カテゴリ:読書( 14 )

 

<読書>読むのが遅い…

 最近、知り合いの大学院生のブログを見ていて驚愕したことがあった。

 そこには、毎日英語なら50ページ、日本語なら100ページぐらい学術書を読んでいる、と書かれていた。

 ちなみに、僕がその後輩と同じぐらいのころには、英語の論文を1ページ読むのに1時間ぐらいかかっていた。いまでは多少は速くなったものの、それでも50ページなんて量には到底及ばない。

 というわけで、さいきんの僕は本を読むのが遅いことに悩んでいる。もちろん、ハリポタとかなら1日150~200ページぐらいのペースで読んだが、学術書となると僕が読むペースはものすごく遅くなる。そのため、これで果たして研究者などと言えるのか・・・とつい自問自答してしまうのである。

 もっとも、ものすごく正直なことを言えば、1日50ページ読んだとは言うが、じゃあ、それがどれだけきちんと理解できているのか、という疑問もある。研究者が血のにじむような思いで記した一文一文をちゃんと理解しようとしているのか。さらっと読んだだけで、理解したつもりになっているのではないか。膨大な参考文献一覧がついているわりには、それらをきわめて表層的に語っただけで、なんの印象も残らない論文がどれだけ多いことか・・・・

 などという弁解は頭には浮かぶのだが、それでも僕が読むのが遅いことには変わりない。それを克服するためには、より多くの時間を読書に費やすしかない。そんなわけで、ブログの更新はますますもって滞っていくのであった。
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  by seutaro | 2008-04-29 01:16 | 読書

<読書>『ハリー・ポッターと死の秘宝』

 ハリー・ポッターの最新刊である。とりあえず、4日ほどで読了。

 僕がハリポタと出会ったのは、2000年の夏で、ちゃんと読みはじめたのが2001年の夏。だから、この最終巻が出るのを6年待ったことになる。読んだだけではなく、朗読CDを何度も何度も繰り返し聞いたため、ストーリーはだいたい頭に入っている(4、5、6巻についてはちょっと怪しい部分もあるが)。

 そんなわけで、先週土曜の発売日の1週間ぐらいまえからそわそわしていた。今年の初めぐらいにアマゾンで注文しており、土曜日にはちゃんと届くはずであった。が、なぜかこない。

 そこで確認したところ、なんと引越し前の住所に送られていたのである。アマゾンの住所変更はしたつもりだったのだが、引越し前に注文した商品の届け先はそのままだったのだ。

 結局、土曜日を悲嘆にくれながら過ごし、日曜日になってようやく入手することができた。なにせ600ページ以上もある著作なので、睡眠時間を削りながら読む毎日である。体は疲れるが、至福の一時であった。

 内容については、ネタバレになるので書かないが、胸が苦しくなる展開が続き、なかなか読むのを止めることができない。また、とにかく最終巻だけあって、これまでのシリーズの総ざらいという感がある。1~6巻までの内容を詳しく覚えている人ほど、にやりとする箇所が多いのではないだろうか。逆に言うと、とりわけ6巻の内容を詳しく覚えていないと、理解に苦しむところが多いかもしれない。

 よって、日本語版の発売は来年になるようだが、それを読む前にこれまでのシリーズの復習をやっておいたほうが、より楽しめるだろう。

 それにしても、もう『ハリー・ポッター』の新刊がもう読めないのかと思うと、やはり寂しい。
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  by seutaro | 2007-07-27 00:24 | 読書

<読書>『犯罪不安社会』

 光市の件に関して、いろいろとブログを見て回っていた。そのなかで気になるのが、「日本の
治安は急速に悪化しているので、厳罰化が必要」という話がいろんなところに出てくるというこ
とだ。

 少年犯罪は以前よりも減っているという話はこのブログでも書いたが、この手の話を最も
コンパクトかつエキサイティングに書いている著作といえば、浜井浩一・芹沢一也(2006) 『犯罪不安社会』光文社新書、だろう。

 「治安が悪化している」という根拠のない思い込みに基づいて政策が施行されている結果、いかなる「現実」が生じているのかを克明に描いている。とりわけ、刑務所が「福祉の最後の砦」として機能している現状を論じた第4章は非常なインパクトがある。

 犯罪について論じるための基本文献とも言える一冊であり、ここで論じられているようなことが世間にもっと知られれば、世の中の反応ももう少し変わってくるのではないかとも思うのだが。

