カテゴリ:政治・社会( 58 )

 

<政治・社会>「成果主義型年金制度」解題

 前回のエントリ「成果主義型年金制度」は、当然、冗談である。というか、僕はそもそも年金制度の仕組みもよく分かっていないので、年金制度の是非について論じる資格はない。

 ただ、最近、分譲マンションの購入を計画していて思ったことがある。僕は決して高給取りではないし、貯金もたくさんあるわけではない。

 けれども、僕が何をどう頑張って手が届かないような高級物件が都心を中心として山のように売り出されて、しかもそれが結構な人気を博しているのはどういうわけなのだろう…との疑問を持ったわけだ。ここからも明らかなように、高額所得層も含めて日本人の所得は1995年との比較でかなり減少しているにもかかわらず、である。

 しかし、答えは単純で、要するに夫婦共働きの人たちや独身者がそうした高額物件を買っているのだ。

 さらに言えば、そうした駅近の高額物件というのは資産価値が高く、なかなか値崩れしないというか、むしろ値が上がったりすることもある。が、僕の手に届きそうなのは、都心からかなり離れた郊外の物件でしかなく、そうした物件はすぐに価値が大幅に下落するわけだ。そうなると、資産の面での差もどんどんと大きくなっていくだろう…。

 と、まあ、前回のエントリはこうした僕の私怨から生まれたもので、人様に声高に言えるようなものでは到底ないがゆえに、ネタという形になった。まあ、実際にこんな制度を導入したら、年金の不払いが急増して、あっという間に年金制度そのものが崩壊するだろう。

 けれども、ここで上記の問題を少子化という現象とからめて考えてみたい。

 日本とは逆に途上国なんかでは、人口爆発が生じている。これは、よく誤解されいるが、別に避妊の知識が普及していないからだとか、他に娯楽がないからとか、そういう理由ではない。そういった国々では子どもをたくさんつくることが合理的だから、子どもが増えるのである。

 栄養状態や衛生状態、さらには治安に問題がある環境では、子どもが成人する前に死ぬ可能性は高い。そのため、たくさんの子どもを保険としてつくっておく必要がある。

 また、年金制度等が完備されていない環境では、老いて働けなくなった後には子どもの稼ぎで生きていく必要がある。そのため、子どもの数が多ければ多いほど、個々の子どもの経済的負担が軽くなる。こうした事情に加えて、医療技術が発達してきた結果、子どもの数が爆発的に増えているわけだ。

 翻って、日本の現状を見てみると、子どもの数が減っているのは、要するに経済的に見て、子どもを作らないことが合理的な選択なのだということに起因するように思う。これまでいろいろな要因を挙げてきたものの、最大の理由は、結局のところ子どもなんぞ作らないほうがリッチに暮らせるということにあるのではないだろうか。

 だとすれば、少子化というのは、端的に言って、働く母親の支援だとかそういうレベルの問題ではなく、富の再配分の根幹に関わる問題ではないだろうか。要するに、子どもを作ったほうが経済的にみて合理的だ(もしくは、子どもを作ってもそれほど大損はしない)との判断ができなければ、人びとの行動パターンは変わらないのである。

 もちろん、子どもを持つという選択は、経済的な側面だけに還元できるわけではない。明け方に夜泣きする子どもをあやしながら近所をうろうろするなんてのは、損得感情だけではやっていられないのも事実だ。経済的に見れば無謀な選択をさせるパワーが、子どもの笑顔には確かにある。

 けれども、だからといって独身者やDINKSの人たちがリッチな生活をするのを横目に、子育てに忙殺される夫婦が満足な消費や旅行もできない現状が続くかぎり、子どもの数が大幅に増えることはないと断言していい。

 だから、なんというか、たとえばだ。税金、もうちょっとまけてくれないかなぁ(苦笑)。

(おまけ)このエントリを書くために、朝日新聞のDBをいじっていたら、『アエラ』の3年ほど前の記事で「シングル差別」に関するものがあった。

 要するに、扶養手当てがもらえないため、シングルは給与面で差別されてという内容である。が、その記事の後半は、シングル差別の「不当性」を訴える内容なのか何なのか、自動車やマンションの消費の中心はシングルなのであり、シングルこそが景気を下支えしているのだ・・・という内容であった。

 正直、これを書いた記者は頭に何か沸いているのではないかと思う。要するに家族持ちにくらべてシングルのほうが可処分所得は遥かに多いことが記事の後段では明らかにされているわけだ。その事実をもって「シングルへの不当な差別」の是正を訴えるというのは正気の沙汰とは思えない。実際、前の職場でも、シングルの同僚はボーナスで新しいPCだのギターだのを次から次へと買っていたのだが。
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  by seutaro | 2006-08-18 12:29 | 政治・社会

<政治・社会「子どもを産まない」というモラル 補足

 おそらく人気サイトからのトラックバックをもらったせいで、訪問者が急増したのにびっくりしているそなたんパパです。こんばんは。
 とかいう変な書き出しはともかく、はてなブックマークでみると、このサイトが始まって以来最高となる40ものブックマークをもらった。どうもありがとぉぉぉ。
 が、そのブックマークのコメントを見ていると、どうも前回のエントリで僕が述べたことがうまく伝わらなかった人もいるようだ。無論、それは僕の書き方がまずかったことによる。
 前回のエントリで僕はこのように書いた。

 片や、激化する競争社会でのサバイバル技術を身につけさせるためには、小さいうちから塾に通わせ、英会話を学ばせ、吹き溜まりとなりつつある公立の学校ではなく私立に進学させ、有名大学にまで進学・卒業させねばならないというような脅迫観念がある。

