カテゴリ:政治・社会( 58 )

 

<政治・社会>劇場としての法廷

 さて、今日はとりわけ重い話を。
 麻原彰晃こと松本智津夫被告の控訴が棄却され、死刑となる公算が高まっている。麻原被告は、かつて「法廷は劇場だ」などと述べたらしいが、少なくともこの点に関しては彼は「真実」を述べたのだと思う。この法廷はまさに劇場だったのだろう。多少の筋書きの変更はあろうとも、結果は最初から麻原被告の死刑ということで決まっていた。
 この裁判のなかでも重要な争点の一つとなったのが、麻原被告が果たして裁判に耐えうる精神状態を維持しているのかということであった。裁判所は、検察側の精神鑑定結果を採用し、麻原の不可解な言動は「詐病」によるものであり、訴訟能力ありとの見解を取った。しかし、弁護側が実施した精神鑑定によれば彼はもはや精神喪失状態にあるのだという。
 テレビなどでは、より詳細な鑑定を行えるがゆえに検察側の精神鑑定のほうがより信頼性があるというようなことが述べられている。無論、僕はそのいずれが正しいのかを判断する立場にはない。けれども、検察側の「精神鑑定」もまた、最初から結果の決められた、つまり「麻原には訴訟能力がある」ということを前提に行われたものではないのかという疑念を拭い去ることができない。この点について、オウム報道に深く関わってきた森達也氏の著書から、長くはなるが引用をしておきたい(森達也『世界が完全に思考停止する前に』、pp.106-108)。

法廷内の視線は、すべて彼(麻原被告:引用者)に集中した。刑務官の誘導されて被告席に腰を下ろしてからも、麻原は子供のように落ち着かない。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいている。
 その表情に、ふいに笑みがにっこりと浮かんだ。まさしく破顔一笑だ。でも次の瞬間には、再び苦々しそうな表情に戻っていた。笑みの時間は一秒あまり。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいてから笑うという一連の動作を、麻原は再び繰り返している。律儀とでも形容したくなるぐらいに正確な反復だ。
(中略)
 同じ動作の反復は、統合失調症など精神的な障害が重度になったときに現れる症状の一つだ。麻原の一連の動作に、周囲との同調や連関はまったくない。つまり、彼は自分だけの世界に閉じている。俗な表現を使えば、「壊れている」ことは明らかだった。
(中略)
「彼の今の状態を詐病だという人もいるようだけど、Sさん(共同通信記者。原著では実名で記載されているが匿名とした:引用者)はどう思う?」
「…僕にはそう思えません。」
少しの間を置いてから、Sはそう答える。口調に苦渋が滲んでいた。
 午前と午後の法廷で、麻原のズボンが変わっていたことが何度かあるんですよと教えてくれたのは、裁判所の廊下ですれ違った旧知の記者だった。東京拘置所職員に知り合いがいる雑誌記者に、麻原の入浴は数人がかりで、服を脱がせてホースで水をかけながらモップで洗うという話も聞いたことがある。
 何よりも麻原は、もうまるまる五年間(2004年当時:引用者)、誰とも口を利いていない。仮にもしこれが演技なら、それこそ怪物だ。

 思えば、地下鉄サリン事件以降、オウムに対しては法を逸脱した処遇がなされてきた。オウム信者の前で刑事が勝手に転び、それによって信者を「公務執行妨害」で逮捕するなどといった手法はよく知られているところであるが、それ以外でも通常ではありえないような微罪での逮捕が相次いだ。マス・メディアは逮捕の事実は報道しても、その逮捕が結局は不起訴に終わったことはほとんど報じていない。こうしたことを考えれば、最初から「精神鑑定」の結果が決まっていたとしても何も不思議ではない。
 しかし、麻原被告を死刑にするとの決断は、個々の裁判官や検察官によって下されたものではないように思う。むしろ、そうした個々の判断や法律の次元をはるかに超えた社会的圧力によってあらかじめ下されていたのであり、裁判所はそのような無言の圧力に応じたに過ぎないのではないだろうか。たとえ麻原被告の精神が崩壊していようとも、彼の肉体を滅ぼすことは社会秩序を維持するために絶対的に必要な「儀式」として位置づけられているのではないだろうか。
 そして、少なくとも今の僕には、その是非を論じる能力はない。森氏の記述が正しいとすれば、麻原被告やその他のオウム信者への処遇は、確かに法治国家としての日本のあり方に深刻な疑問を投げかけている。しかし、傍観者が安易に犠牲者や当事者と「一体化」を行うことの危険性を承知しつつも、12人もの死者を出し、今なお多くの人々がその後遺症に苦しんでいる地下鉄サリン事件や、その他のオウム関連の殺人事件を思えば、オウム真理教が断罪されねばならないことは明白である。とりわけ、その主宰者たる麻原被告が重大な責を負わねばならないことは否定しえない。従って、他の弟子たちに死刑判決が下るなか、麻原被告だけが精神状態を理由に免罪されるということを容認するのは極めて困難であろう。
 ただ、もし麻原被告が本当に「壊れている」のだとすれば、森氏が言うように、もっと早い時期から治療を受けさせ、正気を保たせたまま裁判に向かい合わせるべきであったのだろう。完全に壊れた彼を処刑したとしても、そこには謝罪も、反省も、悔恨も、あるいは怨嗟や呪詛すらも存在しない。それは単に、魂の抜けた器を破壊するだけの作業にすぎないのである。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-30 23:49 | 政治・社会

