<   2006年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 

<読書>谷村智康『CM化するニッポン』 1

b0038577_151891.gif レーサーが主人公の木村拓哉主演ドラマ『エンジン』で、レースのシーンが殆どなかったのはなぜか。妻夫木聡と加藤あいがドラマで共演することは当分ありそうもないのはなぜか。最近、黒木瞳を連続ドラマで使いにくいのはなぜか。新聞の一面に怪しげな本の広告が並ぶのはなぜか。
 本書は、メディアを広告という観点から分析したものであり、これらの問いに対して明確な回答を与えてくれる。業界裏話的な読み物として非常に面白く、CMがいかに現在の番組制作に影響を及ぼしているのかを克明に描き出している。さらに筆者は、番組内での「見えない広告」(プロダクト・プレースメント)が様々な形で行われるようになっており、視聴者はそれと認識せずに広告に触れるようになっていると論じる。
 筆者によれば、このように広告が番組に大きな影響を及ぼすようになってきたがゆえに、テレビ番組がどんどんつまらなくなってきているのだという。なお、ネット上では、類似した観点からテレビ番組について論じたものに、このサイトがある。
 このようにマスコミを広告という観点から読み解くという作業は、『CM化するニッポン』の作者はおそらく認識していないだろうが、メディアの政治経済学(political economy)に通底するものがある。そして、このメディアの政治経済学は、基本的にはマルクス主義的なバックグラウンドを有している。
 って、ここまで書いたら、眠くてしょうがない。続きはまた次回。
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  by seutaro | 2006-02-28 02:08 | 読書

<読書>芹沢一也『ホラーハウス社会』 2

 さて、中断してしまった、『ホラーハウス社会』についての続きである。
 前のエントリで述べたように、日本における犯罪、特に少年犯罪に対する対応は、極めて矯正的な色彩が強かった。少年犯罪を引き起こした少年の心理を理解し、その問題点を除去することに非常な力点が置かれてきたのである。
 ところが、この教育的犯罪観からすっぽりと抜け落ちているものがある。それが、犯罪の「被害者」の存在である。とりわけ少年事件においては、少年の心理が問題とされたがゆえに、犯罪の事実関係の解明はそれほど熱心に行われておらず、事件に関する情報はプライバシー上の観点から外部には伝えられなかった。
 しかし、山形マット死事件を契機に、被害者たちは声を上げ始める。自分たちの子供がなぜ死なねばならなかったのかを解明し、それを開示するよう求める声が次第に強まっていった。そして、メディアはそうした被害者の声を積極的に取り上げるようになり、神戸の連続児童殺傷事件などのショッキングな事件の影響もあって、やがては少年法の改正へと到ることになったのである。
 このような流れのなかで、加害者を理解し、矯正しようとするそれまでの方針への批判が強まり、加害者への厳罰を求める流れが生じてくることになる。この際、事件をおかした少年や精神障害者をあくまで法的主体として扱い、彼ら、彼女らが起こした事件をきちんと解明し、法的主体としての責任を求めていくという方向性に向かえば、現在とは異なる方向性が生まれることになったと芹沢は論じる。ところが、実際に生じたのは、加害者を法的主体として捉えるのではなく、不気味な「怪物」として捉え、社会から隔離・排除しようとする動きであった。
 そのような潮流を生み出す上で重要な役割を果たしたのが、犯罪精神医学であり、これが加害者の精神や脳の異常を訴えることで、彼ら、彼女らの「不気味さ」をより強く社会に印象づけることになったのである。
 統計的に見れば犯罪が増えていないにもかかわらず、日本社会はそうした不気味な「怪物」の影に怯えるようになった。しかし、そうした「怪物」の存在に対し、人びとはただ怯えているのではなく、ある意味においてそれを楽しむようになっていると芹沢は述べる。ボランティアや地域活動など、街を監視し、犯罪者を寄せ付けない街づくりが様々な形で行われるようになっている。それらの活動は単に義務として行われているのではなく、しばしばレクリエーション的な色彩を帯びることになる。いわば、「怪物」の存在を一種の「娯楽」として楽しむ流れが生まれつつあるというのである。芹沢は、そうした「怪物」の存在を「娯楽」として消費する社会を「ホラーハウス社会」と名づけ、それが治安の維持を名目として抑圧的な社会体制を生み出す危険性を主張している。
 この最後の点において、芹沢の見解は、前のエントリで挙げた河合『安全神話崩壊のパラドックス』と大きな相違を見せることになる。河合は急増しているわけではないものの90年代後半からの犯罪の増加を危惧しており、犯罪が多発する時間帯である「夜」と安全な「昼」との境界を再びはっきり引きなおすこととともに、地域共同体の建て直しや、ガーディアン・エンジェルスのようなNPOの役割への期待を表明している。すなわち、芹沢がより個人主義的な観点から社会の「ホラーハウス化」を危惧しているのに対し、河合は共同体主義の観点から治安問題への取り組みを訴えていると言えるだろう。
 地域ぐるみでの防犯対策を監視社会への第一歩として捉えるべきか、それとも地域共同体の再建として捉えるべきか。僕としては、芹沢の立場に大きな共感を覚えるものの、河合の主張の説得力も認めないわけにはいかず・・・ということで、今回のエントリはとりあえず論点を整理するだけに留めておきたい。
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  by seutaro | 2006-02-27 01:43 | 読書

