カテゴリ:政治・社会( 58 )

 

<政治・社会>小さな政府?

僕はしょっちゅう訪問し、いろいろと楽しませてもらっているウチダ先生のブログであるが、どうにもウチダ先生は具体的な政治の話となると、ときどきポカをやらかしてしまう。

たとえば、このエントリであるが、ここでのウチダ先生が『朝日』の購読を止めたという話はどうでもよくて、問題は先生の「小さな政府」論である。

ウチダ先生は日本では「大きな政府」というのがそもそも不可能であり、国民は政府のダウンサイジングを選択したとの意見を述べておられる。が、あちこちで指摘があるように、日本の政府は既に非常に小さいというのが実情である。疑問に思う方は、以下のサイトを参照されたい。

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200508251149164

http://bewaad.com/20050811.html#p01

ここ最近、国家公務員の数を削減する話が浮上し、経済財政諮問会議の要求する削減水準よりも低いことが問題とされている。ところが、この経済財政諮問会議の面々はどうにも国家運営を企業経営の延長線上で考えてしまうので、企業のコスト削減の感覚で安易に財政支出や公務員数の削減を主張してしまう。

また、マスコミにしても重度の構造改革病にかかっているので、そもそも政府の適正規模はどの程度なのかという議論をすっとばして、政府は小さければ小さいほどいいという強迫観念的な主張を繰り返す。

正直、身近に付き合いがあるぶん公務員という存在にはあまり好感は持ってないし、不愉快な目に合わされることも少なくはない。しかし、それでも彼らの殆どが真面目に職務を遂行し、残業をこなしていることは認めざるをえない。結局、以前のエントリでも書いたように、スケーブゴート第一弾として、公務員に対する攻撃が本格的に始まったということなのだろう。

さて、次の「敵」は誰なんでしょうかねぇ。
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  by seutaro | 2005-10-05 00:32 | 政治・社会

<政治・社会>「負け組」を越えて

 さて、予告しておいたイギリスの労働者階級のお話である。といっても、「労働者階級」というのは、イギリスでも決して一枚岩ではない。たとえば、多くの労働者は労働党を支持しているとはいえ、選挙法改正によって労働者にも選挙権が与えられるようになって以来、保守党を支持する労働者は決して少なくなかったし、特に1980年代のサッチャー政権時代には保守党による労働者の取り込み戦略が大きく効を奏していた。

 とはいえ、やはりイギリスでは、階級の存在を感じさせられる機会が日本に比べてずっと多いように思う。その大きな理由のひとつは、既に述べたように、労働者というカテゴリーが「弱者」としては位置づけられていなかったということにある。

 ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』は、イギリス労働者の文化に注目したカルチュラル・スタディーズの古典の1つであるが、ここでは労働者階級の男性の自尊心のありようが克明に描き出されている。彼らは社会階層的には低い層に属する「労働者」だからといって、決して自らを弱者であると考えているわけではない。むしろ、彼らの観点からすれば、ホワイトカラーの連中というのは、「女のような」仕事をしている体制に従順な連中でしかない。むしろ、彼らのほうこそが「男らしい」仕事をしている強者なのである。すなわち、彼らは「労働者」であることに誇りを見出しているがゆえに、労働者階級に自己を位置づけていることが出来ているのである。

 ここで日本への視点を移すならば、社会階層の低い人々が積極的に自らを位置付けることができるようなカテゴリーは今のところ存在していないのではないだろうか。無論、イギリスの労働者に見られるようなアイデンティティを持って仕事に取り組んでいる人びとは日本でも無数にいるだろう。けれども、それが社会で幅広く流通するようなカテゴリーとして成長するには至っていないというのが現状であろう。

 近年、社会階層の低い人々に対して頻繁に用いられるカテゴリーとしては「負け組」が挙げられよう。けれども、自嘲的に自分のことを「負け組」と呼ぶ人びとがいるにせよ、「負け組」は決して多くの人びとが誇りをもって自己を表現するために用いることの出来るカテゴリーではない。特に、能力主義の哲学が浸透した社会においては、「負け組」=「無能者」という等式が暗黙のうちに成立することになる。こうした状況においては、社会の大多数が自らを「負け組」あるいは「弱者」と認めるようになる事態はすぐにはやってこないだろう。そのことが「弱者ってそもそも誰のことだ?」という疑問をあちこちで噴出させているのである。

 従って、たとえば選挙戦において「負け組」または「弱者」にターゲットにした選挙戦略は、最初から失敗することが定められている。無論、だからと言って「プロレタリアート」や「労働者」といった手垢のついたカテゴリーによってよりポジティブなアイデンティティを構築することを目指すのもナンセンスだろう。

 それでも、社会のごく一部の層だけが利益を得るような政策を推進する政権を「弱者」が熱狂的に支持するような状況を変えたいと願うのであれば、自己を「弱者」として卑下することなく支持できるような代替政策を打ち出していく必要があるだろう。

