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<政治・社会>首都大学東京、通称クビ大について

今日の『毎日新聞』朝刊の東京版には次のような記事が掲載れているので、ちょっと長いが引用してみよう。

理事長予定者が問題発言 首都大応援団設立総会で
 来春開学予定の「首都大学東京」をサポートする会員制クラブ「the Tokyo U-club」が19日、都庁で設立総会を開いた。会長に就任した高橋宏・理事長予定者はあいさつの中で「大学全入時代、学校さえ選ばなければバカでもチョンでも、そこそこの大学に入れる時代が3年後に来る。首都大学東京は世界の共通の財産。有識者の声を反映した、いい大学にしたい」と発言した。「チョン」は韓国人・朝鮮人に対する差別的表現とのとらえ方もあり、今後、批判が出る可能性もある。
 また、石原慎太郎都知事は祝辞で都立大のCOE返上問題に触れ、「一部のバカ野郎が反対して金が出なくなったが、あんなものはどうでもいい」と述べた。都立大でフランス文学やドイツ文学を担当する教員に首都大の構想に批判的な教員が多いことに関して「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。そういうものにしがみついている手合いが反対のための反対をしている。笑止千万だ」と話した。【奥村隆】
(2004年10月20日『毎日新聞」朝刊)

僕は都立大学には縁もゆかりもない人間だが、都立大学の件についてはそれなりに興味をもって接してきた。この高橋宏という人物が大学の理事長にふさわしい人物かという点からしてそもそも怪しいのだが(たとえば、ここを参照)、このおっさんの「問題発言」については特に言うことはない。まぁ、この程度の人間だということだ。
この記事でより興味深いのは石原都知事の発言だろう。こういう「思いつき」でしか物事を話せない人間が、地味だけれども高い研究・教育水準を保ってきた都立大学をぐちゃぐちゃにするというのは本当にやるせない。
もちろん、大学の先生にも怠慢なのはいるし、改革すべき点は数多くあるのだろう。だが、このクビ大関連の悲劇は、世間一般に敷衍している「象牙の塔」や「学者」といったステレオタイプに基づいて、学問や教育について真剣に考えてもこなかったし学んでもこなかった政治家やその取り巻きのリーマン上がりが、単なる「思いつき」で「改革」とやらを断行しようとしている点にあるのだろう。
ま、それ以前に、石原都知事にはホント、品格もなければ想像力もない。このおっさんが語る徳育って、いったい・・・。
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  by seutaro | 2004-10-20 23:13 | 政治・社会

<歴史>「南京大虐殺」について(2)

