カテゴリ:メディア( 18 )

 

<メディア>小中高生の暴力行為は過去最多?

ひどい新聞記事を見つけてしまった。まず、以下の記事をお読みいただきたい。

暴力行為 過去最多の5万2756件 昨年度・小中高校生
全国の小中高校生による暴力行為の発生件数が07年度、過去最多の5万2756件(前年度比18.2%増)に上ったことが、「問題行動」に関する文部科学 省の調査で分かった。小中高すべてが過去最多で、特に小学校は前年度に比べ37.1%も増えた。いじめの認知件数は前年度より減少したが依然10万件を超え、携帯電話のインターネットサイトなどが関係した「ネットいじめ」など新しい形態も目立っている。
(出典)毎日新聞(2008年11月21日朝刊1面)

それでもって、その推移を表すグラフがこれ。
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ここで注目する必要があるのは、06年度に暴力行為の定義が拡大し、なおかつ、国立、私立校も対象に追加されたということだ。では、定義が拡大したとは、どういうことか。ネットでの記事にはなぜかその記述がなく、新聞紙面にのみ、それに関する記述がある。引用してみよう。

調査では「故意に有形力(目に見える力)を加える行為」と定義している。05年度年度までは「けんかとなりけがを負わせた」などと例示し、被害のレベルが一定以上のケースだけを集計していた。06年度からは「(被害者の)けがや被害届の有無などにかかわらず計上すること」として軽微な行為も集計対象に含め国私立校も対象に加えた。
(出典)毎日新聞(2008年11月21日朝刊1面)

こんな大幅な定義の変更を加えたら、前年度までの比較などほとんど意味をなさない。上述の記事を正確に言い換えると「06年度と比較して07年度は増加した」ということが言えるにすぎない。まあ、06年度から考えれば「過去最多」となるわけだが、それはあまりに詭弁だろう。

それにしても、ネット上で定義にまつわる重要な情報が掲載されないというのは、なにか理由があるんですか?>毎日新聞さん
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  by seutaro | 2008-11-21 09:52 | メディア

<メディア>mixiでの脇の甘さについて

 まあ、なんだ、教員なんぞというものは、基本的には悪口を言われるために存在しているのだろう。

 とはいえ、自分の悪口がネット上で書かれているのをみると、やっぱり凹むものである。

 もちろん、blogなんかでストレートに書かれることは多くないものの、mixi上ではみなさん妙に脇が甘くなる。SNSとはいえ、数百万のユーザーを抱えるサービスなのだから、想定外の人が読むことなど当然考えておくべきリスクだ。にもかかわらず、当の本人が簡単に見つけることができるような形で平然と悪口を書く。

 しかもmixiの場合、プロフィールがかなり詳細に掲載されていることが多く、本人を特定することも難しいことではない。実際、僕の悪口を書いている学生は簡単に特定できた。

 というわけで、どう対処するか、なのだが…。

 ぱっと思いつく方法としては、黙って単位をあげない等の報復も考えられるわけだが、さすがにそれは教育者としてどうかと思うし、あまりに陰湿だ。

 というわけで、自分の悪口はあえて見なかったことにするというのが妥当なソリューションであろう。あと、教育的配慮として、担当している学生全員に対し、mixiのリスクをあくまで一般論として語ることが必要だろう。学校の教員なら笑って済む話でも、会社の上司や取引先の相手ともなればそうはいかない可能性が高い。

 しかしまあ、やっぱりストレスは溜まる。まあ、考えてもしょうがないことなのだし、今日はもう寝よう…。
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  by seutaro | 2008-07-25 02:12 | メディア

<メディア>スイーツ(笑)(笑)

 最近、ネット上で流行っている表現が「スイーツ(笑)」だ。この言葉が意味するところは、だいたい次のようになる。(「はてなダイアリー」より)

特に、マスメディア(おもに女性誌)の女性向けの特集にならうことがおしゃれであると考え、特集を鵜呑みにして気取っている女性を揶揄する言葉。実際はメディアに踊らされているとしか言えない状態であることが多いのだが、当人にはその自覚はない。