 無論、僕にはそのための戦略を生み出す能力などない。けれども、そのための重要な要素となりうるのは現在のシバキアゲ型資本主義とは異なるタイプの資本主義のヴィジョンを描きだすことだろう。そういう意味で、僕はたとえば稲葉振一郎氏の『経済学という教養』に見られるような試みを高く評価したい(アマゾンのカスタマーレビューでは、非常にナンセンスな評価も散見されるが)。無論、問題はそれをどうやって「ネタ」が支配する劇場型政治のなかで多くの人びとに受け入れられるような形にしていくのかということなのであるが。
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  by seutaro | 2005-10-02 12:28 | 政治・社会

<政治・社会>この後に及んでマルクス主義

今さら、というか何と言うか、ネットサーフィンをしていたらこの間の総選挙に関するブログにぶつかった。

http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/d/20050914

このブログの筆者である佐々木氏は、『朝日新聞』の選挙に関する記事を紹介し、次のように述べている。
しかしブロゴスフィアの外側――特にマスメディアでの有識者たちの発言には、有権者を愚弄しているとしか思えないような内容のものも目立っている。たとえば投開票日の翌朝の朝日新聞の社会面には、何人かの有識者がコメントを寄せていて、本田由紀・東大助教授は<経済的弱者が、政策的に手を差し伸べてもらうことよりも、「ぶっ壊す」ことを訴える小泉首相に、希望を見いだした可能性はある。現状が厳しいほど、単純なカリスマに自分を同一化して、「この人だったら何かをやってくれるかもしれない」と>と指摘した。相当に辛辣というか、弱者に厳しい意見ではないか。朝日新聞とは思えない。

しかし、左翼が大衆を愚弄するような意見を言うべきではないと考えているのだとすれば、佐々木氏の認識は相当に間違っていると言わざるをえない。むしろ、左翼の総本山であるマルクス主義の歴史は「衆愚」といかに対峙するのかを論じてきた歴史であるとすら言いうる。

僕のマルクス主義に関する知識は相当にいい加減なので話半分で読んで欲しいのだが、よく言われているようにマルクスは革命が最初に起こるのは、資本主義が最も高度に発達したイギリスだと考えていた。ところが、革命の兆しのようなものはあったにせよ、実際に革命によって社会主義政権が誕生する気配はない。

そこで、出てきたのが「前衛」という考え方である。要するに革命エリートたる共産主義者たちが、革命の何たるかを理解できない大衆を指導する必要がある、というものだ。でもって、レーニンはこの前衛論でもって共産党独裁型のソ連という国家を築き上げることになった。

他方、西欧では、なんでそもそも大衆は革命を起こさないのかという問題に研究者たちは取り組むことになった(ここに、「なぜ切り捨てられるはずの弱者が小泉首相を支持するのか」という問題意識と共通するものを見つけ出すことは困難ではないだろう)。そこで、彼らが注目したのは、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の「ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想にすぎない」(大内・向坂訳、p.66)という一節である。要するに、彼らは「虚偽意識」を植え付けられているがゆえに、自分たちの真の利益を認識することができず、支配階級の利益に沿った行動をしてしまう、ということだ。

こうした考えに基づいて、大衆の革命精神をそぎ落としてしまう要因を考察したのが、イタリアで言えばアントニオ・グラムシであり、ドイツで言えばフランクフルト学派だということになるだろう。グラムシは「ヘゲモニー」という発想を取り入れ、文化の領域において闘争を進めることで革命を発生させうることを主張した。他方、アドルノやホルクハイマーといったいったフランクフルト学派は、大衆の革命精神を堕落させる大衆文化の研究を行った。

ところで、このアドルノらの研究は難解を極め、僕も『啓蒙の弁証法』のあまりの難しさに途中で挫折している。ノルベルト・ボルツが『意味に飢える社会』という著作で述べている「(アドルノの言う)否定弁証法とは何かを理解するための努力は並大抵ではなかったので、その内容は真理だと思うしかなかった」との皮肉は(p.188)、まさにこうした批判理論がごくごく一部の層にしか理解されていなかったことを的確に表している。

このような難解な言語を駆使し、それによって大衆の愚かさの源を探ろうとする理論家たちに強烈なエリート意識があることは明らかであり、ここからも大衆への蔑視と左翼思想とが決してかけ離れたものではないことが理解できよう。

以上のようにマルクス主義の研究者たちの分析対象は、下部構造(経済)から上部構造(イデオロギーや文化)へと徐々に移行していくことになる。近年、日本でも流行しているカルチュラル・スタティーズもこの流れに位置づけることができる。

さらに、こうしたマルクス主義の変貌のなかで、下部構造によって規定された階級の存在そのものを疑う学派が登場することになる。つまり、それまでのマルクス主義では、大衆は確かに支配的なイデオロギーによって自らを階級構造のなかに位置づけることはできないかもしれないが、「客観的」に見れば階級構造は厳然と存在しているとの立場を取っていた。それに対して、ラクラウやムフらの「ポスト・マルクス主義」では、人びとがその経済的な地位によって本質的に帰属させられるような階級など存在せず、階級帰属を決定するのは文化的なヘゲモニーであることが宣言されることになったのである。

