カテゴリ:政治・社会( 58 )

 

<政治・社会>自民党の圧勝と危機の始まり

まだ開票作業が始まったばかりだが、今回の選挙での自民党の圧勝はほぼ間違いないだろう。これで、自民党内の「抵抗勢力」は、ほぼ一掃されたことになる。

しかし、これはある意味において、小泉首相にとって有用な「敵」もしくは「スケープゴート」が失われたことを意味する。小泉政権下での停滞は、「抵抗勢力」や「官僚」に責任を帰すことにより、その責任の所在を曖昧にすることができた。言い換えれば、「抵抗勢力」の存在こそが、小泉首相の高支持率をもたらしてきたのだ。ところが、「抵抗勢力」なき今、スケープゴートとして利用できそうなのは、もはや官僚ぐらいであろう(その意味で、官僚に対する風当たりは今後、より一層強くなることが予想される)。

しかし、今後、小泉政権下での経済政策が更なる行き詰まりを見せたとき、官僚批判だけでそれを乗り越えることができるとは考えづらい。したがって、その責任は明確に小泉政権に帰せられることになるだろう。これまでの「包括政党」としての自民党では、派閥間での抗争が一種の擬似政権交代をもたらしてきたわけだが、一元化の進む今後の自民党ではそうしたメカニズムが働くか否かは疑問の残るところである。

以上のことから、今後、小泉内閣の政策がうまくいけば良し(現在の方向性を見るかぎり、その可能性はあまり高くないと考えるが*1)、うまくいかなければ自民党は国民の支持を一気に失う可能性がある。さらに言えば、今回の大勝利は、小泉首相のリーダーシップに期待する無党派層に拠るところが大きい。しかし、無党派層は非常に気まぐれであるがゆえに無党派層なのである。

その意味で、政党内の「純度」を高めるという小泉首相の戦略は諸刃の刃なのであり、今回の自民党の大勝利は、地滑り的な大敗北を防ぐためのブレーキを放棄することによって得られたものだとも言えるかもしれない。

*1 もっとも、郵政民営化を除けば、小泉内閣にはさして一貫した方針はないような感もある。したがって、気づけば景気を優先させる方向へとシフトさせていたという可能性もあるような気がする。

他方、今回の選挙で目立ったのが民主党の体たらくである。今後、民主党の再生にとって必要なのは、小泉改革に取り残される層の取り込みであろう。そのためには、現在の「構造改革原理主義」を根底から改め、マス・メディア等により「既得権益」と結び付けられることなく、「景気回復なくして構造改革なし」という原理を追求する必要があるのではないだろうか。

ただし、「構造改革原理主義」は、マス・メディアの発する言説に非常に深く浸透している。「無駄な公共事業」を糾弾する声は今後もおさまりそうもない。その意味で、仮に景気優先の方針を採るにしても、次の民主党党首はマス・メディア対策を徹底的に行わないかぎり、「政局の天才」たる小泉首相に一矢を報いることはできないだろう。
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  by seutaro | 2005-09-11 21:21 | 政治・社会

<政治・社会>う~ん、書くことがあまりない

実は、このエントリを書くために、大嶽秀夫氏の『日本型ポピュリズム』を読んでいたら、書きたいことがだいたい書いてあったという・・・orz
しかし、この本は2年も前に出版されたのだが、その「あとがき」は今こそ多くの人々に読んでもらいたい警句に満ちている。そこで、長くなるが、引用してみることにしたい。(p.239-242)

今日の日本政治にとって最大の不幸は、「改革派」が、常にマクロ経済的には誤った政策を掲げ、政権をとったとたんにそれを推進してきたことにある。そのため立ち直りかけた景気回復に冷水を浴びせ続け、「日本経済の失われた10年」の最大の原因を作った。皮肉にも、いわゆる「抵抗勢力」の方が、マクロ経済的にはより正しい政策を提唱してきたし、彼らが「改革政権」のマクロ経済政策上の失敗の被害が致命的になることをそのたびに阻止してきた。むろん理想論をいえば、財政出動を続けながら、無駄や利権の温床となる公共事業などの内容を変革することは不可能ではないし、多くの経済学者や政治学者はそれを提唱している。しかし、日本経済の現状からいえば、それを担う政治勢力はこれまでのところ登場してこなかったし、何よりも政治的にこの二兎を追う戦略は、あまりに理想論すぎる。換言すれば、景気刺激の効果があって、かつ将来にっとて有益な公共事業を求めるのは、欲張りすぎで、リチャード・クーの言葉を借りれば、「贅沢」というものであろう。

