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<日常>お説教

 これまでも僕は割と若い人と接する機会が多かったのだが、この春から非常に多くの若者と接するようになった。そのほとんどが19~21歳ぐらいの若者であり、まさに青春まっさかりといった感じである。
 んで、彼らにいろいろとお話をするのだが、なんだか気づくと結構お説教くさいことをやっている自分を発見してしまうのである。
 人様にお説教できるほど偉くなったわけでもなんでもないのだが、軽いアドバイスのつもりで話していると、いつの間にかそれが説教的な色彩を帯びている。実際には、僕が大学生のころなど、マトモなことなど何も考えていなかったような気がするし、そんな自分を棚にあげて偉そうに何か言うなどとはちゃんちゃらおかしいのであるが、立場的にはどうしてもお説教せざるをえないこともある。
 う~ん、難しいなぁ・・・・。
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  by seutaro | 2006-04-28 01:14 | 日常

<日常>心の保守化

 今日は本当に独り言なわけだが、自分の能力を生かせないと思っている職場にいるときには、どうしてもある意味、保守的になる。別に政治思想的にどうとかいうわけではなくて、自分の得意分野で食っていくためには、自分自身の価値を盲信し、その能力に磨きをかけていくしかない。もちろん、ある局面においては、見切りをつけて方向転換をすることも必要になるのだろうが、いつ見切りをつけるのかでうじうじ悩んでいるようではどうしても及び腰にならざるをえない。
 んで、なんとか自分の得意分野で食っていく見通しがついたとしよう。そうなると、今度は自分のわずかな成功を過信して、今度は自分からすすんで小さな殻のなかに閉じこもってしまいたいような衝動が生じる。もう無理に自分を守らなくても自分自身の能力の未熟さを素直に認めても、そのことが決定的な心理的ダメージを生じさせないにもかかわらず。
 だから、うまくいったときこそ、人は自分の殻を破る努力を意識的にしなければいけないのだろう。心の「保守化」を防ぐためには。
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  by seutaro | 2006-04-05 01:00 | 日常

<政治・社会>死刑存続に賛成する者の責務

b0038577_1235421.jpg この間のエントリで、オウムの麻原被告について書いたときから、「死刑」ということについて書かねば、と思い始めた。

 正直に言って、僕は死刑という制度を存続すべきかどうか、判断を下すことができない。確かに、冤罪の可能性や国家が人命を奪うことの是非など、死刑という制度が孕む問題点は頭では理解できる。しかし、妻子を持つ身として、たとえば山口県光市の母子殺害事件の犯人のような輩に、死刑以外に適当な刑罰があるかと問われれば途方に暮れるしかないのも事実だ。

 とはいえ、死刑の存続に賛成するのであれば、ある重要な問題について思いを馳せる必要がある。それは、死刑を執行する立場にある人たちのことだ。無論、それは死刑執行の最終的な決断を下す法務大臣のことなどではなくて、実際に刑務所で死刑囚の命を絶つ人たちのことだ。

 この死刑の執行に携わる人たちについては、大塚公子『死刑執行人の苦悩』が詳しい。アマゾンのレビューでは、この本が死刑廃止を明確に打ち出しているために低い評価をつけている人もいるが、そのような留保がつくにしてもこの本が名著であることは否定しえない。