このようなポスト・マルクス主義の発想は、今日では大きく揺らいでいるとは言え、社会階層的に見れば最上層や最下層に位置づけられうるような人びとまでもが「中流意識」を持っていた日本社会に暮らす我々にとっては非常に馴染みやすいものだろう。

むしろ、我々の観点からすれば、逆になぜ西欧では「階級」というカテゴリーが、革命を起こすほどではなかったにせよ、大きな影響力を持ちえたのかということが疑問として浮かびあがることになろう。僕はイギリス留学中、たびたびイギリスが「階級社会」であることを意識させられたし、労働者の多くは「第三の道」を採用して大きく変化したにしても労働党を明確に支持し続けている。

僕の見解では、それは「労働者」という一般的には「弱者」に分類されうるカテゴリーが、決してネガティブで弱々しい意味合いだけを持っていたわけではなかったということに起因している。が、そろそろ長くなってきたので、とりあえず続きは次回ということにしよう。
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  by seutaro | 2005-09-30 00:45 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 4

この「すべてが『ネタ』になる」シリーズも第4回目であるが、実はこの「すべネタ」話は、以下のブログに触発されて書いている。

猿虎日記「コイズミ・オブ・ジョイトイ?」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050828
つまり、余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです。「独裁者小泉をマジで熱烈に支持」なんて人はめったにいない。どこか、半分馬鹿にしているし、自分自身も半分醒めている(つもり)なのです。逆に、小泉のことを独裁者だとベタに批判する人を見ると「何マジになってんの? あんな面白いもの、支持するしかないでしょう」と嗤うわけです。小泉は危険なんかじゃないのです。……いや、危険であってはならないのです。なぜなら、小泉は、テレビの中の住人だからです。政治とは、テレビの中のプロレスと同じで、自分たちと関係ない、いや、関係があってはならないのです。だから、私たちは、安全なお茶の間にいて、四角いマットの上で繰り広げられる血しぶきを上げた闘いを眺めることができるのです。

前回、ナチスドイツの話を書いたが、だからといって小泉首相=ヒトラー的独裁者などと言うつもりはない。ただ、この上の指摘にもあるように、実は我々が考えているほどに、ヒトラーの信奉者たちはのぼせ上がっていたわけではなかったかもしれない、むしろ「ネタ」として楽しんでいた部分があったのかもしれない、ということを前回のエントリでは言いたかったのである。

以上のように、「ネタ」であることを承知しつつそれを受け入れるという立場は、現在のネオナチ的なムーブメントにも見られる。彼らの多くは「人種的」な「純潔」だとか「優越性」に意味などないことを知りながら、それらの主張をもとに移民や外国人の排斥運動を行っているという。

このように考えてくると、古今東西の様々な政治的・社会的運動には「ネタ」的な側面があったのではないかとも思えるような気がする。無論、そうした運動を支える人々の間に信仰心に近いような純粋な側面が存在することは否定できない(だからと言って、それが良いことではないのは後で述べる)。しかし、特に運動が拡大していくにつれて、それが「ネタ」でしかないことを知りつつも、大勢に順応するかたちで支持にまわる連中が増えてくるのではないだろうか。

ただし、時間が経つにつれて、そうした「ネタ」を「ベタ」なものとして受け取る層が出てくることに注意する必要がある。特に、こう言っては失礼にあたるかもしれないが、若年層は社会的な経験を欠いているがゆえに、そうした「ネタ」を額面通りに受け取る傾向にある。従って、運動側からすれば、若年層は非常に利用しやすい層だと言える。実際、ファシズム等の社会運動は若者にターゲットを当てることが多く、また実際に数多くの若者が熱狂的にそれを支持することになる。

そして、このように運動の参加者たちが「ネタ」を「ベタ」として受け入れるようになると、運動は決定的に変質していく。つまり、その運動が持っていたある種の批評性は失われ、ドグマ化した「ネタ」が暴走を始めることになる。

繰り返しになるが、僕は小泉首相が云々ということを言いたいのではない。ただ、ある思想や運動が「ネタ」であるからと言って、取るに足りないと考えるべきではない、ということが言いたいのである。

そうした「ネタ」に対するベタな反論は意味をなさないばかりか、逆効果ですらある。「ネタ」が支配する空間におけるベタのコミュニケーションの空しさは筆舌に尽くしがたいものがある。小林よしのり氏に対する批判にどうにも空しさが漂っているのは、「ネタ」に対してベタな批判を試みているからに他ならない。氏の立論がいかに論理的に破綻していようとも、「ネタ」である以上、それはさして重要な問題ではないのである。

だからと言って、「ネタ」に対して「ネタ」で対抗するという戦略にも自ずと限界がある。結局それは、プレゼンテーションの巧拙を競うだけの争い(どちらがより「面白い」のかという争い)となり、結局は資本を多く投下できる側、つまり「声の大きい者」の勝利しかもたらさないだろう。

