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<政治・社会>官僚組織の「動機の語彙」

 なんとなくどこかでチクチクと批判されているような気もするので、前回の補足エントリをば。

 我々は、自分たちの目から見て非常におかしな行動をしている人や集団を見るとき、往々にして問いかける。「彼/彼女はいったい、なぜこんなことをしているのか?」あるいは「なぜ、このようにしないのか?」と。

 とりわけ、その行動が重大な帰結をもたらすばあい、そうした問いかけはより一層切実なものとなる。典型的には、人を殺してしまったケースだ。当然、多くの人が「なぜ殺したのか?」という問いを発するだろう。

 そうしたとき、あたかもカミュの『異邦人』のように、その回答が「太陽がまぶしかったから」というものだったとしよう。我々は納得することができず、その人物をさらに問い詰める。我々が納得できる動機、つまり「奴が憎かったから」や「金を奪おうとしたら抵抗したから」といった動機を聞くために。

 そのようなばあい、実際に彼がどう考えて人を殺してしまったのかは、実は大して重要な問題ではない。むしろ、我々が納得できることが重要なのだ。したがって、語られる動機とは、実は人びとの内面に固着したものというよりも、他者との相互作用のなかで生み出されるものと考えたほうが妥当なのではないか…

 米国のライト・ミルズという社会学者は「動機の語彙」をそのようなものとしたうえで、人びとを説得しうる動機が時代の変化に応じて変わってくると論じた。すなわち、かつてであれば宗教的な動機(「神のために」)は多くの人びとを納得させるに足る動機だったのだが、世俗化が進んだ現在ではそうした動機によって人びとは納得しなくなり、より世俗的な動機がより説得的になってきたのだという。

 翻って現在の日本。政治家や官僚に対する不信は極めて大きく、マス・メディアが流布する彼らの動機の語彙は、極めてシニカルな色彩を帯びている。「省益のため」、「天下り先確保のため」、「選挙のため」などなど。それらの動機の語彙はたしかに説得力があり、多くの人びとを納得させることができる。

 しかしながら、そうした動機の語彙で全てが説明できるのかと言われると、やはり首をひねってしまう。いままさに大学を卒業して官僚にならんとする若者たちはみな、いつか次官になって権力を握るか、それとも天下りによって厚遇を得ることを夢見ながら官庁の扉をくぐるのだろうか?そこに彼らなりの使命感はまったく存在しないのだろうか?

 もちろん、組織には自らの利益を追求する傾向が強くあるので、組織での生活が長くなればそうした論理に絡め取られ、気づけばそれが国益に反することを知りながらも組織の利益や保身に追従する者も出てくるかもしれない。

 しかし、もし組織全体が欲望や保身を主目的として動いていると知ったならば、少なからぬ人材がそこから流出し、外部から非難を声を上げることなるだろう。どれだけ多くの人材が流出しているのかは僕には確認できないが、少くとも日銀OBによる日銀への批判はあまり行われていないのが現状のようだ。

 OBから日銀への批判が上がらない理由としては、以下の二つが挙げられる。一つは日銀によってOBに対する何らかの言論統制が行われている場合。そしてもう一つが、日銀を離れたとはいえOBの多くは日銀の政策を妥当あるいはやむなしと考えている場合だ。

 田中さんの『デフレ不況』は前者の見解を採用している。ただ、僕個人としては、そういう言論統制の効果よりもむしろ、現役の人たちと同様にOBの人たちもまた日銀の正しさを信じているがゆえに批判をあまりしないというほうに説得力を感じる。

 言論統制のための組織や資源をとりたててもたない組織が、長期間にわたって広範囲の言論をコントロールするというのにはやはり無理があるように思う。日銀のなかに秘密組織があって、日銀を批判するOBを誘拐・洗脳しているというのであれば理解できなくもないが、そこまでいくとさすがに本当の陰謀論だろう。

 ともあれ、以上の点を勘案するなら、日銀の行動原理を説明するためには、組織としての欲望や保身のみならず、やはり「それを正しいと信じている」という動機をも考慮に入れる必要があるように思う。「日銀陰謀論はやめましょう」というときのbewaadさんの発想もこのあたりにあるのではあるまいか。

 bewaadさんがお薦めしている行政学の入門書に、今村都南雄『官庁セクショナリズム』(東京大学出版会)という著作がある。この著作には、セクショナリズム発生の原因に関して、以下のような記述がある。