<映画>ヒトラー 最後の12日間

b0038577_2555861.jpg というわけで、『ホラーハウス社会』の続き・・・と思っていたのだが、先に『ヒトラー 最後の12日間」について書いておきたいと思う。
 ヒトラーの秘書を務め、戦後まで生き残った女性の証言をもとに、ヒトラーが自殺を遂げるまでの12日間を描いた作品。非常に面白く、かなりお薦めな作品である。ベルリンの陥落を直前に、混乱する指揮系統、司令部にはびこる狂気、軍紀の乱れなどが見事に描きだされており、末期症状に陥った組織の姿を克明に伝えてくれる。
 で、この映画で僕が一番興味深かったのは、ヒトラーの考え方である。彼は犠牲になる市民や兵士への同情をしばしば否定する。結局、彼らが死ぬのは、さらに言えばドイツが敗北しつつあるのは、彼らが「弱かった」からなのであり、弱者が滅ぼされるのは歴史の摂理なのだという。従って、弱者への同情は、そうした歴史の摂理からの逸脱なのであり、許されるべきことではない、ということになる。
 このようなヒトラーの発想に関しては、時に通常のナショナリズムとの違いが語られることがある。たとえば、アンソニー・スミスは次のように述べる。(『20世紀のナショナリズム』、p.126)

完全に生育したナチズムは、世界は人種によって階層的に分割されており、争いから逃れることができないまま、血と権力の上下関係に置かれている、と見ている。ナショナリズムにとっては、歴史、市民権、そして民族的郷土は、決定的に重要な諸価値である。ナチズムにとっては、これらの諸価値は、永遠の戦争の中で融合させられる、遺伝的な体格と国家権力とに比べれば、さほど重要なものではない。

僕はこのようなスミスによるナショナリズムとナチズムとの区分には必ずしも同意しない。たとえ、ナチズムに様々な独自の要素があったにせよ、それがナショナリズムを土壌として生まれてきたことは否定しえないと考えるからだ。とはいえ、この指摘で興味深い点は、ナチズムは結局のところ、現実にドイツに暮らす一般の国民にはさほど関心がなく、戦争によって鍛え上げられる理想の「アーリア人種」を重要視していたという点である。無論、このような発想に対しては、ナチスの内部でも反発があり、『ヒトラー 最後の12日間』でも無益に死んでいく市民や兵士に心を痛める将校が何人か登場する。
 ともあれ、このようなナチズムの発想は、言わば一面的な恋愛感情に似ていると思う。恋愛というものには多かれ少なかれ相手に対する幻想が混じりこんでおり、言ってしまえば相手をしばしば「理想化」してしまう。しかし、実際に付き合いだすと、その幻想が徐々に崩れ、相手の本当の姿が見えてくる・・・というわけだ。ナチズムというのは、同じように「ドイツ国民」「アーリア人種」という幻想に耽溺し、最後まで幻想と現実とのギャップを埋めることができなかった思想だと思われる*1。

*1なお、「現実」という言葉は非常にやっかいであり、僕も以前のエントリでその難しさについて論じたことがあるが、ここではあえて考えないことにする。

 しかし、こうした幻想と現実との間に大きなギャップを生じさせるのは、別にナチズムに限った話ではない。ナショナリストはしばしば「神話」、「伝統」、「歴史」といった形態において、自分たちの「あるべき姿」を描き出そうとする。そして、その「あるべき姿」から逸脱していると見られる人びとが往々にして糾弾の対象となるのである。
 僕が「新しい歴史教科書を作る会」などの運動を好きになれないのは、結局のところ、彼らの運動にこうした傾向があることを感じてしまうからだ。内田樹が『ためらいの倫理学』で指摘するように、他の歴史教科書を「自虐史観」と言って批判する彼らは、現在の日本社会のあり方については非常に「自虐的」である。戦後民主主義によってすっかり骨抜きにされ腐敗してしまった現在の日本人・・・それに対して、先人は何と勇敢で偉大な人びとであっただろうか、という語りがしばしば行われることになる。
 そこから、次のような疑念が沸いてくることになる。それは、結局、彼ら「愛国者」たちが愛しているのは、現実に日本列島に暮らす人びとなのではなく、幻想のなかの理想化された「日本人」なのではないか、ということだ。彼らは確かに、歴史上の偉人たちを愛しているだろう。けれども、彼らは同じように、コンビニの前でたむろする若者や公園で暮らすホームレス、あるいは左翼的な言辞を吐く言論機関や文化人をも愛していると言えるのだろうか?
 そうした「偉人」たちと「非国民」とを一緒にするな、と思われる人もいるかもしれない。けれども、本当に国や国民を愛しているというのであれば、それは決してごく一部の突出した偉人だけを愛しているということにはならないはずだ。現実の日本社会には、富める者、貧しき者、賢明な者、愚鈍な者、善き者、悪しき者など多様な人びとが暮らしている。本当に国を愛し、それに何らかの貢献をしたいと思うのであれば、そうした多様な人びとの存在を受け入れ、できるだけ多くの人びとの幸福を願うのが筋ではないだろうか。先ほどの恋愛の比喩を再び用いれば、たとえ相手に対する幻想が崩れたとしても、その幻想を超えて相手のありのままを受け入れることこそが成熟した愛の形だとは言えないだろうか。(書いてて照れるな、これ(笑))
 偉人たちの功績で塗り固められた歴史しか学ばない者は、偉人たちとの一体化を果たすことで自分のナルシズムを満足させることはできるかもしれない。けれども、貧しき者、愚かな者、悪しき者を自分たちと同じカテゴリーに入れて考えることができない可能性が高い。自称「愛国者」たちが、「非国民」だの「国賊」だのといった言葉が大好きなのはそのためだ。ロバート・マートンの『社会理論と社会構造』では、アインシュタインの次のような言葉が引用されている(p.262)。

もしわたくしの相対性理論が真理であることが証明されたならば、ドイツはわたくしをドイツ人だと主張し、フランスは、わたくしが一世界市民であることを宣言するであろう。もしわたくしの理論が誤っていることが分かれば、フランスはわたくしがドイツ人であると言い、ドイツは、わたくしがユダヤ人であることを宣言するであろう。

