カテゴリ:学問( 12 )

 

<学問>経済学がこの世から消えたら・・・

 FRBのバーナンキ議長が「敗北宣言」をしたとか話題になっていて、こんなエントリが人気のようだ。

バーナンキ氏のため息・・・俺の人生返せ!!
http://blog.goo.ne.jp/kitanotakeshi55/e/ca0d7c7179905fb7ba37900c5e56457f

 ただ、このスピーチをよく読むと、別にバーナンキ議長が経済学を全否定しているわけではないのは明らかなので、このエントリの妥当性自体がやや疑わしい。

 別に僕は経済学徒ではないので経済学を特に擁護するつもりもないし、その能力もないのだが、経済学は科学じゃない!統計はまやかし!直感が全て!とか吹き上がっている人は、ちと古いがとりあえず下のスレッドの>16以降を読むとよろしいかと思う。

経済学がこの世から消えたら・・・
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/economics/1118660552/

(追記)
 なお、正直に言えば、経済学をやっている人はときどき他の社会科学(とくに社会学)を露骨に馬鹿にすることがあるので、あまり好きではない。

 ただ、自然科学の権威に寄りかかって、さして深く勉強したわけでもないのに上から目線で幾多の研究者の苦労や苦悩を全否定しようとする輩はもっと好きじゃない。
[PR]

  by seutaro | 2009-05-28 23:43 | 学問

<学問>学問の「場」

 もう10年以上も前の話。

 朝、大学院棟のエレベーターを降りる。ちょうど、近代日本政治史を専攻している知人が通りかかる。笑顔で「おはよう」と挨拶を交わす。

 自分の机がある部屋のドアを開ける。するとそこには、政治哲学を専攻している別の知人がいて、「おはよう~」と声をかけてくれる。

 僕は自分の席(といっても、2人に1つの机しか割り当てられていないのだが)に着くと、鞄から読みかけの英語の論文やサブノートを引っ張りだす。

 その時、「ああ、ここが僕の居場所なんだな」と思った。先なんて全然見えない修士課程のころのことだ。英語論文の読解に四苦八苦しながら、指導教授の厳しい指導を受ける日々。それでも、僕のまえには学問の世界が無限に広がっていて、ともにそこに向かって進む仲間がいた。

 勉強もよくしたが、議論もよくやった。歴史認識について、学問のあり方について、日本の進むべき道について。談話室で飽きることなく何時間も話した。もちろん、日常の悩みや、馬鹿な話も限りなくした。そこには、確かに「学び」があった。

 それから月日は流れて、いま僕は教壇で教える立場になった。最近の大学では、学生の学力向上が盛んにうたわれ、やれFDだのGPだのの導入が進められている。文科省は「学士力」の統一的な基準を決めるだの何だのと息巻いているようだ。

 だが、「学び」とは、基本的にそういうものではない。単位や成績などは殆ど関係ないとすら言ってもいい。ある種の「場」のなかで、何かに背中を押されながら、とにかく自分の知りたいこと、わからないことを追求するところにしか「学び」は存在しないのではないか。

 もし、日本の少なからぬ大学に問題があるとすれば、そういう「場」が残念なことにあまりにも少ないということではないだろうか。
[PR]

  by seutaro | 2009-02-08 01:07 | 学問

<学問>「学者の腐ったような奴」

 ここでよく取り上げるウチダ先生のブログで、またまた気になるエントリが。

内田樹の研究室「知識についての知識について」


 まあ、言っていることに納得できなくもないのだが、気になったのが「学者の腐ったような奴」というフレーズ。この部分については、直接、引用してみよう。


20年ほど前の学会では、学会発表のあとの質疑応答で「重箱の隅をつつくような」質問をして、発表者が答えられないと、「『こんなこと』も知らない人間にこの論件について語る資格はない」というかたちで切り捨てるタイプの学者がときどきいた。
私は彼らのことをひそかに「学者の腐ったようなやつ」と呼んでいた。
「学会」とかいうと、「そういう突っ込みもありでしょ・・・」と訳知り顔をされる方がいるかも知れないが、そういうものではないです。
(中略)
「重箱の隅」的知識にこだわる学者は「自分の知ってる知識はすべて万人もまたこれを知っているべきものであり、自分の知らない知識は万人にとって知る必要のないものである」ということを不当前提している。
(中略)
トリヴィアルな知識は豊富であるが、自分の知識についての評価ができない人々を私は「学者の腐ったようなやつ」とカテゴライズし、まとめて火曜日の生ゴミの日に出していたのである。

