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<政治・社会>劇場としての法廷

 さて、今日はとりわけ重い話を。
 麻原彰晃こと松本智津夫被告の控訴が棄却され、死刑となる公算が高まっている。麻原被告は、かつて「法廷は劇場だ」などと述べたらしいが、少なくともこの点に関しては彼は「真実」を述べたのだと思う。この法廷はまさに劇場だったのだろう。多少の筋書きの変更はあろうとも、結果は最初から麻原被告の死刑ということで決まっていた。
 この裁判のなかでも重要な争点の一つとなったのが、麻原被告が果たして裁判に耐えうる精神状態を維持しているのかということであった。裁判所は、検察側の精神鑑定結果を採用し、麻原の不可解な言動は「詐病」によるものであり、訴訟能力ありとの見解を取った。しかし、弁護側が実施した精神鑑定によれば彼はもはや精神喪失状態にあるのだという。
 テレビなどでは、より詳細な鑑定を行えるがゆえに検察側の精神鑑定のほうがより信頼性があるというようなことが述べられている。無論、僕はそのいずれが正しいのかを判断する立場にはない。けれども、検察側の「精神鑑定」もまた、最初から結果の決められた、つまり「麻原には訴訟能力がある」ということを前提に行われたものではないのかという疑念を拭い去ることができない。この点について、オウム報道に深く関わってきた森達也氏の著書から、長くはなるが引用をしておきたい(森達也『世界が完全に思考停止する前に』、pp.106-108)。

法廷内の視線は、すべて彼(麻原被告:引用者)に集中した。刑務官の誘導されて被告席に腰を下ろしてからも、麻原は子供のように落ち着かない。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいている。
 その表情に、ふいに笑みがにっこりと浮かんだ。まさしく破顔一笑だ。でも次の瞬間には、再び苦々しそうな表情に戻っていた。笑みの時間は一秒あまり。頭を掻き、唇を尖らせ、何かをもごもごとつぶやいてから笑うという一連の動作を、麻原は再び繰り返している。律儀とでも形容したくなるぐらいに正確な反復だ。
(中略)
 同じ動作の反復は、統合失調症など精神的な障害が重度になったときに現れる症状の一つだ。麻原の一連の動作に、周囲との同調や連関はまったくない。つまり、彼は自分だけの世界に閉じている。俗な表現を使えば、「壊れている」ことは明らかだった。
(中略)
「彼の今の状態を詐病だという人もいるようだけど、Sさん(共同通信記者。原著では実名で記載されているが匿名とした:引用者)はどう思う?」
「…僕にはそう思えません。」
少しの間を置いてから、Sはそう答える。口調に苦渋が滲んでいた。
 午前と午後の法廷で、麻原のズボンが変わっていたことが何度かあるんですよと教えてくれたのは、裁判所の廊下ですれ違った旧知の記者だった。東京拘置所職員に知り合いがいる雑誌記者に、麻原の入浴は数人がかりで、服を脱がせてホースで水をかけながらモップで洗うという話も聞いたことがある。
 何よりも麻原は、もうまるまる五年間(2004年当時:引用者)、誰とも口を利いていない。仮にもしこれが演技なら、それこそ怪物だ。