「『ネタ』の支配する空間において、いかに真摯なコミュニケーションを回復するのか。」現在の僕には、この問いに対する回答はどうも出せそうにない。
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  by seutaro | 2005-09-26 00:26 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 3

どうにも迷走しながら続いていて、書いている本人も一体どこにたどり着くのかがイマイチ明確でないのだが、とりあえず前回の続きである。

前回は、山本七平氏の『「空気」の研究』を引きながら、「空気」の支配する空間では人びとが互いに「ネタ」もしくは演技であることを承知しながらも、ベタなコミュニケーションを行うが許されないことを指摘した。それが出来ない者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる。

人びとが虚偽であることを知りつつもそれにコミットしていく態度というのは、相対主義が蔓延する時代において特に顕著であるように思われる。つまり、全てが真理でないのであれば、数ある「嘘」のなかでより「気持ちの良い嘘」を信じようとする衝動が生じるのではないだろうか。

たとえば、ロバート・マートンによれば、ナチス・ドイツを支持した社会理論家たちは急進的な相対論を採用していたのだという(『社会理論と社会構造』p.496)。強引にこれを言い換えるならば、そうした理論家たちはナチスの言うような「アーリア人種云々」という与太話が「ネタ」であることを予め認識していたのではないだろうか。しかし、たとえそれが「ネタ」であったとしても、当時の疲弊したドイツ社会に暮らす人々に「自信」と「誇り」を与えるがゆえに彼らはその「ネタ」に乗ることにしたのではないだろうか。

さらに言えば、そうした「ネタ」であることを認識しつつも乗ったのは、そうした知識階層の人びとばかりではなく、多くの一般人もまた同様だったように思われる。僕はナチスに関する膨大な既存研究をレヴューする立場にはないが、ナチスとはある意味、壮大な「ネタ」として始まったのではないだろうか。

ところで話は急に変わるが、僕はかつて、人が物事を学ぶのには3つのステップがあると聞いたことがある。まず第一は、ある考え方を熱烈に信奉する段階である。要するに「世界の真理を解き明かせるのは、この理論だけであって、あとはゴミ」だと考える段階である。

第二は、当初は熱烈に信奉していた考え方の問題点が徐々に見えてきて、他の考え方の良さも理解するようになったことから、全ての考え方にはそれなりの利があるという段階である。これはある意味、バランスが取れているように思えるかもしれないが、自分の立ち位置がないために非常に無責任な態度につながりやすい。

そして、第三は、自分の支持する思想の問題点や他の思想の利点を理解しつつも、特定の思想にコミットするようになる段階である。自らの思想の限界を知りつつも、あえてそれを支持するという段階だと言えよう。

それでは、先に述べたような虚偽だと知りつつもコミットする立場は、この第三段階に該当するのだろうか。僕の考えではそれは違う。なぜなら、上で説明した第三段階において特定の立場を支持する根拠となるのは「相対的に見れば」それが正しいからだというものであるのに対し、特定の「ネタ」を支持する根拠となりうるのはそれが「気持ちがよいからだ」というものになるからである。その意味において、後者の立場は決して成熟した思想に至るものではない。

というわけで、ますます混迷の度を深めつつ第3回はここで終わり。
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  by seutaro | 2005-09-22 00:15 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 2

自分で書きながら、どうにも違和感を拭い切れないのだが、前回の続きである。

前回で述べたように、高校時代に僕が体験した「お笑い空間」では、僕はヘタレ役であり、いつも嘲笑を受ける立場にあった。だから、その「お笑い空間」を構成する1人ひとりが、僕を心底馬鹿にしているのだとずっと思っていた。

ところがあるとき、そのなかの1人とふたりきりで長時間過ごすことがあった。その際の彼は、普段の厳しい「ツッコミ」とは見違えるように親切かつ友好的で僕はびっくりしたことを覚えている。それ以外でも僕は似たような体験をすることになり、どうやらみんな普段はいい奴であっても、「お笑い空間」に入るや否や、それぞれの役回りを演じるのだということを認識するようになった。

ところで、こうした「お笑い空間」で、しばしば多用されていたのが「空気」という言葉である。僕がついベタな発言をしてしまうと、決まって言われたのが「空気読めや」という言葉であった。ここで思い出さずにはいられないのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。要するに、ある「空気」が支配してしまうと、その空気を乱すような真実を語りえなくなるというメカニズムである。たとえば、戦艦大和の出撃に際して、戦術的に見れば無謀な行動であることは明確であったにもかかわらず、「大和出すべし」との空気が充満するなかでは反対意見を述べる余地などなかった、といった事例が挙げられている*1。