そのような女性が洋菓子・デザートのことをスイーツと呼ぶことに由来する。いつ、誰が、どのような経緯で使い始めた言葉なのかはさだかではない。2007年に入ってコピペが完成し、流行したもよう。(出典)http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B9%A5%A4%A1%BC%A5%C4%A1%CA%BE%D0%A1%CB

 しかしまあ、正直、僕はこういう表現はあまり好きではない。こういうネットでの流行に乗じて、「スイーツ(笑)」なんて言葉を濫用するのだって、しょせんは同じ穴の狢ではないかと思うのだ。ソースがマス・メディアかネットかの違いがあるだけで、他人の言葉でもって思考していることには変わりない。

 そう考えれば、たとえば「スイーツ(笑)(笑)」なんて言葉だって考えられるだろう。この意味は、次のような感じだろうか。
 
ネットでの流行に従うことをカッコイイと考え、そこでの言葉遣いをマネて特定の女性層を揶揄することで自分にはメディア・リテラシーがあると勘違いしている(主に)男性を揶揄する言葉。実際にはネットに踊らされているとしか言えない状態であることが多いのだが、当人にはその自覚はない。

 このように書くと、「いや、俺たちには自覚がある」という反論があるかもしれない。つまり、「俺たちにはネットでの流行に踊らされているという自覚はあるが、あいつらには雑誌に踊らされている自覚がない」というわけだ。

 けれども、それを誰か、本当に確かめたのかが気になるところだ。つまり、スイーツ(笑)な女性たちもまた「ウチらって、雑誌に流されてるよね~」ぐらいの自覚はあるかもしれないではないか。「自覚がない」と言い切るからには、何らかのソースが必要になるわけだが、誰かそれを提示したのだろうか。

 というわけで、「スイーツ(笑)」なんて言葉は、別にメディア・リテラシーの有無を示しているのではなく、単に「スイーツ(笑)」と「スイーツ(笑)(笑)」の好みとする世界が違うだけな気がするのは僕だけだろうか。
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  by seutaro | 2007-12-12 00:02 | メディア

<メディア>光市の例の事件

 メディアやネットで大反響のこの事件。
 炎上するとやだし、直接的なコメントは避けてきたのだが、ネットでいろいろと調べてみると、これは結構、奥が深い。マス・メディアのバッシングが激しいときは一面的な情報の流布に気をつけたほうが良いということを以前に書いたが、まさしくそんな雰囲気がそこはかとなくしている。
 ただ、この件についても、もちろん特別なソースがあるわけではないので、断定的なことはなにも言えない。ただ、注意すべきなんだろうな、と思ったのは以下の点。

(1)「被告人の主張」と「弁護士の主張」はわけて考えるべきだし、弁護士は被告人の主張を無視するわけにもいかない。さらに、この被告人の主張は、突然出てきたのではなく、類似した発言がすでに家裁の調書のなかにあったらしい。

(2)検察側の主張にも疑問の余地があるようだ。

(3)「被告人の出した手紙」は証拠能力が乏しく、二審の判決でもその証拠としての妥当性を否定されているらしい。しかも、マスコミ報道では、重要な部分が省略されて報じられているようだ

(4)「弁護団は死刑廃止のために裁判を利用している」という「事実」は、多分、ない。

 念のために書いておくと、僕も妻子のある身なので、この事件自体は許し難い。が、それでも法治国家としての体裁を守るのであれば、裁判はやはり適切に行われねばならない。

 その意味では、正直、安田弁護士の気概には恐れ入る。ここにきて大人数の弁護団がついたのは、彼らが死刑廃止のイデオロギーに狂っているというよりも、弁護士に対する激しいバッシングが予想されるなかで(実際に起きたし)、弁護士の人数を増やすことでそれを分散させる意図があったのではないか。

 無論、そのことが世の中の印象をいっそう悪くすることになったのだが。

 弁護士に対する批判はすでに山のようにあるし、それを探すのは手間ではないので、ここではマス・メディアとは異なる論調のブログを紹介したい。言うまでもなく、僕が以下のブログに全面的に賛同しているわけでもないので念のため。

