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<政治・社会>中華料理屋の「陰謀」

 「2ちゃんねる」のまちBBSで、さる中華料理屋に関してなかなか興味深いやり取りがあったので、そのうちのいくつかをコピペしてみよう。

148:
中国国内で販売されている中国製ビールにはダイオキシン等のかなり危険な
毒が色々含まれていて、中国国内では問題になっているらしい。
自国の食料で自国民が死んでいく・・・。

中華料理は週1回にしとけって結論でFA?

149 :
週一に食べるの?・・・・こちらを参考にどうぞ
(中国の野菜の毒性に関するサイトのURL、省略)

150:
>>149
あのさ、そのリンク先は見に行ってないけど、(店の名前)は日本にあるんだよ。
食材も日本国内で流通している物だ。

日本国内の食材で調理された中華料理と、中国国内の危険な食材は別物だよ。

151:
>>150
なんだ興味があったから行こうかと思ったら関係者の広告カキコだったんかorz

152:
>>151
俺のことか?
意味が良くわからないんだが、(地名)にある飲食店で使ってる材料が
日本国内で調達されてるのは当然の事だろ。
わざわざ中国から密輸なんてすると思うか?

店の関係者じゃなくても常識的に分かるだろ、日本国内で入手不可な
材料を使用することは物理的に不可能だ。

あと、あそこのお店は中国人だけで経営されている。バイトも中国人だ。
日本語を話せる人は少ない。その点からも関係者なわけない。

153:
>>152
中国系の店は食材を中国から輸入品を調達するのは常識だよ。
もちろん日本でそろうのはそっちを使うだろうけどな。
反日感情まるだしの人種が日本に来て何をするかは分からんということは確かだ罠。

158:
(店の名前)は良心的な仕事をしてると思うよ。とか書くと「店の回し者」とか言われるんだろなw
中国が嫌いなのは嫌いで構わんけどさ。
中国人がわざわざ日本にやって来て、美味い(が実は毒てんこ盛り)料理を出す
中華料理屋を作って、憎い憎い日本人をどうにかしようとしているなんてのは、
どう考えても妄想だろ?
あんまり変なことを気にしてたらハゲるゾ。

163:
中国人が、中国野菜を避けてわざわざ日本産を買う事はないね。
むしろ中国野菜を選ぶ

164:
中国野菜を選んだからなんなのかが理解できんから、よく説明してくれよ。

(店の名前)の従業員は毎日まかないを喰ってるはずだけど、それは自殺行為じゃないのか?
日本人をどうにかするより先に、自分たちが参っちまうぞ。

もしもそうだったとしたら、キミらの「敵」は頭が悪すぎるから
おそるるに足らんと思うんだがどうかね。

もちろん、話題に上っている店の従業員はまかないを日本産の安全な野菜でつくり、客に出す料理だけに有害な中国産野菜を使っているという可能性は否定できないわけだが(笑)
 まあ、この議論は、158と164の言っていることで尽きていると思う。妙な陰謀を心配している暇があるなら、旨い中華でも食っとけってことなんだろう。
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  by seutaro | 2006-05-31 18:51 | 政治・社会

<メディア>GHQの「洗脳」

 戦後史の論点のなかでも、とりわけ重要な意味を持つものが、戦後のGHQによる情報操作である。
 戦後、GHQは国内のメディアや私信などの検閲を行っていたばかりでなく、「真相はかうだ」や「真相箱」といったラジオ番組により、日本人に罪悪感を受け付ける「ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム」を遂行していたのだという。
 このGHQによる情報操作については、とりわけ保守系の論客が熱心に論じている。彼らは、GHQの「洗脳」により、戦前の日本=悪という歴史観が一般化してしまったことを嘆く。たとえば、櫻井よしこ氏の『「眞相箱」の呪縛を解く』(小学館文庫)によれば、GHQの情報操作により、日本人の精神的「核」が失われてしまったのだという。なんと「ゆとり教育」までGHQによる教育の延長線上にあるというから驚きである(笑)。
 しかし、このGHQによる情報操作の話を聞いて僕が思い出すのは、佐藤卓己氏による「ファシスト的公共性」(井上俊編(1996)『民族・国家・エスニシティ』岩波書店に所収)という論文である。佐藤氏は、マス・コミュニケーションの効果研究において、弾丸効果モデル(マス・メディアは人びとの思想を直接的にコントロールできるというモデル)が否定されてきたことを前提としたうえで、次のように述べている。

