カテゴリ:日常( 47 )

 

<日常>DVD

 今日は授業が3コマ。午前中の授業でDVDを映そうとしたら、早送りと巻き戻しが全くうまくいかず、見せたい部分を学生に見せることができない。結局、10分近く格闘して断念。
 午後の授業でも別のDVDを映そうとしたのだが、これまた不調。今度は再生ができない。ただ、このDVDは是非とも学生に見せておきたかったので、職員の人を呼んで来て操作をしてもらう。午後の教室の機器はあまりに複雑すぎて、ぱっと見では何が何だかわからない。
 授業でAV機器がうまく動かないときは本当に焦る。汗が額から噴出しているのがわかるし、学生が徐々にざわついてくるのが余計にプレッシャーになる。なんで、学校のAV機器というのは、あんなに使いにくいんでしょうかね・・・。
 
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  by seutaro | 2007-04-28 03:41 | 日常

<日常>A4で5枚

 今日の授業のトークはなかなかであった。なかなかであったとは思うのだが、いかんせん早く終わりすぎた。

 1限目の授業を規定の15分前に終了し、4限目の授業もこれまた15分前に終了。いかん、これでは給料泥棒ではないか。でも、もうどこを絞っても話すネタが出てこなかった。

 要は、原稿をA4で4枚分しか用意していなかったのが敗因であり、90分もたせるためには5枚必要なのだと認識する、というか思い出す。そうだ、かつて5枚必要だと悟ったはずではないか。今度こそ忘れないようにせねば。

 その埋め合わせというわけでもないのだが、5限のゼミはきっちり最後までやる。というか、ちょっと僕が話しすぎた。もっと学生に話させないと駄目だ。

 夜は学生と飲み会。基本的にはホスト役なので、飲み会と言いつつも結構気をつかう。でも、今年の新ゼミ生の雰囲気は悪くない。
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  by seutaro | 2007-04-26 00:10 | 日常

<日常>なんか不調

 先週の講義はわりと調子良く進んでいたような気がしていたのだが、今週に入ってなにか調子が出ない。トークも冴えないし、学生の受けも当然悪い。とくに最初の導入部でつまづくと、その後ず~~っと引きずってしまう。人前で話すというのは、やはり難しいねぇ。
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  by seutaro | 2007-04-25 01:07 | 日常

<日常>なんとなく

ブログを更新しろといわれたので、更新しようとしてみたのだが・・・。
トラックバックとコメント欄の掃除だけで疲れたので、今日はこれで終わり(笑)
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  by seutaro | 2007-04-23 01:13 | 日常

<日常>疲れた…

 この週末は、某センター試験のお手伝い。基本的には廊下でずっと待機していただけだが、寒いの何の。受験生の皆様があったかい教室のなか頑張っているなか、僕は廊下でぶるぶると震えていたわけである。

ともあれ、大きなトラブルもなく…、いや、なくはなかったが・・・、とりあえず終了。なんだか疲れた週末だった。明日はのんびりしょう。
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  by seutaro | 2007-01-22 01:44 | 日常

<日常>子育ての喜び

 正直、子どもと長時間遊ぶのは結構疲れる。少なくとも、僕は。

 たとえば、子どもと一緒に積み木で遊んでいても、僕はついつい大規模建築物の作成にいそしんでしまい、「ここの柱のバランスが…」などとマニアックな喜びを見出してしまう。それに対し、2歳過ぎの我が愛娘にはそうした父親の情熱が理解できない。挙句の果てに、我が労作を一瞬にして破壊するのである。

 そこで、もっと単純化された遊び、たとえば「高い、高い」をしてみるわけであるが、これを連発すると僕はすぐに息が上がってしまう。しかし、愛娘は「もういっかい」などと際限なく要求してくるのである。

 そんなわけで、ついつい僕はNHKの子ども番組に逃避してしまう。「いないいないばあ」と「おかあさんといっしょ」を連日放送してくれるだけで、NHKの受信料を払う価値はある、と僕は思う。NHK教育は偉大だ。