さて、ちょっと間が空いてしまったが、前回は「南京大虐殺」の真相が、中国側のプロパガンダによって判断しづらくなっていることを指摘し、そのために「主張→現実の判断」というレベルで論争が行われるようになっていることを示唆した。
すなわち、簡単に言えば、「南京大虐殺は幻」と考える人たちには「新しい歴史教科書を作る会」のような保守的な考えの持ち主が多く、「南京大虐殺は本当にあった」と考える人たちはリベラルというか進歩的な考え方の人たちが多いということだ。
でもまぁ、これは当たり前といえば当たり前であって、過去の賛美を行いたい人たちは「歴史の恥部」を可能な限り矮小化しようとするだろうし、進歩的な人たちは戦前の日本に対して極めて批判的なことが多いため、「南京大虐殺」も戦前日本の病理の表出として捉えられることになる。
さらに、こうした思考の「傾向」は、「南京大虐殺」のような歴史的事件だけではなく、その他の様々な事象にも応用されうる。たとえば、保守の側の人たちの大まかな見解を単純化すると、とにかく戦前日本の「伝統」はすばらしいのに対し、戦後民主主義はダメダメだという基本的な構図がある。そしてその構図から、たとえば家族という「伝統」を否定するフェミニズムは「悪魔の思想」だし、戦後の「歪んだ人権感覚」に立つ少年法などはさっさと改正して厳罰化をするべきだし、「戦後教育の荒廃」をもたらした元凶たる教育基本法もまたさっさと改正すべきだし、「左翼集団」である朝日新聞や日教組は弾圧しても構わないぐらいだし、国家の礎たる軍事力を整備するためにも憲法改正は絶対的に必要だ、ということになる。ま、言い方を換えれば、これは非常にパターン化された思考方式である。
無論、進歩派の側はこのネガとなるような認識を持っていることが多く、それもまたパターン化された思考方式となっている。そのため、これらのパターン化された主張は、最初から結論が見えてしまっていて、正直、新鮮味はないし、面白くもない。言わば、タイトルを見ただけでなんとなく本の主張が透けて見えてしまうような書籍がそれにあたる。新聞の社説を読む気があまりしないのも、そうしたパターンの反復にすぎないことがあまりに多いからだ。
それに対して、はるかに面白いのが「ねじれた」思想である。たとえば、護憲派だが少年犯罪の厳罰化には賛成だとか、フェミニズムには大賛成だが教育基本法は改正すべきだとか、いわゆる一般的な思考パターンからは外れた組み合わせである。何らかの一貫した世界観がなく単に場当たり的な主張をしているにすぎないというのは論外だが、深い考えに基づいた「ねじれ」は極めて興味深い。つまり、そうしたパターンからの逸脱を、その論者がどのように処理しているのかが面白いのだ。
ここで南京大虐殺に話を戻せば、宮台真司氏は「南京大虐殺」の有無によって、第2次大戦における日本の戦争行為の是非を語ることは誤りだと断じている(『戦争論妄想論』p.47)。言い換えれば、「南京大虐殺」は存在しないと主張する一方で、日本の中国に対する戦争は紛れもない侵略であったという立場や、存在したとしても侵略ではなかったとする立場もまた可能だということだ。そういう一般的ではない意見の表明を行う場合、そのロジックを組み立てるにはオリジナリティが必要となるのであり、だからこそ面白い意見となる。
ただし、これだけ類似した主張の書籍等が出版され続ける背景には、そうしたトリッキーさを好まず、自分が安心して聞くことのできる一般的な主張の流れを好む人もまた多いということがあるのだろう。だが、残念ながらそれは、決して何かを学ぼうとする姿勢ではない。
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  by seutaro | 2004-10-19 23:16 | 歴史

<歴史>「南京大虐殺」について(1)

さて、昨日は少年犯罪論争を例にとって、人は結局、見たいように現実を解釈する傾向があるということを述べた。少年犯罪という現在の事件ですら解釈が分かれるとすると、歴史の解釈をめぐる論争などは殆ど決着がつかないのではないか、という気すらしてくる。
そうしたもはや決着不可能な歴史論争の代表例が、「南京大虐殺(南京事件)」をめぐるものであろう。つい先日も、本宮ひろ志「国が燃える」というマンガが、「南京大虐殺」の描写が不適切だったとして休載することになるという事件が起こっている。
で、ここから先に話を進めるにあたっては、あらかじめ僕の見解を述べておいたほうがいいだろう。僕は、日本軍が中国大陸でろくでもないことをしたことは否定しようのない事実だと思っている。だから、日本軍は南京でも多かれ少なかれヒドイことをやったんじゃないだろうかと思っている。
が、他方において、そうした日本軍の悪行が中国側のプロパガンダによって誇張されていることもまた事実だと考える。ジグムント・バウマンは『社会学の考え方』(名著だが絶版のようだ)において次のように述べている(p.61)。

「外集団のメンバーに対する自分の残虐な行為が道徳的良心と衝突しないように思われるのに対して、もっと軽い行為が敵によってなされた場合には激しい非難が求められる。」

要するに、敵を100人殺せばそれは英雄的行為と見なされるのに対し、敵が味方を30人殺せばそれは卑劣な行為として見なされるということだ。実際、戦争プロパガンダにおいては敵の極悪非道さが強調されるのが常であり、そのことはサム・キーン『敵の顔』などによって論じられている。それゆえ、「南京大虐殺」が日本のイメージを悪化させるための絶好のプロパガンダとして利用されたということは十分に考えられるだろう。こうしたプロパガンダの影響もあって、1937年12月に南京で本当に何かあったのかを明らかにすることは極めて難しくなっていると言いうる。
そして、こうしたことから、結局のところ「南京大虐殺」をめぐる論争も、昨日述べた「主張→現実の判断」というレベルで行われることになっていく・・・。