 結局、自分たちの自画像に合致しない人びとや、その自画像に賛同してくれない人びとを「愛」の対象に入れないというのは、幻想の「国民」を愛するばかりで、多種多様な人びとによって構成される現実の国民から目を背けることでしかない。しかし、少なくとも、国や社会を引っ張っていこうとする者であれば、幻想から現実を糾弾するようなことはすべきでない。ヒトラーはこの点において、指導者としての資格を決定的に欠いていたと言える。
 さて、現代日本の政治家諸君は、そうした現実の国民をありのままに受け入れる気概を持っているだろうか。
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  by seutaro | 2006-02-26 04:02 | 映画

<読書>芹沢一也『ホラーハウス社会』 1

b0038577_215022.jpg 新聞に毎日のように登場する犯罪報道。それらの報道には、しばしば「急増する凶悪犯罪」云々という表現が登場する。また、「体感治安」なる概念により、人びとの治安に対する不安感がどんどん増大していることも論じられる。
 しかし、統計的に見ると犯罪は急増していない。また、槍玉に挙げられることの多い少年犯罪については、以前のエントリで少年犯罪の増加を疑問視する声が多いことを紹介した。このエントリの後、さらにいくつかの文献を読んでみたが、研究者の大半は「少年犯罪を含む犯罪全般は急増していない」という点においてコンセンサスに達しているようだ。その詳細な分析に関しては、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』が詳しい。河合によれば、ここ数年、犯罪はやや増加傾向にあるものの、決して「凶悪犯罪の急増」と言えるような状態にはない。
 にもかかわらず、犯罪者に対する厳罰を求める声は強まる一方である。それはなぜか。前掲の『安全神話~』では、かつては存在した犯罪多発地域(=繁華街)と一般居住地域との境界が曖昧になり、可能性としては決して高くないものの後者においても犯罪に遭遇する可能性が生じるようになったがゆえに、「体感治安」が悪化し、犯罪者に対する警戒感が増幅してきたのだというような説明が行われている。
 それに対し、芹沢一也の『ホラーハウス化社会』は、教育や治療による犯罪者の矯正というこれまでの日本における犯罪者への対処方法が大きく変化しつつあることを論じている。芹沢によれば、これまでの日本社会においては、犯罪者が一種の病人として捉えられ、それを矯正=治療することに並々ならぬ熱意が注がれてきた。芹沢は言う。「(少年:引用者)犯罪とはあくまで、保護すべき対象を発見するための『きっかけ』にすぎないのだ。」(p.30)
 ただし、こうした犯罪観は決して犯罪者にただ甘いわけではない。そのことを最も特徴的に示しているのが、少年法に見られる「虞犯少年」という発想である。虞犯少年とは、家出やいかがわしい場所への出入り等、法には触れていないけれども、将来的に法に触れる可能性があるという理由によって拘束される少年のことである。つまり、これは一種の「予防拘束」なのであり、法に触れる以前に少年を矯正しようとする姿勢の表れだと言いうる。
 ところが、芹沢によれば、このような犯罪観は近年において大きく変化しつつあるという。と、ここまで書いたところで、タイムアップ。続きはまた明日。
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  by seutaro | 2006-02-23 02:00 | 読書

<メディア>「クリエイター」の悲哀

 さて、ちょっと間があいてしまったが、「放送と通信の融合」についての話の続きである。
 前回、インターネット上での番組配信の難しさについて論じたが、著作権関係では動きがあったようだ。政府の知的財産戦略本部は、放送に認められている著作権法上の優遇処置をインターネット上での番組配信にも適用するよう著作権法の改正を提言しているのだそうな。そうなれば、とりあえず法的なレベルでのハードルはかなり低くなることになる。
 インターネット上での番組配信のその他のハードルとしては、放送免許の問題がある。現在、放送局は地域ごとの放送免許に基づいて放送を行っているわけだが、インターネットで番組配信をするとなると、そうした地域に基づいた免許の意味が殆どなくなってしまう。つまり、北海道の地方放送を九州で見ることも簡単にできるようになるわけだ。
 ところが、これが放送局にとっては大きな問題となる。なぜなら、そうなると地方局もキー局も同じ土俵で競争を行うことになるのであり、最終的に資本の豊富なキー局のみが生き残るという結果になりかねない。そうなると、地域色のある番組が制作されなくなり、日本全国で同じような番組ばかりが放送されることになることで、放送の「公共性」が失われてしまう・・・というのが放送局の言い分である。
 このような放送局の主張に対しては、当然のごとく、放送免許という「既得権益」を死守せんがための議論だとの声が上がることになる。せっかくインターネットという新しい技術が消費者に多様な選択の機会を与えることを可能にしつつあるというのに、その機会を放送局の既得権益のために潰してしまうとはケシカランというわけだ。
 この辺りの問題については、いろいろと言いたいこともあるが、技術的には特定地域内においてのみIP放送を受信できるようにすることも不可能ではないようなので、結局のところ既存の放送免許の枠内でインターネット上での番組配信も進められていくことになるのではないかと思う。1980年代の地域情報化政策以降、総務省(郵政省)において地域からの情報発信の拡大ということは政策課題であり続けてきたし、その流れに逆行するような動き(東京を拠点とするキー局の全国制覇)をお役所が容認する可能性はそれほど高くないと考える。
 以上をまとめると、結局、たとえIP放送が本格的に行われるようになったとしても、放送局はコンテンツの川上から川下までしっかりと握り、現在の体制をそれなりに存続させていくのではないだろうか。
 ただし、現在の放送局の体制には大きな問題がある。それは、放送局と番組制作会社との関係である。近年、放送局自身が番組制作を行う割合は低下しており、多くの番組が外部のプロダクションによって制作されるようになっている。『黒革の手帳』などを制作した共同テレビジョンや、『世界ふしぎ発見』などを制作するテレビマンユニオンなどがそれにあたる。
 で、しばしば言われるのが、放送局の従業員が高給をむさぼっているのに対し、番組制作の現場で働く人びとは薄給で奴隷のようにこきつかわれている、ということだ。力関係としては、放送局のほうが圧倒的に強いため、そのような構図が生まれるわけだが、理由はそればかりではない。一般に「テレビ番組の制作」などと言うと、非常に華やかなイメージがあり、若い人にアピールしやすいために、働き手を捜すことは難しくない。つまり、この業界の労働市場は圧倒的に買い手市場であるために、放送局はそうした「クリエイター」をいくらでも使い捨てに出来るのである。
 無論、番組制作会社の側にはそのような放送局の横暴に対する恨みつらみが存在しているのであり、インターネット上で流すためのコンテンツを捜している通信事業者がここら辺をつついてみると、放送局を中抜きにする形で新たなコンテンツ流通の形態を生み出すことが出来るかもしれない・・・などとも思う。もっとも、放送局側はそのあたりに非常にセンシティブになっているだろうから、場合によっては番組制作会社に様々な圧力をかけることも予想される。
 以上、「放送と通信の融合」という、僕にしては珍しくビジネス的なトピックを取り上げてみた。が、これだけだらだら書いてきてなんだが、僕のするビジネス話なんてのは、トリノ・オリンピックになぞらえていえば、フィギアスケートの選手がスピードスケートについて語るようなものでしかないので、まあ、話半分ってところで聞いてもらえればと思う。
 それにしても、ニッポン勢、メダル取れませんなぁ。
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  by seutaro | 2006-02-22 01:31 | メディア