<政治・社会>日本人であることの誇り

 以前、同僚にさる「経済学者」がいた。彼は、会社での仕事に自分の専門的な知識を生かせないことに非常に腹を立てており、いつも職場への不満を漏らしていた。まあ、その点については、僕も同じなのであるが、彼が興味深いのは、自らの経済学の知識を誇るがゆえに、他の社会科学、とりわけ社会学に対して非常に激しい憎悪を抱いていた点である。彼によれば、社会学などを専攻している連中は、数学ができないために経済学を専攻することができなかったからだ、ということになるらしい。そして、この職場ではそうした社会学を専攻する数学のできない連中がのさばっているために、経済学の方法論が軽視されてしまっているのだという。
 社会学を専攻している人たちからすれば、数学ができないから経済学ではなく社会学を学んでいるなどと言われると「はぁ?」としか言いようがないだろう。しかし、この「経済学者」の発想は、ある種のアイデンティティ形成の典型的なあり方だと言うこともできる。アイデンティティとは、石川准氏風に言えば、「自分は他の人間とは異なる、特別な存在だ」という一種の思い込みである。このアイデンティティを維持するため指標にはさまざまなものがあるが、典型的なものとしては学歴がある。「○○大学出身である」というのはアイデンティティの維持にとってしばしば重要な位置を占めることになる。
 ただし、この際に重要になるのは、アイデンティティというのは他者との比較によってしか維持されえないということである。「○○大学出身」がアイデンティティの源泉になるということは、それよりも偏差値や格の点で劣る「××大学出身者」が存在するという点で初めて成り立つのだ。ここで、先の「経済学者」の話に戻れば、彼は職場で自らの不遇を感じており、アイデンティティの危機に晒されていた。そこで、彼が自らのアイデンティティを維持するために持ち出してきたのが、社会学に対する経済学の優位性である。つまり、彼は社会学を見下すことで、経済学の価値を高め、したがってそれを専攻する自分自身の価値を(彼自身のなかで)高めていたわけだ。
 ここでもうひとつ重要なのは、「経済学者」という彼のアイデンティティの維持に必要とされたのが、学歴でも容姿でもなく、社会学という他の社会科学の一分野だったという点である。当たり前のことであるが、学歴にとって重要なのが大学間の比較であるのと同様に、「経済学者」というアイデンティティに固執するのであれば、それと比較されるのは他の学問分野でなくてはならない(念のために言っておくが、世の経済学者の方々の大半は、社会学を見下すような形でのアイデンティティ形成を行っているわけではない、と思う)。
 以上の点を踏まえて、今日の主題にようやく入る。それは、「ナショナル・アイデンティティ」の問題である。ここで言うナショナル・アイデンティティとは、「自分は日本人である」という自己認識のことを意味する。このナショナル・アイデンティティというのは、通常、普通に日常生活を送っている際にはあまり意識されないことが多い。というのも、一人の人間はさまざまな種類のアイデンティティの束を抱えており、どのアイデンティティが顕在化するのかは、その人が置かれた状況に強く左右されるからだ。たとえば、僕が若い日本人女性と話しているときに「ああ、僕はやっぱり日本人なんだなぁ」と思うことはあまりない。むしろ、そういう場合に顕在化しやすいのは、僕が三十路を過ぎた男性だというアイデンティティである。
 では、ナショナル・アイデンティティがもっとも発露しやすいのはどのような状況であるかといえば、それは「日本人ではない」存在と直接的または間接的に接したときである。間接的に接するというのは、たとえばワールド・ベースボール・クラシックなどの外国との試合をテレビで見る場合などがそれにあたる。したがって、日本のプロ野球を見ているときに、「ああ、日本人って凄いっ」などと思う人は少数派で、むしろ「虎ファン」や「アンチ巨人」といったアイデンティティを顕在化させている人が多いと思われる。
 ここから、海外に留学または仕事で滞在すると熱烈なナショナリストになって帰ってくる人が多いということが説明できる。海外では、「自分は日本人である」ということを常に意識されられ続ける。そのため、「日本人であること」に非常に重きを置く人が増えることになる。とりわけ、海外で不愉快な目にあった人は、そうなる傾向が強い。