こうして、一般化していえば「政治的」課題の解決の期待を担って登場した改革派は、いずれもマクロ「経済」運営で失敗し(あるいは充分な成果を上げられず)、いずれも政権獲得後1年を経ずして統治責任から抵抗勢力の経済運営上の議論を受け入れることを余儀なくされた。その結果、有権者の失望をかって、敗退していったのである。そして抵抗勢力の経済政策が経済危機の成功の回避に成功しはじめると、それに伴って増大する政治的スキャンダルや目に余る財政の無駄がマスメディアを賑わし、再び「改革」への声が沸き起こり、それに応えて、新たな「改革者」が登場してきた。これこそが、この10年の日本政治の「期待と幻滅のサイクル」を生んでいる構造的要因なのである。
・・・
1990年代に政治の「道徳主義的」解釈が蔓延した結果、今では、国民にとって痛みを伴う「苦い」政策こそが、「改革」の正しさを表し、「甘い」政策は国民の歓心をかうだけの「まやかし」の政策であるとの評価が、マスコミや世論に定着してしまった感がある。そうした「道徳的禁欲主義」によって政策を判断することを止めない限り、以上のサイクルを克服し、「失われた10年」の経験を生かして、深刻な不況という日本にとっての最大の課題を解決することは不可能である。

マス・メディアによって、あまりに「道徳主義」化し、善玉・悪玉二元論に固まってしまった有権者の判断を、成熟した大人の「現実主義」によって、克服すべきときがきているというのが、筆者の判断である。90年代日本は、防衛問題については、徐々にではあるが「理想主義的」「道徳主義的」平和論たる非武装主義を克服し、「現実主義」化していくことに成功した。経済問題についても、それができないはずはあるまい。

景気回復の手段として金融政策が取り上げられず、財政政策に関する言及があるだけなのが気にはなるが、多くの政治学者の水準を遥かに越える経済認識であることには間違いない。
ただし、最後の「現実主義」については、僕は「現実主義」をくさしたエントリを書いたこともあり、「理想主義」と「道徳主義」とを同列に並べることにはあまり同意しない(おそらく、他の政治問題に関して、僕と大嶽氏の間には様々な見解の相違があることが予想される)。僕は理想を掲げることの必要性は認めるが、道徳は好きではない。

しかし、それを除いても、大嶽氏のこの言葉の説得力を認めないわけにはいかない。小泉内閣の今回の解散は、大嶽氏の観点からすれば、「抵抗勢力」という経済的破綻へのブレーキを外すことに他ならない。外需に助けられて景気回復の兆しが見えるものの、日本経済は未だ深刻な状況にある。それを国民が甘受しているの背景は、「苦い」政策を称揚するマスコミの存在があることは否定しえない。むしろ、国民の多くは、経済的破綻を防いできた「抵抗勢力」こそが、その「苦さ」をもたらしているものと誤認しているのではないだろうか。

無論、僕は「抵抗勢力」を全面的に支持するわけではないが、「改革派」が何のブレーキもなく改革を遂行するようになる状況を考えるとき、背筋が寒くなるのを感じる。「改革」によって再び経済的破綻の危機が見えてきたとき、「それは『痛み』がまだまだ足りないからだ」「抵抗勢力が未だに改革の邪魔をしているからだ」といったマゾヒスティックな言説の虚妄を、今度こそ国民は見破ることが出来るだろうか。
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  by seutaro | 2005-09-10 01:20 | 政治・社会