ここでの観点から言えば、「空気」が支配している空間では、各々がそれぞれが「空気」に適合する役割を果たすように求められており、「空気」を台無しにするような発言を行おうとする者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる*2。これまで述べてきた「お笑い空間」に戻るならば、たとえ1人ひとりと話す分にはベタなコミュニケーションを友好的に行うことができたとしても、彼らが集団となったときには、全てが「ネタ」として処理されねばならない「空気」が瞬く間に醸成されることになる。

すなわち、そうした「お笑い空間」では、それぞれの役柄(ボケ、ツッコミ、ヘタレ、etc.)が所詮は演じられているものでしかないことを各人が薄々認識しているものの、その演技から逸脱することは禁じられているのである。言い換えるならば、「お笑い空間」とは一種の劇場なのであり(アーヴィング・ゴフマンが指摘するように、全ての人間の相互行為には演劇的な要素が含まれているのであるが)、そこでは明確に割り振られた役割を遂行することが厳しく個々人に要求されるのである。

ここで、ようやくこのエントリの(実は)メインテーマである「劇場型政治」の問題へと辿りつくことができた。が、疲れたので、今日はここまで。


*1 山本氏はこの「空気」の支配を特殊日本的な現象として捉えている。しかし、たとえばノエル-ノイマンの「沈黙の螺旋理論」は、ある「空気」が支配的になっていくことにより、それとは異なる見解を持つ人々が自発的に意見表明を差し止めるようになるメカニズムを説明していると言いうる。したがって、「空気」の支配は日本に限らず、他の国々でも生じうる現象ではないだろうか。

*2 山本氏は、「空気」の高揚を抑えるメカニズムとして、情況を知らせる「水」の存在を挙げている。つまり、現状もわきまえずに盛り上がっている連中に対して、情況を知らせる(=水をさす)ことで、人々を冷静にさせる役割を果たすのだという。ただし、この情況の規定が、客観的なものではなく、人間的な判断に基づいたものであるがゆえに、空気支配に対して水を差すにしても、真理を認識するまでには至らないのだと山本氏は述べている。この点に関して、山本氏は「真理」の存在をあまりにもナイーブに捉えすぎているのではないだろうか。
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  by seutaro | 2005-09-18 23:12 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 1

もう十数年の前のことになる。僕は当時、大阪の高校に通っていた。
大阪人の会話は漫才の形式(ボケとツッコミ)になっているということはしばしば言われることだが、僕の周囲は実際、そうした「お笑い」志向が極めて強い空間だった。なんと言えばいいのか、要するに全てが「オモロイ」か「オモロナイ」かによって判断されるような世界である。

こう書くと、楽しい高校生活だったかのように聞こえるかもしれないが、実際にはそれほど楽しいものではなかった。この空間での僕の役回りは、基本的にはヘタレ役であり、そのヘタレっぷりによってしか笑いを取れないようなキャラであった。テレビのタレントであれば、収録が終わった瞬間にヘタレ役からは解放されるのだろうが、実生活で常にヘタレ役を続けるのは結構きついものがある。特に、敏感な自意識を持つ高校生にとって、そうした役回りは決して愉快なものではなかった。

しかも、こうした「お笑い空間」では、「ベタ」なコミュニケーションがほぼ不可能であり、全てが「ネタ」に回収されてしまうことに僕は非常に悩まされることになった。こう書くとよく分からないかもしれないが、要するに「真面目な話=ベタなコミュニケーション」をしようとしても、それが真剣に受け取られることなく、常に嘲笑にさらされる(=「ネタ」として扱われる)ということである。僕は基本的にはベタな人間なので、それがネタとしてしか扱われないことに非常な苛立ちと歯がゆさを覚えることになった。

そして僕は、全てが「ネタ」に回収されてしまうこのようなコミュニケーション空間と類似した雰囲気を、2ちゃんねるに代表される匿名掲示板でのやり取りにしばしば感じる。全てのコミュニケーションが「ネタ」として扱われるようになる背景には、インターネットの特質が強く作用していることは言うまでもない。

そもそも、インターネットの登場以前には、不特定多数の人々に自分の意見を公表するなどという機会が稀であった。インターネットの登場は、そのような機会を飛躍的に増大させたと言いうる。しかし、他方でそれは、自らの主義主張が、これまででは考えられないような規模での批判や中傷に晒される可能性を生じさせることになった。

たとえば、僕が掲示板に書き込みをするときには、その書き込みにどのような反応が生じるのかが非常に気になる。いくらさして推敲もせずに書き込んだことであったとしても、その書き込みが人びとから嘲笑されればやはり傷つくものだ。特に、インターネットでのコミュニケーションは、対面的なそれよりも遥かに情け容赦のないコメントを生じさせる傾向にある(逆に、対面的なコミュニケーションを2ちゃんねる的なノリで行えば、あっという間に殴り合いの喧嘩になる可能性が高い)。

ここから、インターネット上でのコミュニケーションは全てが「ネタ」になるという様相を呈してくることになる。つまり、書き込んだことが全て「ネタ」であるなら、それがいくら中傷されようとも、批判されようとも、自分の自我が傷つけられることはない。むしろ、批判してきた側こそが「ネタにマジレスかっこ悪い」ということになる。そこから、わざと非常に愚直な書き込みをして、それに対する反応を楽しむ(=釣り)といった行為が行われることになる。