 思えば、地下鉄サリン事件以降、オウムに対しては法を逸脱した処遇がなされてきた。オウム信者の前で刑事が勝手に転び、それによって信者を「公務執行妨害」で逮捕するなどといった手法はよく知られているところであるが、それ以外でも通常ではありえないような微罪での逮捕が相次いだ。マス・メディアは逮捕の事実は報道しても、その逮捕が結局は不起訴に終わったことはほとんど報じていない。こうしたことを考えれば、最初から「精神鑑定」の結果が決まっていたとしても何も不思議ではない。
 しかし、麻原被告を死刑にするとの決断は、個々の裁判官や検察官によって下されたものではないように思う。むしろ、そうした個々の判断や法律の次元をはるかに超えた社会的圧力によってあらかじめ下されていたのであり、裁判所はそのような無言の圧力に応じたに過ぎないのではないだろうか。たとえ麻原被告の精神が崩壊していようとも、彼の肉体を滅ぼすことは社会秩序を維持するために絶対的に必要な「儀式」として位置づけられているのではないだろうか。
 そして、少なくとも今の僕には、その是非を論じる能力はない。森氏の記述が正しいとすれば、麻原被告やその他のオウム信者への処遇は、確かに法治国家としての日本のあり方に深刻な疑問を投げかけている。しかし、傍観者が安易に犠牲者や当事者と「一体化」を行うことの危険性を承知しつつも、12人もの死者を出し、今なお多くの人々がその後遺症に苦しんでいる地下鉄サリン事件や、その他のオウム関連の殺人事件を思えば、オウム真理教が断罪されねばならないことは明白である。とりわけ、その主宰者たる麻原被告が重大な責を負わねばならないことは否定しえない。従って、他の弟子たちに死刑判決が下るなか、麻原被告だけが精神状態を理由に免罪されるということを容認するのは極めて困難であろう。
 ただ、もし麻原被告が本当に「壊れている」のだとすれば、森氏が言うように、もっと早い時期から治療を受けさせ、正気を保たせたまま裁判に向かい合わせるべきであったのだろう。完全に壊れた彼を処刑したとしても、そこには謝罪も、反省も、悔恨も、あるいは怨嗟や呪詛すらも存在しない。それは単に、魂の抜けた器を破壊するだけの作業にすぎないのである。
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  by seutaro | 2006-03-30 23:49 | 政治・社会

<ネタ>憂鬱な未来

さっき書いたエントリから着想を得て、ちょっと憂鬱な未来を描いてみた。まあ、こんなことにはならないだろうけれども。

2007年 FTTH世帯普及率 14%
一部の保育・幼稚園、私立小学校において遠隔モニタリングシステムの導入が始まる。

2008年 FTTH世帯普及率 19%
少子化に伴う競争の激化により、私立小学校での遠隔モニタリングシステムの導入がひろがる。
クレーム処理、常時監視下に置かれることの精神的プレッシャーから、保育士、教師の精神疾患や自殺が微増。

2009年 FTTH世帯普及率 26%
X市の公立小学校において、4年生の男子が同級生を刺殺。公立小学校においても遠隔モニタリングシステムを導入せよとの声が高まる。
衆議院選挙を控え、すべての公立小学校・中学校での遠隔モニタリングシステム導入を自民党、公明党、民主党がマニフェストに掲げる。

2011年 FTTH世帯普及率 36%
日教組等の反対運動にもかかわらず、「教育監視法」が与野党の賛成多数で可決。すべての公立小学校・中学校での遠隔モニタリングシステム導入が決定される。
学校に敷設される光ファイバーに関してのみ、NTTの保有する光ファイバーを他の事業者に開放する義務が課せられる。

2014年 FTTH世帯普及率 45%
保育士および教員の自殺が社会問題化。新卒学生の教員志望者が激減。
国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が、遠隔モニタリングシステム廃止を日本政府に勧告。

2017年 FTTH世帯普及率 49%
教員不足の深刻化。
△市の公立小学校において3年生女子が同級生の首を絞めて殺害。遠隔モニタリングシステムの実効性に疑問の声。

2018年 FTTH世帯普及率 50%
与野党の賛成多数により、「教育監視法」が一部修正され、モニタリング時間の上限が1日2時間までと設定される。
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  by seutaro | 2006-03-29 01:49 | ネタ