 ウチダ先生が具体的にどのような質疑応答を指して言っているのかわからないので、ピントが外れている可能性が高いのだが、まあ、とりあえず以下のようなことを考えるわけだ。

 まず、そもそも学問って何ぞや、という話から。ニュートンの有名な言葉に「私がさらに遠くを見ることができたとしたら、それはたんに私が巨人の肩に乗っていたからです」というものがある。もちろん、これは比喩であって、要するにニュートンの学問的な業績というは、先人たちの努力の上に成り立っているということだ。

 実際、学問とはそういう既存の研究のうえに積み重ねられていくものだ。だから、先人がどのようなことを考え、研究してきたのかを知ることは非常に大事なことだ。そういう作業がないと、ずっと前から言われたりしていることを、さも自分の「新発見」であるかのごとく誤認してしまうことになるし、その分だけ、無駄な労力が多くなる。学術論文を書くさい、既存研究の整理が必要なのは、そのためだ。

 けれども、既存研究の整理というやつはかなり大変だ。特にポピュラーな分野であればあるほど、読まねばならない既存研究は多くなる。じっさい、僕が論文を書くときにも、かなりの時間をそれでとられる。

 ところで、世の中には、学術論文と一見すると似ているようで、実は性格がぜんぜん違うものがある。アカデミックなエッセイとでも呼ぶべきものだ。フーコーでも、レヴィナスでも、レヴィ=ストロースでも何でもよいのだが、学問的な概念や分析装置を使って、世の中をさくっと切るというタイプの文章である。

 こういうタイプの文章のばあい、学問的な意味での新しさはまったく必要ない。読む人を面白がらせさえすればよいのであり、学問的な重要性はむしろ低い。実際、世の中に溢れている新書の類の多くは、このカテゴリーに属している(もちろん、アカデミックな意味でも重要な新書もある)。

 ここで言っておくと、僕はべつにアカデミックなエッセイの意義を否定しているわけではない。学問の入門にはうってつけだし、自分がぜんぜん知らない分野の知識を得られるという意味では重宝する。

 ただし、そういうアカデミックなエッセイのスタイルと、学術論文あるいは発表のスタイルはやはり区別されねばならないと思う。そして、繰り返しになるが、学問をやる場合、先人の業績の緻密な検証は絶対的に必要な作業だ。それだけが、「巨人の肩に乗る」ことを可能にするのだから。

 ここでようやく、ウチダ先生の話に戻るわけだが、そういう既存研究に関する知識が、門外漢の人から見れば、どうしても「トリヴィアル」なものに見える可能性は否定できない。もちろん、ウチダ先生が「学者の腐ったような奴」と呼ぶ人物が、本当にしょうもない知識をただひけらかしたいだけだった可能性はあるのだが(実際、そういう人が学会にいることは確かだ)。

 僕がなんでわざわざこんなことを書いているのかといえば、既存研究の地道な検証をすっ飛ばして、アカデミックなエッセイ風の学会報告をしたり、論文を書いちゃう人をときどき目にするからだ。そういう人を見ると、「なんで○○の研究に触れないのか」とか、「××という概念の背景をどこまで押さえているのか」などと突っ込みたくもなる。それは別に自分の知識をひけらかしたいとかそういうわけではなくて、既存研究をレビューすることの大切さを伝えたいという切なる願いなのだ。

 というわけで僕は、学問をやるのであれば、「トリヴィアル」に見える既存研究のレビューをきちんとやることを求めたい。たとえ、「学者の腐った奴」と呼ばれようとも。

 って、何か匂いますか。
[PR]

  by seutaro | 2008-09-28 00:21 | 学問

<学問>学問における「要領のよさ」

 最近、ブログ界隈で話題になったエントリが↓。

1ヶ月間だけ思い切りがんばれば。
http://d.hatena.ne.jp/guri_2/20080109/1199875970

 で、このエントリを受けて、批判という形で書かれたのが↓。

「地道な努力」よりも、はるかに人生を好転させる努力の仕方」
http://d.hatena.ne.jp/fromdusktildawn/20080111/1200020891