弁護士のため息
http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/blog/2007/06/post_4929.html

情報流通促進計画
http://blog.goo.ne.jp/tokyodo-2005/e/2e857c9ed388ff2358dead4825f7640b

夏への扉
http://ruhiginoue.exblog.jp/i2 

あと、これは弁護団に対して批判的なブログだが、インパクトがあるのでこれもURLを貼っ
ておこう。

藤井誠二のブログ
http://ameblo.jp/fujii-seiji/archive1-200705.html
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  by seutaro | 2007-07-01 21:13 | メディア

<メディア>週刊誌ジャーナリズムの俗悪

 なんだかんだいって、日本の新聞は慎重である。誤報もあるにはあるが、むしろ誤報を恐れるあまり過度に慎重な報道になっているとの指摘もある。

 他方、そうした新聞の報道姿勢を補完するのが週刊誌ジャーナリズムだといわれる。要するに、多少のリスクを冒しても攻撃的な報道をすることで、売り上げを伸ばすことに血眼になっているというのである。そうした週刊誌ジャーナリズムの姿勢を評価するメディア研究者は多い。

 けれども、そうした姿勢が時として俗悪な報道へと繋がることは否定し難いだろう。

 ごちゃごちゃ書いてきたが、今週の『週刊ポスト』の報道は最低である。読んでないので中吊り広告を見ただけだが、そこから判断するに死者を陵辱しているとしか言いようがない。

 僕はこの歌手の人についてあんまり知らないのだが、聞けばマスコミにほとんど露出しない人だったという。その理由としては、マーケティングな要因もあるようだが、結局、デビュー以前の過去を封印して歌だけで勝負したいという本人の意向があったのだと聞く。

 週刊誌の芸能担当記者ならそんなことは知ってて当然だろう。だとすれば、本人が生前に表沙汰にしたくなかった出来事を、それを知っていながら報道したことになる。記事には「哀悼」などと銘打っているが、なにが哀悼なものか。

 この記事を書いた人物、その掲載を許可した人物は、人間として終わっている。これほどまでにモラルの欠落した連中が、ほかの誰かを批判できるというのが驚きである。
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  by seutaro | 2007-06-05 01:22 | メディア

<メディア>メディア・バッシング

 日本のメディアにもいろいろあるというのはご存知の通りだと思う。革新系、リベラル系、保守系など、さまざまだ。で、『朝日新聞』と『産経新聞』の仲が悪いのに代表されるように、それぞれのメディアは結構いがみあっていたりする。

 ところが、時に、右から左まで殆どのメディアが足並みを揃えて特定の対象をバッシングし始めることがある。あるいは、ある問題を徹底的に黙殺することがある。後者の例でいえば、再販制度の是非がその最たるものだろう。

 マス・メディアに接するさいに、最も注意すべきはそうした瞬間だ。特定の集団をみなでバッシングするとき、そこにはある種の安心感が生まれる。普段はいがみ合っていて、すぐに揚げ足を取られるにもかかわらず、その瞬間だけはみな安心して言いたいことを言えるからだ。バッシングを受ける側は、通常は圧倒的な少数者であり、その声が大手のマス・メディアできちんと報じられることは殆どない。

 そのため、そうした集団的なバッシングのなかでは、本来は語られるべき出来事がどんどんと報道から削り取られていってしまう。その結果、バッシングを受ける側を「絶対悪」とするストーリーが簡単に出来上がってしまう。

 ただし、そうした状況がずっと続くとは限らない。バッシングが終わり、その出来事が殆どの人の記憶から消えうせたあとに、以前には全く語られなかったストーリーが姿を現す。「絶対悪」とされたはずの側にもそれなりに妥当な事情と考え方があることが明らかになる。佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)などは、まさしくそうした事例だと言えるだろう(ただ、佐藤氏の場合、その緻密な情報戦略により(世論的には)見事なカムバックを果たしたと言える)。