<ネタ>ちと休憩

ここしばらく、「放送と通信の融合」について書いてきたが、仕事が立て込んでいるので、ちと休憩。

最近見つけた面白いものにリンクだけ張っておこう。

ホロフォニクス
http://www.23net.tv/xfsection+article.articleid+69.htm

PCにヘッドフォンを接続して、上のサイトの真ん中あたりにある「ホロフォニクスで録音されたマッチ箱を振る音」や「ラッパの音」をクリックしてみよう。
いや~、世の中、奥が深いですなあ。
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  by seutaro | 2006-02-17 02:00 | ネタ

<メディア>「既得権益」としての放送局

 前回のエントリで予告したように、今回のテーマは「放送局の泣き所」である。
 放送局は自前の放送をインターネット上で流すことに対して後ろ向きであることが多い。その大きな要因の一つは、ネット上での配信に伴う著作権処理の難しさだ。要するに、番組を1つ作ると、さまざまな著作権者が生まれるわけだが、ネット上で配信する場合にはそれらの著作権を一括処理できないのだ(放送で流す場合には可能)。著作権データベースの整備も行われるようだが、まだまだ解決には時間がかかりそうな雰囲気である。
 しかし、著作権処理のほかに、放送局がインターネットでの配信を嫌がる理由があると言われる。その理由の1つは「水平分離」に対する放送局の警戒感である。現在のところ、放送局は番組の制作からその配信までの流れを管理している。ところが、「水平分離」とは、番組を作る事業者とそれを配信する事業者を分離することを意味する。
 この「水平分離」が行われている状態において、もし番組を制作する事業者とその配信を行う事業者との関係が悪化したならば、後者の事業者は自らのネットワークから前者により制作された番組を排除する可能性がある。そうした事態は実際にアメリカで発生しているのであり、そうなると番組制作を行う事業者は自らの番組を流通させるためのルートを失ってしまうことになる。そのため、放送局は業界の「水平分離」に対して強い警戒感を持っているのである。
 以上を踏まえて通信事業者と組んでインターネット上で番組を配信する場合を考えると、放送事業者は番組の伝送の部分については通信事業者に委ねざるをえない。そうなると、事実上の「水平分離」ということになってしまうのだ。従って、放送事業者は出来るだけ川下まで自分たち自身の手でやろうとするし、日テレやTBSによる自社のネット上での番組配信も放送事業者自らが番組の流通をコントロールをしようとしていることの表れであるように思われる。

・・・ってところまで書いて、眠くてしょうがないので、続きはまた今度zzzzzzzzzzz
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  by seutaro | 2006-02-15 01:19 | メディア