 逆に、子どもを塾にも行かせず、中学や高校は当然公立・・・ということになれば、競争社会から落ちこぼれてフリーターやニート、下手をすると犯罪者になるかもしれないという不安もある。

 だが、これは我が家の教育方針を示したものではない。そうではなく、このような脅迫観念や不安が世間一般での少子化の大きな要因になっているのではないかということが言いたかったわけだ。紛らわしくてごめんなさい。
 ちなみに、我が家の教育方針であるが・・・。主に経済的な理由により、おそらくうちの子ども(たち)は公立の小、中、高に行くことになるだろう。
 ただ、公立の学校にやることは、お金がないという消極的な理由だけによるものではない。
 僕は公立の小、中、高を卒業した。そして、中学校や高校にはそれほど良い思い出はない。むしろ不愉快な思い出のほうが多いかもしれない。けれども、とりわけ中学校において、僕は勉強以外にいろいろなことを学んだ。
 公立の中学校というのは、かなりの確率で人生において最も様々な人びとに接する場になる。勉強のできる奴もいればできない奴もいる。金持ちもいれば(最近はいないのかもしれないが)、生活に困ってそうな家庭の奴もいる。そういう雑多な環境のなかでしか学べないものがあるんじゃないかと僕は思うのだ。
 たしかに、私立の学校に比べれば「リスク」は高いだろうし、「現実主義」的な考え方をする人からすれば「理想主義」的な甘ちゃんの考えだと叱られるかもしれない。けれども、コントロールされた環境のなかで似たような境遇の家庭から来た連中とだけ過ごすことに起因する「リスク」もまた存在しているのではないだろうか。
 とまあ、ぐだぐだと書いてきたが、もちろんこんな教育プランなんてのは思う通りにはいかないのが普通だし、子ども自身にもいろいろと希望があるだろう。不安材料はいろいろとあるが、とりあえず「なんとかなる」んじゃないかと僕は思っていいる。
 でも、子ども自身が私立に行きたいとか言い出したら、どうしたものか・・・。
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  by seutaro | 2006-06-14 22:58 | 政治・社会

<政治・社会>「子供を産まない」というモラル

 「だいじょうぶよ」というのが、その頃の妻の口癖だった。つづく言葉は、「なんとかなるって」。そう言って、いつも疲れてはいるけれど屈託のない笑みを浮かべるのだった。(中略)

 だが、いまの妻は、めったに「だいじょぶよ」とは言わない。「なんとなるって」が「なんとかするわ」に代わってから、もうずいぶんたつ。(中略)

 「俺、7時半に帰ればいいよな」
 「だいじょうぶ?」
 「なんとかなる」
 私もこんなふうに言っていたのだ、確か、昔は。
                      重松清『ナイフ』新潮文庫、p.302およびp.378

 さて、好評の(?)少子化エントリの第3弾である。

 「子供を産まない理由」として、しばしば挙げられるのが「経済的要因」である。つまり、「子どもを育てるのにはお金がかかる」というものだ。

 ここから、子どもを産まない人々のモラルの欠如を批判する声が時に噴出する。「今の恵まれた日本社会で『お金がかかる』などとは理由にならない」、「今の自由で豊かなライフスタイルを崩したくないという自己中心的な考えが根底にあるのだ」、「要するにモラルや愛国心が欠如しているから少子化が進むのだ」云々。

 けれども、前回、前々回のエントリの話を前提とするなら、それとは全く異なる解釈が導きだせるのではないだろうか。

 確かに、子どもを産んで、衣食住を与えるだけであれば、子どもを持つことの経済的負担は過去に比べてそれほど大きくないかもしれない。だが子どもを「ちゃんと」育てるということを前提とするならば、子どもを持つことの経済的負担は一気に大きくなる。

 片や、激化する競争社会でのサバイバル技術を身につけさせるためには、小さいうちから塾に通わせ、英会話を学ばせ、吹き溜まりとなりつつある公立の学校ではなく私立に進学させ、有名大学にまで進学・卒業させねばならないというような脅迫観念がある。

 逆に、子どもを塾にも行かせず、中学や高校は当然公立・・・ということになれば、競争社会から落ちこぼれてフリーターやニート、下手をすると犯罪者になるかもしれないという不安もある。

 つまり、「周囲に迷惑をかけないような」子どもを社会に送り出すためには、それ相当のコストがかかるということになっているわけだ。しかしそのコストを負担するのが難しい場合、むしろ変な子どもを社会に送り出して迷惑をかけるよりも、子どもを産まない、もしくは産む子どもの数を減らすというのが「倫理的」な行動だとは言えないだろうか。

 したがって、「子どもを育てる自信がないから産まない」というのも、そうした倫理観の裏返しだと言えるのではないだろうか。存在しない子どもは、絶対に社会に対して迷惑をかけないからである。

 もちろん、冒頭で触れたような「享楽的なライフスタイル」を捨てたくないがゆえに産まないという人びとも存在しているとは思うけれども、それらの人びとの自己中心性を非難し、「子どもをきちんと社会に送り出す責任」を訴えれば訴えるほど、そのような「責任」の重さに耐え切れず、モラルゆえに子どもを持たないという傾向を加速してしまいかねないのではないだろうか。

 とまあ、いろいろと書いてきたものの、「こうすれば少子化が止まる」などというアイデアを僕が持っているわけではない。ただ、なんと言うか、「責任感」というよりも、ある種の「お気楽さ」に訴えたほうが、子育てに対する恐怖感やリスク意識を軽減することができるのではないかとは思う。