 けれども、それはバッシングが終わったずっとあとの話なのであり、殆どの人はそうした「語られなかったストーリー」を知ることすらない。そして、バッシングをした側は、自らの罪業を反省することもなく、次なるバッシングのターゲットを探す。バッシングによって世の中が良くなるという大いなる錯覚を抱えながら。

 いったい、我々はいつまでそんなことを続けるのだろうか。
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  by seutaro | 2007-06-01 02:34 | メディア

<メディア>動機の語彙

 殺人における「動機」にとって最も重要な要素はなにか。それは、「聞く側が納得できる」ことである。だから、仮にカミュの『異邦人』のように「太陽がまぶしかったから」という動機の告白がなされても、誰もそんなものは信じない。だとえそれが本当の動機だったとしても、人は納得できる動機を探し、本人が口を割らなければ精神鑑定でも何でもやって、とにかく納得しようとする。

 この場合、「納得できる動機」というのは「許容できる動機」である必要は全くない。たとえば、「金のために人を殺した」、「性欲のために人を殺した」というのは許容できる動機ではないが、納得できる動機である。「相手が襲いかかってきたから身を守ろうとしていたら殺してしまった」というのは、多くの場合、納得も許容もできる動機だろう。

 問題なのは、この「納得できる動機」、「許容できる動機」が時代や社会に応じて変わるということだ。たとえば、数年前に広島で「悪魔に命じられたから女児を殺害した」という動機を語った殺人犯がいたが、この動機は現代日本では納得も許容もできない動機であり、大きな反発を呼んだ。しかし、中世後期のヨーロッパであれば、魔女狩りを行っていた連中はまさにそうした動機を告白させるために、容疑者を拷問にかけていたわけだ。また、江戸時代であれば許容された「あだ討ちのための殺人」というのは、現代日本では許容されないだろう。

 我々が「納得できる動機」というのは所詮、我々の常識のなかでのみ通用する相対的なものだ。我々が納得できないからといって、それが必ずしも事実でないとは限らない。信仰心のために飛行機をハイジャックしてビルに突っ込むとか、人ごみのなかで自爆するとか、僕の狭い了見では信じられないわけだが、実際にそういう人がいるから世の中は難しい。

 一例を挙げれば、1970年代末から1980年代初頭にかけて世の中を騒がした「イエスの方舟」事件がある。この事件では、「邪教」の主催者とされた千石剛賢氏という人物が若い女性をかどわかして誘拐したというような報道がマス・メディアを賑わせた。

 しかし、実際には、疎外感に悩む女性たちこそが千石氏に強引についていったというほうが正確であり、指名手配された千石氏は警察に出頭するも不起訴処分になっている。千石氏については若い女性をかどわかす邪教の主催者というよりも、女性たちから「おっちゃん」と呼ばれ親しまれる、信仰心の篤い人物だったとも言われる。

 だが、『サンデー毎日』を除く当時のメディアはそうした信仰心に基づく動機では納得することができずに、「若い女性を囲ってハーレムを作る」という常識的な動機のフレームを好んだ。まあ、このあたりの状況はいまもさして変わっていないと言える。

 結局のところ、「納得できない動機」を聞いたとしても、我々がまずなすべきは「嘘だ」とか「でっち上げだ」といって条件反射的に反応するのではなく、とりあえず我々の常識では計り知れない動機に基づく行動がありうるのだということをまずは想像してみることではないだろうか。
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  by seutaro | 2007-05-29 23:53 | メディア

<メディア>高校野球とボクシング

 僕はスポーツには非常に疎いのだが、季節柄、こんなエントリを立ててみる。

 今年の高校野球はなかなかに面白く、とりわけ決勝戦+再試合にはそれなりに興味を
もって報道に接していた。

 他方、僕はまったく興味をもたなかったのだが、亀田三兄弟の次男が、インドネシアの
(週刊誌によると1勝1敗1分けの)チャンピオンを1回でノックアウトしたのだそうだ。