<メディア>大衆(マス)の底力

さて、今日は前回の訂正から。
 前回のエントリで、「チャンネルを適当にザッピングして、面白そうなものを見るというのがテレビ視聴」と書いたのだが、これは少々言い過ぎたようだ。というのも、藤竹暁編『図説 日本のマス・メディア』によれば、全体としてはまだまだ特定の番組を視聴することを目的としてテレビを見る人のほうが多数派なのだそうな。
 ただし、ザッピングによって適当にテレビを見る人は数年前の調査に比べて明らかに増加しており、特に若い層でその傾向が顕著である。このことからも、特定の情報コンテンツを入手するという目的ばかりでなく、単なる時間潰しの手段としてのテレビ視聴という性格は強まりこそすれ、弱まってないことがわかる。
 そして、そのような時間潰しの手段としては、現在のテレビ番組がそれなりに良く出来ていることは否定できない。無論、前回のエントリで挙げたような「情報強者」にすれば下らない番組のオンパレードということになるのかもしれないが、そういう「センスある」人びとが作った番組が多くの人に受けるかといえば、その可能性は限りなく低いように思う。
 実際、多くの層に受ける番組を作ることができる人材というのは、放送局およびその傘下にある制作会社に集中しているのが現状である。しかも、面白いコンテンツを作り続けるためには、それなり資本が必要となる。素人がいきなり入り込んでいったところでどうしようもないのが現状であろう。
 このようなことを言うと、「最近ではネット発のコンテンツが多くの人びとに受けているではないか」と言う人がいるかもしれない。しかし、たとえば「電車男」にしても、ストーリーだけを見ればただの凡庸な恋愛話にすぎない。それを万人受けするフォーマットに変換して、ヒット作に仕立て上げることができるのは、プロの手を経ているからに他ならない。付け加えると、いくらネット上で人気のコンテンツであっても、それがマス・メディアによって大きく取り上げられない限り、それはどこまでいってもマイナーなコンテンツに過ぎないのだ。
 以上のように、既存の放送番組というのはそれなりに良く出来ており、それらが急速に姿を消すということはちょっと考えにくい。特に人気番組ともなれば、そのコンテンツの魅力ばかりでなく、それが多くの人によって視聴されているという理由によって、さらなる求心力を発揮することができる。つまり、周囲の話題に乗り遅れないようにするためといった社交的な要因に基づく視聴が行われるようになるのである。こうした一種の集団的圧力に基づくテレビ視聴は、集団内での濃厚なコミュニケーションが重視される日本社会では、より頻繁に行われる可能性がある。
 このように大衆(マス)によるメディア消費というのは決して侮ることはできないのだが、「情報強者」の皆さんはこのあたりを妙に否定したがるのが面白いところだ。ただし、均質的な大衆が解体し、より多様な価値観や志向性をもった存在へと生まれ変わるといった話は、実は結構以前から存在している。1970年代以降の「脱産業社会論」や「情報化社会論」といった学問の系譜ではその手の話が盛んに語られたし、博報堂の生活総合研究所が大衆よりも多様な価値観やライフスタイルを有する人びとを「分衆」と読んだのは1985年のことだ。これらの議論では、発達する情報機器を通じて、人びとはより多様な情報に接するようになり、多様性に満ちた文化を育んでいく・・・といったことが語られた。こうした議論と、「インターネットによりマス・メディアが崩壊する」といった議論との共通点を見つけることは難しくない。
 けれども、ここで紹介したいのが、昔、サイエンスライターの鹿野司さんの「オールザット・ウルトラ科学」で紹介されていた「原田知世のファンであることがいかに大変なことか」という議論である。うろ覚えで申し訳ないのだが、当時、人気のあったアイドル(?)原田知世のファンを本気でやるためには、彼女の写真やグッズ、雑誌記事の収集から、出演した映画の小道具の入手、果ては映画にエキストラとして出演することなど、山のようになすべきことがあり、それ以外のアイドルに手を出すことなど不可能であったのだという。
 それに対し、時代をちょっと遡れば、人は同時に山口百恵と桜田淳子と森昌子のファンであることが出来た。つまり、ひとりのアイドルについて入手できる情報量が限られているがゆえに、より多くのアイドルの情報を集めることが出来たのだ。それに対し、情報量が増えるに従って、人は自らのエネルギーをより特化したトピックに向けざるをえなくなる(=オタク化する)。
 これだけ聞けば、先に挙げた情報化社会論の亜種のような議論だと思われるかもしれない。しかし、鹿野さんの話が面白いのは、そうした専門分化が進むほど、むしろ大ヒット作が出やすくなるという指摘を行っている点である。つまり、人は狭い殻に閉じこもることを恐れるがゆえに、自分の趣味を追及する一方で、とりあえず世の中で流行っていそうなものをチェックしておこうという気持ちになるというのだ。
 この考え方にすごくぴったり当てはまるのが、戦後日本のミリオンセラー・リストである。このリストから、1990年以降、日本ではミリオン・セラーが頻出していることがわかるだろう。(余談だが、箱根には新潮社が『バカの壁』の利益により建設した保養所、通称「バカハウス」が存在するのだという)。ここには、「よく売れてるみたいだから、とりあえず押さえておこう」的メンタリティが強く作用しているのを見ることができる。