 僕にとってインパクトがあるのは、やっぱり後者のエントリだろう。

むしろ、「近道を探す努力」こそが正しい努力であって、
「近道や一発逆転を狙わないで地道な努力を積み重ねる」という姿勢が、
自分と周囲を不幸にし、
格差と貧困を生み出し、日本を衰退させてきた。

 などという言葉を読むと、「むむむむむ」と思ってしまう。

 ただ、後者のエントリにも突っ込みどころはあって、ブックマークでは「努力の定義が違うのでは?元エントリでいう努力は物事に対する謙虚な態度のことで、この人の言っているのは努力という名の非効率な行為のことのように思われるが」などというコメントがあり、正論であるようにも思う。

 それはともかく、僕はビジネスの世界にはとんと疎く、「近道を探す努力」というのが重要だと言われると頷くことしかできない。

 けれども、僕に親しみのある(人文社会系の)研究という領域について言えば、「近道を探す努力」しかしない人は大成しない、と思う。

 これは僕のせま~い経験に基づく話なのであるが、ある研究会にちょっとだけお世話になっていたことがあった。その研究会にいる方々の多くは「要領のよさ」を誇っており、いかにトレンドを捉まえるかということに関心を寄せる傾向があった。

 しかし、実際に彼らの研究発表を聞いてみると、版で押したように全く面白くない。それがある種のトレンドに乗っかっていることは確かなのだろう。けれども、その研究にかける「情念」のようなものが全く感じられず、淡々と事務的に文章が綴られている。話を聞いていて欠伸をかみ殺すのに苦労させられることしきりであった。

 研究におけるこういう形での「要領のよさ」の追求は、研究をつまらなくするだけではない。とりわけ研究の道に入ったばかりの段階でそういうやり方に慣れてしまうと、研究者としての「伸びしろ」を増やす余地がなくなる。そのため、たとえば修士論文を書き上げた段階で次のステップが全く踏めなくなってしまうということになりがちだ。修士論文を書き、それをもとに論文を2、3本書いてから、ぱったりと論文の生産が止まるというケースは実際、少なくないように思う。

 結局のところ、研究者としての「伸びしろ」を増やすためには、一見すると回り道のように見えるところを行ったりきたりする必要があるのではないだろうか。もちろん、そこには膨大な無駄が含まれるだろうし、最後までものにならないものも数多くあるだろう。けれども、そういう「無駄」こそがいつの日にか、急にかけがえのない「資産」になる。

 だから、少なくとも研究の領域で「要領の良さ」を自慢する人を、僕はあんまり信用しないのだ。
[PR]

  by seutaro | 2008-01-15 00:07 | 学問

<学問>大学教育に意味はないか

 このエントリを読んでいて、なんとなくやりきれなさを感じてしまった。

ネットを使えば、大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーションを数万人とできるし、それもヌルい学生でなく、本当に学びたい社会人などと密度の濃いやりとりができる。ネットならみんなで寄ってたかって1日で質の良い教材もできるだろう。教室スペースや大学までの距離など、物理的制約を大きく受ける大学で講義する気は一切ないと。

 たしかに、現在の大学教育には様々な問題があるとは思う。けれども、大学に奉職している立場としては、こういうお気楽な発想にはやり場のない憤りを感じる。

 最初から「やる気のある相手」だけを相手にする教育というのは、はっきり言って楽である。たとえば、(まともな)大学院の演習などでは、参加者にも論客がそろっていたりするので、質の高い議論が勝手に進む。教員の仕事は、議論の流れを適切にコントロールすることだけである。

 逆に、やる気のない相手、とりわけ大学一、二年生あたりの大教室での講義をうまくマネージメントするのは非常に難しい。それなりの話術が要求されるし、できるだけ学生にとって身近な話題から始めて、高度なテーマにまでなんとか話を引っ張っていかなくてはならない。

 そもそも自分がいるところから半径50メートル以上向こうの出来事には関心のない、新聞も読まない学生が、どうやったら社会に関心を持つようになるのか。それは試行錯誤の繰り返しであるし、僕も授業が終わるたびに反省の連続である。1コマの授業の準備には、その数倍の時間をあてている。

