カテゴリ:日常( 47 )

 

<日常>ししゃも明太

b0038577_3392354.jpg GWを利用して、箱根に1泊2日で旅行してきたわけだが、そのときに出会ったのがこの焼津いしはらの「ぷちぷちししゃも明太」。
 ししゃもの卵の食感がよく、明太やチーズとの相性も素晴らしい。我が家では非常に評判がよかった。価格をもう少し抑えれば、全国区で勝負できる商品ではないだろうか。
 特に酒のつまみがすきな人は、機会があれば是非一度試されたい。
 
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  by seutaro | 2006-05-03 03:39 | 日常

<日常>お説教

 これまでも僕は割と若い人と接する機会が多かったのだが、この春から非常に多くの若者と接するようになった。そのほとんどが19~21歳ぐらいの若者であり、まさに青春まっさかりといった感じである。
 んで、彼らにいろいろとお話をするのだが、なんだか気づくと結構お説教くさいことをやっている自分を発見してしまうのである。
 人様にお説教できるほど偉くなったわけでもなんでもないのだが、軽いアドバイスのつもりで話していると、いつの間にかそれが説教的な色彩を帯びている。実際には、僕が大学生のころなど、マトモなことなど何も考えていなかったような気がするし、そんな自分を棚にあげて偉そうに何か言うなどとはちゃんちゃらおかしいのであるが、立場的にはどうしてもお説教せざるをえないこともある。
 う~ん、難しいなぁ・・・・。
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  by seutaro | 2006-04-28 01:14 | 日常

<日常>心の保守化

 今日は本当に独り言なわけだが、自分の能力を生かせないと思っている職場にいるときには、どうしてもある意味、保守的になる。別に政治思想的にどうとかいうわけではなくて、自分の得意分野で食っていくためには、自分自身の価値を盲信し、その能力に磨きをかけていくしかない。もちろん、ある局面においては、見切りをつけて方向転換をすることも必要になるのだろうが、いつ見切りをつけるのかでうじうじ悩んでいるようではどうしても及び腰にならざるをえない。
 んで、なんとか自分の得意分野で食っていく見通しがついたとしよう。そうなると、今度は自分のわずかな成功を過信して、今度は自分からすすんで小さな殻のなかに閉じこもってしまいたいような衝動が生じる。もう無理に自分を守らなくても自分自身の能力の未熟さを素直に認めても、そのことが決定的な心理的ダメージを生じさせないにもかかわらず。
 だから、うまくいったときこそ、人は自分の殻を破る努力を意識的にしなければいけないのだろう。心の「保守化」を防ぐためには。
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  by seutaro | 2006-04-05 01:00 | 日常