 ところで、最近では、このナショナル・アイデンティティを教育現場で教える必要性が盛んに論じられている。要するに、「日本人であることの誇り」を叩き込んで、「愛国心」にあふれた人材を育成しよう、というわけだ。確かに、中学時代や高校時代というのは、アイデンティティが非常に不安定で、自分に自信を持つためのなんらかの指標が切に求められる時期である。それは、自我が発達してきたがゆえに、他の人とは違う「自分だけのなにか」が必要とされるようになるからである。そこで、多くの若者は、学力や運動能力、または容姿などを磨くことで、自分のアイデンティティを確立しようとする。しかし、このアイデンティティ形成に失敗すると、自分よりも劣る存在を見出すことで、相対的に自分の地位を高めようとする衝動が生まれることになる。無職の若者がホームレスを襲ったりするのは、そうしたメカニズムの典型的な発露である。
 では、こうした不安定なアイデンティティの確立に「日本人としての誇り」というのは役に立つのだろうか。残念ながら、その確率はあまり高くないように思う。それは、結局、これまで述べてきたように、ナショナル・アイデンティティがもっとも顕在化するのは、「日本人ではない」存在と接触する場合だからである。したがって、周りが日本人ばかりの日本の中学や高校では、「日本人」であることはアイデンティティの確立には役に立たない。差異化の指標にはなりえないからだ。
 しかし、それでも「日本人としての誇り」によってアイデンティティを維持しようとするならば、「日本人ではない」存在や、「日本人らしくない」存在を叩くことが必要になる。つまり、在日や韓国人、中国人、あるいはそれらの人々に「媚びている」反日文化人や『朝日新聞』を叩くことで、自分の存在価値を相対的に確かめることになるわけだ。嫌韓サイトなどを見るたびに、「そんなに嫌いなら放っておけばいいのに」とも思うわけであるが、大嫌いな韓国や中国の情報を必死で集め、わざわざサイトまで立ち上げるという行動を支えているのは、結局のところ、それによって自らのアイデンティティを確立したいという衝動なのだと思われる。
 けれども、そういった形でのアイデンティティ形成が健全なものだとは僕にはとても思えない。「日本人であること」を自己アイデンティティを維持するための核に据えるならば、他の国籍を持っている人を相対的に見下げるしかない。ろくろく会ったことも話したこともない人びとに対して強い優越感を持つというのは、どうがんばってみても精神的退廃である。
 無論、僕は「日本人であること」を否定しているわけではない。海外に行けば、僕もやはり「自分が日本人だ」ということを強く意識させられる。けれども、「日本人であること」によって自分を卑下することが誤っているのと同様に、それによって自分がなにかしら偉くなったかのような観念を抱くとすれば、それは錯覚でしかない。イチローがいかに偉大なバッターであったとしても、彼自身がなんと言おうとも、それは彼自身と彼を取り巻く人々の努力の結果なのであり、それ以外の誰にも帰属しないのだ。まあ、よくあるお国自慢というのは、それほど害があるとも思わないのだが、それを自己アイデンティティの中核に据えてしまうというのは、やはり問題であろう。国籍というのは、結局のところ、数ある属性のうちのひとつにしか過ぎないのだ。
 長くなってしまったのでそろそろ終わるが、まともなアイデンティティの確立していくためには、他者を見下すのではなく、自分で自分の価値を高めていくしかない。勉強やスポーツ、仕事などで地道に努力を積み重ねていくしかないのだ。もっとも、「日本人であることの誇り」を植えつけようというのは、そうした努力ができず、自分自身に自信を持つことができない層の自我を安定させてあげようという、政治家や文部科学省、あるいは保守系文化人あたりのありがた~いご配慮の賜物である可能性も否定できないのだが。 
[PR]

  by seutaro | 2006-03-26 07:26 | 政治・社会

<政治・社会>量的緩和解除

 今日も前回のエントリの続き・・・のつもりだったのだが、なんかうまく言いたいことが書けなかったので、延期。
 というわけで、巷で話題の量的緩和の解除について。といっても、僕に何かコメントをする能力があるわけでもない。1月の消費者物価指数(CPI)が0.5%の上昇だったということが大きく作用したようだが、僕の貧弱な経済学の知識によれば、CPIには技術革新等でバイアスがかかるので、1%ぐらい上昇しないとデフレを脱したとは言えないというように言われていたと思うのだが…。
 まあ、とりあえずゼロ金利は当面は維持される見込みだが、夏以降には引き上げが行われる可能性もあるようだ。日銀は前に一度、大失敗をしているわけであるし、再びデフレが悪化しないことを祈るのみである。
 正直、今回はめずらしく小泉&竹中ペアを応援していたので、残念な結果だという気もする。