 そこでブログなどを見ていると、「高校球児のひたむきさに比べて、なんだあの商業主
義にまみれた亀田三兄弟は・・・」というようなエントリが散見される。

 たしかに、先の亀田長男の世界チャンピオンになった経緯などを見ても、メディアによっ
て創られたチャンピオンだという雰囲気がむんむんしている。亀田次男が試合終了後に
熱唱するのも、スポーツファンから見ればふざけているとしか言えないのではないだろう
か。

 その一方で、高校球児たちの闘いは、真剣そのもの。しかも、勝った相手を褒め称える
というスポーツマンシップも健在だ。

 しかし、高校野球が全くもってメディアによって創られていないか、というと必ずしもそう
いうわけではない。高校野球は、紛れも無い「メディア・イベント」だからだ。

 メディア・イベントとは、そもそもダニエル・ダヤーンとエリフ・カッツというマスコミ研究者
たちが提唱した概念であり、メディアによって報道されることを前提としたイベントのことを
指す。ダヤーンらはメディア・イベントをいくつかに類型化しており、オリンピックなどのスポー
ツは、「競技型」のメディア・イベントである。

 ただし、ダヤーンらのもともとの定義は、あくまでイベントの主催者はメディアの外部に
おり(オリンピックの場合だと国際オリンピック委員会)、メディアはあくまでそれを取材す
る側だということになる。

 それに対し、日本の研究者は、メディア自体が主催する「メディア・イベント」の存在を指
摘した。毎日新聞社と朝日新聞社が主催する高校野球はその際たるものだ。読売新聞社
が関東学生陸上競技連盟と共催している箱根駅伝もそれに近い。

 さらに言えば、亀田兄弟の試合も、実質的にはTBSの主催であると言ってもよいのでは
ないだろうか(リングのマットにあれだけでかでかとTBSと書いてあるわけであるし)。

 こうしたメディア・イベントにおいて重要なのは、それが人びとを感動させる「物語」を生み
出せるか否かという点だろう。亀田兄弟の「感動秘話」は、TBSにより腐るほど放送されて
いるわけだが、高校野球にしても例外ではない。

 チームの士気が下がるなか、泥だらけになりながら自らノックを受けてみせた早実の監
督。「監督にそこまでさせるなんて」と号泣する野球部員。こうしたエピソードが、大会期間
中には次から次へと報道される。テレビ朝日「熱闘甲子園」は、まさにそうした物語を生み
出すための重要な装置である。

 けれども、高校野球の場合、その勝負がガチであるがゆえに、どのような物語が生み出
せるかは偶然に左右されるところが大きい。たとえば、今回の大会で最も物語性を有して
いた高校の一つである八重山商工が準決勝ぐらいまで進んでいたとしたら、メディアはこ
の高校に関する物語を山ほど報道したことだろう。

 したがって、ドラマ性に欠き、それほどカリスマ性のない選手の多い高校ばかりが上位に
進出した場合、どうしても高校野球は盛り上がりに欠け、人びとの注目も集まらない。

 そうしたリスクを回避するためにはどうすればよいのか。それは、最初からあるチームに
スポットを当て、なにが何でもそのチームに勝たせていくということになるだろう。

 地方大会が始まるはるか以前からそのチームに密着取材し、大会が進んでいくにつれ
て「成長する」選手の物語を創っていく。チームの一人一人に「キャラクター」を持たせ、お
茶の間に選手の名前を浸透させる。無論、途中で負けてもらっては話にならないので、絶
対に勝てそうな相手ばかりをぶつけるし、審判にはそのチームに有利な判定ばかりをして
もらう。このようにすれば、かなりの確率でドラマ性に満ちた「高校野球物語」が出来上が
るだろう。

 もちろん、これは亀田三兄弟の「物語創出プロセス」を、高校野球に適用した場合の話
だ。実際には、高校野球ではそんな演出は不可能だろう。けれども、高校野球にも存在し
ている「物語創出プロセス」に付随するリスクを可能な限り最小化していくと、亀田三兄弟
が出来上がる。その意味で、亀田三兄弟は、是が非でも物語を生み出そうとするメディア
の欲望がもっとも如実に表れた事例に他ならない。