 ちなみに、僕が勤めている学部の他の教員の皆さんは非常に教育熱心であり、FDも積極的に展開している。たまに教員同士の親睦会などが開かれるさいには、二次会と称してファミレスに行くのだが、そこでは深夜まで教育談義に花が咲く。大学の授業に意味がないというのは、そうした営為がすべて自己満足でしかないということなのだろうか。

 我々が相手にしているのは確かに「ぬるい学生」かもしれない。けれども、誰かが「ぬるい学生」に向けて教育をしなければならないのであり、良い教育をするためには当然研究もしなくてはならない。与えられた様々な制約のなかで、奮闘している教員は決して少なくない。

 そういう難しさを抱える教育を見下して、「大学というシステムは終わっている」などとのたまい、「大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーション」をしていると言われれば、正直に言って腹が立つ。ためしに、「ぬるい学生」相手に「大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーション」をやってみなよと言いたくもなる。

 最後に、大学教員は「既得権層」ということなのだが、こんな構造的不況産業の従事者をつかまえて「既得権層」と言われても正直困る。僕も大学院を出てから長らく不安定な雇用状態にあったし、初めてボーナスというものを手にしたときには30歳を過ぎていた。しかも薄給のため、ボーナスで毎月の赤字を埋めるので精一杯であった。その後、大学にポストを得ることができたのも、その選考の際の倍率を考えれば、ラッキーだったとしか言いようがない。

 というわけで、嫌な気持ちのまま終わる。どうせ、僕のやってる授業なんて全くの無意味なのさ。うじうじ。
[PR]

  by seutaro | 2007-05-29 02:59 | 学問

<学問>論文提出

 3月からずっと書いていた論文をようやく提出した。これでとりあえず2007年発行の論文は2本になるし、去年の秋から取り組んできたテーマからようやく(暫定的に)解放される。理論はそろそろ飽きてきたし、今度はまた事例分析をする予定。

 それにしても、授業と授業準備の合間に書いているため、書いていた内容がすぐに頭から飛んでしまう。正直、通読したのも数えるほどだし、全体としての整合性がきちんと保たれているかどうか心配ではある。

 まあ、問題があれば校正のときに直せばよいだろうという、印刷屋さん泣かせの言辞を吐いて終わるのであった。
[PR]

  by seutaro | 2007-05-15 15:02 | 学問

<学問>文型学者の辛さ

 昨日、このブログを読んだ人から、「読みにくい」、「文体がなってない」、「内容がばらばら」などと厳しい評価をもらった。
 そう言われて、改めてこのブログを見直してみると、確かにその通りである。そうこうしているうちに、だんだんと適当に書き飛ばした駄文を人様に公開していることが急に恥ずかしくなってきた。訪問客もほとんどいないので、このサイトを閉じようかどうか悩み中である。
 まあ、急に閉じるというのもなんなので、とりあえず最近、気になった『毎日新聞』の記事をコピペ。

理系文化人:エッセーが人気 藤原正彦さん、養老孟司さん……大局観に世間が期待
理系の研究者が専門外の現代社会を論じたエッセーが売れている。今の日本社会にもの申す--などのメッセージを放つ本は常に書店の一角を占めているが、社会学などベテラン評論家による分厚くて小さな文字の本ではなく、新書に代表される手軽で平易な文体の本が目立ち、ベストセラーになっているのが特徴だ。背景を探った。【岸桂子、手塚さや香】

 ◇半年で200万部

 新潮社は先月上旬、数学者の藤原正彦さんが執筆した「国家の品格」(新潮新書)を、一挙に40万部増刷することを決めた。新書の1回の増刷としては「おそらく前代未聞の数字」(新潮新書編集部)。その後も増刷を重ね1日現在で計197万部となり、昨年11月の刊行以来、半年で200万部に達するのは確実だ。

 「国家の品格」は、米国追随一辺倒の政治からの脱却を説き、武士道精神など日本人が持っていた価値観や美徳を取り戻すべきだと明快な文章で主張したエッセー。藤原さんは「若き数学者のアメリカ」(77年)など、叙情に満ちた多数のエッセーを発表しているものの「国家のありよう」を明確に打ち出したのは初めて。自身「こんな売れ方は普通じゃない」と戸惑いを隠さないが、ヒットの要因を四つのポイントを挙げて分析した。