他方、北田暁大氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で指摘しているように、「電車男」スレッドに見られるような妙にベタなやり取りも2ちゃんねるでは観察される。たとえば、失恋板の「相手に死なれて終わった恋愛」など、僕は涙なしに読むことができない。

けれども、こと時事ネタに関しては、全てが「ネタ」になる傾向が非常に強いように思う。そこではベタなコミュニケーションは嘲笑の対象としかならない。そして、そうしたコミュニケーション空間においては、実質的な討議はほぼ不可能になる。無論、匿名掲示板などその程度の存在などだと考えることもできるが、ここで僕が危惧するのは、そうしたコミュニケーション様式がインターネットの世界を超えて、実社会のほうにも浸透してくるということである。言い換えれば、僕が高校時代に体験したような「お笑い空間」の拡大である。

う~ん、自分で書いてても、うまくまとまっていないと思うのであるが、続きは次回。
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  by seutaro | 2005-09-18 00:45 | 政治・社会

<政治・社会>日本人らしい日本人が他国の人々から尊敬される・・・のか?

今日、「電車男」を見ようと思ってテレビをつけると、日本文化を愛好するイギリス人を扱った番組をやっていた。彼は、自国の文化を理解してこそ初めて他国の文化を理解することができるとか何とか言っていて、イギリスの「伝統」らしい服を着て、踊りを踊っていた。

実際、そのような考え方は決して珍しいものではない。そして、それと似たような発想として、自国の文化を理解していないと国際的には尊敬されないなどといったものがある。だが、僕はこの手の発想に何かしら胡散臭いものを感じてしまう。

確かに、僕がイギリスに留学しているとき、イギリス人や他国からの留学生からは「日本人らしい」ことが期待されていたように思う。たとえば、ちょっとしたパーティーなんかで手巻き寿司なんかを作ると喜ばれたし、お辞儀のような日本の慣習の「再現」すら求められることすらあった。

しかし、それは結局のところ、向こうが勝手に持っているステレオタイプに迎合しているだけなのではないか、という疑念に僕は苛まれることになった。つまり、日本にいたときには作ったことすらなかった手巻き寿司を作ることで、他国の連中が持っている「日本人=寿司好き」というイメージに寄り添っているのではないか、ということだ。

まあ、寿司を作るぐらいであれば別にさしたる害はない。けれども、「日本人」に対するステレオタイプで最たるものが「武士」だの「芸者」だのであることを考えると、やはり問題があるのではないだろうか(「武士道大好き」の人にとってはそうでもないだろうが)。英米圏でよく売れる日本関連の本が「芸者モノ」の"Memories of Geisha"だということは、そういうイメージが勝手に一人歩きしているということを象徴的に示している。

確かに、そういう外国人が日本人に対して持っているステレオタイプに迎合すれば*1、向こうの人々は多くの場合、歓迎してくれるだろう。けれども、それはあくまで「好奇の対象」になるということなのであって、決して「尊敬」されているわけでないように思う。

他方、ステレオタイプを作る側、要するに優位な立場にある側の文化は、たいてい無色透明と見なされ(このエントリで最初に取り上げたようなイギリス人は例外的な存在だと思う)、それ以外の文化こそが好奇の対象となる。言い換えれば、日本人が通俗的なイメージに従って「日本人らしく」振舞うことは、結局、自発的にそうしたステレオタイプの再生産に協力することに他ならないのではないだろうか。

留学中に知り合った僕の友人の1人は、一緒の寮で暮らしていたイギリス人に「君は日本人女性なのに、なんでおしとやかじゃないんだ」というようなことを言われたことがあるという。全くもって余計なお世話である。聞けば、彼がイギリス人なのにわざわざ留学生向けの寮に住んでいた理由が「多文化が好きだから」なのだそうな。おそらく、彼の頭の中の世界地図は、「文化」の境界によってはっきりと区切られており、それぞれの文化の境界の内側では皆が完全に同一の慣習に従って暮らしているというものなのだろう。

そうしたステレオタイプを打ち破り、「あんたが思ってるような日本人ばっかりが日本に暮らしているわけじゃないし、あんたの勝手なイメージに人を合わせようとするべきではない」ということを連中に納得させてようやく、対等な関係を築くことができるのではないだろうか。

*1 ステレオタイプはしばしば、両極端な2つのイメージによって構成される。たとえば日本人に対するステレオタイプの場合、「武士」や「空手家」といったたくましく豪快なイメージがある一方で、「ジャパニーズ・ビジネスマン」に見られるようなひ弱で神経質なイメージがある。それゆえにステレオタイプはうまく機能するのであり、たくましい日本人ならば前者、そうではない日本人には後者のイメージが採用されることで、ステレオタイプが決定的に崩れるのを防いでいる。
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  by seutaro | 2005-09-16 00:01 | 政治・社会