 躾で多少は手を抜いても、私立中学に入学させなくても、一流大学に進学させなくても、有名企業のコア社員にすることができなくても、人はそれなりに幸せに生きていけるという確信を持てるのであれば、あるいは、子どもが多少の間違いを犯したとしてもそれはいずれ乗り越えていける問題なんだという安心感さえ持つことができれば、「モラル」だの「愛国心」だのに関係なく子どもを持つという選択をする人はもう少し増えるのではないだろうか

 冒頭で引用したのは、重松清の短編「ビタースィート・ホーム」の一節。子育ての難しさに直面した夫婦の物語。この物語で示唆されているように、「なんとかする」という責任感ではなくて、「なんとなる」という楽天主義こそが、子育てというハードルを乗り越えるための打開策になる・・・・といいんだけれど。
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  by seutaro | 2006-06-12 12:25 | 政治・社会

<政治・社会>子育てのハードル

 前回のエントリでは少子化と社会に蔓延するペシミズムとの関係について述べたのだが、今回も少子化ネタでいってみよう。

 最近、我が家ではマンションを買うことを検討しており、その関係でマンション購入に関するインターネット掲示板なんかをよく眺めている。そこでつくづく思うことは、「集合住宅で子育てをするってのは大変だ」ということだ。

 マンション掲示板でよく見られるのが、「DQS親」という表現である。要するに、部屋のなかで子供が大騒ぎして近隣住民に迷惑をかけているにもかかわらず、ろくに叱りもしない親なんかを指す表現である。そこから、「近頃の親は子供の躾をしていない」といった紋切り型の批判が行われ、さらには「うちの子供は家のなかでは『忍び足』で歩くよう躾けてます」といった発言まで飛び出すわけである。

 しかし、冷静に考えて、昔の子供はみな、自分の家のなかで「忍び足」で歩くように躾けられていたのだろうか?自分の家で、声を押し殺しながら暮らすよう教育されていたのだろうか?

 ここで思い出されるのが、広田照幸氏の『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)という著作である。

 この著作において、広田氏は世間一般のイメージとは異なり、日本人の躾は衰退していない、むしろ現代ほど一般家庭が躾に熱心な時代は存在しないと論じる。広田氏によれば、かつての日本においては、親ではなくむしろ地域社会が子供の面倒を見ていたのであり、親は躾にそれほど熱心ではなかったのだという。

 それでは、なぜ「日本人の躾は衰退した」とのイメージが広がっているのか。それは、要するに、「親による躾」に対する社会の側の期待がものすごく上がったということなのだ。広田氏の表現を借りれば、「礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き」という「パーフェクト・チャイルド」を作らんとする試みが社会で共有されていった帰結として、そのような完璧な基準から逸脱する子どもとその親とが目に付くようになってきた・・・ということになるだろう。いうなれば「子育てのハードル」が気づかないうちに、ずいぶんと上がってしまっているのだ。

 そして、そうしたパーフェクト・チャイルドに対する要請は、家族が密集して暮らす集合住宅においてはさらに大きくなる。集合住宅では、礼儀・子どもらしさ・勉強という基準に加えて、「静かに暮らせる」という基準までもが要請されることになるからだ。

 ちなみに、「子どもらしさ」と「静かに暮らせる」という二つの基準を兼ね備えた子どものイメージとは、広場や公園に行けば急にスイッチが入ったかのごとく快活に大声ではしゃぎまわり、自分のマンションに一歩でも足を踏み入れたならばスイッチが切れて大人しく忍び足で歩くというものだ。それほどまでに大人にとって都合のよい存在へと子どもを躾ける努力は、並大抵のものではないだろう。

 さらに言えば、近年の競争や業績を重視する社会風潮は、激しさを増す競争への耐性をも子どもに求める動きへとつながっている。「ゆとり教育」に批判が集中した一因には、「ゆとり」などといって甘やかすのではなく、競争に勝ち抜くことのできる人材を育成すべきだとの主張がある。たとえば、山崎拓氏は自らのサイトで「ゆとり教育」を批判し「学校で競争を経験したことがない若者が卒業後、いきなり競争社会に放り出されて適応できない人もいるでしょう」と述べている。

 なお、こうした競争に勝ち抜くことのできる力というのは、単なる学力とも違うようだ。それは、創造性や重圧に耐える精神の強さといったものであり、流行の言葉を使えば「人間力」ということになるだろう。

 しかし、問題は、そうした競争社会がどのようなものであるのか、ということだ。たとえば、政府の規制改革・民間開放推進会議議長である宮内義彦氏は次のように述べているという(ここからの引用)。

「コア社員の数を鉛筆の芯のように細くする一方、その周りを取り囲む木の部分は成功報酬型の社員、さらにその周りにパートタイマーやアウトソーシングを置く。必要に応じて木の厚さを調整出来るようにしておく・・・鉛筆型の人事戦略」

「コアの社員に不景気だから辞めてほしいとか、景気がいいからきてほしい、と言うようなことはできない。コアの社員には長くいてもらって、非正規社員で(調整できるような)配置をする。この国際競争の中で日本が先進国として生き残るためには、そうした経営努力をしなければならない」

「そもそも安定(雇用の安定も含めて)なんてものはないと思っている。あした安全だという保障はない。安定を企業に求めるのではなく、やはり自分の努力です」

 ここで別に宮内氏の見解の是非を述べるつもりはない。ただ、正直に言えば、これは生きていくのが相当にしんどそうな社会である。生き馬の目を抜く競争を一生を通じて繰り広げるというのは、やはり多くの人にとってかなり厳しい条件になるだろう。なにせ、「鉛筆の芯」になれなければ、まともに住宅ローンすら組めないのだ。