※あと、光市の件について関連するブログを追加。

good2ndの日記
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070703/1183474850
http://d.hatena.ne.jp/good2nd/20070708/1183872277
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  by seutaro | 2007-07-19 02:26 | 読書

<読書>谷村智康『CM化するニッポン』 2

 さて、前回は『CM化するニッポン』の視点と、マルクス主義をバックグラウンドとするメディアの政治経済学の視点が似通っていることを指摘して終わった。
 メディアの政治経済学についてもう少し述べておくと、要するにこれは広告主やメディアの所有者がメディアの内容や運営にどのような影響を及ぼすのかを分析の対象とする。広告によって成り立っているメディアというのは、視聴者によるCMへの接触を広告主に売りつけることによって利益を得ている。つまり、「おたくの商品のCMをこれだけたくさんの人がみてますよ」と示すことでビジネスが成り立っているのであり、新聞の発行部数や番組の視聴率が重視されるのはそのためだ*1。

*1 ただし、欧米では所得の高い層が消費するメディアが存在し(高級紙など)、そうしたメディアは発行部数や視聴率がそれほど良くなくても、スポンサーを集めることができるのだという。『CM化するニッポン』によれば、日本でそれに該当するのは『サンデー・プロジェクト』なのだそうな。

 そして、このような形での利益追求は、様々な点でメディアの姿をゆがめてしまっている。広告を出せるような大資本に迎合するがゆえに、大資本に批判的な番組やニュースを流さなくなる一方、より多くの読者や視聴者を獲得するために大衆迎合的で画一的な番組しか制作されなくなっていく。
 しかも、メディア自体が巨大な産業となっているがゆえに、同じ系列に所属する企業に批判的な情報は流れにくくなる。たとえば、ディズニーはアメリカの三大ネットワークの一つであるABCを所有しているが、このABCがディズニーランドを批判する番組を流すとは考えにくい、といったことが挙げられる。
 以上がメディアの政治経済学の基本的な発想であるが、『CM化するニッポン』にも類似した指摘がいたるところに見られる。たとえば、ライバル企業のCMに出ているタレント(前回のエントリで挙げた妻夫木聡と加藤あい)を一緒に使えないといった「CMしばり」の存在や、広告を番組のなかに埋め込む「プロダクト・プレースメント」により、番組制作がどんどん窮屈になっていることが指摘されている。また、シリアスな社会派番組だと番組の印象が強すぎるためにCMに関心が向きにくく、場合によって購買意欲がそがれる可能性すらあるがゆえに、お手軽なバラエティばかりが放送されるようになってきた可能性も示唆されている。
 ただし、メディアの政治経済学には様々な批判が寄せられていることも述べておく必要があるだろう。それらの批判の主眼は、メディアの内容や運営を単に経済的な側面だけで説明することはできないということにある。つまり、現場の判断、組織内の慣習、イデオロギー等、コンテンツの制作にあたっては様々な社会的要因が働くのであり、メディアのすべてを経済的側面に還元することはできない、というわけだ。
 したがって、『CM化するニッポン』にしても、メディアにおける広告の役割をやや強調しすぎている感があることも否めない。とはいえ、この本の著者によれば、日本の経済的な停滞が、放送局が消費者金融のような良くない筋のCMを大量に流さざるをえない状況を生み出し、プロダクト・プレースメントのような怪しげな手法への依存を強めてきたのだという。つまり、メディアの有り様を決定する様々な諸力のうち、経済的な面の影響力が非常に大きくなってきたというのである。
 マルクス主義の崩壊が決定的となった1990年代以降において、マルクス主義をバックグラウンドとするメディアの政治経済学の妥当性が増してきたのだとすれば、それはそれで皮肉な話ではある。
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  by seutaro | 2006-03-01 02:11 | 読書