(追記)
あとで調べると、CPIのバイアスをどのように捉えるのかは結構、意見が分かれるようだ。ただ、依然としてデフレなのではないかという声は根強い。たとえば、このサイトなどが参考になる。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-10 02:24 | 政治・社会

<政治・社会>ポジショニングの問題

 さて、堅苦しい話にまた戻る。
 前々回のエントリで、ポストコロニアルの話の途中では、眠たくなって挫折してしまった。ともあれ、前々回の要点は、ポストコロニアル的な思想が、「国民」というカテゴリーから排除されたマイノリティの人々に目を向けたということだった。日本の文脈で言えば、ポストコロニアル的なスタンスに立つ研究者は、沖縄やアイヌ、在日韓国・朝鮮人の存在に注目する傾向が強かったように思う。
 さらに、このような視点から歴史を眺めることによって「発見」されたのが「従軍慰安婦」であった。近代化論の洗礼を受けたのち、ポストコロニアル的な観点から日本の社会科学のあり方を省察した石田雄の記述は、このような「従軍慰安婦」の発見がどのようなものであったのかを教えてくれる(石田雄『社会科学再考』 、p.134)。
学徒出陣によって従軍し、敗戦を陸軍少尉としてむかえた私としては、「従軍慰安婦」の存在については当時から十分に知っていた。それにもかかわらず、敗戦によってアイデンティティの危機に直面した軍国青年として、何が戦争中間違っていたかを反省する動機から社会科学の研究に志した私としては、半世紀近くもこの深刻な問題を社会科学的に究明する責任を果たしていなかった点を深く恥じなければならない。この反省が、おくればせながらジェンダー研究に私の関心を向かわせることになった。その際に私の眼の前につきつけられた現実は、性差別と民族差別の二重の被害者としての「従軍慰安婦」であった。
 石田のように実際に従軍体験があったならば、「従軍慰安婦」というある意味において究極のマイノリティを直接視野に入れた研究を行うことも可能だったかもしれない。しかし、そうではない僕にとって、このようなマイノリティの側に素直に寄り添う研究に対しては、どうしても違和感が拭いきれなかった。というのも、僕は結局のところ、どこまで行っても日本社会ではマジョリティの男性なのであって、差別や抑圧などとは程遠い存在でしかないからだ。そんな僕がマイノリティのための言説を発することの「白々しさ」に僕は耐えることができなかった。それはまるで、マジョリティとマイノリティの間に何かの「膜」があって、その膜の向こう側に一歩でも足を踏み入れたなら、僕の言葉が全て胡散臭くなってしまうような、そんな感覚だった。
 こうした僕の感覚というのは、おそらく連合赤軍で見られた「自己批判」に通底するものがあるように思う。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』で述べられているように、連合赤軍の総括では、際限なき自己批判が行われ、それがリンチなどの悲劇を生むことになった。要するに、彼らは基本的には大学にまで進学し、なおかつ理論武装するほどの経済的余裕をもった学生だったのであり、彼らが救済を目指す貧困層とは程遠い存在であった。従って、真の革命的闘士たるには、自らの内なる「ブルジョワ性」を自己批判によって克服する必要がある、ということになったわけだ。
 そして、これと類似した問いというのは、ポスト・コロニアルの思想にも付きまとっている。つまり、知識人が発言する機会を奪われてきたマイノリティの代わりに代弁することが本当に可能なのか、いかなる資格において代弁することが出来るのか、という問いである。とりわけ、人類学の分野では、こうした代弁者としての人類学者のポジショニングが様々な形で論じられるようになった。
 このように、僕が先程述べた「膜」の問題は、マジョリティに属する研究者や知識人が、マイノリティの問題を扱う際にしばしば発生する。連合赤軍は、そのような膜の問題を自己批判によって乗り越えようとしたのである。
 けれども、僕は、そうしたポジショニングの問題については、深く考えないことにした。つまり、最初からマイノリティの側に立って何かを書いたり、言ったりすることを放棄したのだ。そうしなければ、自分が書いたことを自分で信じられなくなる、と僕は思った。僕はマジョリティとしての自分の存在を否定するよりも、それを素直に受け入れる方向性を選んだのだ。
 ただし、それはマジョリティさえ良ければそれで良く、マジョリティマイノリティがどうなろうと知ったことではないといった発想に落ち着くということを意味しない。次回のエントリでは、この点について、詳しく述べることにしたい。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-09 02:22 | 政治・社会