 「文系だと右、左の色がついて中身も類推できるが、理系は色がつきにくい。だから読者は『何を書いているのか』と興味を持つ。第二に、常に視線を世界に広げているから、日本の良さも悪さも自信を持って発言できる。第三に、自説をはっきり主張する人が少ない文系に対し、理系は直線的で主張が明快。第四に理系は斬新さで勝負している。この本も、他の本にはないハッとすることがいくつも書いてあるので、読む人は興味を持ってくれたのではないでしょうか」

 新潮新書からは、415万部と新書の最高部数を更新し続けている養老孟司著「バカの壁」(03年)も生まれた。養老さんは解剖学者だが、「バカの壁」も現代社会について論じた本。つまり、超ベストセラー2冊は、理系学者が専門分野の外に向けた論評となっているのだ。

 ◇拒否反応薄れ

 ただし、「理系」は必ずしもキーワードでないという指摘がある。大手出版社の理工書担当編集者は「読者の立場で考えると、数学者や解剖学者の本であることを意識して買っているかどうかは疑問だ。2人とも文章がうまくて含蓄があり、読んでみると『数学者と情緒』のような意外な組み合わせの面白さがあった」と話す。

 社会論に限らず、「理系」人による本への抵抗が薄れているという見方も。ジュンク堂書店池袋本店の文芸担当者は「小川洋子さんの小説『博士の愛した数式』(新潮社)のヒットを契機に、数学入門書も売れています。これまでは理系の人の執筆というだけでちゅうちょされがちだった本が、違和感なく受け入れられつつあるのでは」と話す。

 ◇「大家」の不在

 かつて、文化芸術から社会時評に至るまで常に発言を期待された人として、作家の司馬遼太郎さんがいた。

 養老、藤原両氏に社会時評を依頼した理由について三重博一・新潮新書編集長は「独創的な視点を持ち、固定観念にとらわれない柔軟さがあるから。理系を意識したわけではない」としたうえで、「2人とも文系理系の枠に収まらない『知性』を持っている。読者は今、大柄な構えをもった思想を説く人を求めている気がします」と話し、専門性に縛られない大局観をもつ人の登場を願う世間の期待が、養老・藤原本のメガヒットにつながったという分析に共感を寄せる。

 藤原さんは「司馬さんのような広い視野は、文化や芸術、歴史、思想という一見何の役にも立たないような教養がなければ身に着かない。そんな人は多くは登場しないけれど、活字文化の衰退と、政治家でさえ大局観を喪失している現状を考えると、出現の頻度はますます低くなるだろう」と将来を懸念する。

 ライターの永江朗さんは「『専門バカ』ではない、『長屋のご隠居』的な存在はいつの時代にも求められる。文系は70~90年代にイデオロギーに左右されて権威を失ったりしたが、理系の人たちは、世界観の変化の荒波をそんなに受けずに済んだのでは」と語る。

 「理系文化人」ブームは今後も続くのか。注目されている一人が、1962年生まれの脳科学者、茂木健一郎さんだ。文理の垣根を壊した論壇・研究活動が光り、昨年は小林秀雄賞を受賞。茂木さんの新刊も出した三重編集長は「ポスト養老・藤原は常に探しています」と打ち明けた。

==============

 ◆識者はこうみる

 ◇文系との境界なくなった--寺門和夫氏・サイエンスウェブ編集長(科学ジャーナリスト)

 科学を極めた専門家はそれなりの自然観、社会観を持っているから、文系の専門家の自然観、社会観と違う見方ができる。その発想が面白くて独創的だから受け入れられているのだろう。そういう人たちが学術論文ではなく、一般向けのエッセーを書いたり分析したりというのは新しい局面かもしれない。新しい問題提起として考えるべきだと思う。つまり、新しい視点で物を考えなきゃいけない時代になってきたということではないか。

 背景として理系と文系の境界がなくなっている現状がある。学問を理系と文系に分けるという明治以来の考え方自体が不可能になってきた。教育や社会現象、犯罪を社会科学的な観点から分析する方法もあるが、理系の立場から見ると異なる分析が可能なことも多いし、実際に発言する人も増えてきた。人口の問題も環境と関係しているし、宗教対立や紛争などの背景も科学的に分析できる点がある。これからの社会は理系の知恵をもっと利用する時代に入った。