<日常>ホワイトデー

 そう、昨日はホワイトデーだったのだ。
 会社の同僚からそのことを聞くまですっかり忘れていた僕は、いつもよりちょっとだけ早く会社を出て、新宿に向かった。途中、電車のなかで周囲の人を見ていると、いかにも洋菓子店の紙袋を下げたサラリーマンの姿が目立つ。
 そして、閉店間際の京王百貨店に飛び込んだわけだが、おそらくデパートの食品売り場がこれほどまでにスーツ姿のサラリーマンで埋めつくされる日は他にないだろうと思われるほど、サラリーマンの姿が目立つ。そして、売り子の側もここぞとばかりに試食のお菓子を配っている。
 思えばこのホワイトデー、お菓子屋の陰謀としか思えない行事なのであるが、それでも少なからぬ人びとに受け入れられているようだ。しかし、3月14日にチョコを購入するお父さん方にホワイトデーの意味について聞けば、やっぱり同じように「お菓子屋の陰謀」であるとの返事が返ってきそうである。要するに、3月14日に何らかの宗教的な意味を見出している人など皆無に近いだろうし、バレンタインデーにしても同様であろう。
 にもかかわらず、こうした行事が成立しているということは、結局のところ、人びとが行事に参加するのは、その行事の意味に個々人が納得しているというよりも、「自分以外の人びとはその行事を受け入れている」という認識を個々人が有しているからに他ならない。だから、バレンタインデーやホワイトデーなんて面倒臭いと考えている人が実際には多数存在していたとしても、それらの行事は存続していくのである。
 こういう現象は「多元的無知」と呼ばれる。つまり、ある価値観や規範に大多数の人びとはが納得していなかったとしても、彼らが他方において「他の人びとはそれらの価値観や規範を受け入れているのだ」という認識を有している限りにおいて、それらの価値観や規範は表面的に存続し続けるわけだ。従って、バレンタインデーやホワイトデーについての不満が本格的に表面化しるようになれば、「多元的無知」の状態が崩れ、これらの行事が廃れていく要因になりうるのである。
 などと、いろいろと御託を並べてはみたものの、実際にデパートでお菓子を買っていくサラリーマンの顔が「お菓子屋の陰謀」に対する怒りで満ちているかと言えば、そんなことはない。結局、バレンタインデーにせよ、ホワイトデーにせよ、人びとがそれを受け入れる素地があったがゆえに、受け入れられたのであり、普段は贈り物など恥ずかしくてできない日本のお父さんたちが大手を振ってデパートの食品売り場を歩き、家族にお土産を買うための口実を提供しているという点において、ホワイトデーの存在意義はあるのではないだろうか。
 というわけで、僕もゴディバのチョコレートを片手に昨日は家路についたのである。
 
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  by seutaro | 2006-03-15 02:21 | 日常

<日常>才能の残酷

 政治や社会に関しては首をかしげることが少なくないウチダ先生のブログだが、文学に関する文章の切れ味はさすがである。

内田樹の研究室(村上春樹恐怖症)
内田樹の研究室(詩人と批評家)

 これらの文章を読んでいて、改めて痛感させられるのは才能というものの残酷さである。なぜ才能が残酷なのかといえば、結局のところ、それが事後的にしか分からないということに起因するように思う。
 たとえ一時、才能があるともてはやされたとしても、あっという間に忘れ去られてしまうこともある。また、存命中は人びとから見向きもされなかったにもかかわらず、死んだ後に「早すぎた天才」として評価されることもある。だから、才能の有無を判断することは、自分自身にとってすら困難なのである。
 とりわけ、ウチダ先生のブログで取り上げられているような「作家としての才能」などは、その有無を判断することは極めて難しい。たとえば、野球のようなスポーツであれば、僕がいくら努力したところでイチローや松井のようにはなれないことを悟ることは容易である。ところが、文筆業の場合、才能の形が眼に見えにくいがゆえに、往々にして自分の才能を見誤ってしまう。
 もちろん、たとえ自分の才能を見誤ったとしても、才能の無さに気付いた時点で引き返せばよい。ところが、才能がさらに残酷なのは、それを発揮するためには自分自身に対する「根拠なき自信」が不可欠だという点にある。この「根拠なき自信」を欠き、自分自身を信じられない者は、早々に退場するか、退場しないにしても歪んだ劣等感を持ってその道に留まらざるをえない(そういう人々は僕も何人か見てきた)。稀有な才能を真に発揮するためには、「自分に才能があるか否か」を常に自問するような方法では不可能なのであり、自らの才能がいつか開花し、それが世間に認められることを盲信し続けねばならない。
 ウチダ先生のブログで取り上げられている安原氏は、編集や批評では卓越した才を有していたのだろう。けれども、作家と日常的に関わるという編集という業務に就いていたがゆえに、彼は自分自身の心のベクトルを編集や批評ではなく、「作家」という方向に向けてしまった。これが、氏にとっての最大の不幸だったのだろう。彼は自分自身に対して「根拠なき自信」を持てるほど厚顔無恥ではなかったがゆえに、村上春樹という世界的な作家に対して劣等感を抱き続け、そのことが村上の自筆原稿を古本屋に売却するという暴挙につながったのではないだろうか。
 しかし、「根拠なき自信」を持ったからといって、上述のように才能の有無は事後的にしか判断できない。仮に才能があり、運にも恵まれたとするならば、その人物の自己評価と外部評価とはそれほどの乖離を生じさせないだろう。しかし、才能を持たないのに「根拠なき自信」を持ってしまった人物は悲惨である。結局、自分が認められないことを、(水準の低い)世間のせいにしながら生きていかざるをえないからだ。
 さて、作家ほどシビアではないものの、一応は文章を書くことを生業の一部としている僕は、30年後か40年後に人生を振り返ったとき、自分自身の才能にどのような評価を下すのであろうか。
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  by seutaro | 2006-03-14 02:15 | 日常