 そして、子どもを作るということは、自分がそうした競争を生き抜くだけではなく、自分の子どもにもそうした競争を生き抜くためのスキルを授けねばならないということを意味する。そこで、小さいうちから子どもを塾にやり、習い事をさせ、進学校に放り込んで競争社会でのサバイバル技術を身につけさせていくわけだ。そうそう、「人間力」も身につけさせないと。

 でも、競争でぎちぎちのそんな社会で他人を蹴落としながら生きていくというのは、本当に幸せなことなんだろうか。自分自身が耐えざるを得ないのはしょうがないだろう。もうこの世に生を受けてしまっているのだから。たとえ自殺者が8年連続で3万人を超えようとも、殆どの人は自らの生を全うすべく懸命に生きている。

 けれども、自分の子どももまたそういう社会で生きていかねばならないとするならば、「最初から産まないほうがまし」という価値判断は生じないだろうか?

 長くなったので最後にまとめると、蔓延する日本社会に対するペシミズム、上がる一方の子育てのハードル、生きていくのが厳しそうな競争社会の推進。どれをとっても、子どもを産もうとするインセンティブを引き下げるものばかりである。というか、こういう状況で合計特殊出産率が大きく上昇したとすれば、そのほうが不思議である。

 少子化という現象は、こうした風潮に直面させられた若年層の、階級闘争やストライキなどよりも遥かにラディカルで破壊的な復讐なのかもしれないと思う今日このごろである。というか、誰かどうにかしてください(涙)。

追記:
 少子化といえば、シンガポールや韓国でも深刻化しているそうだが、このエントリで述べたような意味からすれば、どっちも非常に「子育てのハードル」が高そうな国である。

 シンガポールの街頭でのモラルが非常に厳しいことは有名だし、教育制度も子どもが小さいうちから選抜が始まる厳しいものだそうな。韓国でも受験競争の厳しさは日本以上で、母親も子どもの受験を必死で応援するみたいだ。

 そういうモラルや競争に子どもを巻き込むのはしんどいと思ってしまう感覚は、国境を越えて共通しているのかもしれない。
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  by seutaro | 2006-06-08 23:08 | 政治・社会

<政治・社会>少子化とペシミズム

 しばらく更新をやめてちょっと今後のことを考えようかと思っていたのだが、気になるニュースがあったので、とりあえずエントリを立ててみる。

 それは何かというと、「合計特殊出産率」(1人の女性が生涯に産む子供の数)が2005年度は1.25にまで落ち込んだ、というニュースである。何でも5年連続で過去最低を更新したのだという。

 で、『毎日新聞』の解説によれば、仮にこのまま1.25という数字を維持できたとしても、2015年度の出生数は2005年の106万人から70万人にまで落ち込むのだという。

 これは、教員として生業を立てている僕にとっては由々しき事態である。子供がいなければ、そのままマーケットの減少につながってしまうからだ。

 まあ、そういう個人的な事情は置いておくとしても、少子高齢化というのは、やっぱり良くない状況だと思う。高齢化社会も悪くないという声もあるようだが、老人が多い社会というのはどうにも居心地が悪そうだ。

 そもそも、「近頃の若い者は…」というのは、昔からある老人の繰り言である。が、最近は、そうした繰り言がマス・メディアに乗っかり、それを真に受けた良い子まで一緒になって「近頃の若い者は・・・」と言い出す始末(→事例)。

 そうこうしているうちに、道徳主義者が威張りだし、やたらと押し付けがましい説教が世に溢れ、抑圧的な条例だの法律などが気づけば出来上がっている・・・ということになりかねない。というわけで、やっぱり子供の数を少しでも増やす努力というのはするべきだと思う。

 とはいえ、子供を産まない理由というのは人によって様々だろうし、既ににいろいろなところで論じられている。ただ、そのなかでも意外と大きな要因になっていると思われるのが、「ペシミズム」の存在である。

 「子供を産まない要因」としてよく挙げられる理由としては金銭的な理由のほか、「将来が不安」だとか、「子育てに自信がない」などといったことがある。それでは、この「不安」や「自信がない」という感覚はどこから生まれるのだろうか。

 まず、不安ということで言えば、日本の将来に対する悲観があるのだろう。マスコミを見れば、財政赤字により国民一人当たりの借金が○○○万円だとかいう(意味のない)数字が踊っている。さらに、少子高齢化により、働き手が減少する一方で社会保障費が増大し、年金制度も大ピンチだと煽る煽る。

 また、もうちょっと身近なレベルでも、マスコミを見ればやれ少年犯罪だの、ニートだの、ひきこもりだの、フリーターだのといった若者の問題に関する報道が扇動的に行われている。

 とりわけ犯罪について言えば自分の子供が被害者になるばかりでなく、加害者になるという恐怖もある。自分の子供が重大犯罪を犯し、大きな注目を集める事態ともなれば、親もかなりの確率で失職し、引越しを余儀なくされることになる。しかも、精神面に異常をきたした自分の子供に殺される可能性だって否定できない・・・。

 フリーターだのニートだのになってしまえば、いま流行りの「格差社会」のなかで「下流」になってしまうかもしれないという不安もある。いつまでたっても子供の面倒を見続けねばならないという老後は、あまり愉快な将来像ではないだろう。

 こういうマス・メディアの報道に日々接していれば子供を持つことが「大きなリスク」であると思わざるをえないのではないだろうか。そりゃ、「不安」になったり、「自信がない」という状態になるわな。

 なんか、長くなってきたので、中途半端ではあるが、続きは次回。
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  by seutaro | 2006-06-02 12:35 | 政治・社会

<政治・社会>中華料理屋の「陰謀」

 「2ちゃんねる」のまちBBSで、さる中華料理屋に関してなかなか興味深いやり取りがあったので、そのうちのいくつかをコピペしてみよう。

148:
中国国内で販売されている中国製ビールにはダイオキシン等のかなり危険な
毒が色々含まれていて、中国国内では問題になっているらしい。
自国の食料で自国民が死んでいく・・・。

中華料理は週1回にしとけって結論でFA?