<読書>谷村智康『CM化するニッポン』 1

b0038577_151891.gif レーサーが主人公の木村拓哉主演ドラマ『エンジン』で、レースのシーンが殆どなかったのはなぜか。妻夫木聡と加藤あいがドラマで共演することは当分ありそうもないのはなぜか。最近、黒木瞳を連続ドラマで使いにくいのはなぜか。新聞の一面に怪しげな本の広告が並ぶのはなぜか。
 本書は、メディアを広告という観点から分析したものであり、これらの問いに対して明確な回答を与えてくれる。業界裏話的な読み物として非常に面白く、CMがいかに現在の番組制作に影響を及ぼしているのかを克明に描き出している。さらに筆者は、番組内での「見えない広告」(プロダクト・プレースメント)が様々な形で行われるようになっており、視聴者はそれと認識せずに広告に触れるようになっていると論じる。
 筆者によれば、このように広告が番組に大きな影響を及ぼすようになってきたがゆえに、テレビ番組がどんどんつまらなくなってきているのだという。なお、ネット上では、類似した観点からテレビ番組について論じたものに、このサイトがある。
 このようにマスコミを広告という観点から読み解くという作業は、『CM化するニッポン』の作者はおそらく認識していないだろうが、メディアの政治経済学(political economy)に通底するものがある。そして、このメディアの政治経済学は、基本的にはマルクス主義的なバックグラウンドを有している。
 って、ここまで書いたら、眠くてしょうがない。続きはまた次回。
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  by seutaro | 2006-02-28 02:08 | 読書

<読書>芹沢一也『ホラーハウス社会』 2

 さて、中断してしまった、『ホラーハウス社会』についての続きである。
 前のエントリで述べたように、日本における犯罪、特に少年犯罪に対する対応は、極めて矯正的な色彩が強かった。少年犯罪を引き起こした少年の心理を理解し、その問題点を除去することに非常な力点が置かれてきたのである。
 ところが、この教育的犯罪観からすっぽりと抜け落ちているものがある。それが、犯罪の「被害者」の存在である。とりわけ少年事件においては、少年の心理が問題とされたがゆえに、犯罪の事実関係の解明はそれほど熱心に行われておらず、事件に関する情報はプライバシー上の観点から外部には伝えられなかった。
 しかし、山形マット死事件を契機に、被害者たちは声を上げ始める。自分たちの子供がなぜ死なねばならなかったのかを解明し、それを開示するよう求める声が次第に強まっていった。そして、メディアはそうした被害者の声を積極的に取り上げるようになり、神戸の連続児童殺傷事件などのショッキングな事件の影響もあって、やがては少年法の改正へと到ることになったのである。
 このような流れのなかで、加害者を理解し、矯正しようとするそれまでの方針への批判が強まり、加害者への厳罰を求める流れが生じてくることになる。この際、事件をおかした少年や精神障害者をあくまで法的主体として扱い、彼ら、彼女らが起こした事件をきちんと解明し、法的主体としての責任を求めていくという方向性に向かえば、現在とは異なる方向性が生まれることになったと芹沢は論じる。ところが、実際に生じたのは、加害者を法的主体として捉えるのではなく、不気味な「怪物」として捉え、社会から隔離・排除しようとする動きであった。
 そのような潮流を生み出す上で重要な役割を果たしたのが、犯罪精神医学であり、これが加害者の精神や脳の異常を訴えることで、彼ら、彼女らの「不気味さ」をより強く社会に印象づけることになったのである。
 統計的に見れば犯罪が増えていないにもかかわらず、日本社会はそうした不気味な「怪物」の影に怯えるようになった。しかし、そうした「怪物」の存在に対し、人びとはただ怯えているのではなく、ある意味においてそれを楽しむようになっていると芹沢は述べる。ボランティアや地域活動など、街を監視し、犯罪者を寄せ付けない街づくりが様々な形で行われるようになっている。それらの活動は単に義務として行われているのではなく、しばしばレクリエーション的な色彩を帯びることになる。いわば、「怪物」の存在を一種の「娯楽」として楽しむ流れが生まれつつあるというのである。芹沢は、そうした「怪物」の存在を「娯楽」として消費する社会を「ホラーハウス社会」と名づけ、それが治安の維持を名目として抑圧的な社会体制を生み出す危険性を主張している。
 この最後の点において、芹沢の見解は、前のエントリで挙げた河合『安全神話崩壊のパラドックス』と大きな相違を見せることになる。河合は急増しているわけではないものの90年代後半からの犯罪の増加を危惧しており、犯罪が多発する時間帯である「夜」と安全な「昼」との境界を再びはっきり引きなおすこととともに、地域共同体の建て直しや、ガーディアン・エンジェルスのようなNPOの役割への期待を表明している。すなわち、芹沢がより個人主義的な観点から社会の「ホラーハウス化」を危惧しているのに対し、河合は共同体主義の観点から治安問題への取り組みを訴えていると言えるだろう。
 地域ぐるみでの防犯対策を監視社会への第一歩として捉えるべきか、それとも地域共同体の再建として捉えるべきか。僕としては、芹沢の立場に大きな共感を覚えるものの、河合の主張の説得力も認めないわけにはいかず・・・ということで、今回のエントリはとりあえず論点を整理するだけに留めておきたい。
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  by seutaro | 2006-02-27 01:43 | 読書