身近な問題の一例として、都市計画道路の整備事業を取り上げてみよう。土木建設部門からすれば、その整備事業の推進は任務であり使命である。「どうせつくるなら、いい道路をつくりたい」と考えるであろう。財政部門からすると、それ以外にさまざま事業があるのだから、道路整備事業だけを特別扱いすることはできない。「限られた予算の中で、よりよい道路を作ってもらいたい」と言わざるをえない。生活環境の保全を担当する保険衛生部門からすると、通過車両の増大にともなう環境被害のことを考え、「地域住民の健康を第一優先に」と注文をつけるだろう。仮にその道路整備事業が歴史的な文化遺産の保存にかかわるようなことにでもなれば、その担当部門は慎重な配慮を要請し、たとえ事業の遂行に重大な影響があっても、「文化財の保全あっての豊かさであり生活利便ではないか」と迫るかもしれない。どの部門の言い分にも理があるということである。
(出典)今村都南雄(2006)『官庁セクショナリズム』東京大学出版会、pp.224-225。

 かつての通信事業をめぐる郵政省と通産省の対立のように、セクショナリズムは官庁間での利権の競合として描かれることが多い。ところが、上の著作でセクショナリズムは理念と理念との対立として描き出されている。官僚のこのような描写に共感するからこそ、欲望や保身といった動機の語彙を日銀に適用することにたいしてbewaadさんは抵抗を覚えるのではないだろうか。というか、「公共選択論的分析」というのは一歩間違えると、下衆の勘ぐりでしかないような。

 ただし、これだけは強調しておかねばならないのは、たとえ仮に日銀の中の人が真摯であったとしても、これだけの経済的停滞が続いていることの責任は絶対に負わねばならないということだ。マックス・ヴェーバーの言葉を借りるならば、心情倫理ではなく責任倫理ということになるだろうが、その心情がいくら純粋なものであったとしても、人びとの生活に大きな影響を与える職責に就いている以上、その結果に対して責任を負わねばならない。

 まあ、こんなことは改めて言うまでもないことだし、そもそも議論の前提であるはずなのだが、それにもかかわらず、「日銀の中の人は実は結構まじめなのではないか」と言っただけで「日銀の代弁をしている」という解釈が出てくるのには、正直閉口する。あまりこういう言い方はしたくないのだが、言われたからには言わねばなるまい。

 教養が足りないんじゃない?

(追記)
 実はもう一点、還元論について論じておきたいのだが、明日は1限なのでもうやめときます。
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  by seutaro | 2010-05-25 00:39 | 政治・社会

<政治・社会>デフレ不況

b0038577_23584753.jpg 僕がよく読んでいる経済系ブログに田中秀臣さんという方とbewaadさんという方によって書かれているものがある。

 ところが最近、田中さんが出版した『デフレ不況』(朝日新聞出版)という著作をめぐり、お二人のあいだで論争が起きている。両方を読んできた僕としては寂しい限りの話なので、お二人の論争を僕なりに整理してみたい。無論、経済学についてはまるで無知なので、「耳から脳みそが出ている」と言われても仕方がないと思っている。

 まず、「日銀はなぜリフレ政策を採用しないのか」という問いに対して、とりあえず以下の3つの説を提起してみたい。

(1)陰謀説
「日銀の利益にとってデフレが継続することは都合がよい」という利己的な目的に基づいてリフレ政策を採用しない。つまり、その理由は「欲望」。
(2)無能説
「日本の景気が悪いのはわかるが、どうしていいのかわからない」ので、とりあえずこれまでの政策とできるだけ矛盾しないような方針を採用し、過去の責任を問われないようにしている。外部からの批判にも弱いので、「デフレの定義もいろいろ」と言ったり、「デフレです」と言ったりする。つまり、その理由は「保身」。
(3)信念説
「デフレよりもバブルのほうが脅威である」、「日本にとってリフレ政策は有害である」という信念に基づき、日銀法の規定は忘れてインフレ抑止にのみ中央銀行の使命を見いだしている。つまり、その理由は「考え方の相違」。
 