149 :
週一に食べるの?・・・・こちらを参考にどうぞ
(中国の野菜の毒性に関するサイトのURL、省略)

150:
>>149
あのさ、そのリンク先は見に行ってないけど、(店の名前)は日本にあるんだよ。
食材も日本国内で流通している物だ。

日本国内の食材で調理された中華料理と、中国国内の危険な食材は別物だよ。

151:
>>150
なんだ興味があったから行こうかと思ったら関係者の広告カキコだったんかorz

152:
>>151
俺のことか?
意味が良くわからないんだが、(地名)にある飲食店で使ってる材料が
日本国内で調達されてるのは当然の事だろ。
わざわざ中国から密輸なんてすると思うか?

店の関係者じゃなくても常識的に分かるだろ、日本国内で入手不可な
材料を使用することは物理的に不可能だ。

あと、あそこのお店は中国人だけで経営されている。バイトも中国人だ。
日本語を話せる人は少ない。その点からも関係者なわけない。

153:
>>152
中国系の店は食材を中国から輸入品を調達するのは常識だよ。
もちろん日本でそろうのはそっちを使うだろうけどな。
反日感情まるだしの人種が日本に来て何をするかは分からんということは確かだ罠。

158:
(店の名前)は良心的な仕事をしてると思うよ。とか書くと「店の回し者」とか言われるんだろなw
中国が嫌いなのは嫌いで構わんけどさ。
中国人がわざわざ日本にやって来て、美味い(が実は毒てんこ盛り)料理を出す
中華料理屋を作って、憎い憎い日本人をどうにかしようとしているなんてのは、
どう考えても妄想だろ?
あんまり変なことを気にしてたらハゲるゾ。

163:
中国人が、中国野菜を避けてわざわざ日本産を買う事はないね。
むしろ中国野菜を選ぶ

164:
中国野菜を選んだからなんなのかが理解できんから、よく説明してくれよ。

(店の名前)の従業員は毎日まかないを喰ってるはずだけど、それは自殺行為じゃないのか?
日本人をどうにかするより先に、自分たちが参っちまうぞ。

もしもそうだったとしたら、キミらの「敵」は頭が悪すぎるから
おそるるに足らんと思うんだがどうかね。

もちろん、話題に上っている店の従業員はまかないを日本産の安全な野菜でつくり、客に出す料理だけに有害な中国産野菜を使っているという可能性は否定できないわけだが(笑)
 まあ、この議論は、158と164の言っていることで尽きていると思う。妙な陰謀を心配している暇があるなら、旨い中華でも食っとけってことなんだろう。
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  by seutaro | 2006-05-31 18:51 | 政治・社会

<政治・社会>みんな被害者

 以前、こういうエントリを書いたことがあるのだが、なんというか、ネットで見かける論客のなかには、途轍もない被害者意識を持っている人がいるように思う。んで、そういう観点から日本の近代史を見た場合、日本という国は常に被害者であり続けたということになるようだ。

 ずらずらと列挙すると、まず併合したはずの朝鮮半島の近代化のために日本人は搾取され、中国共産党の陰謀に乗せられて日中戦争に引きずり込まれ、アメリカの策略に乗せられて真珠湾攻撃を決行させられ、原爆や大空襲によって市民を虐殺され、戦後はGHQに騙されて「東京裁判史観」を植えつけられ、経済的な理由で勝手に日本にやってきた在日朝鮮・韓国人に「加害者意識」を刷り込まれ、韓国や中国に対して謝罪させ続けられ、来日した海外の犯罪者に痛めつけられている…といったところであろうか。

 こういう「被害者史観」から日本という国を眺めると、なんと主体性がなく、愚かで、騙されやすく、挑発に乗せられやすい国家なのだろうという気がしてくる。こういうのって「自虐史観」と呼ばないのだろうか。

 ただ、まあ、こういう「被害者になりたい気持ち」というのは、実は僕にもよくわかる。「加害者」が悪である以上、「被害者」は汚れなき善であり、少なくとも道義的には圧倒的に優位に立つことができるからだ。そしてそこから辛酸をなめさせられ続けた「被害者」がやがて立ち上がり、悪を打ち倒すという物語が夢想されることになる。

 しかし、このような「悪」と「善」が身の回りですっきり割り切れることなど殆どない。上司や教師、隣人やクラスメイトがいかに不愉快な存在であったとしても、小説やテレビドラマとは違い、そうした「悪」が裁かれることなどまずない。上司が「ぎゃふん」と言ったり、教師が首をうな垂れて謝罪したり、隣人が警察に連行されるといった事態は現実には滅多に生じない。むしろ、そうしたカタルシスが日常に存在しないからこそ、勧善懲悪的なドラマや小説の需要があるとも言えるだろう。

 だが、そうした「善」と「悪」とがはっきり分かれる現実の物語が存在する。それこそが、犯罪報道である。平和な日常を送っていた被害者に突如として害を加える極悪非道な犯罪者という物語が報道を通じて流されると「被害者」に飢えていた人びとは一斉に飛びつく。