戦後のミリオンセラー
 
 1945 『日米会話手帳』       誠文堂新光社編    誠文堂新光社
 1956 『人間の条件』(1~6)     五味川純平       三一書房
 1960 『性生活の知恵』       謝国権           池田書店 
 1961 『英語に強くなる本』〈カッパブックス〉 岩田一男         光文社
 1962 『徳川家康』(1~18)     山岡荘八          講談社
 1964 『愛と死をみつめて』     河野実・大島みち子     大和書房
 1965 『人間革命』(1)       池田大作        聖教新聞社
 1967 『頭の体操Ⅰ』〈カッパブックス〉  多湖輝            光文社
 1970 『冠婚葬祭入門』〈カッパホームズ〉 塩月弥栄子          光文社
  〃  『誰のために愛するか』    曾野綾子        青春出版社
 1971 『日本人とユダヤ人』     ベンダサン         山本書店
 1972 『恍惚の人』         有吉佐和子          新潮社
  〃  『HOW TO SEX』       奈良林祥      KKベストセラー
 1973 『日本沈没』(上・下)〈カッパノベルズ〉 小松左京        光文社
  〃  『にんにく健康法』      渡辺正           光文社
 1974 『ノストラダムスの大予言』  五島勉           祥伝社
  〃  『かもめのジョナサン』    バック            新潮社
 1975 『播磨灘物語』(上・中・下)    司馬遼太郎         講談社
  〃  『複合汚染』(上・下)      有吉佐和子        新潮社
 1976 『限りなく透明に近いブルー』 村上龍           講談社
 1977 『人間の証明』〈角川文庫〉   森村誠一         角川書店 
 1979 『算名占星学入門』〈プレイブックス〉 和泉宗章        青春出版社
  〃  『天中殺入門』        和泉宗章        青春出版社
 1980 『蒼い時』          山口百恵          集英社
 1981 『窓ぎわのトットちゃん』   黒柳徹子           講談社
 1982 『プロ野球を10倍楽しく見る方法』 江本孟紀    KKベストセラー
  〃  『悪魔の飽食』〈カッパノベルズ〉  森村誠一           光文社
  〃  『気くばりのすすめ』     鈴木健二           講談社
  〃  『積木くずし』        穂積隆信         桐原書店
 1983 『和田アキ子だ文句あっか!』 和田アキ子       日本文芸社
 1986 『スーパーマリオブラザーズ完全攻略本』ファミリーコンピュータマガジン編集部編  徳間書店
 1987 『サラダ記念日』       俵万智        河出書房新社
  〃  『塀の中の懲りない面々』   安部譲二         文藝春秋
    『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』 K・ウォード 新潮社
 1988 『ノルウェイの森』(上・下)   村上春樹         講談社
  〃  『こんなにヤセていいかしら』 川津裕介        青春出版社
  〃  『ゲームの達人』(上・下) S・シェルダン  アカデミー出版サービス
 1989 『TUGUMI』       吉本ばなな       中央公論社
  〃  『キッチン』         吉本ばなな        福武書店
  〃  『下天は夢か』(1~4)     津本陽      日本経済新聞社
  〃  『時間の砂』(上・下)   S・シェルダン   アカデミー出版サービス
  〃  『一杯のかけそば』      栗良平         栗っ子の会
 1990 『愛される理由』       二谷友里恵       朝日新聞社
  〃  『孔子』           井上靖           新潮社
 1991 『Santa Fe 宮沢りえ写真集』  篠山紀信撮影      朝日出版社
  〃  『もものかんづめ』      さくらももこ        集英社 
  〃  『真夜中は別の顔』(上・下) S・シェルダン アカデミー出版サービス
 1992 『さるのこしかけ』      さくらももこ         集英社 
 1993 『マディソン郡の橋』     R・J・ウォラー      文藝春秋
  〃  『磯野家の謎』        東京サザエさん学会    飛鳥新社
  〃  『たいのおかしら』      さくらももこ        集英社 
  〃  『ワイルド・スワン』(上・下)  ユン・チアン       講談社
 1994 『大往生』〈岩波新書〉     永六輔          岩波書店
  〃  『遺書』           松本人志        朝日新聞社
 1995 『松本』           松本人志        朝日新聞社
  〃  『ソフイーの世界』      ヨースタイン・ゴルデル  日本放送出版協会
  〃  『「超」勉強法』        野口悠紀雄          講談社
 1996 『脳内革命』(1・2)      春山茂雄      サンマーク出版
  〃  『猿岩石日記』(1・2)     猿岩石     日本テレビ放送網
  〃  『神々の指紋』(上・下)     グラハム・ハンコック   翔泳社
  〃  『弟』            石原慎太郎         幻冬舎
  〃  『創世の守護神』(上・下)    グラハム・ハンコック   翔泳社
 1997 『失楽園』(上・下)       渡辺淳一          講談社
  〃  『少年H』(上・下)       妹尾河童         講談社
  〃  『鉄道員(ぽっぽや)』     浅田次郎           集英社
 1998 『大河の一滴』        五木寛之           幻冬舎
  〃  『幸福の革命』        大川隆法      幸福の科学出版
  〃  『他人をほめる人、けなす人』 F・アルベローニ      草思社
  〃  『小さいことにくよくよするな!』 R・カールソン サンマーク出版
 1999 『五体不満足』        乙武洋匡           講談社
  〃  『日本語練習帳』       大野晋          岩波書店
  〃  『繁栄の法』         大川隆法      幸福の科学出版
  〃  『沈まぬ太陽』(1~5)     山崎豊子       新潮社
 2000 『ハリーポッターと賢者の石』 J.K.ローリング      静山社
  〃  『ハリーポッターと秘密の部屋』 J.K.ローリング     静山社
  〃  『経済のニュースが面白いほどわかる本・日本経済編』細野真宏 中経出版
  〃  『太陽の法』         大川隆法      幸福の科学出版
  〃  『「捨てる!」技術』      辰巳渚           宝島社
  〃  『話を聞かない男、地図が読めない女』 アラン・ピーズ 主婦の友社
  〃  『プラトニック・セックス』  飯島愛           小学舘
  〃  『だから、あなたも生きぬいて』 太平光代          講談社

 まとめれば、価値の多様化とマス・メディアのコンテンツに対するニーズというのは必ずしも背反しないのであり、大多数の人びとが視聴するコンテンツへの欲求というものは今後もそう簡単には消えてなくならないだろう。従って、マス・メディアが急速に規模を縮小し、みんなが個々の好みに合わせたコンテンツをばらばらに視聴するといった時代は、少なくとも当分はやって来ないように思う。
 しかし、それでは放送局は今後も絶対に安泰かといえば、必ずしもそうとは言えない。何というか泣き所というのはやはり存在しているのであり、次のエントリではそのあたりについて触れてみたいと思う。
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  by seutaro | 2006-02-14 01:54 | メディア

<メディア>放送と通信の融合?