と、ここまで書いたところで、またまた時間が厳しくなってきた。「ねじれ」の話はまた今度ってことで~。
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  by seutaro | 2004-10-15 23:22 | 歴史

<政治・社会>少年犯罪論争(2)

昨日は、少年犯罪の「現実」をめぐって、議論が真っ二つに分かれているという話をした。
そこで、今日はそうした「現実」それ自体について見解が分かれている場合、「現実主義」および「理想主義」の立場からはどのような主張が聞かれうるのかを予想してみることにしよう。
まず、「少年犯罪の凶悪化」が実際に生じているとする立場に立つと、次のような感じになるのではないだろうか。

(a)「現実主義」
少年犯罪の凶悪化の背景には、現行の少年法の罰則が十分でないという背景がある。そこで、犯罪を犯した少年を厳しく罰することで、犯罪の抑止を行うべきだ。
(b)「理想主義」
少年犯罪が凶悪化している背景には、現代という時代がもたらした少年の心の病がある。そうした根本的な問題を解決することなしには、少年犯罪を防ぐことはできない。

他方、「少年犯罪の凶悪化」は幻想だという立場に立つと「現実主義」と「理想主義」は次のような主張を行うと想定される。

(c)「現実主義」
少年犯罪が過去に比べて減少していることを考えれば、現行の少年法はうまく機能しているのであり、いたずらに制度をいじることはかえって問題を生じさせうる。そもそも、社会から犯罪を撲滅することは不可能だ。
(d)「理想主義 その1」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年法の厳罰化が必要なのであり、それによって被害者の心労を軽減することができる。
(d')「理想主義 その2」
少年犯罪が減少しているとしても、犯罪自体がなくなったわけではない。犯罪の撲滅を目指すためには、少年の心の病と向き合い、根本的な問題の解決を図ることが必要だ。

まあ、これはあくまで適当な推論であって、実際にはもっとバリエーションに富んだ見解がでてくるであろうが、ここで注目したいのは(a)と(c)だ。つまり、何を現実と見なすかによって、現実主義的な立場から引き出される結論が180度変わってくるのである。
そういう意味で、「現実主義」というのは結構難しい立場ではある。だが、これまで(だらだらと)書いてきたことをひっくり返すようでなんなのだが、多くの場合、人間の思考は「現実の判断→主張」という過程を辿らない。むしろ、昨日の丸山真男の引用にもあるように、何らかの主張を有している人はその主張に適した現実を見る場合が多いのだ。その場合には、「主張→現実の判断」という過程を経ることになる。
かつてウェルター・リップマンは『世論』のなかで「われわれはたいていの場合、見てから定義しないで、定義してから見る」(p.111)と述べているが、少年犯罪が凶悪化していると主張する人びとは、たいてい若者はろくでもないと最初からきめつけている(あるいは戦後民主主義の「歪んだ人権感覚」が嫌い)のではないかと思われる節が多々ある。
その逆ももちろんしかり。少年犯罪の凶悪化が幻想だと主張する人びとには、国家による統制・罰則というものが最初から好きじゃないんだろうなぁ、と思わせる人が多いように思う。
そういう意味では、戦後民主主義が大嫌いだが少年犯罪が減っていることを認める人や、国家統制は大嫌いだが少年犯罪の凶悪化を認めるという人は、逆に面白い。上で論じたような一般的な認知過程から外れているからだ。
そこで次の回では、そういう「ねじれ」の面白さについてもうちょっと考えていくことにしよう。
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  by seutaro | 2004-10-14 20:58 | 政治・社会

<政治・社会>少年犯罪論争(1)