メディアの効果研究で宣伝の「弾丸効果」が否定されてきたにもかかわらず、「絶大な威力をもつナチ宣伝」という大衆操作を神話化した言説が無批判に流通してきた。その背景には、ファシズムに自発的に関与した国民一人一人の政治責任を軽減しようとする意図がなかっただろうか。

つまり、佐藤氏の論によれば、ナチ宣伝が強力かつ効果的だったとの想定のもと、ナチスを支持した人々が「騙されたのも当然だ」との論理が生まれ、そのことにより彼らの免罪が図られるという構図が存在していたというのである。
 これとほぼ同じことが、GHQによる情報操作でも言えるのではないだろうか。いくら「真相はかうだ」から「真相箱」へと番組が変更になり、プロパガンダのテクニックがより巧妙になったとしても、多くの人びとにそれを受け入れる土壌がない限り、プロパガンダが無批判に受け入れられる可能性は極めて低い。むしろ、戦後において人びとはかなりの程度まで自発的にGHQの歴史観を受け入れたのではないだろうか。「真相はかうだ」には、聴取者からの批判が多数寄せられたそうであるが、そうした投書が聴取者全体の意見をどれだけ反映していたのかを測定することは極めて困難である。
 無論、戦後の世論動向を厳密に論じることはきわめて困難ではあるが、結局のところ、ジョン・ダワーが言うように、戦後、人びとは「敗北を抱きしめた」のだと僕は思う。軍部が圧倒的影響力を持ち、隣組による相互監視が行われる戦中社会の息苦しさに、多くの人びとは表面上は賛意を示しつつも、内心はうんざりしていたのではないだろうか。GHQによる情報操作とは、そうした戦中社会を否定する風潮を後押ししただけというのが実情ではないだろうか。GHQの情報操作の効果を過度に強調することは、日本人自身による自発的な選択を無効化し、その責任をGHQ(およびそれに便乗した言論人)という「他者」に押し付けたいという欲望の発露に他ならない。
 まあ、こういう歴史観は、GHQによる「洗脳」で日本人の精神的「核」が失われたなどと考える人には、あんまり受け入れてはもらえないだろうけれども。
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  by seutaro | 2006-05-29 16:47 | メディア

<ネタ>スパムのオンパレード

う~ん、さすがにこういうスパムはまだ来てないかな。しかし、最近のスパムの多さはほんと、どうにかしてほしい…。
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  by seutaro | 2006-05-27 13:45 | ネタ

<学問>「学術論文」の難しさ

 こういうトラックバックをもらい、ふと考えることがあった。このトラックバック先では、『昭和ナショナリズムの諸相』という本に関して、次のように述べられている。

私が不勉強なのは認めるとしても、普通に生活してて教科書や新聞などで目にしたことすらない人たちを「知ってて当然!」という前提で話をすすめる不親切さには辟易。
(中略)
論文集だからしょうがない、がんばって読むしかない、読める人しか相手にしない、とでも言いたいのか!?
 もしそうなら、書店に並ぶ一般書として発売せず、学術書として、ナショナリズムを考える業界の方々だけで楽しんでいただきたい。