 ライブドアによるニッポン放送買収の試みや、楽天によるTBSとの経営統合の試みにしても、キーワードの1つとなったのが「放送と通信の融合」だった。
 「放送と通信の融合」の定義については前回のエントリで触れておいたが、ブロードバンド化の進展に伴うインターネットでの動画配信の増大によって、通信が放送を飲み込むのではないかとの予測があちこちで語られるようになった。
 そういう前提のもと、放送業界に殴りこみをかけたのがホリエモンだった。彼は「インターネットが放送を殺す」とか何とか言って、そのプロセスを加速させるためにマスコミにM&Aを仕掛けた。
 けれども、冷静に考えて、そのような発言をしながらM&Aを仕掛けてくる相手に「はいそうですか」と大人しく買収される会社というものが存在するだろうか?自分の仕事のあり方を全否定しながらやってくる(しかも、自分の業界についての知識は殆どなさそうな)部外者が資本にものを言わせて買収を仕掛けてきた場合、自分の仕事にわずかなりともプライドを持っている人間なら普通は大きな反感を持つだろう。
 たとえば、最近、日本でも注目されることが多い2001年のAOLによるタイム・ワーナーの買収に際して、タイム・ワーナー側の役員や従業員の間には「マスコミについて何も知らない連中が我々をコントロールしている」との反感が強く存在したという。その結果、M&Aのメリットを生かすようなサービスを殆ど打ち出すことができず、結局のところ社内クーデターに近い形でAOL側の役員の多くは会社を追われることになる。
 さすがにホリエモンも途中で戦略のまずさに気付き、慌てて「win-win」とか言い出したが、時すでに遅しである。楽天にしても、そのあたりにはかなり気を使っていたはずだが、結局のところ経営統合の試みは失敗に終わっている。
 では、IT系の企業が全て放送業界に嫌われているのかといえば、必ずしもそんなことはない。むしろ、本当にうまくやる連中は、マスコミに露出することなく、裏で粛々とビジネスを進めているような気がする。たとえば、「インデックス」は携帯電話向けのコンテンツ制作を行っている会社だが、放送局とも良好な関係を築いてうまく融合ビジネスを進めている。
 結局、「放送と通信の融合」といっても、いくら技術のレベルでは融合可能だとは言っても、最終的に融合させることができるか否かは人間関係のレベルでの話になってくるのであり、そこら辺をうまく処理しないとなかなかうまくいかないのではないだろうか。無論、多くの人はそこら辺もわかっていて、僕がこの間出席した某シンポジウムでは通信系の人びとが放送系の人びとにかなり気を使っている様子を伺うことができた。
 とまあ、いろいろと書いてきたわけだが、上で書いたビジネス戦略上の問題を抜きにしても、僕は「放送と通信の融合」にかなり懐疑的である。無論、インターネット上での動画配信はそれなりには拡大していくだろう。けれども、それが今のテレビに完全に取って代わるかと言えば、おそらくそんなことはないだろうというのが僕の予測である。
 無論、HDDレコーダーの普及によるCMスキップの問題や、地上デジタル化に伴う地方局の財政問題など、放送業界にも問題山積であるし、地方局の1つや2つが近い将来に潰れることもあるかもしれない。けれども、放送コンテンツがすべてインターネット網状で配信され、IPによって数千万人が「紅白歌合戦」を視聴する未来はおそらく来ない。
 その大きな理由の1つは、数百万、数千万単位の人びとを相手に同一のコンテンツを流す場合、インターネットを経由するよりも、放送波を使ったほうがずっと効率的だということだ。そうしたコンテンツをインターネットで流すとなれば、マルチキャストみたいな技術を使ったとしても、トラフィックの増大は避けられないだろうし、サーバーの補強にもかなりのコストが必要となるだろう。しかも、マルチキャストの場合、受信者の属性を判別しずらいため、IP放送のウリである視聴者のニーズにあわせた広告の送信が難しくなる(事実、インターネット上で無料放送をやっているGyaoはマルチキャストを採用しない方針だそうだ)。従って、大多数を相手にした動画を流すのであれば、最初から放送波を使ったほうが手っ取り早いということになる。
 となると、結局、通信上での動画配信ってのはオンデマンド型が中心になる。好きな時に好きな番組や映画をダウンロードできるってやつだ。これはこれで非常に便利だと思う。さらに、NHKなんかが準備しているサーバー型放送では、番組にメタデータが付いているため、今見ているコンテンツに関連したコンテンツをすぐに呼び出すことができる(たとえば、相撲を見ている場合、今まさに対戦しようとしている力士同士の前回の取り組みをすぐに呼び出すことが可能)。
 これらのサービスは便利だし、実際に導入されれば、僕も利用してみたいと思う。けれども、それらの新サービスの競争相手はレンタルビデオ屋である。ちなみに、レンタルビデオの市場規模は500億円程度。放送市場全体ですら3~4兆円程度である。それに対し、通信のサービス市場規模は手元に正確な数字はないのだが、20兆前後だったかと思う。だとすれば、通信事業者が動画配信サービスに乗り出したところで、それ自体によって得られる収益はさほど大きくないと見るのが妥当だろう。
 それでは、なぜ通信事業者が「放送と通信の融合」に関心を持つのか。それは、結局、彼らが今、積極的に推進している高速データ通信の用途がほかにないからだ。WinnyのようなP2Pであれば、光ファイバーも大いに生きるところであるが、すっかりダーティーなイメージがついてしまったP2P技術を前面に打ち出すわけにはいかない。となると、結局、高速回線を必要とする動画配信が加入者を増やすための重要な方策になる。つまり、通信事業者は動画配信そのもので儲けるというよりも、あくまで加入者を増やすための一手段として動画配信を捉えているのだと思う(そして、そのことが通信事業者と放送事業者との溝を生んでいるような気がするが、この点については後述)。
 しかし、正直、そうしたオンデマンド型の番組配信に対するニーズというのはそれほどまでに大きいのだろうか。通信系のブログなんかを見ていると、ポッドキャスティングがどうだのこうだのと言って、今にもそうしたサービスが既存のテレビのビジネスモデルを崩壊させてしまいそうな勢いのことがしばしば書かれている。けれども、そうした人たちは、たいていは「情報強者」なので、情報の取捨選択に非常にシビアな人たちである。そうした人たちからすれば、万人受けする内容をだらだらと流しているテレビ番組の視聴など時間の無駄以外の何物でもなく、もっと先鋭的なコンテンツこそが必要なのだということになる。
 けれども、全体として見た場合、そうした人びとの割合は決して高くない。むしろ、多くの人びとにとってテレビとは「だらだら」見るためのメディアであり、わざわざデータベースから自分の見たい番組を検索してくるようなことを毎回するという作業は面倒この上ないのではないだろうか。言い換えれば、「自分がいま何をみたいのか」というニーズを明確に持っている場合のほうが稀であるように思われる。むしろ、チャンネルを適当にザッピングして、面白そうなものを見るというのがテレビ視聴の王道であり、これこそがテレビを「史上最強のメディア」たらしめているのである。
 というわけで、どうもオンデマンド型のテレビ視聴に対するニーズの存在は否定しないけれども、全体として見ればそうしたニーズはそれほど大きいわけではなく、既存のテレビは今後もその存在感をいかんなく発揮していくというのが僕の見通しである。
 いい加減長くなってきたので、ここらで終わるが、次回は今回書けなかったポイントについて述べることにしよう。
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  by seutaro | 2006-02-13 01:51 | メディア