昨日は、いわゆる「現実主義者」を標榜する人たちに対して皮肉めいたことを書いてみた。あえて一言で言えば、「自分ひとりがわかってるふりしてんじゃね~よ」ってところだろうか(笑)。
ま、それはさておき、実際には「現実主義」というのは、なかなかに難しい立場である。それは、「現実」とは一体なにかを判断することが結構難しいからだ。たとえば、丸山真男は『現代政治の思想と行動』に収録されている「現実主義の陥穽」という論文のなかで、現実には様々な側面があるということを論じ、次のように述べている(p.173~174)。

「そうした現実の多元的構造はいわゆる『現実を直視せよ』とか、『現実的地盤に立て』とかいって叱咤する場合にはたいてい簡単に無視されて、現実の一つの側面だけが強調されるのです。・・・『現実的たれ』というのはこうした矛盾錯雑した現実のどれを指していうのでしょうか。実はそういうとき、ひとはすでに現実のある面を望ましいと考え、他の面を望ましくないと考える価値判断に立つて『現実の一面』を選択しているのです。」

「現実」とは結局のところ選び取られたものに過ぎないという考えは、現象学的社会学なんかでも珍しくない考えであり、最近では社会的構築主義なんかの観点から盛んに論じられている。
ただし、丸山の考え方は「現実には多様な側面がある」と認識するレベルに留まっているのに対し、より最近の発想ではそもそも現実というのは「構築」されねば存在しえないものなのであって、多様な側面が存在するか否かは現実が多様な方法で「構築」されるか否かにかかっていると言うべきかもしれない。
ところで、最近、こうした「現実」が全く対立する観点から構築されている分野がある。それが、タイトルにもある「少年犯罪」の分野だ。
マスコミではしばしば「凶悪化する少年犯罪」が語られ、少年法改正など厳罰化に向けた動きも活発化している。だが、研究者の多くは、「少年犯罪の凶悪化」は幻想であり、むしろ以前に比べ、少年犯罪は減っているとの立場に立っている。その論者としては、鮎川潤や広田照幸などがおり、彼らの主張は『日本人のしつけは衰退したか』『少年犯罪』で読むことができる。また、より最近では、パオロ・マッツァリーノ(笑)が、『反社会学講座』において軽妙な語り口で「少年犯罪の凶悪化」が幻想にすぎないことを論じている。なお、この『反社会学講座』はもともとウェブサイトだったものを単行本にしたものであり、興味のある人はここを参照するといいだろう。
もちろん、こうした見解に批判がないわけではない。その代表的なものとしては、前田雅英『日本の治安は再生できるか』などが挙げられよう。もっとも、この前田氏の統計解釈には問題があるとの指摘も数多くなされており、いまだ決着はついていない。

う、ここまで書いて時間が厳しくなってきた。続きはまた今度ってことで^^;
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  by seutaro | 2004-10-13 23:56 | 政治・社会

<ネタ>ある現実主義者の1日

(いうまでもなく、これはフィクションです)