<政治・社会>「選挙民に媚びる政治家」考

先日のエントリで、増税や社会保険負担増など「国民に厳しい」政策を遂行する政治家が「真に国益のことを考えている政治家」であり、公共事業などの「国民に優しい」政策をする政治家が「選挙民に媚びて国益を考えていない政治家」であるとの構図がメディアにおいて採用されているというようなことを述べた。
こうした構図に意味がないのは自明である。「国民に厳しい」政策を遂行した結果、消費が落ち込んで税収が減り、財政はさらに悪化することになる。97年の橋本経済失政や00年のゼロ金利解除は、構造改革派からは支持されたものの、それがもたらした景気の失速により財政赤字をかえって増大させることになった。

一般会計税収の推移(http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/009.htm)
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この手の景気や税収に関する話は、僕のような経済学の素人よりも、リフレ派と呼ばれる方々のサイト(田中秀臣氏bewaad氏のサイト)を見ていただければ幸いである。
このブログで考えたいのは、最初に述べたメディアの構図についてである。そもそも公共事業のイメージを悪くする上で最も重要な役割を果たした人物としては、田中角栄が挙げられるだろう。彼の「日本列島改造論」が実際に予算に盛り込まれると、地価の上昇やそれに伴うインフレが発生し、石油ショックともあいまって日本経済に深刻なダメージを与えることになりました。
そして、『文藝春秋』昭和49(1974)年11月号に掲載された立花隆「田中角栄の金脈と人脈」および児玉隆也「寂しき越山会の女王」がきっかけとなり、田中角栄は辞任に追い込まれていくことになる。
ここで鍵となるのは、田中角栄による積極的な公共投資と、『文藝春秋』で論じられた彼の金権体質とが重ねられたということだろう。つまり、ここで公共投資と利権政治とは切り離せないものとして位置づけられることになったのではないだろうか。無論、実際にそれらはしばしば結びついていたがゆえに、公共投資に対する何かしら胡散臭いイメージが補強されていくことになる。

と、ここまで書いたところで、眠くなってきたので、続きは次回。
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  by seutaro | 2005-09-07 02:13 | 政治・社会

<政治・社会>第三者効果

掲示板なんかをいろいろ見ていて、嫌だな~と思う表現があります。
それは、「信者」という表現です。たとえば、「朝日信者」だとか「産経信者」だとか、特定のメディア媒体を盲信する人といった意味で用いられています。無論、掲示板だけではなくて、たとえば朝日を攻撃する井沢元彦なんかの本は、朝日の読者=信者みたいな構図をもとに、朝日がどれだけ愚劣な新聞であるかを延々と論じていくわけです。

ところが、多くの場合、そうした「信者」という表現は、それを使っている者の肥大化した自己意識を表しているに過ぎません。要するに、「オレはメディアの『ウソ』を見抜く力があるけど、他の連中、特に××新聞なんて読んでるやつらには皆無だろう」という「思い込み」がその背景にあるわけですね。

こういうのをマス・コミュニケーションの効果研究なんかでは、「第三者効果」と呼びます。つまり、人は、マス・メディアは自分にはさして影響を及ぼさないけれども、他の人々には影響を及ぼすと考える傾向にあるということです。たとえば、マイケル・ビリッグの『イギリス王室の社会学』(社会評論社)は、英国の王室に関して人々がどのように考えているのかをインタビュー調査した研究ですが、そこでは次のように述べられています(p.182)。

話し手たちは、メディアを消費する他の人々からも、自分自身を切り離さなければならない。こうした他の消費者は、(王室に関する:引用者)スキャンダラスな嘘を無批判的に信じたり、もっと悪いことにそれを読むのを望んだりすると思い描かれる。要するに、他の人々は、騙されやすく、恥ずべき性質の人々として非難されねばならない、というわけである。

無論、殆どの人々は大なり小なり新聞を批判的に読んでいるはずです。にもかかわらず、他人をそうした批判的精神の欠落した人物として描き出すことで、自分の位置を相対的に高めようとする印象操作にやっきになっている人を見るにつけ、な~んか嫌な気持ちになってしまうのです。

ちなみに僕はといえば、『毎日新聞』をここ数年、購読しています。記者の顔が見えるいい新聞ですし、社内の風通しの良さが伝わってきます。が、いかんせん経済記事が良くない。まともな記者さんもなかにはいるようですが、全体としては非常に・・・です。というわけで、傍から見ると、僕も「毎日信者」なのかもしれませんが、結構腹を立てながら新聞を読んでたりする日もあったりするわけですよ。「構造改革」路線に乗せられ過ぎですがな。 >毎日新聞