<メディア>遠隔モニタリングシステム

 NTTの「遠隔モニタリングシステム」のCMを見て思ったことであるが…

NTT東日本 光で、安心を、もっと。

 これ、なんつうか、ウルトラ監視社会ですなぁ。
 こんなシステムが導入されれば、教える側に精神を病む人が続出すること間違いなし。なにせ、業務の全てが監視されているわけだし、うかうかトイレにも行けやしない。
 このCMに出てくるみたいな「理解のある親」だけで世の中が構成されていればいいんだろうけど、実際はそんなわけもなく、保育士や教員はクレーム処理に忙殺されることになるだろう。しかも、世の中には変なのもいっぱいいるわけであるし、このCMに出てくるような可愛い保母さんなら、かなりの確率でストーキングの道具にされるだろうね。
 FTTHを普及させたいのはわかるのだが、教育システムを崩壊に追い込みかねないメディアの使い方を安易に宣伝するのはいかがなものだろうか。>NTT
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  by seutaro | 2006-03-29 00:39 | メディア

<政治・社会>日本人であることの誇り

 以前、同僚にさる「経済学者」がいた。彼は、会社での仕事に自分の専門的な知識を生かせないことに非常に腹を立てており、いつも職場への不満を漏らしていた。まあ、その点については、僕も同じなのであるが、彼が興味深いのは、自らの経済学の知識を誇るがゆえに、他の社会科学、とりわけ社会学に対して非常に激しい憎悪を抱いていた点である。彼によれば、社会学などを専攻している連中は、数学ができないために経済学を専攻することができなかったからだ、ということになるらしい。そして、この職場ではそうした社会学を専攻する数学のできない連中がのさばっているために、経済学の方法論が軽視されてしまっているのだという。
 社会学を専攻している人たちからすれば、数学ができないから経済学ではなく社会学を学んでいるなどと言われると「はぁ?」としか言いようがないだろう。しかし、この「経済学者」の発想は、ある種のアイデンティティ形成の典型的なあり方だと言うこともできる。アイデンティティとは、石川准氏風に言えば、「自分は他の人間とは異なる、特別な存在だ」という一種の思い込みである。このアイデンティティを維持するため指標にはさまざまなものがあるが、典型的なものとしては学歴がある。「○○大学出身である」というのはアイデンティティの維持にとってしばしば重要な位置を占めることになる。
 ただし、この際に重要になるのは、アイデンティティというのは他者との比較によってしか維持されえないということである。「○○大学出身」がアイデンティティの源泉になるということは、それよりも偏差値や格の点で劣る「××大学出身者」が存在するという点で初めて成り立つのだ。ここで、先の「経済学者」の話に戻れば、彼は職場で自らの不遇を感じており、アイデンティティの危機に晒されていた。そこで、彼が自らのアイデンティティを維持するために持ち出してきたのが、社会学に対する経済学の優位性である。つまり、彼は社会学を見下すことで、経済学の価値を高め、したがってそれを専攻する自分自身の価値を(彼自身のなかで)高めていたわけだ。
 ここでもうひとつ重要なのは、「経済学者」という彼のアイデンティティの維持に必要とされたのが、学歴でも容姿でもなく、社会学という他の社会科学の一分野だったという点である。当たり前のことであるが、学歴にとって重要なのが大学間の比較であるのと同様に、「経済学者」というアイデンティティに固執するのであれば、それと比較されるのは他の学問分野でなくてはならない(念のために言っておくが、世の経済学者の方々の大半は、社会学を見下すような形でのアイデンティティ形成を行っているわけではない、と思う)。
 以上の点を踏まえて、今日の主題にようやく入る。それは、「ナショナル・アイデンティティ」の問題である。ここで言うナショナル・アイデンティティとは、「自分は日本人である」という自己認識のことを意味する。このナショナル・アイデンティティというのは、通常、普通に日常生活を送っている際にはあまり意識されないことが多い。というのも、一人の人間はさまざまな種類のアイデンティティの束を抱えており、どのアイデンティティが顕在化するのかは、その人が置かれた状況に強く左右されるからだ。たとえば、僕が若い日本人女性と話しているときに「ああ、僕はやっぱり日本人なんだなぁ」と思うことはあまりない。むしろ、そういう場合に顕在化しやすいのは、僕が三十路を過ぎた男性だというアイデンティティである。