<政治・社会>「弱者」への憎悪

そろそろ選挙ネタも飽きてきたんだけれども、今日のウチダ先生のエントリに触発されて、最後にあと1回だけ。

最近、ネットで話題になったのが、広告代理店が政府向けに作ったとされる政治キャンペーン対策用の文書である。なんでこの文書が話題になったのかと言えば、構造改革賛成・反対という軸とIQの高低という軸とでマトリックスを作り、構造改革に賛成なIQの低い層(B層)に対するキャンペーンを強化せよ、と説いていたからである。このB層に関しては、既にいろいろなところで語られているので、別に言うことはない。
僕がここで注目したいのは、A層、つまり構造改革に賛成する「IQの高い層」である(にしても、嫌な言い方である。せめて政治への関心の高低という分類であれば、それほど波風は立たないと思うのだが)。

この文書では、A層に「財界勝ち組企業」、「大学教授」、「マス・メディア(TV)」、「都市部ホワイトカラー」が含まれている。「大学教授」一般をこのA層に入れてよいものなのかどうかは疑問の残るところであるが、このうちで僕が個人的に親交があるのは「都市部ホワイトカラー」である。要は、僕の大学時代の同期の連中であるが、彼らを見ていてつくづく思うのは「本当に大変そうだ」ということである。サービス残業や休日出勤が当たり前なのに加えて、帰宅後は深夜まで資格試験の勉強に勤しんでいる。実際、ある飲み会の席で、僕以外の全員が中小企業診断士や司法書士といった資格試験の勉強をしていることが発覚し、驚愕したことがある。

彼らをそこまで駆り立てている大きな要因は、会社の非情さを見てしまったということであろう。長年、会社に滅私奉公してきた挙句、あっさりとリストラされていく年輩社員を見て(あるいはマスコミ等の報道で知り)、いざとなれば会社は平気で自分を切り捨てるのだという事実に彼らは直面することになった。そのため、いざというときに「自分自身の力」で生きていくための手段として、彼らは資格試験に没頭しているように思える。僕らの世代(30代前半)では、もはや転職は当たり前となっているが、その成否にも資格は大きく作用するようだ。

要するに、何が言いたいのかというと、彼らには「最終的に自分を守ってくれるのは、自分自身の能力しかない」という哲学が染み込んでいる。そういう哲学を持っている者が、「弱者」に対する思いやりを持つ可能性はあまり高くない、ということだ。杉田敦は『権力の系譜学』において、ウィリアム・コノリーのアイデンティティに関する記述を引きながら、次のように述べている(p.37-38)。

人々は「合理的主体」たれという要求を自らに課し、自分の中でそれに逆らう非合理的な部分を服従させようと努力する。そして、めでたく「主体」となった者は、今度は他の人々にも同じことを要求し、枠をはみ出す存在は、排除するか「治療」しようとするであろう。…(労働者層は:引用者)自らの内部の他者性に打ち勝って、初めて辛い労働を続け、一家の大黒柱としてのアイデンティティを保っていくことができる。そうであるからこそ彼らは、労働の意欲がなく福祉に「ただ乗り」している(と彼らに見える)人々、すなわち人種的マイノリティや福祉受益者に対して、きわめて強い反発を感じ、その排除・治療を求めていくし、アメリカ外の「他者」に対しても不寛容になる。

無論、アメリカと日本という土壌の違いはあり、またこの言及は特に白人労働者層を対象としたものであるが、僕がこれまで述べてきたようなホワイトカラー層にもうまく当てはまるように思う。つまり、飲み会に行ったり、ゲームをしたり、漫画を読んだりしたいという自らの「非合理的な」欲求、言い換えれば「もう1人の自分」を無理やり押さえつけながら、残業や資格試験の勉強に邁進する彼らにとって、「弱者」は「もう1人の自分」を克服できないだけの怠惰な存在に過ぎない。従って、彼らに対する富の再配分などを行う必要性は全くない、ということになる*1。

さらに言えば、彼らにとって、たとえばリフレ政策のような国民に痛みを強いることなく景気や雇用を回復する手段などあってはならないことになる。なぜなら、血の滲むような努力がなくとも自らの雇用を維持することが可能なのだとすれば、彼らの努力の意味合いがかなり薄れてしまうからだ。すなわち彼らは、「もう右肩上がりでは経済成長しない」ゼロサムゲームでのルールに基づいて、すでにゲームを始めてしまっているのであり、いまさら「実は経済成長できるんで、そこまで頑張らなくてもいいですよ」と言われても呆然とするしかないだろう。