 この引用文に、学術論文というものの抱える非常に深い難問がよく現れているように思う。今日はこのテーマについて書いてみたい。
 僕が学術論文というものを最初に書き始めた当初、指導教授によく言われたのが「学会の平均水準を知ること」であった。つまり、学会で「常識」とされていることは何か、「常識」ではないことは何かを理解するということだ。これがわかってないと、「常識」をだらだらと書き連ねてしまい「こいつ、こんなことも知らなかったのか」と馬鹿にされるし、「常識」ではないことを簡略化して書くと論理の飛躍だと思われかねない。
 したがって、学術論文を書くポイントというのは、学会の「常識」をさらっと流して書き、「常識」ではないこと、つまり自分の新しい発見については雄弁に語るということにある。そのためには、学会誌もそれなりに目を通し、現在の水準を把握しておくという作業が必要になる。
 ところが、「学術論文」をより広く世間に問うとき、こうした論文の作法は一般読者にとって大きな障害となる。なぜなら、専門家の「常識」と一般読者の常識との間に大きな差が存在するからだ。したがって、学術論文をそのまま書籍にすると、一般読者にとってはものすごく不親切な本になってしまう。
 そこで、解決策としてはまず、そもそも著作を発表せず、専門の学会誌のみに投稿するという方法がある。しかし、実際問題として、専門の学会誌の読者というのはものすごく限られている。僕がこれまで学会誌に書いた論文でも、読者は多く見積もって10名ぐらいではないだろうか。これは、学問をやっている身としてあまりに寂しい・・・。やはり、自分の著作を世に問うて、より大きな反響を得たいというのは、たいていの研究者がもっている性だろう。
 そこで第二の解決策としては著作として発表する場合、論文に書くよりも親切な解説を多くつけるというものがある。実際、少なからぬ研究者はこの手法を取っている。たとえば、小熊英二氏の著作などは、戦前戦後の論壇の状況などに関する詳細な知識がなくとも、楽しく読むことができる(と、思う)。
 けれども、この策には大きな問題がある。それは、小熊氏の著作が典型的に示しているように、本がものすごく分厚くなってしまうのだ。氏の『単一民族神話の起源』が450ページ、『「日本人」の境界』が778ページ、『<民主>と<愛国>』に至っては966ページである。これだけの分量になっても親切な著作を書けといわれれば、たいていの研究者は尻込みしてしまうだろう(そして、そのあまりの分厚さに、読者の側もまた尻込みしてしまいかねない)。
 また、難解な著作はマイナーな学術出版社から出し一般読者向けには新書等のメディアで書くというようにメディアを使い分けるという方法もある。けれども、この方法には、新書を出しているような大手出版社は若手やマイナーな書き手の本をなかなか出してくれないという難問がある。
 そのため、結局は少なからぬ著作が、専門家以外ではとうてい理解しがたいような形態で学術出版社から出されてしまうことになる(ただ、『昭和ナショナリズムの諸相』の場合、収録されている論文がかなり昔に発表されたものであるため、こうした非難を著者の橋川氏に投げつけるのは妥当ではないと思うが・・・)。
 しかし、学術的な著作が世間から遊離した文体で書かれていることのデメリットはやはり認識すべきだろう。「理解できないのは、読者の知識が足りないからだ」といった態度で開き直ることはやはり傲岸不遜との謗りは免れない。となると、結局は、小熊氏のように分厚い著作をみんなで書くということなるのか・・・。
 実は僕も、2、3年後には自分の著作を世に問いたいと思っているので、こういう問題を避けて通ることはできない。さて、どうしたものやら…。

※ところで、出版社の側もこうした事態は憂慮している。難解な本を出版し、さっぱり売れなくて一番困るのは彼らだからだ。実際、出版社は専門書よりもむしろ、『~入門』みたいな本を好む傾向にあるようだし、極めて専門的な著作にすら『入門』という文字をタイトルに入れたがるという話を聞いたことがある。
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  by seutaro | 2006-05-22 02:24 | 学問

<政治・社会>みんな被害者

 以前、こういうエントリを書いたことがあるのだが、なんというか、ネットで見かける論客のなかには、途轍もない被害者意識を持っている人がいるように思う。んで、そういう観点から日本の近代史を見た場合、日本という国は常に被害者であり続けたということになるようだ。