 こういう非常に疲れる子どもの相手をずっとやってくれている相方には感心するほかない。僕には専業主夫は無理だと思う。

 けれども、もちろんそんな子育てに不熱心な父親にも感動させられる瞬間はある。近頃、娘は急速にボキャブラリーを増やしつつあり、以前は「バイバイ」だけだったのが、「じゃあね~」などと言ったり、僕が帰宅すると「おかえり」らしきことを言ってくれたりもする。こちらが言っていることを理解していると思われることも増えた。

 こうした日々の成長のプロセスは、やはり感動的というか、このうえない喜びである。僕は自分で自分のことを「成長した」という人があまり好きではないのだが、他人の「成長」はやはり見ていて嬉しいものである。

 (そもそも、「成長」なんてのは、他者による評価に基づくのであって、自己申告するようなことでもないんじゃないだろうか。それは、近頃流行りの「品格」でも同様であるが。)
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  by seutaro | 2007-01-17 17:35 | 日常

<日常>2007年の目標

 書き上げたエントリが気に入らなくて消し、また書いては消しということを繰り返していたら、年が明けてしまったそなたんパパです。謹賀新年。

 それはともかく、1年の初めでもあるし、今年の目標&計画をここでぶち上げておこう。

 目標1 今年も論文を2本書く
 目標2 海外に調査に行く
 目標3 昇格審査に受かる

 計画1 引越しをする
 計画2 家族旅行をする
 計画3 ないしょ

 というわけで、初詣でもこれらをしっかりお願いしてきた。もちろん、家族の健康なんかもお祈りした。さすがに盛りだくさんなので、例年よりも増額して100円投げてきた(笑)

 論文2本のうち、1本のアイデアは徐々に固まってきた。問題はもう1本だが、これは海外調査の結果いかん、といったところだろうか。

 それにしても、論文のアイデアがどんどん浮かんでくるときというのは、至福の瞬間である。
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  by seutaro | 2007-01-06 01:40 | 日常

<日常>子どもを持つ意味

 以前のエントリで、現代の日本では「子どもを作らないことが合理的な選択なのだ」ということを書いた。これが正しければ、少なくとも現代の日本では子どもを持つということは、損得勘定を越えた決断だということになる。
 実際、ウチダ先生は『街場の現代思想』で、次のようにおっしゃっている(pp.148-149)。

男手一つで子育てしてきた経験からきっぱりと申し上げるが、子どもとは「不快な隣人ナンバーワン」である。それを受け入れ、愛し切る能力がなければ、育児などというものは決して完遂されない。子どもというのはミッフィーちゃんのような丸くてふにゃふにゃしていてひたすら可愛いものであると思っている諸君は妄想を育んでいるにすぎない。…

人類が再生産を維持するために必要な資質は「快楽を享受する能力」ではない。そうではなくて、「不快に耐え、不快を快楽に読み替えてしまう自己詐術の能力」なのである。

このような見地から、ウチダ先生は結婚とは「理解も共感もできなくても、なお人間は他者と共生できるということを教えるための制度」だとおっしゃる(p.159)。

 要するに、結婚および子育てとは修行なのであり、それを経てこそ人は「サル」ではなく「人間」になることができる・・・というわけだ。

 ウチダ先生の意見はそれなりに説得的ではあるものの、それでもやはり「修行」に「子どもをもつ」ことの積極的な意味を見出すのは難しいようにも思う。そこで、ここではもう少し違う意味づけをしてみたいと思う。

 僕がまだ高校生ぐらいのときだろうか。僕はアフリカかどこかの原住民の作ったアミュレットが欲しいと思っていた。そのアミュレットは、僕のためだけに作られたものであり、なんだかよくわからないがお守りになるという設定だ(笑)

 今にして思えば下らない妄想だが、おそらく当時の僕は「お金では変えないもの」が欲しかったのだと思う。当時はバブルの絶頂期。高校生の僕はその華やかさに惹かれつつも、何でも商売になってしまう社会からどう頑張っても抜け出せないことの空しさを感じることもあった。そうした想いの発露が「アミュレット」だったわけだ。