<政治・社会>がんばれ!公務員

b0038577_2105940.jpg 異様にハードな話題が続いているので、今日はちょっとお休みしてもうちっと世俗の話を。
 最近、公務員の人件費削減だとか、公務員官舎の整理だとか、公務員の方々には厳しい流れが出来ている。けれども、ここ最近のマスコミ等による公務員バッシングはいくらなんでも度が過ぎているのではないだろうか。
 たとえば、やや古い本だが、林雄介『霞ヶ関の掟 官僚の舞台裏』などを読むと、国家公務員、とりわけキャリア官僚の労働条件は滅茶苦茶である*1。連日、午前3~4時ぐらいまでの残業をこなしており、元キャリア官僚だったこの本の著者も月に220時間の残業をこなしていたという。残業代もろくにつかないため、計算すると自給220円!だったそうな。ここまで酷い労働を強いる職場は民間でも稀だろう。

*1 なお、この本の巻末についてある官僚大辞典はネットでも読める。なかなか面白いので、おすすめである。

 実際、このブログでも、霞ヶ関の明かりが明け方まで消えない様子が述べれられている。このような苛酷な労働を強いられる公務員のなかには、自殺する人も多く、国家公務員の死因の第2位は自殺なのだそうな。また、ノイローゼになったり、家族を省みる余裕がないために家庭崩壊に至るケースも多いそうだ。
 無論、公務員全てがそのような労働状態にあるというわけではなくて、特に地方の役所にはのんびりした人が多そうである。従って、制度改革を行うにしても、「公務員」と一律に論じるのではなくて、職場の状況を入念にチェックした上で実施していく必要があるだろう。単に「安定しているから」だとか、「いい官舎に住んでいるから」などといって安易な官僚バッシングを続けていると、優秀な人材が集まらなくなる危険性が高い。
 なんだか公務員の回し者のようなエントリを書いてしまったが、なんというか、最近の政策動向を見ていると、さすがに気の毒になってくる。キャリア官僚の人員削減なんかしたところで、たいして人件費が削れるわけでもないだろうに・・・。
 というわけで、がんばれ、公務員!
[PR]

  by seutaro | 2006-03-08 02:31 | 政治・社会

<政治・社会>ポスト・コロニアリズムの限界

 前回のエントリでは、1980年代から1990年代にかけて、国民国家批判が高まってきたことを論じた。その背景には、僕が前回で述べたように近代化論の挫折やポスト・コロニアリズムの潮流の高まりといったことがあった。が、保守系の言論人が指摘するように、ソ連の崩壊により資本主義批判の拠り所をなくした左翼が、仕方なしにその批判の矛先を国民国家に向けるにようなったとの指摘が妥当する部分もあっただろう。
 さて、この国民国家批判であるが、その批判の理由となったのは、「国民」というカテゴリーが日本社会の様々な多様性を覆い隠す一方で、少数者に対する差別意識や排他的意識を醸成する可能性が存在するからである。
 こうした考え方は、「東京なんぼのもんじゃい」という大阪で生まれ育った僕には、非常になじみ易いものであった。つまり、たかだか「東京弁」に過ぎない言葉遣いがなぜか「標準語」と見なされてしまうことに反発を覚える雰囲気がそこには存在していたのである。
 ところが、ポスト・コロニアリズムは、「国民」内部の多様性に目を向けるというよりも、「国民」というカテゴリーが排除された人びとに焦点を当てていたように思う。つまり、エスニシティ、人種、女性といった「弱者」に研究者の目は向けられることになったと言えよう。
だめだ、眠すぎる。。。今日はもう寝よう。。。。

 
[PR]