<読書>芹沢一也『ホラーハウス社会』 1

b0038577_215022.jpg 新聞に毎日のように登場する犯罪報道。それらの報道には、しばしば「急増する凶悪犯罪」云々という表現が登場する。また、「体感治安」なる概念により、人びとの治安に対する不安感がどんどん増大していることも論じられる。
 しかし、統計的に見ると犯罪は急増していない。また、槍玉に挙げられることの多い少年犯罪については、以前のエントリで少年犯罪の増加を疑問視する声が多いことを紹介した。このエントリの後、さらにいくつかの文献を読んでみたが、研究者の大半は「少年犯罪を含む犯罪全般は急増していない」という点においてコンセンサスに達しているようだ。その詳細な分析に関しては、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』が詳しい。河合によれば、ここ数年、犯罪はやや増加傾向にあるものの、決して「凶悪犯罪の急増」と言えるような状態にはない。
 にもかかわらず、犯罪者に対する厳罰を求める声は強まる一方である。それはなぜか。前掲の『安全神話~』では、かつては存在した犯罪多発地域(=繁華街)と一般居住地域との境界が曖昧になり、可能性としては決して高くないものの後者においても犯罪に遭遇する可能性が生じるようになったがゆえに、「体感治安」が悪化し、犯罪者に対する警戒感が増幅してきたのだというような説明が行われている。
 それに対し、芹沢一也の『ホラーハウス化社会』は、教育や治療による犯罪者の矯正というこれまでの日本における犯罪者への対処方法が大きく変化しつつあることを論じている。芹沢によれば、これまでの日本社会においては、犯罪者が一種の病人として捉えられ、それを矯正=治療することに並々ならぬ熱意が注がれてきた。芹沢は言う。「(少年:引用者)犯罪とはあくまで、保護すべき対象を発見するための『きっかけ』にすぎないのだ。」(p.30)
 ただし、こうした犯罪観は決して犯罪者にただ甘いわけではない。そのことを最も特徴的に示しているのが、少年法に見られる「虞犯少年」という発想である。虞犯少年とは、家出やいかがわしい場所への出入り等、法には触れていないけれども、将来的に法に触れる可能性があるという理由によって拘束される少年のことである。つまり、これは一種の「予防拘束」なのであり、法に触れる以前に少年を矯正しようとする姿勢の表れだと言いうる。
 ところが、芹沢によれば、このような犯罪観は近年において大きく変化しつつあるという。と、ここまで書いたところで、タイムアップ。続きはまた明日。
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  by seutaro | 2006-02-23 02:00 | 読書

