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<政治・社会>小さな政府?

僕はしょっちゅう訪問し、いろいろと楽しませてもらっているウチダ先生のブログであるが、どうにもウチダ先生は具体的な政治の話となると、ときどきポカをやらかしてしまう。

たとえば、このエントリであるが、ここでのウチダ先生が『朝日』の購読を止めたという話はどうでもよくて、問題は先生の「小さな政府」論である。

ウチダ先生は日本では「大きな政府」というのがそもそも不可能であり、国民は政府のダウンサイジングを選択したとの意見を述べておられる。が、あちこちで指摘があるように、日本の政府は既に非常に小さいというのが実情である。疑問に思う方は、以下のサイトを参照されたい。

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200508251149164

http://bewaad.com/20050811.html#p01

ここ最近、国家公務員の数を削減する話が浮上し、経済財政諮問会議の要求する削減水準よりも低いことが問題とされている。ところが、この経済財政諮問会議の面々はどうにも国家運営を企業経営の延長線上で考えてしまうので、企業のコスト削減の感覚で安易に財政支出や公務員数の削減を主張してしまう。

また、マスコミにしても重度の構造改革病にかかっているので、そもそも政府の適正規模はどの程度なのかという議論をすっとばして、政府は小さければ小さいほどいいという強迫観念的な主張を繰り返す。

正直、身近に付き合いがあるぶん公務員という存在にはあまり好感は持ってないし、不愉快な目に合わされることも少なくはない。しかし、それでも彼らの殆どが真面目に職務を遂行し、残業をこなしていることは認めざるをえない。結局、以前のエントリでも書いたように、スケーブゴート第一弾として、公務員に対する攻撃が本格的に始まったということなのだろう。

さて、次の「敵」は誰なんでしょうかねぇ。
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  by seutaro | 2005-10-05 00:32 | 政治・社会

<ネタ>愉快な二人

いやはや、この2人、非常に愉快である。

「新しい歴史教科書を作る会」会長&名誉会長コンビが出した「ジェンダーフリー・バッシング本」の面白さ。
http://d.hatena.ne.jp/seijotcp/20051002/p1

これをネタでなく本気で言っているとすれば、えっと、そうだな、う~ん、お大事に・・・といったところだろうか。

そうそう、上のネタとは全くもって関係ないが、面白いCGIがあったので、これも貼っておこう(知っている人にとっては今さら・・・といったところだろうが)。

ルパン三世風タイトルメーカー
http://2next.net/swf/R3_temp.html
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  by seutaro | 2005-10-04 00:15 | ネタ

<映画>パッチギ!

b0038577_1314412.jpg このサイトのエントリを見て、思わずこの週末に映画「パッチギ!」を見てしまった。一言で言えば、在日朝鮮人と日本人高校生との友情と恋愛とを扱った映画である。

 正直、僕の笑いのツボにはあんまりはまらなかったらしく、爆笑ということはなかった。また、僕の涙腺は相当に緩くできているのだが、これで泣けたということもなかった。さらに言えば、僕はかなりの小心者なので、喧嘩のシーンの生々しさにちょっとひいてしまった…。

 と、ネガティブな評価ばかりしてしまったが、だからといってこの映画を全否定しようとも思わない。特に、この作品の思想的な意味合いについては、リンク先のkaikaji氏にほぼ全面的に賛同したい。

 在日朝鮮人に限らず、エスニック・マイノリティの描き方というのは非常に困難な問題を抱えている。一般に進歩派と呼ばれる人々は、マイノリティに対するマジョリティの差別や暴力を強調するあまり、マイノリティの側を「無垢の被害者」として描き出してしまう傾向にある。これは決して日本に特殊な現象ではなく、たとえばロバート・マートンは「すべての白人が悪魔だと考えるのが間違っているのと同様に、全ての黒人が天使だと考えるのは間違っている」といったような発言をどこかでしていたと思うが、ここからは黒人差別を批判するあまり黒人の存在を美化して語るような傾向がアメリカにも存在していたことが窺える。

 このようにマイノリティを「可哀相」な存在としてのみ描き出すことの問題性については、奥村隆氏が『他者といる技法』で優れた指摘を行っている。要するに、「可哀相」であるだけの存在としてマイノリティが描かれてしまうと、彼らが実は純粋無垢な存在ではなかったことが明らかになった時に、「可哀相」な存在から一気に「がめつく」「狡猾で」「恐怖すべき」存在へと移行してしまう傾向にあるということである。

 しかし、他方において問題となりうるのは以下の点である。マイノリティの「実像」を描こうとすれば、その「がめつさ」や「狡猾さ」を描き出すことは不可避となるが(それが人間というものだ)、その「がめつさ」や「狡猾さ」のみを強調することが、それをより大きな構図のなかで捉える作業を怠らせる傾向にあるということである。つまり、一部の在日朝鮮人の強欲な商売や犯罪を殊更に言い立てることによって、日本人の側の差別を免責し、すべてを在日朝鮮人の側の問題に帰してしまいたいとの欲望がどうにも見え隠れしてしまうのである。