 この分類を頭に置いて田中さんの著作を眺めると、とりわけ(1)と(2)の分類に当てはまりそうな記述が多いように思う。

 たとえば、(1)については、「日銀は主要な天下り先である地方銀行や短期会社を保護するため、ゼロ金利政策などを避ける傾向があるのではないか」という堀内昭義・清水克俊の両氏の見解や、「伝統的日銀マンにとっては、金融緩和は自分たちの権力と存在意義の衰えであり、金融引き締めは権力の誇示、存在意義の発揚になる」という中原伸之氏の見解が紹介されている(pp.160-161)。

 (2)については、日銀の企画局における「官僚の無謬性」に関する記述が当てはまるのではないだろうか。この日銀の無謬性に対する固執のため、自らの過去の過ちを認めることもできず、前例を否定するような批判や政策的改革も認められないと述べられている(p.60)。

 ただ、田中さんの主たる強調点は、おそらく(1)というよりも(2)に近いんじゃないかと思う。実際、ご自身のブログで田中さんは日銀が「特定のミッションをとっているようにはまったくみえない」と述べている。

 それに対して、bewaadさんが危惧しているのが、(3)の可能性ではないだろうか。つまり、彼らは利己的に動いているわけでも、保身に走っているわけでもなく、ある意味で信念をもって現在の反リフレ的な政策を採用しているのではあるまいか、ということだ。bewaadさんの「日銀にはマイルドインフレ実現よりバブル防止を優先すべしというミッションが課せられている」という言葉を僕はそのように解釈した。無論、日銀とて世論の動向にも気を使っているので白川総裁の発言が妙にブレたり、小手先の政策変更をやったりもするが、基本のところ(実質的なデフレターゲット)は頑として変えないということになるだろうか。

 もちろん、(1)(2)(3)はあくまで理念的な分類なので、実際にはこれらの動機が混ざり合っているのだろうし、これ以外の要因も働いているかもしれない。ただし、上述の分類のうち、リフレ政策を採用しない主要因がどれなのかによって日銀へのアプローチの仕方も変わってくる。

 (1)が主要因のばあい、その陰謀の根を断つことが必要だ。つまり、彼らの陰謀を白日のもとに晒し、日銀からパージするなりそれこそ貨幣洗浄のお仕事にまわってもらい、本当に日本の金融政策を危惧している人たちに日銀を委ねるべき、ということになるだろう。

 (2)のばあい、そこまで極端ではないにせよ、日銀のガバナンスを改善し、政策委員の人選をもっと公正なものとするとともに、日銀理論に固執する企画局ではなく調査統計局に主導権を委ねるというような形になるかもしれない。まあ、このあたりはここでの話にとってそれほど重要ではない。

 問題なのは、(3)が主要因だった場合だ。つまり、彼らが現在の日銀の方針は「妥当」または「それに代わる選択肢がない」と本気で信じている場合である。

 この場合、日銀の中の人のイメージは上述の(1)や(2)とは全く違ってくる。(1)や(2)のばあい、なかには優秀な人物もいるかもしれないが、基本的には欲望や保身に身を委ねており、「国益」のことなど全く眼中にない姑息な連中ということになる。ところが、(3)のばあい、彼らは「国益」のことを真剣に考えており、信念をもって日銀理論の妥当性を信奉しているということになる。まさに平成の関東軍といったところだろうか。

 もし(3)が主要因のばあい、(1)や(2)の場合よりも、日銀の金融政策への介入に対する彼らの抵抗はより激烈なものとなるだろう。なにせ彼らには信念があるからだ。欲望や保身が原動力ならガバナンスの変更で対処可能なのかもしれないが、人の考え方を改めるのはとても難しい。

 実際、半径5メートルの話で恐縮だが、保身とかそういうのではなく、日銀OBの大学教員は本当に日銀理論を信じているんだなあと感じたことがある。その人物はリフレ的な主張に関して、金融がわかっていない連中の戯言といった感じで切り捨てていた。bewaadさんが「自らの分析は誤りで、田中先生と同じ意見であればと切に思っている」というのは、そういうことなのではないだろうか。