<読書>『限界の思考』その2

 さて、前回は『限界の思考』を乱暴に要約しただけで終わってしまったので、今回は簡単にコメントをば。
 自由に参加/離脱が可能なコミットメントの対象として、「亜細亜主義」だの「天皇主義」だのを持ち出すのはあまり説得的ではないというのは、前回の最後で述べたとおり。一部のおじさん連中が大好きな「武士道」と同じで、ネタと承知しつつコミットメントするにしても、なんというか、その、あまりにアナクロすぎるような気がするのだ。まあ、それが好きなら全然構わないとは思うのだが。
 それはさておき、「亜細亜主義」云々を除けば、本書で言われていることについて、僕は結構同意してしまうのだ。特に、強迫的とも言える相対主義の蔓延については、まったくもって同意する。つまり、なんらかの主義主張について、つねにその背後にある動機に言及し、それを冷笑することで高みに立とうとする立場だと言えるだろうか。
 たとえば、「現代社会について○○の言っていることは正しい」という発言があったとする。それに対して、「出たよ、○○信者が」と反応して、何かにコミットメントしようとする態度をくさし、その上で「○○の言っていることは、○○の既得権益を補強するだけの主張なんだよ」というように、社会全体に関する普遍的な主張を部分的な利益に還元してしまう、といった態度が挙げられよう。このような態度が広く共有されるならば、あらゆる主義主張が部分的利益の反映ということにされてしまい、結局のところ、なんらかの主義主張を行ったり、同意したりすること自体が愚かなことであり、それをただくさしている連中だけが賢明ということになる。
 しかし、このような相対化のなかで、唯一、相対化されないものがある。それは、相対化を行っている自分自身の存在である。つまり、特定の主義主張を相対化せずにはいられない自分を一歩離れて見ることができないのだ。宮台氏が「2ちゃんねる」でのコミュニケーションが、見た目とは異なり、非常に重苦しいものだというとき、それは特定の立場を有する人びとを「信者」と呼ばすにはいられない、強迫的なシニシズムの蔓延を指摘しているのだと思われる。
 このようなテーマをめぐる、宮台氏と北田氏とのやりとりは非常に面白いし、読んでいて勉強になる。しかし、本書の、というより宮台氏流の議論には大きな欠陥があるように思う。それは、「そもそも、この本はいったい誰に向けて書かれているのか?」という問題とかかわってくる。
本書の最初のほうで、この本は一種の社会学入門としての意図もあるというようなことが述べられている。しかし、正直、社会学に何の素養もない人がこの本を読んで、十分に理解できるかといえば、それはかなり疑問ではないだろうか。少なくとも僕であれば、社会学を初めて学びたいという人であれば、もっと体系だった社会学の入門書を薦めるだろう。
 だとすれば、本書の想定されうる読者は、それなりに社会学や思想の蓄積をもった層ということになろう。しかし、そのような場合、宮台氏流の議論の進め方にはかなりの問題があるように思う。その問題とは、一言で言えば、宮台氏はあまりに「エラそう」なのである。氏は、「馬鹿左翼」をくさし、「エセ右翼」を嘲笑し、果ては「日本のアカデミズム」を見放しているのだそうである(そのなかでの唯一の希望が、対談相手である北田氏なのだそうな)。
 要するに、宮台氏の観点からすれば、氏の言っていることに(かなりの程度まで)同調してくれそうな人たちのみが「知的エリート」たりえ、それ以外の連中は救いようもなく頭の悪い連中だということになる。したがって、読者の側からすれば、自分が宮台氏が認めてくれそうな知性レベルを有しているかどうかを常にテストされているような気持ちになる。
 このような一種の「知性テスト」的な書籍に接したとき、素直に「ああ、俺は宮台真司の言っていることに同調できる知的エリートなんだ」などというお気楽な感想を抱ける者がいるとすれば、それこそまさしく「宮台信者」でしかないだろう。
 そうではなく、様々な学問の潮流に関して一定の知識を有し、それらに対して敬意を払っている者であれば、宮台氏の唯我独尊的なコミュニケーション・スタイルは鼻につくどころの話ではない。むしろ、逆説的に、自分に対する自信のなさから発せされる防衛機制ではないかと思われるほどだ。そのため、せっかく説得的な議論を展開していたとしても、それが額面通りに受け入れられる可能性はかなり低くなってしまうのではないだろうか。その意味では、対談相手である北田氏のほうが、はるかに「大人」である。
 まとめれば、宮台氏が現在のコミュニケーション・スタイルを貫いているかぎり、氏についてくるのは批判的な思考のできない(したがって、自分自身を相対化することもできない)「信者」でしかなく、氏の啓蒙プロジェクトは失敗に終わることが運命付けられているのではないかと思う今日このごろである。
 なお、このような批判については、「内容」ではなく「語り口」を問題にしただけの枝葉末節なものにすぎないとの捉え方も可能だろう。しかし、コミュニケーションの役割を重視するものであれば、「語り口」の問題が決して無視しえるほど軽いものではないことを認識できるはずである。
 な~んちゃってw
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  by seutaro | 2006-01-08 17:48 | 読書