  by seutaro | 2006-03-07 02:02 | 政治・社会

<政治・社会>近代化論とナショナリズム批判

 ひさびさにいい肉のすき焼きを食べたら、胃がもたれること、もたれること。脂がのってる分、胃への負担も大きいようですな。たくさん肉を食べられなくなってきたのは、やっぱり老いてきたということなのであろうか・・・。
 さて、今日は前回のエントリの続きである。前回、左翼やリベラルとナショナリズムとの相性は必ずしも悪いものではなかったことを述べてきた。ところが、80年代から90年代にかけて、それらの陣営においてナショナリズム批判が盛んに行われるようになる。そこには、いかなる理由が存在していたのだろうか。
 ここで注目したいのは、いわゆる「近代化論」と呼ばれる学問の流れである。近代化論とは、1950年代から1960年代にかけて、次々に独立を遂げていった旧植民地の国々をいかに近代化させ、欧米的な国民国家形成を実現していくのかを論じていた学問分野であり、とりわけ米国の社会科学には極めて大きな影響を及ぼしたと言われる。
 米国において近代化論がそれほどまでに影響力を持った背景には、冷戦という当時の時代背景が存在した。つまり、途上国に対するソ連の影響力を食い止め、欧米的な国家を作り上げることこそが近代化論の最も重要な使命なのであった。
 従って、米国においては近代化論は国家のイデオロギーとしての色彩を強く有していた。しかし、こうした近代化論の日本への移入の中心となったのは、むしろ反体制的なリベラルな知識人たちだったように思われる(左翼は近代化論には批判的であった)。そして、日本での課題は無論、近代化論を通じて日本の前近代性をいかに克服し、欧米的な国民国家を形成するのかということであった。
 ところが、1960年代の後半に入ると、近代化論は急速にその影響力を低下させていく。その背景には、途上国の近代化がうまくいっていないことが徐々に明らかになっていったということがあった。先進国と途上国との経済格差が広がりを見せるようになり、近代化論を否定する形で従属論や文化帝国主義論などが唱えられるようになる。
 さらに、途上国で民族紛争が頻発したことは、国民形成の暴力性を如実に示すことになった。多くの民族や部族が暮らす途上国における国民国家形成の試みは、多くの場合、支配的な権力を握る多数派民族による少数民族への弾圧・迫害を生じさせることになり、場合によっては内戦にまで発展することになった。
 しかも、1960年代から1970年代にかけては、先進国の内部においても「国民国家」モデルの妥当性が疑われる事態が発生した。それは、米国の公民権運動に代表されるマイノリティの異議申し立て運動であった。つまり、国民国家形成が完了したと思われていた先進国においてすら、エスニック・マイノリティの問題が存在していることが明らかになったのである。
 これらの事態を背景に、それまでは所与とされてきた「国民国家の形成」という目標の妥当性自体が疑問視されるようになる。つまり、多様な人びとを「国民」というカテゴリーに無理やり押し込めることによって、様々な抑圧や暴力が発生しうることが強く認識されるようになったのである。そうした潮流のなかで注目を浴びるようになったのが、ポスト・コロニアルという研究の流れである。
 ポスト・コロニアルとは、植民地支配や国民国家の論理のもとで、抑圧され、自ら語る機会を奪われていた人びと(少数民族、とりわけその中でも女性)の声を拾い上げようという営みである。言わば、それまでは発するべき声を奪われてきた人々の観点から歴史や社会認識を再構成しようとする試みだと言いうる。こうしたポスト・コロニアリズムは、1980~90年代にかけて噴出する「国民国家批判」において重要な役割を果たすことになった。
 なお、日本においては、おそらく上述のものとは別の理由において「近代化論」は影響力を減じていくことになる。その理由とは、日本の急速な経済成長である。高度経済成長により、経済大国化していくなか、日本の「前近代性」を批判の対象とする研究が支持を失うのは時間の問題であったと言える。たとえば、青木保『「日本文化論」の変容』によれば、日本が経済成長によって、「日本文化論」の論調もまた大きく変わっていったのだという。つまり、戦後直後には極めて否定的に論じられていた「日本文化」が、徐々に肯定的に論じられるようになり、やがては「日本文化」の優秀性を説き、それを海外に輸出する必要性を説く論説すら現れるようになった。
 このようにリベラルの「近代化論」はその勢いを減じていくことになったが、近代化論に否定的だった左翼勢力もまたその力を失っていく。内部分裂や内ゲバ、過激派によるテロなど、運動と世論との乖離は大きくなる一方であり、労働運動の停滞も明らかになっていった。
 そうした中、「近代化」や「労働者」などに代わり、リベラルや左翼にとっての重要なキーワードとなったのが「市民運動」や「マイノリティ」であった。「市民運動」について言えば、労働運動のような強固な組織に支えられることのない、自立した市民による自発的な運動であり、「マイノリティ」は、これまでは「国民国家」の論理のもとで不可視とされていた差別構造を暴き出す存在だとされた。そして、この「市民運動」であれ、「マイノリティ」の運動であれ、重要なのは、それが物質的な価値というよりも、価値観やアイデンティティといった精神的な価値を追求する運動だとされたという点である。
 従って、これらの運動による批判の対象は、物質的な富の分配に関係する資本主義システムというよりも、価値観やアイデンティティをより強く規定するもの、つまり「国民」というカテゴリーであり、それを前提として成り立つ「国民国家」であった。ここで、左翼やリベラルの多くは、権力装置としての国家のみならず、「国民」というカテゴリーが生じさせる暴力性と対決する道を選ぶことになる。
 以上、いい加減長くなってきたので、今回はここら辺で終わる。次回のエントリでは、今回書ききれなかったポイントについて、いくつか論じておきたいと思う。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-05 02:41 | 政治・社会