 もっとも、亀田三兄弟の場合、その創出プロセスがあまりに露骨な演出に満ちているが
ゆえに、多くの反発を生じさせているわけであるが。
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  by seutaro | 2006-08-23 07:51 | メディア

<メディア>ブラジルのデジタル地上波

 さて、ワールドカップは散々な結果に終わり、とりわけブラジル相手には全く歯が立たなかったわけだが、デジタル家電の分野ではブラジルに日本勢が攻め込むことができそうだ。

政府は29日、地上波のデジタルテレビ放送で日本方式を採用する方針を決めたブラジル政府に対し、プラズマテレビや液晶テレビ、半導体などを生産している日本企業の誘致で協力する方針を固めた。

 政府は、ブラジルが日本方式を採用したことで日本企業への経済効果は約1兆円に上るとみている。日本とブラジルの両国政府は同日、覚書に調印する見通しだ。

 地上デジタル放送の方式は、日本方式と米国方式、欧州方式があり、ブラジルは日本と欧州方式の間で選定を進めていたが、より多くのデータを送信でき、携帯電話でもテレビ放送を見ることができる日本方式の採用を決めた。ただ、海外で日本方式を採用するのはブラジルが初めてで、米国方式と欧州方式に比べて採用数で劣勢に立たされている。

 ブラジルが日本方式を採用したことで、今後、中南米諸国で日本方式を採用する動きが広がることを日本政府は期待している。両国政府は、覚書を結び、共同作業部会を設置して、地上デジタル放送開始に向けた具体的な計画を協議する。

 日本政府は、日本の電機メーカーや半導体メーカーがブラジルに進出して薄型テレビや半導体を製造する工場を建設するよう働きかける。技術者の育成などでも協力する方針だ。(『読売新聞』2006年6月29日)

 しかしまあ、この件に関しては「ようやく決定したか」というのが印象である。実は、ブラジルでは当初、独自の地上デジタル放送規格(SBTVD)の開発が予定されていた。

 ところが、資金不足からこの計画は頓挫し、外国の規格が採用されることになった。そこで候補にあがったのが、日本のISDB-T、欧州のDVB、米国のATSCという規格だった。

 この三つのなかで、地元のテレビ局が支持を表明したのが、日本のISDB-Tであり、ブラジル通信省のコスタ大臣もISDB-Tが唯一、ブラジル政府が求める技術水準を満たしている規格だと表明していた。他方で、とりわけATSCに対しては技術的な欠陥がいくつもの機関によって指摘され、採用される可能性は低いと見られていた。

 それでは、日本のISDB-Tにあっさり決まったのか・・・というとそうでもない。ここから、日本、欧州、米国、果ては中国やインドまでも巻き込んだ売り込み合戦が始まったのだ。

 そもそも、上の記事でも指摘されているように、南米における地域大国であるブラジルがどの規格を採用するのかを周辺諸国は見守っており、ブラジルの採用した規格を採用するとの見方が強い。実際、アルゼンチンはブラジルと共同歩調と取る見込みだ。

 そんなわけで、ブラジルは地上デジタル放送市場の動向を決める決定的な市場だと見られており、それだけに売り込み競争も激化することになったわけだ。

 しかも、当初は日本の規格を採用する方向に見えたブラジル政府の内部でも揺れが見られるようになった。おそらく、欧州や米国からの様々な影響力が働いていたのだと思われる。さらに言えば、わざと態度を曖昧にすることで、日本や欧州、米国からより有利な条件を引き出そうとする戦略があったことは間違いないだろう。

 実際、米国、日本、欧州は、技術支援や財政支援、投資の増額など、自分たちの規格の様々な「メリット」を強調しながら交渉に臨んだ。しかも、そうしたブラジル政府の姿勢を見て、中国までもインドと組んでブラジル政府に独自規格の開発を持ちかける始末である。上で引用した記事にも、「日本政府は、日本の電機メーカーや半導体メーカーがブラジルに進出して薄型テレビや半導体を製造する工場を建設するよう働きかける。技術者の育成などでも協力する方針だ」とあるが、これは要するにそのような交渉が行われた結果だといえる。