<読書>宮台真司・北田暁大『限界の思考』

あっという間に年も明けて、気付けばもう7日。時が経つのは早いものだ。
さて、この正月は、重松清『流星ワゴン』や東野圭吾『時生』なんかを読んでいたわけだが、それ以外には宮台真司氏と北田暁大氏による対談が本になった『限界の思考』(双風舎)を読了した。
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基本的には、リベラル派から「亜細亜主義」や「天皇主義」に「転向」したとされる宮台氏に、北田氏が疑問をぶつけるという形をとっている。宮台氏は、かつて人生に過剰な意味を求めるオウム的生き方を批判し、意味がなくとも「まったり」と生きることを称揚し、その流れで意味を求めない援交女子高生を高く評価していた。
ところが、その後、人生に意味を求めなかったはずの援交女子高生たちは、そろいもそろってメンヘルとなり、宮台氏は現代社会への処方箋の再考を迫られることになる。そこで、人生に意味づけを行うために「あえて」コミットメントする対象として宮台氏が持ち出してきたのが「亜細亜主義」や「天皇主義」だということになる。
ただし、ここで注意すべきは、それが「あえて」するコミットメントなのであり、それが強迫的なものになってはならない、という点である。すなわち、「亜細亜主義」なしには、「天皇主義」なしには生きられないというような状態になってしまうのであれば、それは強迫的なコミットメントであり、オウム信者とさして変わらない。そうではなく、あくまでコミットする対象からいつでも離脱できるようなスキルが必要となる。そのためには、現在の自分自身のあり方をも相対化しうるようなパースペクティブこそが不可欠なのであり、宮台氏はそれを「戦略的アイロニズム」と呼ぶのである。
以上、強引にまとめてみたが、とりあえず宮台氏がコミュニケーションの中身ではなく、コミュニケーションの形式を問題にしているということはなんとなくわかった。しかし、コミットメントの対象がなぜ「亜細亜主義」であり、「天皇主義」なのかという疑問は最後まですっきりと理解できなかったように思う。
って、ここまで書いたら眠くてしょうがなくなってきたので、残りは次回。
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  by seutaro | 2006-01-07 03:45 | 読書

<読書>Harry Potter and the Half-Blood Prince

5年ほど前、僕は1年2ヶ月ほどイギリスに留学していた。
しかし、イギリス到着時には僕の英語力は惨憺たるものだった。英語の論文だけはよく読んでいたので、読解力はそこそこだったものの(そのおかげでなんとか大学院の入学資格はもらえた)、会話力はそれはもう酷いものだった。入国審査でまずひっかかり、その後の日常生活でもトラブルの連続だった。
とはいえ、イギリスでの滞在が長くなるにつれ、僕の会話力もちょっとずつだが改善されていった。しかし、僕の「話す力」はそれなりに伸びていったものの、「聴く力」はなかなか上昇しなかった。その背景には、おそらく、僕の元来の性格のようなものがあったのではないかと思う。
基本的に、僕は非常に「話し好き」であり、人前で話すことが苦にならない性質である。それは英語を話すときも同様で、文法的に怪しかろうと、話したい衝動に駆られているときにはときかく話してみる。だから、冷静に考えると無茶苦茶な英語であっても、とりあえず言いたいことは伝えることができる。
それに対し、僕は人の話をじっと聞くのがあまり得意ではない。それが英語の「聴く力」の貧弱さをもたらしているのだろう。とはいえ、苦手だからといって放置しておくわけにもいかない。
というわけで、僕にとって英語のリスニング力をいかに鍛えるのかはずっと重要な問題であり続けてきた。その解決策として僕が採用したのが、面白い英語のテープを聞くことである。
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英語のテープといえば、無味乾燥な会話テープであることが多いが、やはり長く聴き続けるためには面白いほうが良い。そこで僕が4年間ほどずっと聴きつづけているのがハリーポッター・シリーズの朗読である。先日、その最新刊であるHarry Potter and the Half-Blood Priceの朗読CDが発売された。朗読者は、これまでと同じく、ステファン・フライである。7月に発売された本のほうも僕は読んでいるのだが、朗読で聴いてもやはり面白い。
もちろん、この朗読は非常に聞きやすくできているため、これが理解できたとしてもイギリス人の日常会話がすぐに理解できるようになるわけではない。けれども、これをきっかけとして、いろいろな朗読を聞くようになったことから、僕のリスニング能力はイギリス留学時よりも確実に向上している。海外出張に行って、英語でインタビューをするというような仕事を僕が曲がりなりにもできているのは、ハリーポッター・シリーズのおかげである。
というわけで、リスニング能力が伸びずに困っていて、なおかつハリポタが好きな人は、一度、このシリーズに挑戦してみてはいかがだろうか。
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  by seutaro | 2005-09-06 23:05 | 読書

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