 では、ナショナル・アイデンティティがもっとも発露しやすいのはどのような状況であるかといえば、それは「日本人ではない」存在と直接的または間接的に接したときである。間接的に接するというのは、たとえばワールド・ベースボール・クラシックなどの外国との試合をテレビで見る場合などがそれにあたる。したがって、日本のプロ野球を見ているときに、「ああ、日本人って凄いっ」などと思う人は少数派で、むしろ「虎ファン」や「アンチ巨人」といったアイデンティティを顕在化させている人が多いと思われる。
 ここから、海外に留学または仕事で滞在すると熱烈なナショナリストになって帰ってくる人が多いということが説明できる。海外では、「自分は日本人である」ということを常に意識されられ続ける。そのため、「日本人であること」に非常に重きを置く人が増えることになる。とりわけ、海外で不愉快な目にあった人は、そうなる傾向が強い。
 ところで、最近では、このナショナル・アイデンティティを教育現場で教える必要性が盛んに論じられている。要するに、「日本人であることの誇り」を叩き込んで、「愛国心」にあふれた人材を育成しよう、というわけだ。確かに、中学時代や高校時代というのは、アイデンティティが非常に不安定で、自分に自信を持つためのなんらかの指標が切に求められる時期である。それは、自我が発達してきたがゆえに、他の人とは違う「自分だけのなにか」が必要とされるようになるからである。そこで、多くの若者は、学力や運動能力、または容姿などを磨くことで、自分のアイデンティティを確立しようとする。しかし、このアイデンティティ形成に失敗すると、自分よりも劣る存在を見出すことで、相対的に自分の地位を高めようとする衝動が生まれることになる。無職の若者がホームレスを襲ったりするのは、そうしたメカニズムの典型的な発露である。
 では、こうした不安定なアイデンティティの確立に「日本人としての誇り」というのは役に立つのだろうか。残念ながら、その確率はあまり高くないように思う。それは、結局、これまで述べてきたように、ナショナル・アイデンティティがもっとも顕在化するのは、「日本人ではない」存在と接触する場合だからである。したがって、周りが日本人ばかりの日本の中学や高校では、「日本人」であることはアイデンティティの確立には役に立たない。差異化の指標にはなりえないからだ。
 しかし、それでも「日本人としての誇り」によってアイデンティティを維持しようとするならば、「日本人ではない」存在や、「日本人らしくない」存在を叩くことが必要になる。つまり、在日や韓国人、中国人、あるいはそれらの人々に「媚びている」反日文化人や『朝日新聞』を叩くことで、自分の存在価値を相対的に確かめることになるわけだ。嫌韓サイトなどを見るたびに、「そんなに嫌いなら放っておけばいいのに」とも思うわけであるが、大嫌いな韓国や中国の情報を必死で集め、わざわざサイトまで立ち上げるという行動を支えているのは、結局のところ、それによって自らのアイデンティティを確立したいという衝動なのだと思われる。
 けれども、そういった形でのアイデンティティ形成が健全なものだとは僕にはとても思えない。「日本人であること」を自己アイデンティティを維持するための核に据えるならば、他の国籍を持っている人を相対的に見下げるしかない。ろくろく会ったことも話したこともない人びとに対して強い優越感を持つというのは、どうがんばってみても精神的退廃である。
 無論、僕は「日本人であること」を否定しているわけではない。海外に行けば、僕もやはり「自分が日本人だ」ということを強く意識させられる。けれども、「日本人であること」によって自分を卑下することが誤っているのと同様に、それによって自分がなにかしら偉くなったかのような観念を抱くとすれば、それは錯覚でしかない。イチローがいかに偉大なバッターであったとしても、彼自身がなんと言おうとも、それは彼自身と彼を取り巻く人々の努力の結果なのであり、それ以外の誰にも帰属しないのだ。まあ、よくあるお国自慢というのは、それほど害があるとも思わないのだが、それを自己アイデンティティの中核に据えてしまうというのは、やはり問題であろう。国籍というのは、結局のところ、数ある属性のうちのひとつにしか過ぎないのだ。
 長くなってしまったのでそろそろ終わるが、まともなアイデンティティの確立していくためには、他者を見下すのではなく、自分で自分の価値を高めていくしかない。勉強やスポーツ、仕事などで地道に努力を積み重ねていくしかないのだ。もっとも、「日本人であることの誇り」を植えつけようというのは、そうした努力ができず、自分自身に自信を持つことができない層の自我を安定させてあげようという、政治家や文部科学省、あるいは保守系文化人あたりのありがた~いご配慮の賜物である可能性も否定できないのだが。 
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  by seutaro | 2006-03-26 07:26 | 政治・社会