 そして、加害者の悪に憤り、人によってはその家族に嫌がらせをし、弁護士を非難し、その弁護士を擁護しているようなblogを見かけるや否や炎上させる・・・。このように、被害者と一体化することを通じて「正義」は達成されるのであり、「悪」は成敗されるのである。
 はっきり言えば、こうした過程において被害者は単なる消耗品に過ぎない。あくまで「カワイソー」な同情されるべき存在でなくてはならないのだ。したがって、仮に「被害者」の側になんらかの「利益」や「利権」らしきものが見え、被害者としての立場を逸脱したと見られた場合、攻撃の刃は一斉に被害者の側に向かうことになる。

 古い話で恐縮だが、「ロス疑惑」の容疑者の場合、最初は同情の対象でしかなかったものが、彼に関する「疑惑」が報じられるやいなや、彼は「無垢なる被害者」から「限りなく黒に近い疑惑の人物」へと一気に転化を遂げ、すさまじいバッシングがメディアによって行われることになった。また、北朝鮮による拉致被害者の会が、小泉首相の方針を批判した瞬間に非難の対象となったことも、彼らが単なる「被害者」という立場を超えて、「権利」を主張し始めたと受け止められたことが原因だったのではないだろうか。

 ただ、こういう「被害者の文法」はいまに始まったことではない。そもそも、1980年代以降のポスト・コロニアルやカルチュラル・スタディーズといった左翼系の学問分野でも、このような「被害者の文法」は強烈に作用していた。少なからぬ研究者が、植民地支配や文化的抑圧の「被害者」と一体化を果たしその「代弁者」となる道を選んだ。

 したがって、ネットに吹き荒れている「わたしも被害者」旋風と、左翼系の学問は、実は同じような構造を持っているのではないだろうか。結局のところ、みんな「被害者」や「弱者」(右派なら犯罪被害者や拉致被害者、左派なら在日朝鮮・韓国人や従軍慰安婦etc.)が大好きであり、彼らと一体となって「加害者」を糾弾しているのである。無論、すで述べたように、そうした「被害者」は消費される存在でしかなく、飽きられた時点で次なる「被害者」が必要とされる。

 なんというか、ちょっと息の詰まる光景ではある。
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  by seutaro | 2006-05-17 02:43 | 政治・社会

<政治・社会>クールな前文

 そういえば、今日(もう昨日か)は憲法記念日なのである。
 ニュース23に触発されたわけでもないのだが、僕は現日本国憲法の前文が結構好きである。もちろん、翻訳調であることは否定しがたく、突っ込みどころ満載な文章であるのだが、なんというか、一種の「いさぎよさ」のようなものが感じられるのが良い。とりわけ第2~4段落目など、なんかもうお馬鹿なまでの愚直さが、呆れるのを通り越して、もはやかっこいいとすら感じられる。

日本国憲法前文

(第1段落目省略)

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意
     本当に愛しているのか?
した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる
                                本当に努めているのか?
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
                                   翻訳調だ(笑)
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
            それが国家の普通の姿です
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と
それが普遍的じゃないから、いろいろと難しい問題が発生するわけで
対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
                ここは誰がなんと言おうとかっこいい

 ここで僕が突っ込んでいるようなところは、当然、この憲法を作った人たちも承知していたんじゃないかと思う。証拠はないけれども、第二次世界大戦をくぐりぬけた人たちが「すべての国家は平和を希望しているんだから、信頼できる」なんていうナイーブな世界観を持っていたとは考えにくい。最後で、これは「理想」だって書いてあるわけだしね。
 けれども、あえてこのような「空想的平和主義」の文章を作ってしまったのは、「専制と隷従、圧迫と偏狭」が渦巻いていた第二次世界大戦直後の世界において、軍事力と覇権が世界の趨勢を決めるなんていうシニカルな「現実主義」ではなく(たとえそれが実情だとしても)、馬鹿みたいだと承知しつつもあえて理想を掲げようとの決意がそこにあったからではないだろうか。
 無論、現実の政治はそんなに甘いものではなく、実際には日米安保を含め様々な「現実的」選択を日本政府が行ってきたことは否定しないし、それを全て否定する必要もない。また、私学助成金の問題など、この憲法がいまの社会の実情とそぐわなくなっていることも否定しない。
 けれども、妙なシニシズムが蔓延し、小賢しい「戦略論」ごときが知的であるかのような風潮を省みれば、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」なんて愚直なことを言いきってしまう日本国憲法は、やっぱり結構かっこいいのではないかと思うし、この一点だけでもいまの憲法には価値があるのではないだろうか。
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  by seutaro | 2006-05-04 00:06 | 政治・社会

<政治・社会>いつものように都知事の暴言

とりあえず、日本ではあまり報道されていないようなので、貼っておこう。

(出典)http://www7a.biglobe.ne.jp/~mcpmt/Liberation20060424.html

東京都知事、現代美術を腹にすえかね
カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」

東京特派員ミシェル・テマン

2006年4月24日 リベラシオン

木曜〔4月20日〕、午後6時過ぎ、東京都現代美術館(MOT)――10年前、木場公園に建設された巨大な建物――の大ホールに、各界の著名人を含む1500人の人々が招かれ、この春もっとも注目される文化イベントの開幕セレモニーが行われた。1年前からパリと東京のカルチエ社スタッフが準備を進めてきた「カルチエ財団所蔵現代美術コレクション」の会場が、ついにその門扉を開け放とうとしていたのである。門扉といっても、ただの門ではない。入り口は高さ5メール、スライド式の巨大な壁でできており、招待客らはそこを通って一般公開前の会場内に導かれるのだ。4つのフロアにわたって19室を占める展示場は、まるで迷宮のよう。美術館の建物がそっくり芸術の宮殿に変身し、現代美術の偉業に捧げられた趣である。