言うまでもなく、彼らの現在のホワイトカラーとしての立場は、彼ら自身の努力だけに拠るものではない。子供の学歴に親の収入やハビトゥスが強く影響を及ぼすことは、もはや常識の域に達している。しかし、現在の彼らに対して、「君たちの現在の地位はそれなりに恵まれた社会的環境での教育の所産なのであり、したがって君たちにも富の再配分に参加する責任があるのだ」と言うことは、正直、気が引けてしまう。それほどまでに彼らは頑張っているし、その頑張りを彼らの生まれ育った環境だけに帰することはあまりに冷酷であろう(「頑張ろう」というモチベーション自体が環境の所産であったとしても、彼らにしても頑張りたくて頑張っているわけではないことも多い)。

だからと言って、現在のような苛酷なゲームを続けていくことは、「弱者」にとってはもちろん、「勝ち組予備軍」たる「都市部ホワイトカラー」にとっても決して良いことだとは思わない。てか、しんどすぎるでしょ、それ。

というわけで、「頑張っている人」のアイデンティティをなんとか傷つけないようにしながら、「弱者」への富の再配分をうまく行う方法を考えていくことが、これからのリベラルにとっての重要な課題になる、のかもしれない。

*1 確かに、富の再配分の果実を受け取る怠惰な存在ってのはいるのだろうけれども、そうした存在をことさらにクローズアップして「弱者の醜さ」を語るのは、やはり一種のプロパガンダでしかないと思う。しかし、そうした「弱者の醜さ」を強調する物語が多くの人々に受け入れられる背景には、それが上で述べた「弱者」のステレオタイプを補強し、「頑張っている自分」のアイデンティティの維持に役立つということがあるのだろう。
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  by seutaro | 2005-09-14 00:23 | 政治・社会

<政治・社会>次の「敵」は誰か?

昨日のエントリでも書いたが、今回の選挙で自民党がこれだけ大勝した理由の1つに、「わかりやすい悪玉」がいたということだろう。ポピュリズムにおいてしばしば見られるのが、二項対立的思考、つまり「善玉」と「悪玉」とにくっきり分かれた世界像である。今回の選挙では「改革勢力」と「抵抗勢力」とが郵政民営化を軸にはっきりと二分され、中途半端な「改革勢力」たる民主党はその対立の狭間に埋没せざるをえかなった。

しかし、今回の自民党の「純化」を通じて、政治の停滞を「抵抗勢力」のせいに帰することは難しくなった。それでも小泉内閣が高い支持率を維持しようとするならば、新しい「敵」が必要になる。すでに、新たな「敵」が誰になるのかは他のサイトでも検討が行われているが、ここでもその「敵」について考えてみることにしよう。

ところで、これは前から感じていたことだが、今の若い世代(特にネットでよく見かける論客)には、「被害者意識」が非常に強い。これだけ不況が続き、若年層の失業率が高ければ当たり前だという気もするが、経済的な側面ばかりではなく、とにかく「戦後社会」に対する怨嗟で満ち満ちているように感じる。そこで、適当に「加害的存在」を意味するキーワードを挙げてみると、次のような感じだろうか。

既得権益(内容は曖昧)、高齢者、公共事業(地方による中央の収奪)、役人、規制に守られた企業、ゼネコン、労働組合、日教組、マス・メディア(特に朝日新聞)、人権派(フェミニスト含む)、市民運動(プロ市民)、親中派、親韓派、在日朝鮮韓国人、中国、韓国、アメリカ

無論、適当に挙げただけなので体系性はまったくないが、このなかで次の「悪玉」もしくは「敵」を探すとすれば何になるだろうか。

とりあえず可能性として高いのは、中国や韓国であろう。特に、小泉首相の有力な後継者である安部晋三であれば、中国、韓国あたりをチョイスし、強行な外交姿勢→中国・韓国の反発→それに対する日本人の反発、というマッチポンプ的なメカニズムを自らの権力維持に用いるだろうことは想像に難くない。(もっとも、そうなると「反日を国内での求心力維持のために利用している韓国や中国」とどっこいどっこいになるわけであるが)

その場合、国内の「敵」は、親中派、親韓派となり、外務省のチャイナスクールや朝日新聞あたりは徹底した攻撃の的になるだろう。また、彼はアンチ・ジェンダーフリーでも有名なので、日教組や人権派も、その内実はどうであれ、「国賊」のシンボルとして有効に利用されることになる。

無論、こうした「被害者」と「加害者」の構図が、現実の姿を映し出しているかどうかはかなり疑問の残るところである。しかし、今回の選挙は、「被害者」と「加害者」のイメージが、たとえそれが現実と大きく乖離していたとしても、選挙の行方を決定的に左右しうることを証明したのではないか。従って、政治家やマス・メディアが誰を次の「加害者」あるいは「国民の敵」として描き出すのかということが、今後の政局において極めて重要な要素になるだろう。

そうした構図が不毛かつ非生産的であることは言うまでもない。しかし、国民の支持を集めたいのなら、あるいはもっと消極的に自分が「加害者」に仕立て上げられるのが嫌なのなら、違う者を「加害者」のポジションに置くことが求められるようになるのかもしれない。それは、決して明るい未来ではないのだけれど。
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  by seutaro | 2005-09-12 20:46 | 政治・社会

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