<日常>ホワイトデー

 そう、昨日はホワイトデーだったのだ。
 会社の同僚からそのことを聞くまですっかり忘れていた僕は、いつもよりちょっとだけ早く会社を出て、新宿に向かった。途中、電車のなかで周囲の人を見ていると、いかにも洋菓子店の紙袋を下げたサラリーマンの姿が目立つ。
 そして、閉店間際の京王百貨店に飛び込んだわけだが、おそらくデパートの食品売り場がこれほどまでにスーツ姿のサラリーマンで埋めつくされる日は他にないだろうと思われるほど、サラリーマンの姿が目立つ。そして、売り子の側もここぞとばかりに試食のお菓子を配っている。
 思えばこのホワイトデー、お菓子屋の陰謀としか思えない行事なのであるが、それでも少なからぬ人びとに受け入れられているようだ。しかし、3月14日にチョコを購入するお父さん方にホワイトデーの意味について聞けば、やっぱり同じように「お菓子屋の陰謀」であるとの返事が返ってきそうである。要するに、3月14日に何らかの宗教的な意味を見出している人など皆無に近いだろうし、バレンタインデーにしても同様であろう。
 にもかかわらず、こうした行事が成立しているということは、結局のところ、人びとが行事に参加するのは、その行事の意味に個々人が納得しているというよりも、「自分以外の人びとはその行事を受け入れている」という認識を個々人が有しているからに他ならない。だから、バレンタインデーやホワイトデーなんて面倒臭いと考えている人が実際には多数存在していたとしても、それらの行事は存続していくのである。
 こういう現象は「多元的無知」と呼ばれる。つまり、ある価値観や規範に大多数の人びとはが納得していなかったとしても、彼らが他方において「他の人びとはそれらの価値観や規範を受け入れているのだ」という認識を有している限りにおいて、それらの価値観や規範は表面的に存続し続けるわけだ。従って、バレンタインデーやホワイトデーについての不満が本格的に表面化しるようになれば、「多元的無知」の状態が崩れ、これらの行事が廃れていく要因になりうるのである。
 などと、いろいろと御託を並べてはみたものの、実際にデパートでお菓子を買っていくサラリーマンの顔が「お菓子屋の陰謀」に対する怒りで満ちているかと言えば、そんなことはない。結局、バレンタインデーにせよ、ホワイトデーにせよ、人びとがそれを受け入れる素地があったがゆえに、受け入れられたのであり、普段は贈り物など恥ずかしくてできない日本のお父さんたちが大手を振ってデパートの食品売り場を歩き、家族にお土産を買うための口実を提供しているという点において、ホワイトデーの存在意義はあるのではないだろうか。
 というわけで、僕もゴディバのチョコレートを片手に昨日は家路についたのである。
 
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  by seutaro | 2006-03-15 02:21 | 日常

<日常>才能の残酷

 政治や社会に関しては首をかしげることが少なくないウチダ先生のブログだが、文学に関する文章の切れ味はさすがである。

内田樹の研究室(村上春樹恐怖症)
内田樹の研究室(詩人と批評家)