 ただ、(3)が主要因のばあい、日銀の中の人は基本的に真摯なので、日本の経済学会の大多数がリフレ政策を支持するのであれば、それに従うのではないかという期待もある。すなわち、(3)の想定はある意味で性善説的な発想に乗っかっており、説得の余地もまたあるということになる。bewaadさんが日本の経済学学界でのコンセンサスを気にするのも、たぶんそのあたりに理由があるのだろう。

 というわけで、田中さんとbewaadさんの対立点を僕なりの観点から整理してみた。想像するに、世間的には利権と天下りのことしか頭にないと見なされているにもかかわらず、(それが正しい方向を向いているかどうかは別として)実際には極めて真摯に仕事をしている官僚たちのあいだで働いているbewaadさんには、(1)や(2)での説明には素直に首肯できない心情が働いているのではないだろうか。

 なお、田中さん自身もブログで言っているように『デフレ不況』は日銀のガバナンスだけを論じた本ではなく、リフレ派の論点を幅広くカバーしたものだし、記述も平易で読みやすい。なので、この種のテーマに関心がある人は読んでみてはどうだろうか。

(追記)
 ちなみに、僕自身も『デフレ不況』は面白いと思いながら、ちょっと複雑な感覚を覚えるのも確かだ。

 ブログ論壇を見ていてもそうなのだが、社会問題を論じるときに、非常に単純化された説明を目にすることがある。たとえば、「子どもたちの学力が低下しているのは日教組が悪いからだ」、「経済格差が広がっているのは小泉改革が悪いのだ」、「日本の景気回復の足を引っ張っているのは労組だ」、「政府財政が悪化しているのは官僚が悪い」、「若者がフリーターや派遣になるのは若者自身に原因がある」といった類の話だ。

 こういう話を聞いて「いやいや、ちょっと待ちなよ」と思うのは、僕だけではないだろう。つまり、それらの問題の根底にはもっと幅広い社会的、経済的あるいは言説的な要因があって、単純に単一の要因に起因させることはできない、と考えるわけだ。リフレ派と呼ばれる人たちにもそう考える人はいるんじゃないだろうか。「世の中、もっと複雑だぜ」、と。

 ところが、その経済的要因について考えようとするときだけ、「日銀が悪い!」という論法に依拠するというのは、どうにも居心地が悪いのだ。もちろん、責任者というのは責任をとるためにいるのであって、物価に責任を持つ日銀が責めを負うのは当然だ。ただ、上で述べた「幅広い社会・経済的な要因」を論じることに慣れた身からすれば、日銀がリフレ政策に否定的なのは、実は組織内的な要因だけではなくて、もっと幅広い要因があるのではないか、という疑念がどうしても浮かんでくる。

 つまり、日銀の組織内部の話のみならず、その日銀の価値観を支える支配的な言説の構造がそこにあるのではないか…、だとすれば対決すべきはそうした言説の構造ではあるまいか…というような話になってしまうのだ。

 もちろん、そんなのは責任回避の論法でしかないというのは確かなのだが、ヘタレ人文系としてはそういうことも考えてしまうのだ。ひょっとして、リフレ政策に対して反発が生じる要因のひとつには、「世の中、もっと複雑だぜ」という発想があるのかもしれない。

 いやいや、ヘタレ人文系の戯言である。
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  by seutaro | 2010-05-23 00:08 | 政治・社会

<政治・社会>教育の矛盾

先日、職場からの帰りに同僚の先生と一緒になった。ゼミの運営の話などをつらつらと話していたのだが、そのうちに現在の社会状況における教育の意味というような話になった。

その先生いわく、受験勉強で頑張り、大学を卒業し、正社員として企業に入りこんでも、右肩下がりのこの日本社会ではそれが本当に幸せなことなのかわからないのだという。つまり、正社員であっても、長時間労働や低賃金に苛まれるこの時代に、学生(あるいは自分の子ども)を競争へと駆り立てるようなことをしていても良いのかという疑問だ。

加えて、分野にもよるだろうが、我々教員はしばしば教育の場で企業のあり方について批判を行う(僕もそうだ)。それが就職活動の時期になると、手のひらを返したように、その企業の尖兵となることを推奨するというのは自己矛盾ではないか、というのだ。