 ずらずらと列挙すると、まず併合したはずの朝鮮半島の近代化のために日本人は搾取され、中国共産党の陰謀に乗せられて日中戦争に引きずり込まれ、アメリカの策略に乗せられて真珠湾攻撃を決行させられ、原爆や大空襲によって市民を虐殺され、戦後はGHQに騙されて「東京裁判史観」を植えつけられ、経済的な理由で勝手に日本にやってきた在日朝鮮・韓国人に「加害者意識」を刷り込まれ、韓国や中国に対して謝罪させ続けられ、来日した海外の犯罪者に痛めつけられている…といったところであろうか。

 こういう「被害者史観」から日本という国を眺めると、なんと主体性がなく、愚かで、騙されやすく、挑発に乗せられやすい国家なのだろうという気がしてくる。こういうのって「自虐史観」と呼ばないのだろうか。

 ただ、まあ、こういう「被害者になりたい気持ち」というのは、実は僕にもよくわかる。「加害者」が悪である以上、「被害者」は汚れなき善であり、少なくとも道義的には圧倒的に優位に立つことができるからだ。そしてそこから辛酸をなめさせられ続けた「被害者」がやがて立ち上がり、悪を打ち倒すという物語が夢想されることになる。

 しかし、このような「悪」と「善」が身の回りですっきり割り切れることなど殆どない。上司や教師、隣人やクラスメイトがいかに不愉快な存在であったとしても、小説やテレビドラマとは違い、そうした「悪」が裁かれることなどまずない。上司が「ぎゃふん」と言ったり、教師が首をうな垂れて謝罪したり、隣人が警察に連行されるといった事態は現実には滅多に生じない。むしろ、そうしたカタルシスが日常に存在しないからこそ、勧善懲悪的なドラマや小説の需要があるとも言えるだろう。

 だが、そうした「善」と「悪」とがはっきり分かれる現実の物語が存在する。それこそが、犯罪報道である。平和な日常を送っていた被害者に突如として害を加える極悪非道な犯罪者という物語が報道を通じて流されると「被害者」に飢えていた人びとは一斉に飛びつく。

 そして、加害者の悪に憤り、人によってはその家族に嫌がらせをし、弁護士を非難し、その弁護士を擁護しているようなblogを見かけるや否や炎上させる・・・。このように、被害者と一体化することを通じて「正義」は達成されるのであり、「悪」は成敗されるのである。
 はっきり言えば、こうした過程において被害者は単なる消耗品に過ぎない。あくまで「カワイソー」な同情されるべき存在でなくてはならないのだ。したがって、仮に「被害者」の側になんらかの「利益」や「利権」らしきものが見え、被害者としての立場を逸脱したと見られた場合、攻撃の刃は一斉に被害者の側に向かうことになる。

 古い話で恐縮だが、「ロス疑惑」の容疑者の場合、最初は同情の対象でしかなかったものが、彼に関する「疑惑」が報じられるやいなや、彼は「無垢なる被害者」から「限りなく黒に近い疑惑の人物」へと一気に転化を遂げ、すさまじいバッシングがメディアによって行われることになった。また、北朝鮮による拉致被害者の会が、小泉首相の方針を批判した瞬間に非難の対象となったことも、彼らが単なる「被害者」という立場を超えて、「権利」を主張し始めたと受け止められたことが原因だったのではないだろうか。

 ただ、こういう「被害者の文法」はいまに始まったことではない。そもそも、1980年代以降のポスト・コロニアルやカルチュラル・スタディーズといった左翼系の学問分野でも、このような「被害者の文法」は強烈に作用していた。少なからぬ研究者が、植民地支配や文化的抑圧の「被害者」と一体化を果たしその「代弁者」となる道を選んだ。

 したがって、ネットに吹き荒れている「わたしも被害者」旋風と、左翼系の学問は、実は同じような構造を持っているのではないだろうか。結局のところ、みんな「被害者」や「弱者」(右派なら犯罪被害者や拉致被害者、左派なら在日朝鮮・韓国人や従軍慰安婦etc.)が大好きであり、彼らと一体となって「加害者」を糾弾しているのである。無論、すで述べたように、そうした「被害者」は消費される存在でしかなく、飽きられた時点で次なる「被害者」が必要とされる。