 これらの文章を読んでいて、改めて痛感させられるのは才能というものの残酷さである。なぜ才能が残酷なのかといえば、結局のところ、それが事後的にしか分からないということに起因するように思う。
 たとえ一時、才能があるともてはやされたとしても、あっという間に忘れ去られてしまうこともある。また、存命中は人びとから見向きもされなかったにもかかわらず、死んだ後に「早すぎた天才」として評価されることもある。だから、才能の有無を判断することは、自分自身にとってすら困難なのである。
 とりわけ、ウチダ先生のブログで取り上げられているような「作家としての才能」などは、その有無を判断することは極めて難しい。たとえば、野球のようなスポーツであれば、僕がいくら努力したところでイチローや松井のようにはなれないことを悟ることは容易である。ところが、文筆業の場合、才能の形が眼に見えにくいがゆえに、往々にして自分の才能を見誤ってしまう。
 もちろん、たとえ自分の才能を見誤ったとしても、才能の無さに気付いた時点で引き返せばよい。ところが、才能がさらに残酷なのは、それを発揮するためには自分自身に対する「根拠なき自信」が不可欠だという点にある。この「根拠なき自信」を欠き、自分自身を信じられない者は、早々に退場するか、退場しないにしても歪んだ劣等感を持ってその道に留まらざるをえない(そういう人々は僕も何人か見てきた)。稀有な才能を真に発揮するためには、「自分に才能があるか否か」を常に自問するような方法では不可能なのであり、自らの才能がいつか開花し、それが世間に認められることを盲信し続けねばならない。
 ウチダ先生のブログで取り上げられている安原氏は、編集や批評では卓越した才を有していたのだろう。けれども、作家と日常的に関わるという編集という業務に就いていたがゆえに、彼は自分自身の心のベクトルを編集や批評ではなく、「作家」という方向に向けてしまった。これが、氏にとっての最大の不幸だったのだろう。彼は自分自身に対して「根拠なき自信」を持てるほど厚顔無恥ではなかったがゆえに、村上春樹という世界的な作家に対して劣等感を抱き続け、そのことが村上の自筆原稿を古本屋に売却するという暴挙につながったのではないだろうか。
 しかし、「根拠なき自信」を持ったからといって、上述のように才能の有無は事後的にしか判断できない。仮に才能があり、運にも恵まれたとするならば、その人物の自己評価と外部評価とはそれほどの乖離を生じさせないだろう。しかし、才能を持たないのに「根拠なき自信」を持ってしまった人物は悲惨である。結局、自分が認められないことを、(水準の低い)世間のせいにしながら生きていかざるをえないからだ。
 さて、作家ほどシビアではないものの、一応は文章を書くことを生業の一部としている僕は、30年後か40年後に人生を振り返ったとき、自分自身の才能にどのような評価を下すのであろうか。
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  by seutaro | 2006-03-14 02:15 | 日常

<政治・社会>量的緩和解除

 今日も前回のエントリの続き・・・のつもりだったのだが、なんかうまく言いたいことが書けなかったので、延期。
 というわけで、巷で話題の量的緩和の解除について。といっても、僕に何かコメントをする能力があるわけでもない。1月の消費者物価指数(CPI)が0.5%の上昇だったということが大きく作用したようだが、僕の貧弱な経済学の知識によれば、CPIには技術革新等でバイアスがかかるので、1%ぐらい上昇しないとデフレを脱したとは言えないというように言われていたと思うのだが…。
 まあ、とりあえずゼロ金利は当面は維持される見込みだが、夏以降には引き上げが行われる可能性もあるようだ。日銀は前に一度、大失敗をしているわけであるし、再びデフレが悪化しないことを祈るのみである。
 正直、今回はめずらしく小泉&竹中ペアを応援していたので、残念な結果だという気もする。

(追記)
あとで調べると、CPIのバイアスをどのように捉えるのかは結構、意見が分かれるようだ。ただ、依然としてデフレなのではないかという声は根強い。たとえば、このサイトなどが参考になる。
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  by seutaro | 2006-03-10 02:24 | 政治・社会