追記(2006/2/26)
ここのサイトを見て思ったことだが、事あるごとに噴出する「メディア悪玉論」(今の若者の「だらしなさ」や犯罪をメディアにせいにする議論)の背後にも、この第三者効果が存在しているのではないだろうか。(メディアの危険性を認識できる自分のような知識をもたない)連中は、メディアの悪影響に容易に染まってしまうのだから、(私のような識者が)メディアの危険性を訴えねばならない、という発想である。しかし、結局のところ、そうした主張は話者自身の肥大した自我の反映でしかない、というのが実情かもしれない。
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  by seutaro | 2005-09-02 01:03 | 政治・社会

<政治・社会>構造改革なんてやめちまえ

総選挙が近づいてきて、政界もマスコミも大騒ぎってところなんですが、正直、投票したい政党がなくて困ってます・・・。

右を見ても、左を見ても改革、改革で、どう見ても改革が自己目的化しているとしか思えません。改革した後の制度が改革前よりも優れているなんて保証はどこにもないにもかかわらず、改革に反対する者=既得権益にしがみつく売国奴、みたいな論調がいたるところに見られます。

あと、消費税アップだとか社会保険負担の増額だとか、そういう国民にキビシイ要求を行う政治家が「真に国益を考えている政治家」で、景気回復だとか財政出動だとか国民に優しいことを言う政治家は「選挙民に媚びている守旧派」なんていう安易な構図がマスコミで採用されているのも腹立たしいですね。自らの失政を覆い隠すためだけに国民に「痛み」を突きつけている可能性も少しは検討したほうが良いのではないでしょうか。

今回の選挙の争点は、「大きな政府」か「小さな政府」かの選択だとしばしば言われます。しかし、あらかじめ言っておかねばならないのは、日本は既に相当小さな政府だということです。この点については、現役官僚のBewaad氏のblogのココや、ココを見てもらえれば分かるように、人員の面でも規制の面でも日本は決して大きな政府ではないのです。

そもそも、今の日本において最も重要なことは、下手に構造改革なんぞをやって景気を悪化させることではなく、金融政策および財政政策によってデフレを解消することに他ならないと思います。

「構造改革によって政府支出を大幅に削減しました。多少、失業者が増えて景気も悪化しましたが、これで政府の赤字も減るはずです!・・・あれ、税収が減ったから、もっと赤字だ・・・」

なんてことになったら頭悪すぎです。「手術は成功したが、患者は死亡しました」みたいな感じでしょうかね。

単純に比較するのはどうかと思うのですが、バブルの頃には60兆円あった税収は、いま40兆円しかありません。これを増税でまかなうなんてのは愚の骨頂で、とりあえずインフレターゲットでも何でも導入して、デフレを克服し、経済成長率を回復しない限り、財政改革もまたありえないのではないでしょうか。インフレが進んで余裕が出てきたところで、構造改革でも何でもやりゃあいいと思うのですが・・・。

どっか、こういう方針を打ち出してくれる政党はないでしょうか。国民新党がもうちっとこういう方向を明確にしてくれたら、しょうがいないので比例では投票しちゃいそうなんですが。

<追記>ちなみに、このエントリ、勢いで「構造改革なんてやめちまえ」と書きましたが、構造改革自体の必要性を否定しているわけではありません。ただ、このデフレのご時世に構造改革やって景気悪くするのだけは止めてほしいという切なる願いを表明したわけです。

実際、景気が回復して、日本経済に余力が出てきた段階においてなら、構造改革を支持することはできると思います。が、あくまで「順番が大切」というのは、多くの方々が既に指摘していらっしゃる通りです。

仮定の話をしてもしょうがないのですが、今後、景気が良い状態が訪れたとして、その場合には構造改革を実施できるのかという問題が生じてくることになるでしょう。そして、その時こそ「既得権益にしがみつく抵抗勢力」との戦いが待っているのかもしれませんね。<05.9.3>
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  by seutaro | 2005-08-28 11:34 | 政治・社会