 なんというか、ちょっと息の詰まる光景ではある。
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  by seutaro | 2006-05-17 02:43 | 政治・社会

<メディア>「中立性」の難しさ

b0038577_1326267.jpg 英国の公共放送であるBBCの初代会長は、ジョン・リースという人物である。彼は膨大な量の日記を書き残しているが、それを編纂したチャールズ・スチュアートは、1930年代のBBCの状況について、次のように述べている(Reith Diaries)。

1931年に労働党政府が瓦解したとき、リースはそれを継承した挙国一致政府を強く支持した。そのため、その秋の選挙放送に関する交渉では、彼は明らかに挙国一致政府に好意的なバランスを置いていたように思われる。BBCが左翼に偏向する体質を持っているという理由により、リースが攻撃されたのはまさにこの時期であった。

 この引用についてちょっと補足しておくと、1931年に成立した挙国一致内閣とは、労働党出身のマクドナルドが首相をやっていたものの、自由党と保守党により構成される内閣だった。つまり、リースが保守側に協力する姿勢を見せていたまさにそのときに、彼は「左翼偏向」だとの批判を受けていたのだ。
 そこから時代は下って20世紀末。それまでは国家の宣伝放送局しかなかった中東地域に、革新的な衛星放送局が現れた。小国カタールに拠点を置くアルジャジーラだ。この放送局のモットーは、「一つの主張があれば、また別の主張がある。」
 このモットーに従って、アルジャジーラはアラブの放送局では考えられなかったイスラエル人へのインタビューを放送し、アルカイダの声明を発表し、アメリカの政治家を出演させた。さらに、アラブ国家の反政府活動家を討論番組に登場させ、過激な政府批判を電波に乗せるなど、挑発的とも言える放送を繰り返した。
 その結果、アルジャジーラは「アルカイダのプロパガンダ装置」、「シオニストの手先」、「アメリカの代弁者」といった批判を四方八方から投げかけられることになった。このアルジャジーラについてのルポルタージュであるヒュー・マイルズ『アルジャジーラ』の邦訳では、副題が「すべてを敵に回したテレビ局の果てしなき闘い」となっているが、なかなかにうまいコピーである。
 しかし、当たり前のことであるが、一つの放送局が同時にアルカイダとシオニストとアメリカのプロパガンダ装置であることはできない。ここから、次のようなの命題が打ち出せるのではないかと思う。
 Aという意見とBという意見があり、それぞれがちょうど放送時間の50%ずつを使って表明されたとする。その場合、Aを支持する人はBの意見がより多く放送されたと感じ、Bを支持する人はAの意見の放送が長かったと感じるのではないか、という命題である。
 その理由については、とりあえず2つほど仮説を思いついた。まず、第一の仮説は時間の感覚に起因するものである。つまり人は自分が支持しない意見を聞かされているときには、非常に不愉快に感じ、その時間を長く感じるのではないかということだ。楽しい時間はすぐに過ぎるが、苦痛な時間は長く感じるということだろうか。
 第二の仮説は、知識量の差に起因するというものだ。人は、自分の支持する意見についてはよく知っているし、支持しない意見については一面的で単純化された理解しかしていないことが多い。そのため、放送という限られた枠のなかでは、自分の支持する意見が十分に語り尽くされていないと感じるのに対し、一面的な理解しか持たない支持しない意見については十分に語られている(もしくは過剰に語られている)と感じるのではないか。
 もちろん、先の命題も含めて、これらはすべて思いつきでしかないので、ソースを出せと言われても困る。だが、先に挙げたBBCやアルジャジーラのエピソードから考えて、どうにも人は「自分の支持しない意見ばかりが放送されている」と考える傾向にあるのではないだろうか。そして、前に紹介した「第三者効果」にひっぱられて、「こんな放送をしたら(自分を除く)みんなが影響されてしまう!」と思い、思わず放送局に抗議をしたり、2ちゃんねるに「騙されるな~」というメッセージを書き込んだりするわけだ。自戒を込めていえば、このブログにもそういう側面がある。
 結局、放送局が「中立性」を保とうとすればするほど、いろいろなところからのクレームに悩まされることになってしまうのではないか。逆に言えば、左翼から「右傾化している」と批判され、右翼から「左翼メディア」と同時に罵られるようなメディアは、それだけ健全だということなのかもしれない。
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  by seutaro | 2006-05-12 13:59 | メディア