<政治・社会>ポジショニングの問題

 さて、堅苦しい話にまた戻る。
 前々回のエントリで、ポストコロニアルの話の途中では、眠たくなって挫折してしまった。ともあれ、前々回の要点は、ポストコロニアル的な思想が、「国民」というカテゴリーから排除されたマイノリティの人々に目を向けたということだった。日本の文脈で言えば、ポストコロニアル的なスタンスに立つ研究者は、沖縄やアイヌ、在日韓国・朝鮮人の存在に注目する傾向が強かったように思う。
 さらに、このような視点から歴史を眺めることによって「発見」されたのが「従軍慰安婦」であった。近代化論の洗礼を受けたのち、ポストコロニアル的な観点から日本の社会科学のあり方を省察した石田雄の記述は、このような「従軍慰安婦」の発見がどのようなものであったのかを教えてくれる(石田雄『社会科学再考』 、p.134)。
学徒出陣によって従軍し、敗戦を陸軍少尉としてむかえた私としては、「従軍慰安婦」の存在については当時から十分に知っていた。それにもかかわらず、敗戦によってアイデンティティの危機に直面した軍国青年として、何が戦争中間違っていたかを反省する動機から社会科学の研究に志した私としては、半世紀近くもこの深刻な問題を社会科学的に究明する責任を果たしていなかった点を深く恥じなければならない。この反省が、おくればせながらジェンダー研究に私の関心を向かわせることになった。その際に私の眼の前につきつけられた現実は、性差別と民族差別の二重の被害者としての「従軍慰安婦」であった。
 石田のように実際に従軍体験があったならば、「従軍慰安婦」というある意味において究極のマイノリティを直接視野に入れた研究を行うことも可能だったかもしれない。しかし、そうではない僕にとって、このようなマイノリティの側に素直に寄り添う研究に対しては、どうしても違和感が拭いきれなかった。というのも、僕は結局のところ、どこまで行っても日本社会ではマジョリティの男性なのであって、差別や抑圧などとは程遠い存在でしかないからだ。そんな僕がマイノリティのための言説を発することの「白々しさ」に僕は耐えることができなかった。それはまるで、マジョリティとマイノリティの間に何かの「膜」があって、その膜の向こう側に一歩でも足を踏み入れたなら、僕の言葉が全て胡散臭くなってしまうような、そんな感覚だった。
 こうした僕の感覚というのは、おそらく連合赤軍で見られた「自己批判」に通底するものがあるように思う。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』で述べられているように、連合赤軍の総括では、際限なき自己批判が行われ、それがリンチなどの悲劇を生むことになった。要するに、彼らは基本的には大学にまで進学し、なおかつ理論武装するほどの経済的余裕をもった学生だったのであり、彼らが救済を目指す貧困層とは程遠い存在であった。従って、真の革命的闘士たるには、自らの内なる「ブルジョワ性」を自己批判によって克服する必要がある、ということになったわけだ。
 そして、これと類似した問いというのは、ポスト・コロニアルの思想にも付きまとっている。つまり、知識人が発言する機会を奪われてきたマイノリティの代わりに代弁することが本当に可能なのか、いかなる資格において代弁することが出来るのか、という問いである。とりわけ、人類学の分野では、こうした代弁者としての人類学者のポジショニングが様々な形で論じられるようになった。
 このように、僕が先程述べた「膜」の問題は、マジョリティに属する研究者や知識人が、マイノリティの問題を扱う際にしばしば発生する。連合赤軍は、そのような膜の問題を自己批判によって乗り越えようとしたのである。
 けれども、僕は、そうしたポジショニングの問題については、深く考えないことにした。つまり、最初からマイノリティの側に立って何かを書いたり、言ったりすることを放棄したのだ。そうしなければ、自分が書いたことを自分で信じられなくなる、と僕は思った。僕はマジョリティとしての自分の存在を否定するよりも、それを素直に受け入れる方向性を選んだのだ。
 ただし、それはマジョリティさえ良ければそれで良く、マジョリティマイノリティがどうなろうと知ったことではないといった発想に落ち着くということを意味しない。次回のエントリでは、この点について、詳しく述べることにしたい。
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  by seutaro | 2006-03-09 02:22 | 政治・社会

