ、日銀のガバナンスを改善し、政策委員の人選をもっと公正なものとするとともに、日銀理論に固執する企画局ではなく調査統計局に主導権を委ねるというような形になるかもしれない。まあ、このあたりはここでの話にとってそれほど重要ではない。

 問題なのは、(3)が主要因だった場合だ。つまり、彼らが現在の日銀の方針は「妥当」または「それに代わる選択肢がない」と本気で信じている場合である。

 この場合、日銀の中の人のイメージは上述の(1)や(2)とは全く違ってくる。(1)や(2)のばあい、なかには優秀な人物もいるかもしれないが、基本的には欲望や保身に身を委ねており、「国益」のことなど全く眼中にない姑息な連中ということになる。ところが、(3)のばあい、彼らは「国益」のことを真剣に考えており、信念をもって日銀理論の妥当性を信奉しているということになる。まさに平成の関東軍といったところだろうか。

 もし(3)が主要因のばあい、(1)や(2)の場合よりも、日銀の金融政策への介入に対する彼らの抵抗はより激烈なものとなるだろう。なにせ彼らには信念があるからだ。欲望や保身が原動力ならガバナンスの変更で対処可能なのかもしれないが、人の考え方を改めるのはとても難しい。

 実際、半径5メートルの話で恐縮だが、保身とかそういうのではなく、日銀OBの大学教員は本当に日銀理論を信じているんだなあと感じたことがある。その人物はリフレ的な主張に関して、金融がわかっていない連中の戯言といった感じで切り捨てていた。bewaadさんが「自らの分析は誤りで、田中先生と同じ意見であればと切に思っている」というのは、そういうことなのではないだろうか。

 ただ、(3)が主要因のばあい、日銀の中の人は基本的に真摯なので、日本の経済学会の大多数がリフレ政策を支持するのであれば、それに従うのではないかという期待もある。すなわち、(3)の想定はある意味で性善説的な発想に乗っかっており、説得の余地もまたあるということになる。bewaadさんが日本の経済学学界でのコンセンサスを気にするのも、たぶんそのあたりに理由があるのだろう。

 というわけで、田中さんとbewaadさんの対立点を僕なりの観点から整理してみた。想像するに、世間的には利権と天下りのことしか頭にないと見なされているにもかかわらず、(それが正しい方向を向いているかどうかは別として)実際には極めて真摯に仕事をしている官僚たちのあいだで働いているbewaadさんには、(1)や(2)での説明には素直に首肯できない心情が働いているのではないだろうか。

 なお、田中さん自身もブログで言っているように『デフレ不況』は日銀のガバナンスだけを論じた本ではなく、リフレ派の論点を幅広くカバーしたものだし、記述も平易で読みやすい。なので、この種のテーマに関心がある人は読んでみてはどうだろうか。

(追記)
 ちなみに、僕自身も『デフレ不況』は面白いと思いながら、ちょっと複雑な感覚を覚えるのも確かだ。

 ブログ論壇を見ていてもそうなのだが、社会問題を論じるときに、非常に単純化された説明を目にすることがある。たとえば、「子どもたちの学力が低下しているのは日教組が悪いからだ」、「経済格差が広がっているのは小泉改革が悪いのだ」、「日本の景気回復の足を引っ張っているのは労組だ」、「政府財政が悪化しているのは官僚が悪い」、「若者がフリーターや派遣になるのは若者自身に原因がある」といった類の話だ。

 こういう話を聞いて「いやいや、ちょっと待ちなよ」と思うのは、僕だけではないだろう。つまり、それらの問題の根底にはもっと幅広い社会的、経済的あるいは言説的な要因があって、単純に単一の要因に起因させることはできない、と考えるわけだ。リフレ派と呼ばれる人たちにもそう考える人はいるんじゃないだろうか。「世の中、もっと複雑だぜ」、と。

 ところが、その経済的要因について考えようとするときだけ、「日銀が悪い!」という論法に依拠するというのは、どうにも居心地が悪いのだ。もちろん、責任者というのは責任をとるためにいるのであって、物価に責任を持つ日銀が責めを負うのは当然だ。ただ、上で述べた「幅広い社会・経済的な要因」を論じることに慣れた身からすれば、日銀がリフレ政策に否定的なのは、実は組織内的な要因だけではなくて、もっと幅広い要因があるのではないか、という疑念がどうしても浮かんでくる。

 つまり、日銀の組織内部の話のみならず、その日銀の価値観を支える支配的な言説の構造がそこにあるのではないか…、だとすれば対決すべきはそうした言説の構造ではあるまいか…というような話になってしまうのだ。

 もちろん、そんなのは責任回避の論法でしかないというのは確かなのだが、ヘタレ人文系としてはそういうことも考えてしまうのだ。ひょっとして、リフレ政策に対して反発が生じる要因のひとつには、「世の中、もっと複雑だぜ」という発想があるのかもしれない。

 いやいや、ヘタレ人文系の戯言である。
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  # by seutaro | 2010-05-23 00:08 | 政治・社会