 ただ、昨今ベストセラーになった本は、著者のパーソナリティーという要因も大きく、「理系の文化人」というくくりでとらえるのが難しいところもある。この先、文系の文化人が理系のテーマを書いた本がベストセラーになることもあるかもしれない。(談)

 ◇背景に言論ゴミため化--橋爪大三郎氏・東工大教授(社会学)

 理系文化人が政治や社会を論じた本が支持される背景には、「言論のゴミため化」の進行がある。冷戦後、右、左という対立軸がなくなり、イデオロギーがリセットされた。さらにネット上の巨大掲示板などが登場し、オピニオン誌などに代表されるいわゆる「高級な言説」と、出所の分からないうわさ話との区別がつかない言論のゴミため状態になった。政治も劇場化によってサブカルチャーになり、一部の医師や弁護士はタレント化する。こういう状況で「何を信じていいのか分からない」という方向喪失感覚が生まれる。その中で信頼できる存在として理系が注目されるのではないか。

 理系の学問は、客観的法則や事実、物質が存在するところからスタートしているから信頼できそうに感じられる。理系離れと言われて久しいが、養老氏らの本のヒットも「理系は文系とは違う」という文系人間の過度な思い入れや理系への距離感に由来している。

 また、文系の知識人が文系の異分野で発言する場合、既存の常識をひっくり返すことを意図しているために、読者には難解で説教臭く感じられる。その点、理系知識人が文系のテーマを論じる場合は「こんなこと考えてもみなかった」という意外な点を突いてくるため、常識を捨てるという抵抗感が少なく、関心を持たれやすい。(談)

毎日新聞 2006年5月8日 東京朝刊

 おそらく文型学者の代弁者として橋爪氏のコメントが出ているのであろうが、そうなのであれば、もうちょっと同情的な見方をしてくれてもよさそうなものである。
 世の中の様々な社会問題や社会現象を論じるさい、よく知れば知るほど、「○○すべきである!」とか「××は間違っている!」とばっさり切れなくなることが多い。
 だから、文型学者の多くは、持論を展開する際にも、なにかと留保をつける。「・・・という場合には」といって条件を付けたり、「・・・する傾向にある」と断言することを回避したりするレトリックがそれにあたる。そういう書き方をするのは、むしろ学者としての良心の発露だとすら言える。
 けれども、そういう文体は、残念ながら一般の読者にはあまり受けない。非常にもってまわった言い方に感じられるからだ。
 そこで、そういう面倒くさい留保をつけずに、さくっと物事を断言してくれる「文化人」のニーズが出てくることになる。もちろん、そういう「文化人」は理系に限定されるわけではない。今回、養老氏、藤原氏と理系の文化人が続いたが、それはヒットを生み出すうえでさして大きな要因にはなっていないのではないだろうか。
 文型の学者でも、研究の一線を退き、学会での評判などを気にする必要がなくなった人がよく脇の甘い文明論なんかを出してしまったりするが、マーケティングさえ上手ければそういう人でもメガヒットを飛ばせるだろう。
 ああ、なんか愚痴っぽいエントリになったな、これ・・・。
[PR]

  by seutaro | 2006-06-01 13:52 | 学問

<学問>「学術論文」の難しさ

 こういうトラックバックをもらい、ふと考えることがあった。このトラックバック先では、『昭和ナショナリズムの諸相』という本に関して、次のように述べられている。

私が不勉強なのは認めるとしても、普通に生活してて教科書や新聞などで目にしたことすらない人たちを「知ってて当然!」という前提で話をすすめる不親切さには辟易。
(中略)
論文集だからしょうがない、がんばって読むしかない、読める人しか相手にしない、とでも言いたいのか!?
 もしそうなら、書店に並ぶ一般書として発売せず、学術書として、ナショナリズムを考える業界の方々だけで楽しんでいただきたい。