<政治・社会>がんばれ!公務員

b0038577_2105940.jpg 異様にハードな話題が続いているので、今日はちょっとお休みしてもうちっと世俗の話を。
 最近、公務員の人件費削減だとか、公務員官舎の整理だとか、公務員の方々には厳しい流れが出来ている。けれども、ここ最近のマスコミ等による公務員バッシングはいくらなんでも度が過ぎているのではないだろうか。
 たとえば、やや古い本だが、林雄介『霞ヶ関の掟 官僚の舞台裏』などを読むと、国家公務員、とりわけキャリア官僚の労働条件は滅茶苦茶である*1。連日、午前3~4時ぐらいまでの残業をこなしており、元キャリア官僚だったこの本の著者も月に220時間の残業をこなしていたという。残業代もろくにつかないため、計算すると自給220円!だったそうな。ここまで酷い労働を強いる職場は民間でも稀だろう。

*1 なお、この本の巻末についてある官僚大辞典はネットでも読める。なかなか面白いので、おすすめである。

 実際、このブログでも、霞ヶ関の明かりが明け方まで消えない様子が述べれられている。このような苛酷な労働を強いられる公務員のなかには、自殺する人も多く、国家公務員の死因の第2位は自殺なのだそうな。また、ノイローゼになったり、家族を省みる余裕がないために家庭崩壊に至るケースも多いそうだ。
 無論、公務員全てがそのような労働状態にあるというわけではなくて、特に地方の役所にはのんびりした人が多そうである。従って、制度改革を行うにしても、「公務員」と一律に論じるのではなくて、職場の状況を入念にチェックした上で実施していく必要があるだろう。単に「安定しているから」だとか、「いい官舎に住んでいるから」などといって安易な官僚バッシングを続けていると、優秀な人材が集まらなくなる危険性が高い。
 なんだか公務員の回し者のようなエントリを書いてしまったが、なんというか、最近の政策動向を見ていると、さすがに気の毒になってくる。キャリア官僚の人員削減なんかしたところで、たいして人件費が削れるわけでもないだろうに・・・。
 というわけで、がんばれ、公務員!
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  by seutaro | 2006-03-08 02:31 | 政治・社会

<政治・社会>ポスト・コロニアリズムの限界

 前回のエントリでは、1980年代から1990年代にかけて、国民国家批判が高まってきたことを論じた。その背景には、僕が前回で述べたように近代化論の挫折やポスト・コロニアリズムの潮流の高まりといったことがあった。が、保守系の言論人が指摘するように、ソ連の崩壊により資本主義批判の拠り所をなくした左翼が、仕方なしにその批判の矛先を国民国家に向けるにようなったとの指摘が妥当する部分もあっただろう。
 さて、この国民国家批判であるが、その批判の理由となったのは、「国民」というカテゴリーが日本社会の様々な多様性を覆い隠す一方で、少数者に対する差別意識や排他的意識を醸成する可能性が存在するからである。
 こうした考え方は、「東京なんぼのもんじゃい」という大阪で生まれ育った僕には、非常になじみ易いものであった。つまり、たかだか「東京弁」に過ぎない言葉遣いがなぜか「標準語」と見なされてしまうことに反発を覚える雰囲気がそこには存在していたのである。
 ところが、ポスト・コロニアリズムは、「国民」内部の多様性に目を向けるというよりも、「国民」というカテゴリーが排除された人びとに焦点を当てていたように思う。つまり、エスニシティ、人種、女性といった「弱者」に研究者の目は向けられることになったと言えよう。
だめだ、眠すぎる。。。今日はもう寝よう。。。。

 
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  by seutaro | 2006-03-07 02:02 | 政治・社会

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