<日常>断乳

 うちの奥さんが断乳した。要するに、もうゆき坊には母乳を与えないということだ。

 これは結構、大変な決断なのである。なぜなら、母乳を貰えないゆき坊は夜中に大泣きする。特に奥さんの顔を見ると、母乳が欲しくなるので、いつまで経っても泣き止まない。

 そこで、登場するのが乳ならぬ父なのである。むう、下らないぜ。

 午前3時だろうが5時だろうが、そんなの関係ないのである。眠気の充満した頭で、ゆき坊をだっこしながらリビングを行ったり来たり。夏場なら外に出ても構わないのだが、いまの時期はさすがに寒い。それに花粉が充満している外気は有毒だ。

 そういえば、そなたんが1歳の夏も夜泣きがひどかった。当時住んでいた家は防音がしっかりしていなさそうだったので、夜泣きのたびに僕はそなたんと一緒に家の周りを徘徊していた。家の外に出た瞬間に泣き止みはするのだが、すぐに帰ると寝かしつける間もなくまた泣き出してしまう。長いときには1時間ぐらいは外にいたように思う。

 ゆき坊の話に戻すと、ようやく落ち着いてきたかと思ったら、今度は奥さんが「つわり」みたいになってきた。もちろん、第三子という話ではない。人によっては、断乳したあとにホルモンバランスが変化するせいか、つわりに似た症状を発するのだという。

 というわけで、今日の晩ご飯は某オリ◯ン弁当であった。いざ買いに行こうとすると、そなたんが一緒に行くという。可愛い奴め。

 って、なんだ、その手に持っているのは…。缶ぽっくり?

 うまく説明できないが、要はあれだ、空き缶2つに紐をつけて、下駄みたいにして歩くやつだ。そ、それで行くというのか…

 普通に歩けば5分の道のりを3倍ぐらいの時間をかけて行く。いったい、いつになったらオ◯ジン弁当に着くんだろう、と空を仰ぐのであった。
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  # by seutaro | 2010-03-16 00:49 | 日常

<日常>この週末

<土曜日>
 今日は夕方から奥さんがママ友の食事会で不在。なので、そなたんとゆき坊を僕一人で面倒見ることに。

 夕方に近所の遊戯施設で1時間ほど遊び、その後、そなたんのリクエストにより某ファミレスへ。なんでも、そこで売っているドラえもんのキーホルダーを買いたいのだそうな。

 それにしても、そなたんはまあよい。もう5歳だし、一人でドリンクバーのジュースを注いでこれる。問題はゆき坊だ。まだ1歳2ヶ月で、なにをするか本当に予測できない。突然、椅子から立ち上がるなんてのは序の口である。奥さん抜きで本当にくぐり抜けられるのか、正直に言えば不安である。

 最初、ゆき坊にポテトを与えてご機嫌をとろうとしたがうまくいかない。ただ、どうやらレタスが食べたかったらしく、前半はそれをあげることでしのげた。まあ、足元はレタスの残骸だらけにはなったが。後半はポテト。これまたポテトの残骸が足元に。

 しかし、最後のほうは集中力が切れたか大暴れ。僕はアイスコーヒーを一気飲みしつつ、残飯の散乱する足元を綺麗にし、なんとか帰途につくことに成功した。本当に薄氷を踏む思いである。

 帰りの車中、そなたんが突然、「パパ、一人で出来たね。ご苦労様。おうちに帰ったらゆっくり休んで」と言う。誰の真似だかは知らないけれど、とりあえず大いに笑わせてもらった。

 
<日曜日>
 今日の午前中は、奥さんが所用のため早朝から実家に。僕はそなたんとゆき坊と一緒に『ハートキャッチ・プリキュア』を鑑賞。ゆき坊はストーリーを全く理解していないだろうが、エンディング・テーマはノリノリで聞いていた。

 昼前に奥さんが帰ってきて、今度は家族4人でさいたまスーパーアリーナへ。NHKの『おかあさんといっしょ』のコンサートがあるのだ。

 抜群に良い席で、体操のお姉さんやモノランモノラン、ぐーチョコランタンたちを間近で見た。子どもたちもさすがに最後のほうは疲れていたものの、全体としては大興奮であった。ちなみに、うちの奥さんも言っていたが、体操のお姉さんはテレビで見るより、実物のほうがよい。

 それにしても、『おかあさんといっしょ』の動員力は凄まじい。やたらめったら人がいたが、それでも今日行われた3回の公演のうちの1回にすぎない。関連グッズも飛ぶように売れていた。

 コンサート後は会場近くのイトーヨーカドーで買い物をして帰宅。帰宅後、今日買った折り紙でそなたんがオリンピックのメダルを作り出した。そなたんは言う。

 「浅田真央ちゃんに銀メダルをあげたい」

 「いやいや、銀メダルはもう持っているから、金メダルにすれば?」

 ところがである。蓋を明けてみれば、金メダルはそなたん本人がもらうのだという。ただ、本人も釈然としないところがあるらしく、「でも、そなたん、何にもしてなのに、金メダルもらっちゃっていいのかなぁ」などと言っている。

 それを聞き、金メダルをもらうには、ひたむきな努力と才能が必要なのだということを娘に訥々と説く父であった。 

 いや、まあ金メダルもらったことないから知らないけど。
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  # by seutaro | 2010-03-01 02:20 | 日常

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