<政治・社会>首都大学東京、通称クビ大について

今日の『毎日新聞』朝刊の東京版には次のような記事が掲載れているので、ちょっと長いが引用してみよう。

理事長予定者が問題発言 首都大応援団設立総会で
 来春開学予定の「首都大学東京」をサポートする会員制クラブ「the Tokyo U-club」が19日、都庁で設立総会を開いた。会長に就任した高橋宏・理事長予定者はあいさつの中で「大学全入時代、学校さえ選ばなければバカでもチョンでも、そこそこの大学に入れる時代が3年後に来る。首都大学東京は世界の共通の財産。有識者の声を反映した、いい大学にしたい」と発言した。「チョン」は韓国人・朝鮮人に対する差別的表現とのとらえ方もあり、今後、批判が出る可能性もある。
 また、石原慎太郎都知事は祝辞で都立大のCOE返上問題に触れ、「一部のバカ野郎が反対して金が出なくなったが、あんなものはどうでもいい」と述べた。都立大でフランス文学やドイツ文学を担当する教員に首都大の構想に批判的な教員が多いことに関して「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ」と話した。【奥村隆】
(2004年10月20日『毎日新聞」朝刊)

僕は都立大学には縁もゆかりもない人間だが、都立大学の件についてはそれなりに興味をもって接してきた。この高橋宏という人物が大学の理事長にふさわしい人物かという点からしてそもそも怪しいのだが(たとえば、ここを参照)、このおっさんの「問題発言」については特に言うことはない。まぁ、この程度の人間だということだ。
この記事でより興味深いのは石原都知事の発言だろう。こういう「思いつき」でしか物事を話せない人間が、地味だけれども高い研究・教育水準を保ってきた都立大学をぐちゃぐちゃにするというのは本当にやるせない。
もちろん、大学の先生にも怠慢なのはいるし、改革すべき点は数多くあるのだろう。だが、このクビ大関連の悲劇は、世間一般に敷衍している「象牙の塔」や「学者」といったステレオタイプに基づいて、学問や教育について真剣に考えてもこなかったし学んでもこなかった政治家やその取り巻きのリーマン上がりが、単なる「思いつき」で「改革」とやらを断行しようとしている点にあるのだろう。
ま、それ以前に、石原都知事にはホント、品格もなければ想像力もない。このおっさんが語る徳育って、いったい・・・。
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  by seutaro | 2004-10-20 23:13 | 政治・社会

<政治・社会>少年犯罪論争(2)

昨日は、少年犯罪の「現実」をめぐって、議論が真っ二つに分かれているという話をした。
そこで、今日はそうした「現実」それ自体について見解が分かれている場合、「現実主義」および「理想主義」の立場からはどのような主張が聞かれうるのかを予想してみることにしよう。
まず、「少年犯罪の凶悪化」が実際に生じているとする立場に立つと、次のような感じになるのではないだろうか。

(a)「現実主義」
少年犯罪の凶悪化の背景には、現行の少年法の罰則が十分でないという背景がある。そこで、犯罪を犯した少年を厳しく罰することで、犯罪の抑止を行うべきだ。
(b)「理想主義」
少年犯罪が凶悪化している背景には、現代という時代がもたらした少年の心の病がある。そうした根本的な問題を解決することなしには、少年犯罪を防ぐことはできない。

他方、「少年犯罪の凶悪化」は幻想だという立場に立つと「現実主義」と「理想主義」は次のような主張を行うと想定される。

(c)「現実主義」
少年犯罪が過去に比べて減少していることを考えれば、現行の少年法はうまく機能しているのであり、いたずらに制度をいじることはかえって問題を生じさせうる。そもそも、社会から犯罪を撲滅することは不可能だ。
(d)「理想主義 その1」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年法の厳罰化が必要なのであり、それによって被害者の心労を軽減することができる。
(d')「理想主義 その2」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年の心の病と向き合い、根本的な問題の解決を図ることが必要だ。