<政治・社会>左翼とナショナリズム

 気づけばもう3月。僕にとっては憂鬱な季節の始まりである。これから2ヶ月近く、僕は外出中は常にマスクを着用しなくてはならない。そう、僕は花粉症(スギおよびヒノキ)なのだ。
とはいえ、花粉症を患ってすでに20年近く。それなりに対処法は心得ている。たとえば、マスクは使い捨ての蛇腹のものを毎日取り替えて使う。このほうが高級なマスクを長く使うよりもずっと良いように思う。
 ただ、この蛇腹のマスク、問題がないわけではない。暖かいところから急に温度が低いところに出たとき、マスクから眼鏡に向かって流れる息によって眼鏡が結露してしまうのである。ひどいときには、眼鏡が完全に曇ってしまい、全くもって前が見えなくなる。というか、完全に結露した眼鏡をかけたマスクの男が歩いてきたら、それだけでかなり不気味ではなかろうかと心配になる今日このごろである。
 さて、前置き(?)はこれぐらいにして、今日の本題「左翼とナショナリズム」である。一般に、左翼とナショナリズムとは相性が悪いように思われている。左翼といえば「地球市民」志向であるとされ、2ちゃんねるなどでは、「反日サヨク」などという表現を目にしないことのほうが珍しいぐらいである。
 しかし、左翼とナショナリズムとの相性が悪くなったのは、そう昔の話ではない。正確に言えば、戦後の長きにわたって、左翼は「反国家」ではあったかもしれないが、「反国民」ではなかったのである。すなわち、「国民国家(nation-state)」としての日本において、国家に対抗しつつ国民のために戦う、というのが左翼の基本姿勢であった。
 事実、磯田光一『戦後史の空間』でも、左翼の側が積極的に「民族」や「国民」という言葉を用いていたことへの驚きが表明されている(p.147)。また、六〇年安保闘争の記録である日高六郎編『1960年5月19日』を紐解けば、以下のような記述が見られる(p.16)。

「国民とは国民たろうとする人民だ」。また「国の方向をつくり出していく人民だ」。そうだとすれば、ここで様々な形で―沈黙の監視を含めた―運動に参加した人々こそ「国民」ではないか。政府と国家機構の外で、自ら日本の政治の方向づけを行う「被治者」は、自分が権利の上で国家よりも先にあるものとしての「国民」であることを知りかつ示した。
 さらに、この本にはいくつか写真が掲載されているのだが、その中の一枚には割烹着を着たおばさんが「日本人ならぼくらの列に入れ 警官諸君」という警察官への安保闘争参加を呼びかけたビラと一緒に移っている。
 こうした左翼の側のナショナリズムについて、詳細な分析を行ったのが、小熊英二『民主と愛国』である。小熊は、戦後において民主主義と愛国心とが共存しえた時期があったことを膨大な資料をもとに極めて説得的なかたちで描き出している。
 ただし、左翼とナショナリズムとの相性が悪いと想定される根拠は確かに存在する。左翼のバイブルであり続けたマルクス・エンゲルス『共産党宣言』には、次のような一節がある(大内・向坂訳、p.65)。

…共産主義者に対して、祖国を、国民性を放棄しようとする、という非難が加えられている。労働者は祖国をもたない。かれらのもっていないものを、かれらから奪うことはできない。
 「万国のプロレタリア団結せよ!」で結ばれるこの文書の通り、左翼の運動は「インターナショナル」として組織され、左翼青年が歌うものとしては「インターナショナル」の歌が定番であったという。このような国際主義とナショナリズムとの矛盾を見出すことは確かに可能だろう。
 ところが、高名な社会科学者であった高島善哉は、この記述について次のように述べている(『民族と階級』p.65)。
「労働者が祖国を持たない」というのは、プロレタリアには祖国はいらないという意味ではない。またプロレタリアは祖国を持つべきではないという意味ではありえない。さらにまた、プロレタリアは来るべき社会主義体制の下では祖国を持たなくなるであろうという意味でもない。『宣言』の著者たちがここで述べているのは、資本主義体制の現段階においてプロレタリアは祖国を失っている、あるいは奪われているという事実であるにすぎない。
 無論、こうした高島のマルクス解釈が左翼の間で広く共有されていたかどうかは疑わしい。けれども、磯田や小熊が言うように、多くの左翼は自分たちの思想と愛国心とが矛盾するとは考えていなかったように思われる。
 さらに言えば、戦後リベラルの代表者たる丸山真男にしても、ナショナリズムを否定していたわけではない。丸山は戦前日本の「ウルトラ・ナショナリズム」に対して極めて否定的であったが、それはそうした思想が「国民的解放の原理と訣別」し、帝国主義との癒着を生じさせたからであった(『現代政治の思想と行動』p.160)。丸山は同族意識に基づく閉鎖的な伝統的ナショナリズムを破壊し、近代的なナショナリズムを生み出すことで日本に民主主義は根づくと考えていた。この点については、以下の記述が参考になろう(p.168)。
「デモクラシー」が高尚な理論や有難い説教である間は、それは依然として舶来品であり、ナショナリズムとの内面的結合は望むべくもない。それが達成されるためには、やや奇矯な表現ではあるが、ナショナリズムの合理化と比例してデモクラシーの非合理化が行われねばならぬ。
 さらに、佐藤卓己によれば、丸山は戦前型のナショナリズムを「国家主義」と訳し、民主主義と結びつくような近代的ナショナリズムを「国民主義」と訳し分けることにより、後者を救い出そうとしていたのだという(佐藤「訳者解説・あとがき」p.236(モッセ『大衆の国民化』に所収))。
 以上のように、戦後の左翼・リベラルにとって、ナショナリズムは多くの場合、否定すべきものではなかった。それではなぜ、左翼・リベラルとナショナリズムとの訣別が生じたのだろうか。次回のエントリでは、その辺りの事情について論じたいと思う。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-04 02:14 | 政治・社会