これと似たような話が、別の機会にもあった。それは学科のミーティングにおいて、将来の人材育成について話合っていたときのことだ。もちろん、大学の教員ごときにそもそも「人材育成」が可能なのかという話もあるだろうが、とりあえずその話は措こう。

そのミーティングでは、何人かの教員が人材育成のヴィジョンについて話したのだが、そのなかではもはや企業に入ってナンボという世界は終わったのではないかとの発言があった。つまり、これからはフリーランスで生きていけるスキルを身につけさせることが必要なのであり、極端な話をすれば、就職実績が0でも構わないのではないのか、というのだ。

要するに、これからの時代に学生を企業に送り込むことが本当に妥当なのかを疑問に思う大学教員がいる、ということだ。

ちなみに、上のミーティングで僕は、大学を出てそのままフリーランスになりたいという学生がいたら、すぐに就職課に行かせて正社員を目指すように指導すると発言した。

正直、僕はフリーランスの時代云々という発言に結構腹を立てていた。自分は大学教員という安定的な仕事に就いておきながら、指導する学生には極めてリスクの高い道を選ばせようというのか!それは無責任以外の何物でもないし、そういうことを言うならまずは自分が専任教員の職を辞するべきだろう。

確かに、正社員になれたからといって、それが幸せに繋がるとも限らない。僕と同じような30代、あるいは20代の人たちならなおさらそうだろう。しかも、正社員と非正規の被雇用者との格差を問題にするような発言を行うことの多い立場の人間が、自分の教え子には正社員を目指させるというのは、確かに矛盾と言えば矛盾かもしれない。

けれども、湯浅誠さんの『反貧困』(岩波新書)などを読んだうえでなお、あるいはそうだからこそ、僕は自分の教え子や子どもには過剰なリスクを背負わせるようなまねをしたくない。彼らが最初から大きなリスクを背負い、人生に行き詰まったとしても、僕にはそもそも責任の取りようがないからだ。安定を重視させることで、彼らの才能の開花を妨げることになるかもしれない、という批判は甘んじて受ける。

格差の問題にしても、僕個人の力では社会構造を変えることなどできやしない以上、その格差のなかでどうすれば有利に振舞うことができるのかを一緒に考えることぐらいしか僕にはできない。パイが縮小していくとしても、政府や日銀にその縮小を出来るだけ食い止めることを期待しつつ、その小さくなっていくパイの争奪戦をいかに勝ち抜くのかを考える以外、一介の教員にいったい何ができるというのだろう。

教員の立場との矛盾ということで言えば、ウチダ先生流に「教員の矛盾が引き起こす葛藤のなかにこそ成熟はあるのだ」と思うしかない。企業を批判する目をもちつつ、企業に入って、その尖兵になる。もちろん、そんなややこしいことをするよりも、指示されたことに何らの疑問も抱かないようなソルジャー型の社員のほうがずっと楽だろうし、出世も早いかもしれない。

ただ、それでも、どこかの某人材派遣会社の経営者のような、あまりにも他者への想像力を欠いた人間を生み出さないためにも、そういう教育の営みというのは必要なのだと思う。

もちろん、それが上述したパイの争奪戦にとって不利に作用するとするならば、それすらもやめて大学の講義では企業社会の素晴らしさを説き、自己責任論を吹聴すべきなのかもしれない。でも、さすがに僕にはそこまで踏み込むことができない。中途半端、と言われれば確かにそうなのだけれども。
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  by seutaro | 2009-05-08 00:29 | 政治・社会

<政治・社会>久々に呆れた

 久々に呆れた。というか、めまいがする。

 ネットで話題沸騰の七生養護学校の性教育の裁判。とりあえずは原告勝訴となったわけだが、『読売』と『産経』は愚にもつかない社説を書き、「過激な性教育」とやらを批判している。で、その性教育の実態はといえば、以下のエントリが詳しい。

http://neta.ywcafe.net/000964.html

http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20090317/p1

 そんでもって、負けた側の都議は、開き直ったかようにこんな記述をブログにしている。
過激性教育に関して、古賀、田代、土屋、市議などが学校を視察したことや、教育庁が処分したことを不服として、共産党系が訴えていた裁判の判決が出た。
ある意味、面白いと言えば面白い。三都議と教育庁合わせて10万円を養護教諭二人に払えと言うものだ。つまり、ひとり、25000円。交通違反で20キロ超過で払う金額に近い程度のもの。
これは、考えようだが、たったの25000円で過激性教育が東京から、全国から駆逐されたことを考えるとコストとしは安い。
(出典)http://www2u.biglobe.ne.jp/~t-tutiya/enter.html

 ただ、残念なことに、この手の人物にいくら教育現場の実情を訴えたところで、効果は薄いだろう。なぜなら、確信犯でやっているからだ。つまり、この人物にとって、障害者がどうやったら性の問題を理解できるかということはまったくもって問題ではなく、自分の信奉する純潔教育とやらのイデオロギーの流布にこの問題を利用できればそれでよいのだ。

 山本譲司さんの『累犯障害者』を読めばわかるが、障害者の性の問題はきわめて重要だ。被害者にならないためにも、加害者にならないためにも。ところが、そのための創意工夫は、下らないイデオロギーのために否定され、学びの機会は大きく損なわれてしまった。

 無論、教育現場にさまざまな課題や問題があることは否定しない。けれども、イデオロギーのプロレスをしたいのなら、どっか別の場所でやってほしい。ホント、頼むよ。
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  by seutaro | 2009-03-18 02:04 | 政治・社会

<政治・社会>老人の、老人による、老人のための国

ご無沙汰だったが、最近、気になった記事を二つ。
消費税増税は高齢者は負担しない。なぜなら年金支給額は物価スライド制で消費税増額分だけ支給額が上乗せされ、勤労世代だけが負担する。
http://d.hatena.ne.jp/tanakahidetomi/20090201#p5

ヨーロッパの福祉国家は、まだ理性を失っていない。少なくとも、イギリスとオランダは分かっている。働いている人々から税金と年金保険料を取り立てれば、老後が安心になるわけではないことを。子供が生まれて、教育を受け、その子がきちんとした仕事を持って初めて、安心して老後を迎えられる。もちろん、子供の親が仕事を持っていることが前提だ。だから、まず子供が生まれるように支援し、次に雇用があるように支援し、最後に来るのが高齢者のための年金なのだ。
http://bizplus.nikkei.co.jp/colm/harada.cfm?i=20081203c3000c3&p=2

もちろん、こういうのは集合的な意思決定の結果なのだからして、個々の高齢者を責めても仕方がない。けれども、とりわけ後者の引用部分については、子どもを2人ほど抱える身として大いに賛同したい。
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  by seutaro | 2009-02-01 23:34 | 政治・社会

<政治・社会>航空幕僚長のレポート

 時期を逸しての話題であるが、田母神航空幕僚長のレポートに関する問題について。
 そもそも、既存研究の整理や引用箇所の明示など、論文の基本的なマナーができていないあの文章を「論文」と呼ぶのはかなり抵抗がある。学部生の卒業論文で「あれ」が出てきたら、叱責するだろう。というわけで、あれをここではレポートと呼ぶ。

 しかしだ、以前のエントリにも書いたのだが、この手の歴史観はある種の「自虐史観」であるとしか思えない。この歴史観から浮かび上がってくる大日本帝国というのは、なんと愚かで、主体性のない国なのだろうか。戦略性のカケラもなく、ただただ他国の謀略に引っかかるだけの存在である。「お人よし」なんてのは、国際政治上では誉め言葉ではないだろう。ましてや、「航空幕僚長」の立場からすれば。

 そんでもって、これも前に書いたことだが、植民地の統治に関する記述について気になることがある。ここは本文を引用しておこう。

戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。(改行)我 が国は満州や朝鮮半島や台湾に学校を多く造り現地人の教育に力を入れた。道路、発電所、水道など生活のインフラも数多く残している。また1924 年には朝鮮に京城帝国大学、1928 年には台湾に台北帝国大学を設立した。
(出典)http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdf

 要するに、この人は圧政から解放され、生活水準さえ向上させてくれるのなら、民族の独立とか自決などは二次的な問題なのだと考えているのだろう。

 仮に日本の経済がこのままガタガタになって、失業者が溢れ、さらになぜか軍事独裁政権のもと圧政が敷かれるようになったばあい、この人は日本を永続的に他国の一部にしてもらうことで圧政を打破し、生活水準を向上させることを選択するのだろうか。