「彼は酔っぱらってるのか?」――普通、日本の式典は、ありがたいお言葉をもって華やかに開会を告げる。この日、開会の式辞の栄に浴したのは、炎と燃える(そして炎を燃やしたがる)東京都知事、石原慎太郎、73歳である。彼の隣には、カルチエ・インターナショナル会長ベルナール・フォルナス、東京都現代美術館館長・氏家齊一郎、カルチエ財団理事エルヴェ・シャンデスも顔をそろえている。会場のざわめきが徐々に静まる。しかし、石原は何も事前の準備をしていなかった。マイクを手に、正面の巨大スクリーンを見据えながら(そこには、硫黄質の雲、ボンデージ・アートの作品、暗殺された写真家アレール・ゴメスによる裸体などが映し出されている)、石原は、いくぶん口ごもりながら、いつもながらの歯に衣着せぬ言辞を繰り出した。

「都知事は酔っぱらってるのか?」――彼の最初の数語に「ショックを受けた」ある日本の有名スタイリストが首をかしげる。実のところ、東京都知事は、フロアの招待客たちを前にして、いつもながらのお家芸を披露してみせたにすぎなかったのだ。彼はすべてをぶち壊しにしてやろうと考えた。手加減などまったく抜きにして、彼は現代美術をこき下ろし、愚かしくもそれを西洋芸術だけの専売品のごとく描き出してみせるのだった。招待客に背を向けて話す尊大無礼、決めつけの口調と難解を装った語彙をもって、石原は、展覧会そのものをこっぴどくやっつける。たった今、案内付きで鑑賞してきたばかりの展示がよほど退屈だったのだろう。「今日ここに来て、なにかすごいものが見られるんだろうと思っていました。ところが、実際は何も見るべきものはなかった。」イヤホーンで同時通訳を聴きながら、ベルナール・フォルナスはぐっと息をこらえる。

しかし、東京において、これだけの作家を一堂に集めた現代美術展は過去に例を見ないことであった。コンゴのシェリ・サンバからフランスのジャン=ミシェル・オトニエルまで、アイルランドのジェームズ・コールマンからアメリカのデニス・オッペンハイムまで、イタリアのアレッサンドロ・メンディーニからアメリカ女性作家ライザ・ルーまで、12カ国から32人の作家たちが出品している。ライザ・ルーなどは、今回の企画を「芸術の国連」と評しているほどだ。カルチエ財団が20年前から収集にいそしんできた芸術作品のすべてが、空路、海路、気の遠くなるような取り扱い注意の気配りとともに、今回、ようやく東京に結集させられたのだったが・・・・・・。

札付きのナショナリスト――こうした文化の財宝も、石原慎太郎のお眼鏡にはまったく適わなかったらしい。「ここに展示されている現代美術は、まったくもって笑止千万なものである」と彼は付け加える。たとえば、先頃パリで人々の注目を集めたオーストラリアのロン・ミュエクによる巨大な彫刻作品「ベッドのなかで」も、石原には揶揄の対象だ。「ベッドのなかの巨大な母親像は、まるで赤ん坊のような目をしている。」ほかならぬ、この作品こそは、展覧会のポスターとカタログの表紙にも選ばれた目玉作品なのだ。

常々、ナショナリズムと朝鮮・中国への敵視の言説で知られる石原は(2004年にはフランス語をも痛罵した)、1999年以来、東京都知事をつとめる元・人気小説家である(1955年、日本のゴンクール賞に当たる芥川賞を受賞)。みずから余暇には絵を描いて過ごすというが、末っ子〔石原延啓〕とは仲違いしており、そしてその末っ子というのが、これまた折悪しく画家なのである。ここぞとばかりに彼が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。一部には、これを冗談と受けとめ、笑い声を上げる人もいる。しかし、多くの人々は憤慨をあらわにした。

席に戻って天井ばかりを凝視している東京都知事に続いて挨拶に立ったのは、ベルナール・フォルナスである。彼は、一転して、今回の出展作家たちにさかんな讃辞を送った。挨拶のなかでフォルナスが、ジャン=ミシェル・アルベローラ、松井えり奈といった画家たちから、森山大道といった写真家まで、東京都現代美術館に展示されている作品を「重要な傑作」と評するにおよんで、会場から一斉に拍手喝采が巻き起こる。こうして、石原の主張も宙に浮いた格好となる。

 まあ、彼の暴言はいつものことだし、東京都民もこういう無神経な発言を一種のネタぐらいにうけとめたうえで彼を支持しているのだろう。けれども、自分の理解できないものを何のためらいもなく否定する人間が、人様の振る舞いを論難し、道徳を説くことができるというのが驚きである。自分の子供がこんなだったら、大目玉である。
 ついでに言うと、かつて彼は、日本人が危機意識に目覚めるために「半分以上本気で北朝鮮のミサイルが1発落ちてくれたらいいと思う」とインタビューで述べている。こういう発言をする人物が「ナショナリスト」だと自称することを僕は信じられない。なんというか、ホリエモンが共産主義者だと自称することぐらい違和感があるのは、僕だけだろうか。
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  by seutaro | 2006-05-01 02:10 | 政治・社会