 まとめるならば、いわゆる進歩派と呼ばれる人々は、差別という大きな構図を重視するあまり、マイノリティの側にも存在する「がめつさ」や「狡猾さ」を過小評価してしまう傾向にある。他方、「嫌韓流」な人々は、マイノリティの「がめつさ」や「狡猾さ」を強調するあまり、あらゆる責任をマイノリティの側に帰してしまう傾向にある*1。

 ここで話を「パッチギ!」に戻すと、在日朝鮮人の「被害者」としての側面を強調しすぎだとの批判は当然に出てくるだろう。けれども、そうした「被害者」としての側面ばかりでなく、暴力も振るえば犯罪も行うような人間の負の側面をも持ち合わせた存在としてマイノリティを描き出そうとした試みとして、この映画は評価されるべきだと思う。

 と、まあ、いろいろと御託を並べてはみたものの、(僕のツボにはそれほどはまらなかったが)あくまでこれは娯楽として、難しいことをさして考えずに見るべき作品だというのが実は正解なんだろうと思う。

*1 80年代に大阪の小中高を卒業した僕は(特に中学校の裏手には朝鮮人学校があった)、在日朝鮮人の「怖さ」をしばしば見聞した一方で、日本人の側に存在していた強固な差別意識についても記憶している。

追記:ところで、この映画では「イムジン河」という歌が重要な役割を果たしている。この歌は、いわゆる「放送禁止歌」だったのであるが、この「放送禁止歌」に関しては森達也氏の『放送禁止歌』が非常に面白い。自主規制というものがどのようにして出来上がっていくのかに興味がある人にはオススメである。
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  by seutaro | 2005-10-03 02:33 | 映画

<政治・社会>「負け組」を越えて

 さて、予告しておいたイギリスの労働者階級のお話である。といっても、「労働者階級」というのは、イギリスでも決して一枚岩ではない。たとえば、多くの労働者は労働党を支持しているとはいえ、選挙法改正によって労働者にも選挙権が与えられるようになって以来、保守党を支持する労働者は決して少なくなかったし、特に1980年代のサッチャー政権時代には保守党による労働者の取り込み戦略が大きく効を奏していた。

 とはいえ、やはりイギリスでは、階級の存在を感じさせられる機会が日本に比べてずっと多いように思う。その大きな理由のひとつは、既に述べたように、労働者というカテゴリーが「弱者」としては位置づけられていなかったということにある。

 ポール・ウィリスの『ハマータウンの野郎ども』は、イギリス労働者の文化に注目したカルチュラル・スタディーズの古典の1つであるが、ここでは労働者階級の男性の自尊心のありようが克明に描き出されている。彼らは社会階層的には低い層に属する「労働者」だからといって、決して自らを弱者であると考えているわけではない。むしろ、彼らの観点からすれば、ホワイトカラーの連中というのは、「女のような」仕事をしている体制に従順な連中でしかない。むしろ、彼らのほうこそが「男らしい」仕事をしている強者なのである。すなわち、彼らは「労働者」であることに誇りを見出しているがゆえに、労働者階級に自己を位置づけていることが出来ているのである。

 ここで日本への視点を移すならば、社会階層の低い人々が積極的に自らを位置付けることができるようなカテゴリーは今のところ存在していないのではないだろうか。無論、イギリスの労働者に見られるようなアイデンティティを持って仕事に取り組んでいる人びとは日本でも無数にいるだろう。けれども、それが社会で幅広く流通するようなカテゴリーとして成長するには至っていないというのが現状であろう。

 近年、社会階層の低い人々に対して頻繁に用いられるカテゴリーとしては「負け組」が挙げられよう。けれども、自嘲的に自分のことを「負け組」と呼ぶ人びとがいるにせよ、「負け組」は決して多くの人びとが誇りをもって自己を表現するために用いることの出来るカテゴリーではない。特に、能力主義の哲学が浸透した社会においては、「負け組」=「無能者」という等式が暗黙のうちに成立することになる。こうした状況においては、社会の大多数が自らを「負け組」あるいは「弱者」と認めるようになる事態はすぐにはやってこないだろう。そのことが「弱者ってそもそも誰のことだ?」という疑問をあちこちで噴出させているのである。

 従って、たとえば選挙戦において「負け組」または「弱者」にターゲットにした選挙戦略は、最初から失敗することが定められている。無論、だからと言って「プロレタリアート」や「労働者」といった手垢のついたカテゴリーによってよりポジティブなアイデンティティを構築することを目指すのもナンセンスだろう。

 それでも、社会のごく一部の層だけが利益を得るような政策を推進する政権を「弱者」が熱狂的に支持するような状況を変えたいと願うのであれば、自己を「弱者」として卑下することなく支持できるような代替政策を打ち出していく必要があるだろう。

 無論、僕にはそのための戦略を生み出す能力などない。けれども、そのための重要な要素となりうるのは現在のシバキアゲ型資本主義とは異なるタイプの資本主義のヴィジョンを描きだすことだろう。そういう意味で、僕はたとえば稲葉振一郎氏の『経済学という教養』に見られるような試みを高く評価したい(アマゾンのカスタマーレビューでは、非常にナンセンスな評価も散見されるが)。無論、問題はそれをどうやって「ネタ」が支配する劇場型政治のなかで多くの人びとに受け入れられるような形にしていくのかということなのであるが。
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  by seutaro | 2005-10-02 12:28 | 政治・社会

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