 死刑執行の業務というのは、当然ながら、愉快な仕事ではない。たとえば、次のような記述がある(p.20)。
 死刑の執行にあたって直接手を下す刑務官には「特殊勤務手当」・・・が出る。残業手当などのようにその月の俸給に加算して、俸給日に支払われるというのではなくて、即日支払いである。その額はというと、現在でせいぜい六千円かそこらのものだということだ。一万円には遠く及ばない。
 執行後はすぐに風呂に入って、その日の勤務は終わり。しかし、午前中いっぱいも働かず、特別休暇というか、その日はフリーになれるからといって、それを喜ぶ気持ちにはなれるものではない。清めの酒としてふるまわれる(役所だから支給というべきか)二合ビンを所内で飲みつくすと、そのまま街へ出る。まっすぐ家に帰る気分になど、とうていなれるものではない。まして、特殊勤務手当として支給されたなにがしかの金を自宅に持ち帰ったり、使わずにもっていたりすることは絶対といっていいほどない。街に出て飲み代にすっかり使い果たしてしまうのがほとんどであるという。手当てで足りずに自腹を切って深夜まで飲み歩く刑務官もめずらしくない。けれども、死刑執行のことは同僚にも話せず、家族にももちろん話せない。そのような陰にこもった状態で飲む酒が美味しいわけはない。昼食も夕食もいっさい食事は喉を通らず、ただ苦い酒を飲むばかりだが、それで酔えるというものでもない。稀に酔う者もいるが、そんなときはきまって悪酔いで、正体もないほどベロベロになってしまう。
 言うまでもなく、死刑の執行はそれに携わる人に深い心の傷を残す。しかも、そうした心の傷は時に家族にまで及んでしまう。子供を持つ親の立場として、とりわけ印象に残ったのは次のような記述である(p.182-187)。
 弁当を食べ終えて、水飲み場でハンカチを洗っているときだった。忘れもしない中学二年の七月のはじめ。
 隣のクラスの女の子が寄って来た。Lさんの近くに立って、なにげないふうに話しかける。
 「Lさんの父さん、人殺しで死刑になる人を殺す仕事なんだって?」
 Lさんはぎょっとして聞き返した。
 「だれが言ったの?」
 「みんなの噂よ。きたない仕事だって。」
 この女の子は少し知能の遅れた子だった。それだけに言葉はストレートで、Lさんの心を抉った。
 「そのとき、はじめてはっきり知ったのです」
(中略)
 Lさんは、父親が”きたない仕事”で得た手当で買ってくれた品々を、雨に濡れた庭に投げ捨てた。生まれてはじめて持った自分の裁縫箱。いまから思うと物資の乏しい時代のものとしてはぜいたくなものだ。木の箱に美しい千代紙を貼った、現在ではちょっと買えないと思う裁縫箱だった。
(中略)
 雨あがりの濡れ縁に、きのうLさんが投げ捨てた品々を母親が黙って広げていた。黙っている母親の背中は、悲しみに暮れているように思えた。
 「母ちゃん」
 Lさんは思わず呼びかけた。とても母親に悪いことをしたような気がしたから。しかし母親は返答しない。雨と泥とで汚れた裁縫箱や画板などを、ていねいにていねいにぞうきんで拭っている。
 母親の動作は、背後から見ると、声をたてずに泣いているように見えた。じっさい泣いていたのかもしれない。Lさんはいらいらした。
 「母ちゃん、そんなものは、いらんよっ」
 Lさんは母親の背に怒声を浴びせた。
 「そんなことを言うもんじゃないよ。父ちゃんが買ってくれたもんを」
 「いらん、いらん、そんなもんいらん」
 Lさんは言いながら、泣いて母親の背中にかじりついた。
 この本が出版されたのが20年近く前であり、報告の内容はそれからさらに遡った過去の話であるため、現在の死刑執行の方法とはかなりの違いがあるようだ。現在では、死刑台の踏板を外す操作は、5人の執行官が同時にボタンを押し、だれが押したボタンで作動したのかがわからなくなっているのだという。しかし、それでも執行官に相当の心理的負担がかかることは想像に難くない

 死刑制度の存続に賛成するということは、誰かに刑の執行を押し付けるということを意味する。そのような事実を強く意識することこそ、死刑存続に賛成する者にとっての最低限の義務なのだと僕は思う。
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  by seutaro | 2006-04-03 01:58 | 政治・社会