 要するに、こういう「生活水準を上げてやったのだから、ガタガタ言うな」的発想の根底には、ある種の拝金主義がある。「生活水準」というカネの論理に立脚できるなら、他の民族の尊厳を踏みにじってもよいとの発想だ。こうした札束で他者の頬をひっぱたくような言説が、抵抗なく保守論壇で受け入れられているとするなら、そこには深刻な精神的堕落の兆候が見出されるのではないだろうか。

 これも前に書いたことだが、そもそも戦前の日本において、民族派と呼ばれる人たちのなかにも、朝鮮の独立運動に同情を示す人たちがいた。自分の民族を愛するがゆえに、他者のナショナリズムにも理解を示すことが出来たということなのだろう。彼らがいまの拝金主義的ナショナリストの姿を見たら、嘆き悲しむのではないだろうか。

 まあ、そもそもナショナリストではない僕がこういうことを書くのも何なのだが…。 
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  by seutaro | 2008-11-06 02:48 | 政治・社会

<政治・社会>子どもの事件

 またも、子どもが犠牲となる事件があった。福岡の事件に続いて、今度は千葉で5歳の女の子が命を絶たれてしまった。

 子どもが出来て、変わったことの一つは、こうした事件に接したときの何とも言えない嫌な感じだろう。自分の子どもがもし同じような目に遭わされたら、僕や連れ合いの目の届かないところで、苦しんでいる自分の子どもの姿を想像しただけで、体が熱くなる。

 もちろん、統計的に見れば、子どもが犠牲になる事件が増えていないことはわかる。たとえば、下記のサイトのデータが参考になるだろう。

子どもの犯罪被害データベース
http://kodomo.s58.xrea.com/

 子どもをターゲットにした犯罪は増えてていない。だが、「だから安心してよし」と言うのは、ちょっと想像力を欠いた物言いではないだろうか。自分にもっとも近しい人が被害者になる不安というのは、数字で納得させられるものではないのだ。自分の子どもがターゲットになる可能性は、決して「ゼロ」ではないのだから。

 だからといって、そういう不安を煽ることを正当化するわけでもない。不安に苛まれるなかでの判断は、妥当なものではないことが多いからだ。

 ともかく、こういう痛ましい事件が起きると、どうしてもいろいろな騒ぎが起こる。だが、あーだこーだ言うまえにまず我々がなすべきは、失われた幼い命の冥福をただ静かに祈ることではないだろうか。
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  by seutaro | 2008-09-22 00:30 | 政治・社会

<政治・社会>次の総理は・・・

 盛り上がっているようで、実はまったく盛り上がっていないと言われる総裁選。実際には、出来レースであって、次の総理は麻生さんで決まりなんだろう。まあ、麻生さんの推薦人の顔ぶれを見ると、壮絶に萎えるわけだが。

 なお、いちおう、自民党内でも政策論争らしきものはあって、その構図を解説したものとしては、以下のブログのエントリが非常にわかりやすい。

http://d.hatena.ne.jp/bewaad/20080908/p1

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  by seutaro | 2008-09-12 01:55 | 政治・社会

<政治・社会>自己責任の底が抜けたとき

 現代の若者は「他罰的だ」との指摘がある。要するに、問題の責任を自分ではなく、他人に押し付ける傾向があるということだ。たとえば、ウチダ先生はかつて、ブログにこんなことを書いていた。

現在の若い日本人のほとんどは自分の不幸や失敗を「他の人のせい」にする他罰的説明に依存している。「社会が悪い」「親が悪い」「学校が悪い」「メディアが悪い」などなど。(出典)http://blog.tatsuru.com/archives/000739.php

こういう意見は他でも散見されて、たとえば先月の秋葉原の事件についても、犯人は自分の苦境を「社会のせい」に転化したがゆえに犯行を及んだとの解釈が『毎日新聞』や『産経新聞』のコラムで見られた。
 しかし、本当にその解釈は妥当なのだろうか。たとえば、加害者がネットに書き込んだとされる文章には以下のような記述がある。