<日常>「権威」ある父

 このブログのタイトルは「そなたんパパの備忘録」であるが、なんとここでは「そなたん」について一度も触れたことがない(笑)。
 というわけで、最近はハードなエントリが続いたこともあるし、今日は「そなたん」についてちょっと書こう。「そなたん」とは、1歳ちょっとの僕の愛娘のことである。我ながら親馬鹿だとは思うのだが、これがまた可愛いのだ。1歳過ぎても未だハイハイもできないのであるが、腕とお尻をうまくつかってなかなかの高速移動が可能である。
 また、親に似てか、口だけは異様に達者な気配が濃厚である。暇さえあれば何かを喋っているが、何を言っているのかはさっぱりわからない。たまに、「ママ」とか「パパ」とか口走るが、それが本当に我々夫婦のことを指しているのかは謎である。不愉快なときにそれを発すると、事態が急激に好転する(おっぱいがもらえる、だっこしてもらえる、etc.)マジック・ワードとして認識されている可能性も否定できない。
 さらに、リモコンやPC、携帯電話等のボタンがたくさんついている機器が好きであり、おそらく僕とは全く異なる情報環境のなかで生きていくことを予感させる。たとえば、彼女がゲームなどを本格的に嗜むころにはプレイステーション4ぐらいが発売されていそうだ。僕が本格的に初めてゲームをしたのは、ゲームウォッチ(笑)全盛のころだったのだが。
 ところで、唐突に話は変わるが、「権威」と「権力」との最大の違いをご存知だろうか。古典的な見解では「権力」とは、こちらからの働きかけがなければ相手がしないようなことを相手にさせる力だというように定義される。従って、「権力」には常に強制という側面がつきまとう。
 それに対し、「権威」とは自発的な服従を促す力である。要は、無理な強制力など発動せずとも、相手が勝手に従ってくれるのである。ここで注意すべきは、ある人物の権威の有無を決定するのは、その人物自身ではない、という点である。つまり、周囲の人びとが、その人物に権威があるかないかを決定するのである。単に偉そうに振舞っていたからといって、勝手に「権威」が発生するわけではないのだ。
 それでは、この「権威」の源とはなにか。それは一言でいえば「知識」である。他の人が知らないようなことを知っており、なおかつその知識が有用だと考えられる場合に、人びとはその人物の「権威」を承認する。
 うちの娘がゲーマーとしてデビューしたとき、その頃にはゲーム歴30年以上に達しているであろう僕は、ゲームの歴史や攻略法等を娘に熱く語るであろう。そうすれば、娘は僕の「権威」を承認せざるをえず、我が家の「父権」もきちんと確保されるはずである。うん、間違いない、きっとそうだ。
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  by seutaro | 2006-03-02 02:30 | 日常

<日常>しんどい・・・

唐突に更新が止まってしまったわけであるが、とにかくやることが多すぎて、ブログを書く気力が沸いて来ないというのが真相である(途中まで書いて、挫折したエントリが複数有)。厳密に言えば、休憩している時間を削れば書けないこともないとは思うのだが、そこまでする気力がない・・・。

というわけで、もうちょっと余裕ができたら、ふたたび更新を再開したいと思う。って、それはいったい、いつのことなのだ(遠い目)。
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  by seutaro | 2005-11-14 01:18 | 日常

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