<歴史>「ナショナリスト」の気概

 なんというか、時流に乗り遅れたテーマで申し訳ないのだが、「嫌韓流」についてである。この本に限らず、韓国批判の話でよく出てくるのが、そもそも日本が韓国を合併したときには、韓国はぼろぼろであって、それを日本が出血大サービスで近代化させてやったのだ、だから韓国は日本に感謝すべきなのだ、というような話である。
 この手の話を聞くと、僕は「う~ん」と唸ってしまう。確かに、日本のおかげで朝鮮半島のインフラ整備が大きく進んだのは否定しようのない事実であると思う。が、だからといって「韓国は日本に感謝すべき」というのは、話の筋がちょっと違うのではないかと思ってしまうわけだ。ただ、僕は歴史の専門家でも何でもないので、ここは小熊英二さんの『<日本人>の境界』からの引用で逃げてしまおう(同書、p.163)。

 台湾でもそうだったが、朝鮮においても、一般論壇の(朝鮮の日本への:引用者)同化論はほとんど経済的利害には関心を示さなかった。むしろ、併合によって朝鮮に大量の補助金をつぎこまなければならないことはメディア上で多く指摘され、『万朝報』の社説が「要するに我財界は韓国併合の為に好影響を受くるよりも、寧ろ悪影響を受くること大なるべし」と述べたように、経済的不利がなかば常識となっていた。…コスト論からの併合反対論や経費節減論も存在したが、より多かったのは、「韓国の併合は・・・義侠的行為たるを賞すべし」という自己陶酔だった。当時の論調では、併合はロシアなどの脅威を防ぐ「東洋平和」のために行われたもので、国防力も経済力もない朝鮮の側から併合を申し入れ、日本は義侠心から不利を承知でそれに応じたのだとされていた。

 このように、現代における韓国併合の正当化も、実は当時のメディアの論調とさして変わるところのないものだということができるだろう。ところが、実際には、同じ「日本人」であるはずの内地の人間と朝鮮や台湾の人々の間には様々な差別が存在していた。そのような差別を正当化する論拠とされたのが、「文明化」の度合いであった。要するに、朝鮮・台湾の人々は野蛮であるがゆえに、内地の人間と同じ権利を享受する資格がないとされたのである。そして、朝鮮・台湾の人々が内地の人間と同じ扱いを受けるためには、「日本人」化することが必要だとされた。小熊さんは、松田正久なる人物が『太陽』に掲載した次のような主張を引用している(p.165)。

日本人として用をなさざる人口を幾許加えた処で国家の慶事でない、却って厄介を増すばかりである。故に是非とも之を同化して日本人としての用をなすに至らしめなければならぬ。乃ち結局は兵役にも服して帝国北門の干城たるに至らしめなければならぬ。・・・朝鮮人が日本に同化して北門の干城たるに至つた日こそ始めて帝国は朝鮮併合の報償を得たりと謂ふべきである。

 この主張に典型的に示されるように、韓国併合はロシアの脅威への対抗という意味合いがかなり強かったことは否定しえない。そして、国防という観点から併合を行ったのであれば、近代化のための投資を行うことは当たり前ではないだろうか。

 ロシアが実際に攻めてきたとして、橋もかかってません、道路も整備されていませんでは、兵站が確保できないではないか。朝鮮人の徴兵は、彼らに武器を渡すことの抵抗感から実際には慎重であったようだが、遠い将来には「日本人」として国防の任に就くことも期待されていたのだろう(1944年に導入された)。そのためには、社会保障や教育制度の充実が不可欠になる。

 実際、たとえば英国などでも、社会保障の充実が図られた背景には、労働者から徴兵された人びとの健康状態があまりに酷く、兵士として使い物にならなかったということがある。従って、日本による朝鮮半島の近代化が日本人の「義侠心」によるものというのはあまりにファンタジックな見解であり、その背後には冷徹な軍事的な計算が働いていたというほうが妥当ではないだろうか。

 ここで問題となるのは、このような観点から行われた日本による朝鮮半島の「近代化」にそこに暮していた人々が感謝すべきか、ということだろう。経済的な合理性の観点からすれば、答えは「イエス」である。実は、僕は民族の独立や尊厳といった問題よりも、人びとの生活水準の向上を重視する傾向にあるので、外国の支配であろうとなんだろうと、そこに暮らす人々が幸せになるならそれで良いじゃないかと思ってしまうわけだ。