朝、目が覚めると、現実主義者Aは妻のつくる朝食を食べながら、いつものように新聞を読む。
「また、アフガニスタンでアメリカ軍の誤爆か・・・。ま、これもしょうがない犠牲だよ。戦争に犠牲者はつきものさ。」
それを聞いた妻がいつものように口を挟む。
「でも、そんなこと言っても、間違って殺されちゃった人は可哀想じゃない?」
Aはため息をつきながら、答える。
「また、それか。そんな理想主義は現実じゃあ通用しないんだよ。理想主義者は、10人救おうとして10人全員を殺してしまう。たとえ3人死んでも7人助けるのが、現実主義ってやつさ。」
「でも、その死ぬ3人のほうになる人はたまったもんじゃないわね。」
「そういう感情論を越えて判断するのが現実主義の政治だよ。」
妻はちょっとうんざりしたような感じで、最後に一言言い残して、食器を洗いに台所に立つ。
「なんか、すごく偉そう。何様ってカンジ。自分ひとりだけが現実を理解して、高いところから下々を見下ろしてる気分になってんじゃないの。」
身支度を終え、会社へと出勤するA。途中、ホームレスのおじさんがダンボールの家に包まって寝ているのが目に入る。Aは思う。
「ま、これも弱肉強食の社会なんだからしょうがない。無能なやつは落ちこぼれる。それが現実ってもんさ。そもそも、日本は弱者に甘すぎなんだよ。社会主義はそろそろ止めないと。」
会社につくと、Aはさっそくパソコンの前に座り、部下の昨日の出勤・退出時間と業務日誌とを確認する。どうも、Bは仕事の効率があまりよくないようだ。また、Cは勤務時間が終わるとすぐに帰宅しているようだ。そこで、Aは課全体に向けて、Bの効率が悪いこと、Cの勤務態度が良くないことを指摘するメールを書く。Aは思う。
「ま、一種の見せしめだよ。人間、こういうプレッシャーがないと働かないんだよな。」
しばらくすると、部下のDが文句を言ってきた。
「こういうやり方だと、課全体のやる気が失せてしまいます。」
Aは答える。
「私の仕事は管理をすることだ。人間、甘やかしておくとすぐに怠けるからな。管理が必要な生き物なんだよ、人間は。」
仕事を終え、家に着くA。すると、彼の小学生になる息子が傷だらけになって、テーブルに座っている。Aはたずねる。
「どうした」
すると、妻が代わりに答えた。
「この子、クラスでいじめられているF君をかばって、一緒に殴られちゃったんだって。」
Aはため息をついて言う。
「お前、馬鹿だなぁ。相手はグループなんだろ?敵うわけないじゃないか。一緒になっていじめろとは言わないが、放っておきゃいいんだよ。それが現実的な世渡りってもんさ。」
妻は気色ばんで言う。
「そういう言い方はないんじゃない?この子、立派よ。」
「それが理想主義だってんだよ。強い側につくってのは世の中の常道だよ。話は大きくなるけど、戦前の日本だってイギリスとかアメリカとか強い側にずっと立って、一緒になって中国をいじめてりゃ、あんな悲惨なことにはならなかったんだよ。」
そして、Aは息子に向かって言う。
「いいか、今度、お前を殴った連中に会ったら謝っとくんだぞ。楯突いてごめんなさいってな。」
一日が終わり、Aは床に就く。布団の中でAは今度の人事について考える。次に部長に昇進するためには、隣の課のGがどうしても邪魔になる。Aは数日前、自分の部下のHがGと一緒にホテルに入るところの写真を手に入れていた。この写真をばらまけば既婚者のGはコースから外れるはずだ。
「明日は朝早く出社して、この写真のコピーを目立つところにでも貼っとくか。Hは会社を辞めさせられるかもしれんが、俺の出世のためさ。ま、これが弱肉強食ってことなんだよな」
そうこう考えているうちに、Aは眠りに落ちていったのだった・・・。
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  by seutaro | 2004-10-12 20:21 | ネタ

<読書>佐藤卓己『言論統制』について

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現実逃避からか、博論とは直接関係のない本を読んでしまう。
最近、読み終わったのが佐藤卓己さんの『言論統制』という本。いろいろな書評で取り上げられており、かなり話題になっている本だが、僕もなかなか楽しく読むことができた。

内容はと言えば、戦中の言論統制において作家や編集者に「弾圧」を加えたとして、戦後、多くの人びとに糾弾されるに至った鈴木庫三という人物を、全く新たな角度から描きだした著作だ。言論統制に加担した無学で粗野な人物というイメージとは異なり、鈴木は苦学して日大を主席で卒業、帝大でもかなりの業績を上げたというインテリであり、その真面目さゆえに、周囲から煙たがられることになったということが論じられている。また、戦後において、鈴木の悪辣なイメージが作り上げられる過程で、文化人たちがいかに嘘をついていたかも明らかにされている。

全体的に見れば、これまでのイメージを覆すという意図から、鈴木に対しては好意的な角度から描かれており、他方、鈴木と対立した出版社や海軍の人びとには厳しい評価が加えられている。もちろん、佐藤さんがこれによって戦前の言論統制を正当化しようとしたり、通俗的「戦後民主主義批判」に加担したりといったことは全くない。この著作に何らかの批判的意図があるとすれば、それは鈴木という人物を生み出した時代的背景(貧富の格差)を全く無視して、それを<加害者としての軍>と<被害者としての作家や編集者>という安易な構図に安住していたマスコミ史、言論史に向けられているということになろう。

ただ、全体を読み終えて思ったことは、たとえ鈴木が貧困のなかから苦学して身を立てた人物で、清廉かつ実直であったとしても、僕はやはりこの鈴木庫三という人物を好きにはなれないだろうな、ということだ。橋川文三の『昭和ナショナリズムの諸相』などでも明らかにされているように、「超国家主義」が台頭する背景には、多くの不遇な人びとの国家体制に対する不満があり、現在からすれば意外なほどにそこには社会主義的発想との重なりがあった。鈴木庫三の思想にも、社会主義的発想が色濃く反映されており、その最大の敵意はむしろ自由主義的な文化人に向けられていると言ってよい。

確かに、戦前の日本における貧富の差はきわめて大きく、貧困層の人びとがどのような生活環境に置かれていたのかは、やや時期は遡るが紀田順一郎『東京の下層社会』で垣間見ることができる。そうした社会状況のなか、貧困に苦しむ人びとを尻目に享楽に耽っていた自由主義的文化人に対して、鈴木が憤りを覚えていたことは理解できる。鈴木が行った「言論統制」は、鈴木が「平等」を追求していく上での副産物として生じてきたものであり、仮に僕が彼と同時代に生きていたなら、むしろ鈴木に共感する立場にあった可能性は高い。

しかし、後知恵的発想であり、また鈴木が言論統制を始めた張本人でもないことを承知しつつあえて言うのだが、やはり鈴木的な「言論統制」が社会にある種の息苦しさを与え、山本七平の言葉で言えば「空気の支配」を後押しすることに貢献してしまったのではないだろうか。そして、それが最終的には、政府や軍の方針に人びとが疑問をもちつつも、それを言い出せない状況を生み出し、より早い段階での敗戦を不可能にしてしまったのではないだろうか。

さらに言えば、この鈴木庫三という人物はとても勤勉で立派な人だ。だから、酒宴で鈴木の機嫌を取ろうとする「退廃した」自由主義的文化人を嫌悪したというのも判る。だが、人がみな鈴木的モラルに忠実に生きることができるわけではないのだ。そういう厳格なモラルに沿って社会を営もうとするとき、そのモラルによって表面的に抑圧された欲望や退廃は急速に社会を蝕んでいく。戦前派によって語られる美化された過去とは異なり、実際には戦中の体制は「モラルの焦土」とも言うべき状況にあったことは、小熊英二『民主と愛国』によって語られている。

最後に、『言論統制』そのものから話を大きく逸脱させてしまうのだが、戦前的な「言論統制」にはそうした不可避の限界が存在し、また、貧者を放置する弱肉強食的自由主義にも問題があったとすれば、言論の自由をかなりの程度まで保証し、また、貧富の格差を縮小させることに成功した戦後民主主義体制というのは、それなりに評価されてしかるべきではないか、などとも思う。

なんだか、まとまりがなくなってしまったが、このあたりで今日は終わることにしよう。ああ~、論文じゃなかったら、こんなにスラスラものが書けるんだよな~(T-T)。
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  by seutaro | 2004-10-11 11:43 | 読書

<学問>博士論文と赤ちゃん

博士論文の執筆がなかなか進まない。
全5章構成で、第1、2、4、5章はだいたい書き終えたのだが、新たに書き下ろしとなる第3章に手こずっている。内容的にやや差のある前半部分と後半部分とをつなぐ役割をこの第3章が担うことになるのだが、これが難しい。
字数的には現在、11万5千といったところ。最終的には13万字前後になるのではないかと思うが、他に抱えている原稿もあるし、ホントに間に合うのだろうか…。

ところで、博士論文とは違って、着実に育っているのが、妻のお腹のなかにいる赤ちゃんである。こちらのほうは12月末に誕生する予定。この子が生まれるまでには、無事に博士論文も完成させ、安心して出産に臨みたいなぁ・・・。
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  by seutaro | 2004-10-10 23:24 | 学問

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