<政治・社会>死刑存続に賛成する者の責務

b0038577_1235421.jpg この間のエントリで、オウムの麻原被告について書いたときから、「死刑」ということについて書かねば、と思い始めた。

 正直に言って、僕は死刑という制度を存続すべきかどうか、判断を下すことができない。確かに、冤罪の可能性や国家が人命を奪うことの是非など、死刑という制度が孕む問題点は頭では理解できる。しかし、妻子を持つ身として、たとえば山口県光市の母子殺害事件の犯人のような輩に、死刑以外に適当な刑罰があるかと問われれば途方に暮れるしかないのも事実だ。

 とはいえ、死刑の存続に賛成するのであれば、ある重要な問題について思いを馳せる必要がある。それは、死刑を執行する立場にある人たちのことだ。無論、それは死刑執行の最終的な決断を下す法務大臣のことなどではなくて、実際に刑務所で死刑囚の命を絶つ人たちのことだ。

 この死刑の執行に携わる人たちについては、大塚公子『死刑執行人の苦悩』が詳しい。アマゾンのレビューでは、この本が死刑廃止を明確に打ち出しているために低い評価をつけている人もいるが、そのような留保がつくにしてもこの本が名著であることは否定しえない。

 死刑執行の業務というのは、当然ながら、愉快な仕事ではない。たとえば、次のような記述がある(p.20)。
 死刑の執行にあたって直接手を下す刑務官には「特殊勤務手当」・・・が出る。残業手当などのようにその月の俸給に加算して、俸給日に支払われるというのではなくて、即日支払いである。その額はというと、現在でせいぜい六千円かそこらのものだということだ。一万円には遠く及ばない。
 執行後はすぐに風呂に入って、その日の勤務は終わり。しかし、午前中いっぱいも働かず、特別休暇というか、その日はフリーになれるからといって、それを喜ぶ気持ちにはなれるものではない。清めの酒としてふるまわれる(役所だから支給というべきか)二合ビンを所内で飲みつくすと、そのまま街へ出る。まっすぐ家に帰る気分になど、とうていなれるものではない。まして、特殊勤務手当として支給されたなにがしかの金を自宅に持ち帰ったり、使わずにもっていたりすることは絶対といっていいほどない。街に出て飲み代にすっかり使い果たしてしまうのがほとんどであるという。手当てで足りずに自腹を切って深夜まで飲み歩く刑務官もめずらしくない。けれども、死刑執行のことは同僚にも話せず、家族にももちろん話せない。そのような陰にこもった状態で飲む酒が美味しいわけはない。昼食も夕食もいっさい食事は喉を通らず、ただ苦い酒を飲むばかりだが、それで酔えるというものでもない。稀に酔う者もいるが、そんなときはきまって悪酔いで、正体もないほどベロベロになってしまう。
 言うまでもなく、死刑の執行はそれに携わる人に深い心の傷を残す。しかも、そうした心の傷は時に家族にまで及んでしまう。子供を持つ親の立場として、とりわけ印象に残ったのは次のような記述である(p.182-187)。
 弁当を食べ終えて、水飲み場でハンカチを洗っているときだった。忘れもしない中学二年の七月のはじめ。
 隣のクラスの女の子が寄って来た。Lさんの近くに立って、なにげないふうに話しかける。
 「Lさんの父さん、人殺しで死刑になる人を殺す仕事なんだって?」
 Lさんはぎょっとして聞き返した。
 「だれが言ったの?」
 「みんなの噂よ。きたない仕事だって。」
 この女の子は少し知能の遅れた子だった。それだけに言葉はストレートで、Lさんの心を抉った。
 「そのとき、はじめてはっきり知ったのです」
(中略)
 Lさんは、父親が”きたない仕事”で得た手当で買ってくれた品々を、雨に濡れた庭に投げ捨てた。生まれてはじめて持った自分の裁縫箱。いまから思うと物資の乏しい時代のものとしてはぜいたくなものだ。木の箱に美しい千代紙を貼った、現在ではちょっと買えないと思う裁縫箱だった。
(中略)
 雨あがりの濡れ縁に、きのうLさんが投げ捨てた品々を母親が黙って広げていた。黙っている母親の背中は、悲しみに暮れているように思えた。
 「母ちゃん」
 Lさんは思わず呼びかけた。とても母親に悪いことをしたような気がしたから。しかし母親は返答しない。雨と泥とで汚れた裁縫箱や画板などを、ていねいにていねいにぞうきんで拭っている。
 母親の動作は、背後から見ると、声をたてずに泣いているように見えた。じっさい泣いていたのかもしれない。Lさんはいらいらした。
 「母ちゃん、そんなものは、いらんよっ」
 Lさんは母親の背に怒声を浴びせた。
 「そんなことを言うもんじゃないよ。父ちゃんが買ってくれたもんを」
 「いらん、いらん、そんなもんいらん」
 Lさんは言いながら、泣いて母親の背中にかじりついた。
 この本が出版されたのが20年近く前であり、報告の内容はそれからさらに遡った過去の話であるため、現在の死刑執行の方法とはかなりの違いがあるようだ。現在では、死刑台の踏板を外す操作は、5人の執行官が同時にボタンを押し、だれが押したボタンで作動したのかがわからなくなっているのだという。しかし、それでも執行官に相当の心理的負担がかかることは想像に難くない

 死刑制度の存続に賛成するということは、誰かに刑の執行を押し付けるということを意味する。そのような事実を強く意識することこそ、死刑存続に賛成する者にとっての最低限の義務なのだと僕は思う。
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  by seutaro | 2006-04-03 01:58 | 政治・社会

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