 この引用文に、学術論文というものの抱える非常に深い難問がよく現れているように思う。今日はこのテーマについて書いてみたい。
 僕が学術論文というものを最初に書き始めた当初、指導教授によく言われたのが「学会の平均水準を知ること」であった。つまり、学会で「常識」とされていることは何か、「常識」ではないことは何かを理解するということだ。これがわかってないと、「常識」をだらだらと書き連ねてしまい「こいつ、こんなことも知らなかったのか」と馬鹿にされるし、「常識」ではないことを簡略化して書くと論理の飛躍だと思われかねない。
 したがって、学術論文を書くポイントというのは、学会の「常識」をさらっと流して書き、「常識」ではないこと、つまり自分の新しい発見については雄弁に語るということにある。そのためには、学会誌もそれなりに目を通し、現在の水準を把握しておくという作業が必要になる。
 ところが、「学術論文」をより広く世間に問うとき、こうした論文の作法は一般読者にとって大きな障害となる。なぜなら、専門家の「常識」と一般読者の常識との間に大きな差が存在するからだ。したがって、学術論文をそのまま書籍にすると、一般読者にとってはものすごく不親切な本になってしまう。
 そこで、解決策としてはまず、そもそも著作を発表せず、専門の学会誌のみに投稿するという方法がある。しかし、実際問題として、専門の学会誌の読者というのはものすごく限られている。僕がこれまで学会誌に書いた論文でも、読者は多く見積もって10名ぐらいではないだろうか。これは、学問をやっている身としてあまりに寂しい・・・。やはり、自分の著作を世に問うて、より大きな反響を得たいというのは、たいていの研究者がもっている性だろう。
 そこで第二の解決策としては著作として発表する場合、論文に書くよりも親切な解説を多くつけるというものがある。実際、少なからぬ研究者はこの手法を取っている。たとえば、小熊英二氏の著作などは、戦前戦後の論壇の状況などに関する詳細な知識がなくとも、楽しく読むことができる(と、思う)。
 けれども、この策には大きな問題がある。それは、小熊氏の著作が典型的に示しているように、本がものすごく分厚くなってしまうのだ。氏の『単一民族神話の起源』が450ページ、『「日本人」の境界』が778ページ、『<民主>と<愛国>』に至っては966ページである。これだけの分量になっても親切な著作を書けといわれれば、たいていの研究者は尻込みしてしまうだろう(そして、そのあまりの分厚さに、読者の側もまた尻込みしてしまいかねない)。
 また、難解な著作はマイナーな学術出版社から出し一般読者向けには新書等のメディアで書くというようにメディアを使い分けるという方法もある。けれども、この方法には、新書を出しているような大手出版社は若手やマイナーな書き手の本をなかなか出してくれないという難問がある。
 そのため、結局は少なからぬ著作が、専門家以外ではとうてい理解しがたいような形態で学術出版社から出されてしまうことになる(ただ、『昭和ナショナリズムの諸相』の場合、収録されている論文がかなり昔に発表されたものであるため、こうした非難を著者の橋川氏に投げつけるのは妥当ではないと思うが・・・)。
 しかし、学術的な著作が世間から遊離した文体で書かれていることのデメリットはやはり認識すべきだろう。「理解できないのは、読者の知識が足りないからだ」といった態度で開き直ることはやはり傲岸不遜との謗りは免れない。となると、結局は、小熊氏のように分厚い著作をみんなで書くということなるのか・・・。
 実は僕も、2、3年後には自分の著作を世に問いたいと思っているので、こういう問題を避けて通ることはできない。さて、どうしたものやら…。

※ところで、出版社の側もこうした事態は憂慮している。難解な本を出版し、さっぱり売れなくて一番困るのは彼らだからだ。実際、出版社は専門書よりもむしろ、『~入門』みたいな本を好む傾向にあるようだし、極めて専門的な著作にすら『入門』という文字をタイトルに入れたがるという話を聞いたことがある。
[PR]

  by seutaro | 2006-05-22 02:24 | 学問

<学問>授業アンケート

先日、僕が非常勤講師をやっている大学の授業アンケートの結果が郵送されてきた。その結果は、正直、非常に厳しく、僕の平均点は全学の平均をかなり下回っていた。

特に凹むのが自由回答であり、非常に面白かったとの回答もあるものの、反応がキモイだとか、何を言っているのかが分からないなど、傷つくものが多かった。

ともあれ、傷ついてばかりもいられないので、改善点を探らねばならない。正直、キモイというのはどうしようもないが(それを書くことで僕にいかなる改善を求めているのか聞きたいところではある。消滅しろとでも言うのか・・・orz)、その他の面で改善すべきところはあるようだ。