 ところが、そういう発想だけで動かないのが世の常である。たとえば、政治学者のハロルド・ラスキは「善政といえども、それは自治の代用物ではない」との言葉を引用しているが(『近代国家における自由』、p.245)、1950年代から1960年代にかけて世界各地で行われた反植民地闘争も多くの場合、経済的な合理性に反して行われた。つまり、先進国の植民地支配に置かれていたほうが経済的な利点が大きかったにもかかわらず、人びとはそれを放棄し、自らの自治と尊厳を勝ち取るための闘いに身を投じたわけだ。

 ここで気になるのが、「近代化してやったのだから、韓国人は日本の統治に感謝すべき」とか言っている人たちは、同時にまた、経済的利害を「尊厳の問題」に優先させることをもっとも嫌がりそうな人たちだということだ。たとえば、靖国問題にしても、最大の貿易相手国とトラブルに陥るぐらいだったら、首相の靖国参拝なんか止めちまえ、というのが経済合理的判断ではないかと思われる。実際、財界では首相の靖国参拝に批判的な声が多い。

 ところが、それでも靖国参拝にこだわる人たちが盛んに持ち出すのが「国家の尊厳」だとか「内政干渉」だとかいう話であり、要は「心の問題」にカネを絡ませるなということだ。ということは、韓国人には尊厳は必要ないが、我々には必要だということなのだろうか。

 付け加えると、たとえば今後、仮に日本経済が破綻し、多くの人たちが生活苦にあえぐようになったとしよう。そこで、アメリカが「我々に併合されれば、経済を再生させてあげるよ。ただし、日本は完全に対中国のための軍事拠点にするからよろしく」と言ってきた場合、そういう人たちは素直に「うん」と言えるだろうか(僕はそれなりの保証さえあれば「うん」と言ってしまいそうであるが)。基地経済という言葉があるように、沖縄は米軍による駐留によりかなりの経済的メリットを受けているわけでもあるが、沖縄県民は米軍に感謝すべきなのだろうか。

 無論、日本に併合された当時の荒廃した朝鮮半島と、現在の豊かな日本社会とを比較することには無理があるとの批判が生じるだろう。しかし、となると結局は、「民族の独立」だの「尊厳」だは富者または強者のみに許される贅沢品なのだということになる。いわば、「当時の厳しい国際環境を考えれば、朝鮮人の独立なんて夢のまた夢なのであり、日本に併合された分だけまだマシ」みたいな話になるのかもしれない。けれども、後発組とはいえ日本自体が植民地の獲得に乗り出し、そうした厳しい国際環境を作り出す上で一役買っていたのだから、そこで偉そうにふんぞりかえるのも何か筋が違うような気がする。

 長くなってきたので、まとめよう。「嫌韓流」の人は、「日本を貶める韓国」が嫌いなのだから、ナショナリストなのだろう。だが、ナショナリストなのであれば、近代化や投資といった「カネ」の原理を、民族の尊厳や独立といった「心」の原理よりも重視するというのはいかがなものか、と思うわけだ。

 ちなみに、戦前の著名な民族主義者である中野正剛は『満鮮の鏡に映して』という本を著している。最後に、この本に関する小熊さんの記述を引用しておきたい(前掲書、p.227)。

「満朝にはやつれ果てたる大和民族の影が映って居る」という言葉から始められるこの本では、朝鮮人や中国人を差別する日本の醜さが繰り返し告発されている。中野がもっとも非難したのは、「長い物には巻かれよう、弱いものなら踏みつけてやれといふ」「日本人の卑劣思想」から、「米国の排日案の前に叩頭しながら・・・[朝鮮人に対しては:原著者]学校焼討の武勲に誇る我国の現状」であった。

 中野は、朝鮮の独立は国際情勢から見て困難だとの立場を取っていたものの、朝鮮人の民族意識を高く評価していたのだという。要は、自分の民族を大切に思うからこそ、日本人の差別意識を厳しく告発する一方で、朝鮮人の民族意識を理解する、ということなのだろうか。

 ま、ナショナリストではない僕にとっては、遠い話なのではあるが。
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  by seutaro | 2006-04-02 02:05 | 歴史

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