 ありとあらゆるものがカネに換算されてしまう社会。それは、ホリエモン的に言えば、金さえあればどのような人物でも何でも手に入る平等な社会だということになるわけで、そのことを僕も否定するつもりはない。固定化された身分や階級ごとに手に入れられるものが決まっているような社会よりはよっぽど良いと思う。

 けれども、他方において、そこにはある種の空しさがつきまとうのも事実だ。僕が所有するほとんどのものは大量生産によって作られたものであり、要するにいくらでも代わりは存在している。もしくは、カネさえあれば、もっと良いものを手に入れることができる。たとえば、長年愛用しているPCなんかそれに該当するだろう。

 もちろん、僕の手がかなり入っており、この世に二つとないものもある。たとえば、僕が大学院生のころから作り続けている研究ノートは、火事などで部屋が焼けそうになったときに真っ先に持って出るものだ。実際、留学するときも、この研究ノートだけは手荷物のカバンに入れていた。

 けれども、そんな酔狂は人は誰もいないが、たとえばこのノートを10億円で譲ってほしい(僕がコピーを保存することは不可)という人がいたとすれば、僕はあっさりと譲ってしまうだろう。

 また、たとえば僕の良心という面にしてもカネで買えないわけではないと思う。たとえば、100億円あげるから僕があまり好きでない現在の首相を賛美する文章を書き続けろと言われれば、それを断る自信はあまりない。1000万円ぐらいならもちろん断るし、1億でも断るだろう、たぶん…。

 さらに、臓器だって僕が生きるのに差し支えないようなパーツであれば、値段次第で売ってしまいそうな自分がいる(笑)

 要するに、僕がいくら大切にしているものであっても、カネさえあれば買える可能性が高いのだ。

 しかし、1000億積まれても、1兆円積まれても、最低限の生活を維持できる限り絶対に売らないと断言できるものが、僕には少なくとも1つある。それが、子どもだ。

 もちろん、生活苦から子どもを売った親など枚挙にいとまがない。だから、僕も自分が餓死スレスレのラインに陥ったときに子どもを手放さないかと言われて、はっきり否と言えるほど自分に自信があるわけではない。けれども、少なくともなんとか暮らしていけるのであれば、子どもをカネで売ることは絶対にないと断言できる。

 言うまでもなく、子どもは親の所有物ではないので、売ったり買ったりという表現は適切なものではない。けれども、カネの論理が支配する現代社会において、決してカネでは手放すことのないものが一つでもあるというのは、なんとなく嬉しくなる経験なのではないかと思う。
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  by seutaro | 2006-10-13 17:55 | 日常

<日常>若人との会話

 またまた、すっかりご無沙汰してしまった。論文を書いていたり、合宿で出払っていたりで、なかなかブログを書こうという意欲が湧かなかったのだ。

 で、論文はともかく、合宿なのだが、2泊3日と1泊2日の合宿に連続で参加せねばならず、これはさすがに疲れた。もちろん、楽しいこともあるのだが、仕事である以上、楽しいばかりではない。

 なにせ、僕を除く参加者全員が、18~20歳ぐらいの若者である。とっくの昔に三十路に突入している僕としては、共通の話題を見つけるのが結構大変である。

 思えば、僕が連れ合いとする話といえば、マンションや住宅ローン、子育てといった非常に「所帯じみた」話が圧倒的に多い。もちろん、テレビの話などもするが、我が家でよく視聴される番組と若者がよく見る番組はどうもかなり違うようなのだ。少なくとも、我が家では「あいのり」は見ない。

 男の子であれば、Jリーグの話ができればよいのだろうが、僕はサッカーには全くもって興味がないときた。女の子に対しては、KA-TUNやNEWSの話が出来ればよいのかもしれないが、僕はこの間、KA-TUNを「カッツン」と読み、連れ合いに馬鹿にされたレベルである。というか、三十路の男がKA-TUNについて熱く語るというのは、いかがなものだろう。