『で、また俺は人のせいにしてると言われるのか
悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺だけ
別にいいけど 実際全部俺が悪いんだろうし 』

 この記述を見るかぎり、彼には自己の現状に対する過剰な責任感があったように思えてならない。この件はむしろ、なんでもかんでも自分一人の責任であるという自己責任論の底が抜けたケースとして解釈すべきなのではないだろうか。

 つまり、なんでもかんでも一人で背負い込んでしまった結果として暴発は起きたのであり、やり場のない憤りが、自分と同じように見える秋葉原の人びとを無差別的に殺傷するという行為につながったのではないだろうか。

 仮に、彼がもう少し自分の置かれた状況を社会のなかに位置づけて考えることができたのなら、言い換えれば「社会のせい」にすることができたのなら、ひょっとして道を踏み外さずに済んだのかもしれないと僕は思う。だから、この犯人に対して「甘ったれるなと一喝するしかない」という産経抄的ソリューションは、無意味であるばかりでなく、逆効果ですらありうる。

 さらに言えば、イタリアの落書き事件における過剰なバッシングもまた、自己責任論の蔓延の帰結なのかもしれない。すべてが自己責任の世界では、他者の過失を攻めることがある種の開放感をもたらすのだろう。こういうバッシングを招いたのも他者自身の責任であり、苦心しながら自分で自分を律している我々には彼ら/彼女らを攻撃する権利がある、というわけだ。自己責任感の強いひとほどクレーマーになりやすい、なんてこともあるかもしれない。

 その結果はといえば、ただただ息苦しいだけの、閉塞的な社会だろう。ネットの発達により、バッシングの対象は公人ばかりではなく一般人にまで及ぶようになった。他者のあら捜しに血眼になっている連中が、隙を見せたターゲットに対して情け容赦なく襲い掛かる。

 しかし、まあ、好むと好まざるとに関わらず、我々はこういう密告型の社会を生きていかざるをえないのだろう。あまり胸弾むような状況ではないのだが。
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  by seutaro | 2008-07-10 02:14 | 政治・社会

<政治・社会>「上から目線」論 その2

 以前に書いた「上から目線」論の続きである。

 前回のエントリでは、教育にたずさわる者としては「上から目線」への嫌悪というのは困った現象だという話をした。しかし、今回は逆に、ある種の「上から目線」というものを批判的に取り上げることにしたい。まずは、↓のブログのエントリを読んでもらいたい。

http://d.hatena.ne.jp/sunafukin99/20080501/1209595779#c

 このコメント欄で議論に参加している「一読者」とは、何を隠そうこの僕である。でもって、このあともしばらくのあいだは何だか論争らしきものが続いていたわけだ。この論争(?)は多少の波紋を呼んで、いくつかの派生的なエントリが生じたのだが、このなかでもっとも個人的に感銘を受けたのは、このブログのエントリ。

「偽善」でもなんでも構わないんだけど、一つ覚えておいて欲しいのは、当事者の野宿者たちはそれでもその「偽善」にすがらないと死んでしまうということ。「焼け石に水」というけど、人間は石じゃないんです。

 この論争もどきにコミットしていた僕自身ですら、「焼け石に水」という表現の暴力性に気づくことができなかった。反省することしきりである。

 ところで、社会にまつわる数字を扱っていると、その数字の背後にある具体的な人間の生のかたちを想像する感性が麻痺してくるようなことがある。そのとき、我々は知らず知らずのうちに「上から目線」になっていて、実際に生活を営んでいる人びとを神のごとき鳥瞰的な視点から見下せるような感覚を生じさせている。

 もちろん、そういう鳥瞰的な視点というのは、社会全体を見渡すときには必要不可欠だ。そのさいにある種の「上から目線」が生じてくるのは避けられないのかもしれない。だが、そういう超越的な視点は、時として地道に働いたり、活動していたりする人への嘲笑へとつながってしまう。鳥瞰的なマクロモデルに対し、一般の人びとが反発しがちなのは、そういう「上から目線」のようなものを無意識的に感じ取っているからではないだろうか。

 僕にしては珍しくこういうタイプの研究をやっているところなので、自省を込めて記す。
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  by seutaro | 2008-06-29 23:59 | 政治・社会

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