まあ、これはあくまで適当な推論であって、実際にはもっとバリエーションに富んだ見解がでてくるであろうが、ここで注目したいのは(a)と(c)だ。つまり、何を現実と見なすかによって、現実主義的な立場から引き出される結論が180度変わってくるのである。
そういう意味で、「現実主義」というのは結構難しい立場ではある。だが、これまで(だらだらと)書いてきたことをひっくり返すようでなんなのだが、多くの場合、人間の思考は「現実の判断→主張」という過程を辿らない。むしろ、昨日の丸山真男の引用にもあるように、何らかの主張を有している人はその主張に適した現実を見る場合が多いのだ。その場合には、「主張→現実の判断」という過程を経ることになる。
かつてウェルター・リップマンは『世論』のなかで「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(p.111)と述べているが、少年犯罪が凶悪化していると主張する人びとは、たいてい若者はろくでもないと最初からきめつけている(あるいは戦後民主主義の「歪んだ人権感覚」が嫌い)のではないかと思われる節が多々ある。
その逆ももちろんしかり。少年犯罪の凶悪化が幻想だと主張する人びとには、国家による統制・罰則というものが最初から好きじゃないんだろうなぁ、と思わせる人が多いように思う。
そういう意味では、戦後民主主義が大嫌いだが少年犯罪が減っていることを認める人や、国家統制は大嫌いだが少年犯罪の凶悪化を認めるという人は、逆に面白い。上で論じたような一般的な認知過程から外れているからだ。
そこで次の回では、そういう「ねじれ」の面白さについてもうちょっと考えていくことにしよう。
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  by seutaro | 2004-10-14 20:58 | 政治・社会

<政治・社会>少年犯罪論争(1)

昨日は、いわゆる「現実主義者」を標榜する人たちに対して皮肉めいたことを書いてみた。あえて一言で言えば、「自分ひとりがわかってるふりしてんじゃね~よ」ってところだろうか(笑)。
ま、それはさておき、実際には「現実主義」というのは、なかなかに難しい立場である。それは、「現実」とは一体なにかを判断することが結構難しいからだ。たとえば、丸山真男は『現代政治の思想と行動』に収録されている「現実主義の陥穽」という論文のなかで、現実には様々な側面があるということを論じ、次のように述べている(p.173~174)。

「そうした現実の多元的構造はいわゆる『現実を直視せよ』とか、『現実的地盤に立て』とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。・・・『現実的たれ』というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしょうか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立つて『現実の一面』を選択しているのです。」

「現実」とは結局のところ選び取られたものに過ぎないという考えは、現象学的社会学なんかでも珍しくない考えであり、最近では社会的構築主義なんかの観点から盛んに論じられている。
ただし、丸山の考え方は「現実には多様な側面がある」と認識するレベルに留まっているのに対し、より最近の発想ではそもそも現実というのは「構築」されねば存在しえないものなのであって、多様な側面が存在するか否かは現実が多様な方法で「構築」されるか否かにかかっていると言うべきかもしれない。
ところで、最近、こうした「現実」が全く対立する観点から構築されている分野がある。それが、タイトルにもある「少年犯罪」の分野だ。
マスコミではしばしば「凶悪化する少年犯罪」が語られ、少年法改正など厳罰化に向けた動きも活発化している。だが、研究者の多くは、「少年犯罪の凶悪化」は幻想であり、むしろ以前に比べ、少年犯罪は減っているとの立場に立っている。その論者としては、鮎川潤や広田照幸などがおり、彼らの主張は『日本人のしつけは衰退したか』『少年犯罪』で読むことができる。また、より最近では、パオロ・マッツァリーノ(笑)が、『反社会学講座』において軽妙な語り口で「少年犯罪の凶悪化」が幻想にすぎないことを論じている。なお、この『反社会学講座』はもともとウェブサイトだったものを単行本にしたものであり、興味のある人はここを参照するといいだろう。
もちろん、こうした見解に批判がないわけではない。その代表的なものとしては、前田雅英『日本の治安は再生できるか』などが挙げられよう。もっとも、この前田氏の統計解釈には問題があるとの指摘も数多くなされており、いまだ決着はついていない。

う、ここまで書いて時間が厳しくなってきた。続きはまた今度ってことで^^;
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  by seutaro | 2004-10-13 23:56 | 政治・社会

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