 しかし、だからといって、若人に「マンションの戸境壁の構造について」とか、「3年固定金利のリスク」などについてなどを語ったところで、向こうにとっては全く面白くないだろう。

 とはいえ、若者の話に全く入っていけないということはない。今も昔も、若者の会話のかなりの部分を占める共通のテーマはある。それは、「恋と酒」である。

 まず、恋について。もちろん、僕に恋愛経験が数多くあるということは全くない。というか、むしろ人よりずっと少ないであろうが、共通の知識を前提としない分、会話には参加しやすい。

 次に酒であるが、僕は下戸に近い体質なので、酒の味などについては全くわからない。が、苦労話なら山ほどあるので、ちょうどサークルや部活で苦しんでいる途中の1年生の話はよくわかる。

 まあ、いずれにせよ、もはや大学生のような恋はしないし、無茶の酒の飲み方はしない(正確に言うと、飲まされない)という点において、僕はとっくの昔に「現役」ではない。けれども、現役バリバリの若者が、我々の時代と似たようなことで悩んだり、喜んだりしているのを聞くと、やはり昔を思い出してしまう。

 「昔」などとすんなり書けてしまう時点で、僕もすっかりオッサンなのだということなんだろうけれども。 
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  by seutaro | 2006-09-12 15:25 | 日常

<日常>ありふれた日々

 子どもというのは案外、保守的なんだという話を聞いたことがある。

 何度も読み聞かせている絵本の筋をたまに変えてみたりすると、子どもが怒るというのである。つまり、子どもは何度も何度も同じ話を聞き、同じ結末を楽しみたいのだという。

 その理由は、子どもの生活が「新しいこと」に満ち溢れているからだ、ということらしい。子どもにとっては毎日が驚きの連続であり、絵本などに驚きを求める必要はない。そのため、絵本の中にこそ「変わらないもの」を見つけ出したいという欲求がある…ということになるのだろうか。

 僕は心理学に詳しいわけでも何でもないので、この話の正否はわからない。けれども、自分の子どもが生活の「流れ」を少しずつ理解していくのを見ると、納得できなくもない。

 最近、我が家の一人娘は、お出かけというムードになると、勝手に玄関までとことこと歩いていき、座りこむようになった。要は、サンダルを履かせてもらうのを待っているのだ。これは、娘が「お出かけ→サンダルを履く」という流れを予測できるようになったということなのだろう。

 けれども、娘の流れの読みはまだまだ甘く、両親の準備が出来上がるかなり前から玄関に座り込んでいたりする。そういう姿は、思わず抱きしめたくなるほどいとおしい。

 彼女にとって、生活はまだまだ理解できないことだらけで、そのなかで何とかパターンを見つけ出そうとしているのかもしれない。だとすれば、それはかなり疲れる作業だろうし、安定した何かを欲しがる気持ちになるというのもわかる気がする。もっとも、うちの娘が絵本を楽しむことができるようになるのは、まだちょっと先の話だとは思うのだが。

 翻って、大人について考えてみると、我々の日常のほとんどは決まりきったルーティンのなかで流れていく。そのため、日常では味わえないような刺激、もしくは「新しいこと」を求めて、本を読んだり、映画を見たりするわけだ。

 とはいえ、大人にしても、日々の生活が非常に不安定で、次の展開が全く読めないようなときには、「安定した何か」を欲することになる。高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』なんかの分析に基づくならば、たとえばそれは「国家」とか「民族」であったりするのかもしれない。

 まあ、その話は措くにしても、人は退屈な日常のなかに埋没していくにつれて、フィクションに刺激を求めるようになっていくという傾向はあるのかもしれない。だとすれば、フィクションに安定を求める時期と、刺激を求めるようになる時期との境目というのは、いったいいつごろのことなのだろうか。
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  by seutaro | 2006-08-20 01:29 | 日常

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