 ともあれ、そうしたゴタゴタのため、当初は今年の2月に規格が決定されるはずが、3月に延期され、結局は6月末になってようやく決定・・・というのが今回の顛末であろう。

 こういう風に考えると、このエントリの冒頭で「ブラジルに日本勢が攻め込む」と書いたものの、結局のところ、一番ほくほくしているのはブラジル政府かもしれない。
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  by seutaro | 2006-06-30 12:16 | メディア

<メディア>GHQの「洗脳」

 戦後史の論点のなかでも、とりわけ重要な意味を持つものが、戦後のGHQによる情報操作である。
 戦後、GHQは国内のメディアや私信などの検閲を行っていたばかりでなく、「真相はかうだ」や「真相箱」といったラジオ番組により、日本人に罪悪感を受け付ける「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」を遂行していたのだという。
 このGHQによる情報操作については、とりわけ保守系の論客が熱心に論じている。彼らは、GHQの「洗脳」により、戦前の日本=悪という歴史観が一般化してしまったことを嘆く。たとえば、櫻井よしこ氏の『「眞相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫)によれば、GHQの情報操作により、日本人の精神的「核」が失われてしまったのだという。なんと「ゆとり教育」までGHQによる教育の延長線上にあるというから驚きである(笑)。
 しかし、このGHQによる情報操作の話を聞いて僕が思い出すのは、佐藤卓己氏による「ファシスト的公共性」(井上俊編(1996)『民族・国家・エスニシティ』岩波書店に所収)という論文である。佐藤氏は、マス・コミュニケーションの効果研究において、弾丸効果モデル(マス・メディアは人びとの思想を直接的にコントロールできるというモデル)が否定されてきたことを前提としたうえで、次のように述べている。

メディアの効果研究で宣伝の「弾丸効果」が否定されてきたにもかかわらず、「絶大な威力をもつナチ宣伝」という大衆操作を神話化した言説が無批判に流通してきた。その背景には、ファシズムに自発的に関与した国民一人一人の政治責任を軽減しようとする意図がなかっただろうか。

つまり、佐藤氏の論によれば、ナチ宣伝が強力かつ効果的だったとの想定のもと、ナチスを支持した人々が「騙されたのも当然だ」との論理が生まれ、そのことにより彼らの免罪が図られるという構図が存在していたというのである。
 これとほぼ同じことが、GHQによる情報操作でも言えるのではないだろうか。いくら「真相はかうだ」から「真相箱」へと番組が変更になり、プロパガンダのテクニックがより巧妙になったとしても、多くの人びとにそれを受け入れる土壌がない限り、プロパガンダが無批判に受け入れられる可能性は極めて低い。むしろ、戦後において人びとはかなりの程度まで自発的にGHQの歴史観を受け入れたのではないだろうか。「真相はかうだ」には、聴取者からの批判が多数寄せられたそうであるが、そうした投書が聴取者全体の意見をどれだけ反映していたのかを測定することは極めて困難である。
 無論、戦後の世論動向を厳密に論じることはきわめて困難ではあるが、結局のところ、ジョン・ダワーが言うように、戦後、人びとは「敗北を抱きしめた」のだと僕は思う。軍部が圧倒的影響力を持ち、隣組による相互監視が行われる戦中社会の息苦しさに、多くの人びとは表面上は賛意を示しつつも、内心はうんざりしていたのではないだろうか。GHQによる情報操作とは、そうした戦中社会を否定する風潮を後押ししただけというのが実情ではないだろうか。GHQの情報操作の効果を過度に強調することは、日本人自身による自発的な選択を無効化し、その責任をGHQ(およびそれに便乗した言論人)という「他者」に押し付けたいという欲望の発露に他ならない。
 まあ、こういう歴史観は、GHQによる「洗脳」で日本人の精神的「核」が失われたなどと考える人には、あんまり受け入れてはもらえないだろうけれども。
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  by seutaro | 2006-05-29 16:47 | メディア

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