僕の授業の大きな問題は、僕の話すスピードが速すぎるということにある。ついつい対面で話すようなノリでペラペラ話してしまうのだが、教壇に立ったときにこのような話し方をすると、聞いている方はどうにも分かりづらいようだ。確かに、スピーチのうまい人の口調をまねてみて、かなりゆっくりなスピードで話しているのにびっくりした記憶がある。

というわけで、次の授業からはゆっくりと話すことを心がけようと思うが、急に口調を変えて学生に怪しまれないかどうか心配ではある。
[PR]

  by seutaro | 2005-09-26 23:48 | 学問

<学問>非常勤講師の憂鬱

実は、僕は本業のほかに、大学で非常勤講師などをやっている。そんなわけで、今日は夏休み明けの講義の1回目をやってきた。正直、今回の講義をやるのは非常に憂鬱だった。というのも、今日の講義のテーマについて、僕はつい数週間前まで、殆どなにも知らない状態だったからである。

僕が学部生のころ、大学の先生というのは自分の専門科目だけを教えているのだと考えていた。当然、講義をするテーマについては豊富な知識を有しており、学生ごときの知識では到底及ばないものと信じていた。

しかし、大学院の博士課程に入ったあたりから、どうもそういうわけでもなさそうだと思うようになった。僕の同期でも、早い奴は博士課程1年生ぐらいから非常勤講師になっていた。けれども、何を教えているのかと聞くと、そいつの専門とは全くもって関係のない分野なのであった。

そして、博士課程を終えるころから、僕も非常勤講師をやるようになったのだが、依頼される講義というのが、どうにも僕の専門とは大きく食い違っている。もちろん、研究のテーマというのは概して非常にマニアックなものであり、それとぴったり合致する講義など滅多にないというのはわかる。だが、それにしてもちょっと違いすぎやしませんかね、という筋の講義依頼ばかりが来るのである。

「そんなに違うのなら、断ればいいじゃないか」と思う人も多かろう。けれども、大学院出身者にとって非常勤講師の口というのは、極めて重要な資源なのである。特に最近は、教歴がないと非常勤講師すらやらせないという学校が増えているため、教歴をつけるためにもとにかくどこかに講師の口を見つけることが最優先課題となる。だから、非常勤講師の依頼にしても、

依頼主「○○大学で××っていう講義をやってくれない?」
大学院生「ぜ、ぜひやらせてください!」
依頼主「引き受けてくれて助かったよ。いや~、前任者が急に断りを入れてきたもんだからさ~」
大学院生「なるほど・・・。で、××って、具体的には何を教えるんですか?」

といった具合に、とにかく引き受けることが先決で、何を教えるのかは二の次、三の次である。もちろん、教えられる側にすればたまったものではないだろうが、それでも背に腹はかえられないのである。

というわけで、今日の講義に話を戻すと、そもそもこの科目のテーマ設定自体にあまり馴染みがないことに加えて、今日は僕が以前には全く知らなかったことについて果てしなく語らねばならない。無論、準備はしているものの、本業のほうが忙しくなる一方であり、自分自身の研究論文の準備もしなくてはならないために、思うように時間が取れない。それでもなんとか講義用のレジュメを仕上げて、さも専門家であるような口ぶりで一席ぶってきた。これから後期の授業が終わるまで、このような自転車操業が続くことを思うと、気が重くて仕方がない。

ただ、最後に言い訳っぽくなるが、こういう自転車操業的講義が、自らの専門テーマにぴったりと合致した講義よりも劣悪なものになるとは必ずしも言えないように思う。もちろん、ミスが増えることは不可避ではあるのだが、講義の内容は教える側にとっても新鮮な事柄である。だから、それだけ講義は熱を帯びるし、声に張りがでる・・・こともある。

それにしても、来週の講義はいったいどうなることやら。
[PR]

  by seutaro | 2005-09-14 23:48 | 学問

SEM SKIN - DESIGN by SEM EXE