<メディア>今さらながらホリエモンについて語ってみる

 もうあらゆるマスコミやブログで語りつくされているホリエモン。もうホリエモンの話はお腹いっぱいという人も多いだろうが、今さらながらにホリエモンについて語ってみたいと思う。
 僕がホリエモンの存在を強烈に意識したのは、やはりライブドアによるニッポン放送の買収工作だった。仕事がら「放送と通信の融合」にはそれなりに興味があり、関連するニュースをさかんにチェックしていたように思う。
 ライブドアとフジテレビの対決ということで言えば、僕はフジテレビ自体があまり好きではないので、最初はライブドアに肩入れしてニュースを見ていた。ホリエモンとは年が近いこともあって、世代間闘争という観点からもホリエモンに親近感を持っていた。 
 けれども、ニュースを追いかけていくうち、彼のメディア観にはどうにも納得できないものを感じるようになった。よく言われるように、彼は既存の「ジャーナリズム」なるものを根本的に否定していたわけであるが、その代替物に関する彼のビジョンの貧弱さは否定しようがなかった。事実、彼のメディア観に沿って出てきたのが、ライブドアPJなるものであるが、その惨状は方々で指摘される通りである。
 そして、僕がホリエモンのやり方について根本的な疑問を持ったのは、彼が衆議院議員に立候補したときであった。無論、ビジネスを進めていくうえで、この国の政治のあり方に根本的な疑問を持ち、そこから立候補を決意するというのであれば、何の問題もない。ただ、彼は立候補に際して、議員に当選したとしても会社経営は続けると明言した。この点において、僕は彼のビジネス観・政治観は根本的に誤っていると思った。
 彼はたしか、時間を効率的に使えば、二足のわらじを履くことは不可能ではないとか何とか言っていたように思う。しかし、もし時間を有効に使って、常人よりも短い時間で仕事が出来るのだとすれば、その余力をもビジネスまたは政治活動に注ぐべきではないのか。会社経営にせよ、政治家にしろ、他の人間の生活に大きな影響を及ぼす仕事である。そうした仕事を行う者には、全身全霊をそれに注ぐことが責務として求められるのであるし、それゆえの高給なのだと僕は思う。 
 無論、彼の衆院選の立候補は、ライブドアの知名度をさらに押し上げるための方策に過ぎなかったと見ることはできるだろう。だとすれば、それは選挙民に対する愚弄以外の何物でもなく、選挙という国政の重要な過程を会社のPR活動として利用したことになる。
 以上のことから、昨年の夏以降、僕はホリエモンの活動に対して極めて批判的であった。今回の騒動についても、僕は全然同情なんぞしていない。最近では、インサイダー取引の疑惑も持ち上がっているが、さもありなんといった感じである。

 というのが、今回の話の前置き(笑)である。そろそろ本題に入るわけであるが、今回の主要なテーマ。それは「放送と通信の融合」である。「融合」については、ホリエモンによるニッポン放送買収劇で多くの注目を集めるようになった。ただし、この「融合」自体は、結構昔から言われ続けていたことで、おそらく1980年代にまで遡ることが出来るはずだ。
 とはいえ、1980年代の「融合」がキャプテン・システムのようなぱっとしない技術を前提に論じられていたのに対し、現在の「融合」は3G携帯電話やブロードバンドのような高度な情報技術のおかげでかなりの現実味を帯びているとも言いうる。
 ここで、そもそも「融合」とは何を意味するのかという点について触れておこう。人によって定義がしばしば異なるため、議論がややこしくなることが多いのだが、ここでは単純に「通信ネットワークによって放送サービスを提供すること」及び「双方向的な放送サービスの実現」ということにしておく。前者の例を挙げれば、放送局や通信事業者によるネットワーク上での番組配信などがあるし、後者の例でいえば民放などが計画しているワンセグ放送とオンライン・ショッピングを組み合わせたサービス(現在のテレビ・ショッピングをより効率化したもの)なんかがある。
 話をホリエモンに戻せば、彼はおそらくライブドアのポータルサイトで放送用コンテンツの配信をやりたかったのだろうし、それとオンライン・ショッピングのサービスを組み合わせることも当然考えていただろう。
 けれども、僕はこの「放送と通信の融合」の実現可能性ということに関して、結構懐疑的である。とりわけ、ライブドアや楽天のやり方では、その小さな可能性をさらに小さくしているように思う。それはなぜか、というところで、続きは次回ということにしよう。
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  by seutaro | 2006-02-10 01:58 | メディア

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