<政治・社会>ネタのない日は・・・

 今日はとりたてて、ネタが思いつかないので、ちょうど手元にあった本からのコピペでも。

メディア現実(メディアの作る現実)が自然的な幻影であることを「見破る者」は、むろんそれを「廃棄」して真の現実を見る誘惑に駆られる。だが実は、メディアの向こうに何かがあると信じることが、ポストモダンの自然的な幻影を完成させるのである。言い換えれば、メディア現実がはじめて、「本物の」現実への期待を生み出すのだ。
ノルベルト・ボルツ『意味に飢える社会』p.177

 インターネット上ではマス・メディアに対する批判が絶えない。いわく、「マスゴミは嘘ばっかりだ。」ただ、このような批判の前提となるのは、メディアによって歪められない「ありのままの現実」が存在するということである。
 けれども、そうした「真の現実」に対する欲求それ自体、マス・メディアが存在することで生み出されるのだ。つまり、「虚偽の現実」に取り囲まれているという感覚こそが、「ありのままの現実」への欲求を生み出すのである。従って、仮にマス・メディアが消滅し、「虚偽の現実」に取り囲まれているという感覚が失せていけば、「真の現実」への欲求もまた衰退していくであろう。
[PR]

  by seutaro | 2006-03-03 02:46 | 政治・社会

<政治・社会>至言

ここのブログからの引用であるが、う~ん、石橋湛山、いいこと言うなあ…。

石橋湛山が二・二六事件をうけて『東洋経済新報』でかく語りき

「記者の観るところを以てすれば、日本人の一つの欠点は、余りに根本問題のみに執着する癖だと思う。この根本病患者には二つの弊害が伴う。第一には根本を改革しない以上は、何をやっても駄目だと考え勝ちなことだ。目前になすべきことが山積して居るにかかわらず、その眼は常に一つの根本問題にのみ囚われている。第二には根本問題のみに重点を置くが故に、改革を考えうる場合にはその機構の打倒乃至は変改のみに意を用うることになる。そこに危険があるのである。

 これは右翼と左翼とに通有した心構えである。左翼の華やかなりし頃は、総ての社会悪を資本主義の余弊に持っていったものだ。この左翼の理論と戦術を拒否しながら、現在の右翼は何時の間にかこれが感化を受けている。資本主義は変改されねばならぬであろう。しかしながら忘れてはならぬことは資本主義の下においても、充分に社会をよりよくする方法が存在する事、そして根本的問題を目がけながら、国民は漸進的努力をたえず払わねばならぬことこれだ」(「改革いじりに空費する勿れ」昭和11年4月25日『東洋経済』社説)

あとついでに、このブログから、これもいい発言。

いっぱんに「改革」の好きな人は仕事ができません。というか仕事ができないのは、制度のせいだとおもって、改革をしたがります。狭い範囲の見聞ですが。そういうひとはカリキュラムをいじるのが好きです。



もっとも(本当の)現場では、「改革」は自発的になされる場合がほとんどありませんが。というか日々、このような「改革」の残務処理に追われていて、そのような余裕がない、というべきかもしれません。(遠い目。)

ちなみに、「教育改革」の時間的コストによって、肝心の教育がおろそかになるという本末転倒な事態については、広田照幸『教育不信と教育依存の時代』に詳しい
[PR]

  by seutaro | 2005-11-30 00:31 | 政治・社会

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE