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<ネタ>ちょっと休憩

ホントはイギリスの労働者階級のアイデンティティについて語る予定だったのだが、ちょっと時間がないので、なぜかドラえもんネタでお茶を濁したりして。

池波正太郎風ドラえもん
http://www.ne.jp/asahi/ymgs/hon/yomimono_folder/yomimono20_doraemonhanka.htm

ドラえもん最終回フラッシュ(BGM付きで見て欲しい)
http://pastorius.ddo.jp:8888/MT/archives/flash/The_end_of_the_Doraemon.swf
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  by seutaro | 2005-09-30 23:29 | ネタ

<政治・社会>この後に及んでマルクス主義

今さら、というか何と言うか、ネットサーフィンをしていたらこの間の総選挙に関するブログにぶつかった。

http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/d/20050914

このブログの筆者である佐々木氏は、『朝日新聞』の選挙に関する記事を紹介し、次のように述べている。
しかしブロゴスフィアの外側――特にマスメディアでの有識者たちの発言には、有権者を愚弄しているとしか思えないような内容のものも目立っている。たとえば投開票日の翌朝の朝日新聞の社会面には、何人かの有識者がコメントを寄せていて、本田由紀・東大助教授は<経済的弱者が、政策的に手を差し伸べてもらうことよりも、「ぶっ壊す」ことを訴える小泉首相に、希望を見いだした可能性はある。現状が厳しいほど、単純なカリスマに自分を同一化して、「この人だったら何かをやってくれるかもしれない」と>と指摘した。相当に辛辣というか、弱者に厳しい意見ではないか。朝日新聞とは思えない。

しかし、左翼が大衆を愚弄するような意見を言うべきではないと考えているのだとすれば、佐々木氏の認識は相当に間違っていると言わざるをえない。むしろ、左翼の総本山であるマルクス主義の歴史は「衆愚」といかに対峙するのかを論じてきた歴史であるとすら言いうる。

僕のマルクス主義に関する知識は相当にいい加減なので話半分で読んで欲しいのだが、よく言われているようにマルクスは革命が最初に起こるのは、資本主義が最も高度に発達したイギリスだと考えていた。ところが、革命の兆しのようなものはあったにせよ、実際に革命によって社会主義政権が誕生する気配はない。

そこで、出てきたのが「前衛」という考え方である。要するに革命エリートたる共産主義者たちが、革命の何たるかを理解できない大衆を指導する必要がある、というものだ。でもって、レーニンはこの前衛論でもって共産党独裁型のソ連という国家を築き上げることになった。

他方、西欧では、なんでそもそも大衆は革命を起こさないのかという問題に研究者たちは取り組むことになった(ここに、「なぜ切り捨てられるはずの弱者が小泉首相を支持するのか」という問題意識と共通するものを見つけ出すことは困難ではないだろう)。そこで、彼らが注目したのは、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』の「ある時代の支配的思想は、つねに支配階級の思想にすぎない」(大内・向坂訳、p.66)という一節である。要するに、彼らは「虚偽意識」を植え付けられているがゆえに、自分たちの真の利益を認識することができず、支配階級の利益に沿った行動をしてしまう、ということだ。

こうした考えに基づいて、大衆の革命精神をそぎ落としてしまう要因を考察したのが、イタリアで言えばアントニオ・グラムシであり、ドイツで言えばフランクフルト学派だということになるだろう。グラムシは「ヘゲモニー」という発想を取り入れ、文化の領域において闘争を進めることで革命を発生させうることを主張した。他方、アドルノやホルクハイマーといったいったフランクフルト学派は、大衆の革命精神を堕落させる大衆文化の研究を行った。

ところで、このアドルノらの研究は難解を極め、僕も『啓蒙の弁証法』のあまりの難しさに途中で挫折している。ノルベルト・ボルツが『意味に飢える社会』という著作で述べている「(アドルノの言う)否定弁証法とは何かを理解するための努力は並大抵ではなかったので、その内容は真理だと思うしかなかった」との皮肉は(p.188)、まさにこうした批判理論がごくごく一部の層にしか理解されていなかったことを的確に表している。

このような難解な言語を駆使し、それによって大衆の愚かさの源を探ろうとする理論家たちに強烈なエリート意識があることは明らかであり、ここからも大衆への蔑視と左翼思想とが決してかけ離れたものではないことが理解できよう。

以上のようにマルクス主義の研究者たちの分析対象は、下部構造(経済)から上部構造(イデオロギーや文化)へと徐々に移行していくことになる。近年、日本でも流行しているカルチュラル・スタティーズもこの流れに位置づけることができる。

さらに、こうしたマルクス主義の変貌のなかで、下部構造によって規定された階級の存在そのものを疑う学派が登場することになる。つまり、それまでのマルクス主義では、大衆は確かに支配的なイデオロギーによって自らを階級構造のなかに位置づけることはできないかもしれないが、「客観的」に見れば階級構造は厳然と存在しているとの立場を取っていた。それに対して、ラクラウやムフらの「ポスト・マルクス主義」では、人びとがその経済的な地位によって本質的に帰属させられるような階級など存在せず、階級帰属を決定するのは文化的なヘゲモニーであることが宣言されることになったのである。

このようなポスト・マルクス主義の発想は、今日では大きく揺らいでいるとは言え、社会階層的に見れば最上層や最下層に位置づけられうるような人びとまでもが「中流意識」を持っていた日本社会に暮らす我々にとっては非常に馴染みやすいものだろう。

むしろ、我々の観点からすれば、逆になぜ西欧では「階級」というカテゴリーが、革命を起こすほどではなかったにせよ、大きな影響力を持ちえたのかということが疑問として浮かびあがることになろう。僕はイギリス留学中、たびたびイギリスが「階級社会」であることを意識させられたし、労働者の多くは「第三の道」を採用して大きく変化したにしても労働党を明確に支持し続けている。

僕の見解では、それは「労働者」という一般的には「弱者」に分類されうるカテゴリーが、決してネガティブで弱々しい意味合いだけを持っていたわけではなかったということに起因している。が、そろそろ長くなってきたので、とりあえず続きは次回ということにしよう。
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  by seutaro | 2005-09-30 00:45 | 政治・社会

<ネタ>アラジン・チャンネル

テレビドラマ「電車男」に登場するアラジン・チャンネルが登場

http://achannel.fc2web.com/index.htm

いや、だからどうだと言われても困るわけだが。
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  by seutaro | 2005-09-28 23:48 | ネタ

<学問>授業アンケート

先日、僕が非常勤講師をやっている大学の授業アンケートの結果が郵送されてきた。その結果は、正直、非常に厳しく、僕の平均点は全学の平均をかなり下回っていた。

特に凹むのが自由回答であり、非常に面白かったとの回答もあるものの、反応がキモイだとか、何を言っているのかが分からないなど、傷つくものが多かった。

ともあれ、傷ついてばかりもいられないので、改善点を探らねばならない。正直、キモイというのはどうしようもないが(それを書くことで僕にいかなる改善を求めているのか聞きたいところではある。消滅しろとでも言うのか・・・orz)、その他の面で改善すべきところはあるようだ。

僕の授業の大きな問題は、僕の話すスピードが速すぎるということにある。ついつい対面で話すようなノリでペラペラ話してしまうのだが、教壇に立ったときにこのような話し方をすると、聞いている方はどうにも分かりづらいようだ。確かに、スピーチのうまい人の口調をまねてみて、かなりゆっくりなスピードで話しているのにびっくりした記憶がある。

というわけで、次の授業からはゆっくりと話すことを心がけようと思うが、急に口調を変えて学生に怪しまれないかどうか心配ではある。
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  by seutaro | 2005-09-26 23:48 | 学問

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 4

この「すべてが『ネタ』になる」シリーズも第4回目であるが、実はこの「すべネタ」話は、以下のブログに触発されて書いている。

猿虎日記「コイズミ・オブ・ジョイトイ?」
http://d.hatena.ne.jp/sarutora/20050828
つまり、余裕があるのです。みんな、小泉のことを「たかをくくっている」のです。「独裁者小泉をマジで熱烈に支持」なんて人はめったにいない。どこか、半分馬鹿にしているし、自分自身も半分醒めている(つもり)なのです。逆に、小泉のことを独裁者だとベタに批判する人を見ると「何マジになってんの? あんな面白いもの、支持するしかないでしょう」と嗤うわけです。小泉は危険なんかじゃないのです。……いや、危険であってはならないのです。なぜなら、小泉は、テレビの中の住人だからです。政治とは、テレビの中のプロレスと同じで、自分たちと関係ない、いや、関係があってはならないのです。だから、私たちは、安全なお茶の間にいて、四角いマットの上で繰り広げられる血しぶきを上げた闘いを眺めることができるのです。

前回、ナチスドイツの話を書いたが、だからといって小泉首相=ヒトラー的独裁者などと言うつもりはない。ただ、この上の指摘にもあるように、実は我々が考えているほどに、ヒトラーの信奉者たちはのぼせ上がっていたわけではなかったかもしれない、むしろ「ネタ」として楽しんでいた部分があったのかもしれない、ということを前回のエントリでは言いたかったのである。

以上のように、「ネタ」であることを承知しつつそれを受け入れるという立場は、現在のネオナチ的なムーブメントにも見られる。彼らの多くは「人種的」な「純潔」だとか「優越性」に意味などないことを知りながら、それらの主張をもとに移民や外国人の排斥運動を行っているという。

このように考えてくると、古今東西の様々な政治的・社会的運動には「ネタ」的な側面があったのではないかとも思えるような気がする。無論、そうした運動を支える人々の間に信仰心に近いような純粋な側面が存在することは否定できない(だからと言って、それが良いことではないのは後で述べる)。しかし、特に運動が拡大していくにつれて、それが「ネタ」でしかないことを知りつつも、大勢に順応するかたちで支持にまわる連中が増えてくるのではないだろうか。

ただし、時間が経つにつれて、そうした「ネタ」を「ベタ」なものとして受け取る層が出てくることに注意する必要がある。特に、こう言っては失礼にあたるかもしれないが、若年層は社会的な経験を欠いているがゆえに、そうした「ネタ」を額面通りに受け取る傾向にある。従って、運動側からすれば、若年層は非常に利用しやすい層だと言える。実際、ファシズム等の社会運動は若者にターゲットを当てることが多く、また実際に数多くの若者が熱狂的にそれを支持することになる。

そして、このように運動の参加者たちが「ネタ」を「ベタ」として受け入れるようになると、運動は決定的に変質していく。つまり、その運動が持っていたある種の批評性は失われ、ドグマ化した「ネタ」が暴走を始めることになる。

繰り返しになるが、僕は小泉首相が云々ということを言いたいのではない。ただ、ある思想や運動が「ネタ」であるからと言って、取るに足りないと考えるべきではない、ということが言いたいのである。

そうした「ネタ」に対するベタな反論は意味をなさないばかりか、逆効果ですらある。「ネタ」が支配する空間におけるベタのコミュニケーションの空しさは筆舌に尽くしがたいものがある。小林よしのり氏に対する批判にどうにも空しさが漂っているのは、「ネタ」に対してベタな批判を試みているからに他ならない。氏の立論がいかに論理的に破綻していようとも、「ネタ」である以上、それはさして重要な問題ではないのである。

だからと言って、「ネタ」に対して「ネタ」で対抗するという戦略にも自ずと限界がある。結局それは、プレゼンテーションの巧拙を競うだけの争い(どちらがより「面白い」のかという争い)となり、結局は資本を多く投下できる側、つまり「声の大きい者」の勝利しかもたらさないだろう。

「『ネタ』の支配する空間において、いかに真摯なコミュニケーションを回復するのか。」現在の僕には、この問いに対する回答はどうも出せそうにない。
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  by seutaro | 2005-09-26 00:26 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 3

どうにも迷走しながら続いていて、書いている本人も一体どこにたどり着くのかがイマイチ明確でないのだが、とりあえず前回の続きである。

前回は、山本七平氏の『「空気」の研究』を引きながら、「空気」の支配する空間では人びとが互いに「ネタ」もしくは演技であることを承知しながらも、ベタなコミュニケーションを行うが許されないことを指摘した。それが出来ない者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる。

人びとが虚偽であることを知りつつもそれにコミットしていく態度というのは、相対主義が蔓延する時代において特に顕著であるように思われる。つまり、全てが真理でないのであれば、数ある「嘘」のなかでより「気持ちの良い嘘」を信じようとする衝動が生じるのではないだろうか。

たとえば、ロバート・マートンによれば、ナチス・ドイツを支持した社会理論家たちは急進的な相対論を採用していたのだという(『社会理論と社会構造』p.496)。強引にこれを言い換えるならば、そうした理論家たちはナチスの言うような「アーリア人種云々」という与太話が「ネタ」であることを予め認識していたのではないだろうか。しかし、たとえそれが「ネタ」であったとしても、当時の疲弊したドイツ社会に暮らす人々に「自信」と「誇り」を与えるがゆえに彼らはその「ネタ」に乗ることにしたのではないだろうか。

さらに言えば、そうした「ネタ」であることを認識しつつも乗ったのは、そうした知識階層の人びとばかりではなく、多くの一般人もまた同様だったように思われる。僕はナチスに関する膨大な既存研究をレヴューする立場にはないが、ナチスとはある意味、壮大な「ネタ」として始まったのではないだろうか。

ところで話は急に変わるが、僕はかつて、人が物事を学ぶのには3つのステップがあると聞いたことがある。まず第一は、ある考え方を熱烈に信奉する段階である。要するに「世界の真理を解き明かせるのは、この理論だけであって、あとはゴミ」だと考える段階である。

第二は、当初は熱烈に信奉していた考え方の問題点が徐々に見えてきて、他の考え方の良さも理解するようになったことから、全ての考え方にはそれなりの利があるという段階である。これはある意味、バランスが取れているように思えるかもしれないが、自分の立ち位置がないために非常に無責任な態度につながりやすい。

そして、第三は、自分の支持する思想の問題点や他の思想の利点を理解しつつも、特定の思想にコミットするようになる段階である。自らの思想の限界を知りつつも、あえてそれを支持するという段階だと言えよう。

それでは、先に述べたような虚偽だと知りつつもコミットする立場は、この第三段階に該当するのだろうか。僕の考えではそれは違う。なぜなら、上で説明した第三段階において特定の立場を支持する根拠となるのは「相対的に見れば」それが正しいからだというものであるのに対し、特定の「ネタ」を支持する根拠となりうるのはそれが「気持ちがよいからだ」というものになるからである。その意味において、後者の立場は決して成熟した思想に至るものではない。

というわけで、ますます混迷の度を深めつつ第3回はここで終わり。
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  by seutaro | 2005-09-22 00:15 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 2

自分で書きながら、どうにも違和感を拭い切れないのだが、前回の続きである。

前回で述べたように、高校時代に僕が体験した「お笑い空間」では、僕はヘタレ役であり、いつも嘲笑を受ける立場にあった。だから、その「お笑い空間」を構成する1人ひとりが、僕を心底馬鹿にしているのだとずっと思っていた。

ところがあるとき、そのなかの1人とふたりきりで長時間過ごすことがあった。その際の彼は、普段の厳しい「ツッコミ」とは見違えるように親切かつ友好的で僕はびっくりしたことを覚えている。それ以外でも僕は似たような体験をすることになり、どうやらみんな普段はいい奴であっても、「お笑い空間」に入るや否や、それぞれの役回りを演じるのだということを認識するようになった。

ところで、こうした「お笑い空間」で、しばしば多用されていたのが「空気」という言葉である。僕がついベタな発言をしてしまうと、決まって言われたのが「空気読めや」という言葉であった。ここで思い出さずにはいられないのが、山本七平氏の『「空気」の研究』である。要するに、ある「空気」が支配してしまうと、その空気を乱すような真実を語りえなくなるというメカニズムである。たとえば、戦艦大和の出撃に際して、戦術的に見れば無謀な行動であることは明確であったにもかかわらず、「大和出すべし」との空気が充満するなかでは反対意見を述べる余地などなかった、といった事例が挙げられている*1。

ここでの観点から言えば、「空気」が支配している空間では、各々がそれぞれが「空気」に適合する役割を果たすように求められており、「空気」を台無しにするような発言を行おうとする者は、「空気の読めない奴」として排除されていくことになる*2。これまで述べてきた「お笑い空間」に戻るならば、たとえ1人ひとりと話す分にはベタなコミュニケーションを友好的に行うことができたとしても、彼らが集団となったときには、全てが「ネタ」として処理されねばならない「空気」が瞬く間に醸成されることになる。

すなわち、そうした「お笑い空間」では、それぞれの役柄(ボケ、ツッコミ、ヘタレ、etc.)が所詮は演じられているものでしかないことを各人が薄々認識しているものの、その演技から逸脱することは禁じられているのである。言い換えるならば、「お笑い空間」とは一種の劇場なのであり(アーヴィング・ゴフマンが指摘するように、全ての人間の相互行為には演劇的な要素が含まれているのであるが)、そこでは明確に割り振られた役割を遂行することが厳しく個々人に要求されるのである。

ここで、ようやくこのエントリの(実は)メインテーマである「劇場型政治」の問題へと辿りつくことができた。が、疲れたので、今日はここまで。


*1 山本氏はこの「空気」の支配を特殊日本的な現象として捉えている。しかし、たとえばノエル-ノイマンの「沈黙の螺旋理論」は、ある「空気」が支配的になっていくことにより、それとは異なる見解を持つ人々が自発的に意見表明を差し止めるようになるメカニズムを説明していると言いうる。したがって、「空気」の支配は日本に限らず、他の国々でも生じうる現象ではないだろうか。

*2 山本氏は、「空気」の高揚を抑えるメカニズムとして、情況を知らせる「水」の存在を挙げている。つまり、現状もわきまえずに盛り上がっている連中に対して、情況を知らせる(=水をさす)ことで、人々を冷静にさせる役割を果たすのだという。ただし、この情況の規定が、客観的なものではなく、人間的な判断に基づいたものであるがゆえに、空気支配に対して水を差すにしても、真理を認識するまでには至らないのだと山本氏は述べている。この点に関して、山本氏は「真理」の存在をあまりにもナイーブに捉えすぎているのではないだろうか。
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  by seutaro | 2005-09-18 23:12 | 政治・社会

<政治・社会>すべてが「ネタ」になる 1

もう十数年の前のことになる。僕は当時、大阪の高校に通っていた。
大阪人の会話は漫才の形式(ボケとツッコミ)になっているということはしばしば言われることだが、僕の周囲は実際、そうした「お笑い」志向が極めて強い空間だった。なんと言えばいいのか、要するに全てが「オモロイ」か「オモロナイ」かによって判断されるような世界である。

こう書くと、楽しい高校生活だったかのように聞こえるかもしれないが、実際にはそれほど楽しいものではなかった。この空間での僕の役回りは、基本的にはヘタレ役であり、そのヘタレっぷりによってしか笑いを取れないようなキャラであった。テレビのタレントであれば、収録が終わった瞬間にヘタレ役からは解放されるのだろうが、実生活で常にヘタレ役を続けるのは結構きついものがある。特に、敏感な自意識を持つ高校生にとって、そうした役回りは決して愉快なものではなかった。

しかも、こうした「お笑い空間」では、「ベタ」なコミュニケーションがほぼ不可能であり、全てが「ネタ」に回収されてしまうことに僕は非常に悩まされることになった。こう書くとよく分からないかもしれないが、要するに「真面目な話=ベタなコミュニケーション」をしようとしても、それが真剣に受け取られることなく、常に嘲笑にさらされる(=「ネタ」として扱われる)ということである。僕は基本的にはベタな人間なので、それがネタとしてしか扱われないことに非常な苛立ちと歯がゆさを覚えることになった。

そして僕は、全てが「ネタ」に回収されてしまうこのようなコミュニケーション空間と類似した雰囲気を、2ちゃんねるに代表される匿名掲示板でのやり取りにしばしば感じる。全てのコミュニケーションが「ネタ」として扱われるようになる背景には、インターネットの特質が強く作用していることは言うまでもない。

そもそも、インターネットの登場以前には、不特定多数の人々に自分の意見を公表するなどという機会が稀であった。インターネットの登場は、そのような機会を飛躍的に増大させたと言いうる。しかし、他方でそれは、自らの主義主張が、これまででは考えられないような規模での批判や中傷に晒される可能性を生じさせることになった。

たとえば、僕が掲示板に書き込みをするときには、その書き込みにどのような反応が生じるのかが非常に気になる。いくらさして推敲もせずに書き込んだことであったとしても、その書き込みが人びとから嘲笑されればやはり傷つくものだ。特に、インターネットでのコミュニケーションは、対面的なそれよりも遥かに情け容赦のないコメントを生じさせる傾向にある(逆に、対面的なコミュニケーションを2ちゃんねる的なノリで行えば、あっという間に殴り合いの喧嘩になる可能性が高い)。

ここから、インターネット上でのコミュニケーションは全てが「ネタ」になるという様相を呈してくることになる。つまり、書き込んだことが全て「ネタ」であるなら、それがいくら中傷されようとも、批判されようとも、自分の自我が傷つけられることはない。むしろ、批判してきた側こそが「ネタにマジレスかっこ悪い」ということになる。そこから、わざと非常に愚直な書き込みをして、それに対する反応を楽しむ(=釣り)といった行為が行われることになる。

他方、北田暁大氏が『嗤う日本の「ナショナリズム」』で指摘しているように、「電車男」スレッドに見られるような妙にベタなやり取りも2ちゃんねるでは観察される。たとえば、失恋板の「相手に死なれて終わった恋愛」など、僕は涙なしに読むことができない。

けれども、こと時事ネタに関しては、全てが「ネタ」になる傾向が非常に強いように思う。そこではベタなコミュニケーションは嘲笑の対象としかならない。そして、そうしたコミュニケーション空間においては、実質的な討議はほぼ不可能になる。無論、匿名掲示板などその程度の存在などだと考えることもできるが、ここで僕が危惧するのは、そうしたコミュニケーション様式がインターネットの世界を超えて、実社会のほうにも浸透してくるということである。言い換えれば、僕が高校時代に体験したような「お笑い空間」の拡大である。

う~ん、自分で書いてても、うまくまとまっていないと思うのであるが、続きは次回。
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  by seutaro | 2005-09-18 00:45 | 政治・社会

<ネタ>富田ゆかりさん、勘弁してください

なんだか最近、僕のメールアドレスにやってくるスパムの量が異様に増えた。特に、「Venus Network」とやらの「富田ゆかり」嬢と、「La vie en rose」とやらの「嶋田早百合」嬢からのメールが山のようにやってくる。しかも、富田ゆかり嬢の態度が妙に横柄なのが気になるところだ。

その後、ご連絡が頂けませんが如何されましたでしょうか。当サークル【VenusNetwork】代表富田ゆかりが、貴方様からのご連絡をお待ちになられております。

その後も何も、連絡したことなど一度もないのだが、まるで連絡しないことで僕の方が糾弾されているかのようである。
ちなみに、ご存知の方も多いと思うが、このスパムというのは、そもそもアメリカなどで販売されている缶詰の名前である。
b0038577_23385863.jpg
なんで迷惑メールがスパムと呼ばれるようになったのかに関しては諸説あるようだが、イギリスBBCの「モンティパイソン」というコメディに端を発するとの見解が有力である。カフェでオーダーを取っていウェイトレスと客との会話が、だんだん"SPAM"という言葉で満ち溢れていくというもので、正常なやりとりが"SPAM"によって埋め尽くされるイメージから迷惑メール=SPAMということになったのだという。なお、このコメディの脚本は下のサイトで読むことができる。

https://www.cs.tcd.ie/Cormac.OBrien/spam.html

正直、文字にされると分かりにくいし、モンティパイソンの面白さ自体が僕にはよくわからないことが多いのだが、このコメティに関しては日本語での解説記事がある。もっとも、それを読んだからと言って面白くなるわけでもないのだが。

http://japan.internet.com/busnews/20030825/8.html

まあ、もとがなんであれ、富田ゆかり嬢や嶋田早百合嬢にはうんざりしているので、メーラーの自動選別機能を使って、彼女たち(?)からのメールは自動的に「迷惑メール」のフォルダへと行ってもらうことにした。

もっとも、スパムの発信元はころころ変わるので、発信元でフィルタリングをかけても無駄である。そこで、メールの文中に「富田ゆかり」や「嶋田早百合」が入っていたら、自動的にゴミ箱行きという設定にしている。

従って、富田ゆかり嬢への対処法は実は難しくない。けれども、そうしたフィルタリングの網をかいくぐって来るスパムは後を絶たない。そこで、その手のメールの本文中にいかにも使われていそうな言葉でフィルタリングをかけることにした。もっとも、スパム以外のメールまでゴミ箱に送ってしまっては困るので、普通のメールではまず使われない言葉ということが条件になる。

そこで、「逆援」だの「セフレ」だのといった言葉でフィルタリングをかけ、さらには「完全無料」(←うそつけ)だとか「アブノーマル」などのキーワードを増やしていった。もちろん、そのためにはスパムで用いられている用語を研究せねばならず、目を皿のようにしてスパムを読む毎日である。
・・・
・・・
・・・
あれ?
・・・
侮りがたし、スパム!
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  by seutaro | 2005-09-17 00:01 | ネタ

<政治・社会>日本人らしい日本人が他国の人々から尊敬される・・・のか?

今日、「電車男」を見ようと思ってテレビをつけると、日本文化を愛好するイギリス人を扱った番組をやっていた。彼は、自国の文化を理解してこそ初めて他国の文化を理解することができるとか何とか言っていて、イギリスの「伝統」らしい服を着て、踊りを踊っていた。

実際、そのような考え方は決して珍しいものではない。そして、それと似たような発想として、自国の文化を理解していないと国際的には尊敬されないなどといったものがある。だが、僕はこの手の発想に何かしら胡散臭いものを感じてしまう。

確かに、僕がイギリスに留学しているとき、イギリス人や他国からの留学生からは「日本人らしい」ことが期待されていたように思う。たとえば、ちょっとしたパーティーなんかで手巻き寿司なんかを作ると喜ばれたし、お辞儀のような日本の慣習の「再現」すら求められることすらあった。

しかし、それは結局のところ、向こうが勝手に持っているステレオタイプに迎合しているだけなのではないか、という疑念に僕は苛まれることになった。つまり、日本にいたときには作ったことすらなかった手巻き寿司を作ることで、他国の連中が持っている「日本人=寿司好き」というイメージに寄り添っているのではないか、ということだ。

まあ、寿司を作るぐらいであれば別にさしたる害はない。けれども、「日本人」に対するステレオタイプで最たるものが「武士」だの「芸者」だのであることを考えると、やはり問題があるのではないだろうか(「武士道大好き」の人にとってはそうでもないだろうが)。英米圏でよく売れる日本関連の本が「芸者モノ」の"Memories of Geisha"だということは、そういうイメージが勝手に一人歩きしているということを象徴的に示している。

確かに、そういう外国人が日本人に対して持っているステレオタイプに迎合すれば*1、向こうの人々は多くの場合、歓迎してくれるだろう。けれども、それはあくまで「好奇の対象」になるということなのであって、決して「尊敬」されているわけでないように思う。

他方、ステレオタイプを作る側、要するに優位な立場にある側の文化は、たいてい無色透明と見なされ(このエントリで最初に取り上げたようなイギリス人は例外的な存在だと思う)、それ以外の文化こそが好奇の対象となる。言い換えれば、日本人が通俗的なイメージに従って「日本人らしく」振舞うことは、結局、自発的にそうしたステレオタイプの再生産に協力することに他ならないのではないだろうか。

留学中に知り合った僕の友人の1人は、一緒の寮で暮らしていたイギリス人に「君は日本人女性なのに、なんでおしとやかじゃないんだ」というようなことを言われたことがあるという。全くもって余計なお世話である。聞けば、彼がイギリス人なのにわざわざ留学生向けの寮に住んでいた理由が「多文化が好きだから」なのだそうな。おそらく、彼の頭の中の世界地図は、「文化」の境界によってはっきりと区切られており、それぞれの文化の境界の内側では皆が完全に同一の慣習に従って暮らしているというものなのだろう。

そうしたステレオタイプを打ち破り、「あんたが思ってるような日本人ばっかりが日本に暮らしているわけじゃないし、あんたの勝手なイメージに人を合わせようとするべきではない」ということを連中に納得させてようやく、対等な関係を築くことができるのではないだろうか。

*1 ステレオタイプはしばしば、両極端な2つのイメージによって構成される。たとえば日本人に対するステレオタイプの場合、「武士」や「空手家」といったたくましく豪快なイメージがある一方で、「ジャパニーズ・ビジネスマン」に見られるようなひ弱で神経質なイメージがある。それゆえにステレオタイプはうまく機能するのであり、たくましい日本人ならば前者、そうではない日本人には後者のイメージが採用されることで、ステレオタイプが決定的に崩れるのを防いでいる。
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  by seutaro | 2005-09-16 00:01 | 政治・社会

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