<メディア>マスコミの「物語」

 マスコミは「物語」をつくる。しかも、たいていはものすごく単純化されていたり、一方的な物語だ。もちろん、 「第三者効果」についてのエントリで述べたように、受け手は通常、そうした物語を批判的に読んでいる。
 けれども、いくら批判的に読んでいたとしても、マスコミが「報じないこと」まではなかなか分からないのも事実である。たとえば、山口県光市の母子殺害事件。この事件で加害者の弁護士について、「報道ステーション」等のマスコミは非常に批判的な報道を行った。
 そのマスコミの物語を要約すると、次のような感じになるだろうか。その弁護士は死刑廃止というイデオロギーを頑なに持っている人物であり、そのイデオロギーを貫くためなら手段を選ばない。そして、光市の加害者を死刑から守るために、裁判を欠席するという常軌を逸した手段に訴え、被害者の人権を著しく侵害したのである。こうした物語に沿って、マスコミは問いかける。「これが本当に『人権弁護士』の所業だろうか?」
 けれども、その弁護士の側に立ってみれば、こうしたマスコミの物語とはもうちょっと違う景色が見えてくることも確かだ。たとえば、次の記事などが参考になる。

永遠の少数派として■本棚「『生きる』という権利―麻原彰晃主任弁護人の手記」
http://t2.txt-nifty.com/news/2006/05/post_28ff.html#more

まず、最初に慣例を破ったのは、最高裁だった。
 裁判期日は裁判所と検察、弁護人の同意の上で決められる。最高裁であっても、弁護人から期日変更の求めがあれば裁判官と検察官、弁護人が面談し、それぞれ納得の上で結論を出す。
 今回について言えば、弁護人は1週間前に、期日を6月に延期するよう申請していた。しかし、最高裁は翌日、これを却下した。慣例破りという点で、極めて“異例”の判断だ。手続き上、弁護人に非はない。
 死刑が争われる事件となれば、鑑定や調書といった資料を読み込み、検察側主張との整合性や被告人との意志疎通に気の遠くなるような時間と集中力を要する。
 わずか1か月でできる作業ではない。

 そうした経緯があったのだから、弁護人が出席しないことは、最高裁も予想できたはずだ。にも関わらず、当日「正当な理由に基づかない不出頭で、極めて遺憾」(最高裁第3小法廷、浜田邦夫裁判長)との“異例の”コメントを用意するのだから、用意周到だ。

 無論、上で挙げたマスコミの物語が100%間違っているとは言えないし、そもそも一つの物語がすべてを語り尽くすことなど決してできない。したがって、マスコミに完全な物語を要求しても、それは最初から不可能なのだ。
 けれども、マスコミが画一的に同じような物語しか流通させないとすれば、そこから抜け落ちるものを受け手はなかなか知ることができなくなる。インターネットの登場で、既存の新聞やテレビの影響力は、徐々にではあろうが低下していくだろう(急激には低下しないだろうことは、このあたりで述べた)。そうしたなかで、既存のマスコミが存在意義を発揮できるとすれば、情報限を持たない素人ではなかなか語ることのできない、多様な物語を紡ぎだしていくことしかないのではないか、とも思うのだが。
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  by seutaro | 2006-05-06 18:44 | メディア

<政治・社会>クールな前文

 そういえば、今日(もう昨日か)は憲法記念日なのである。
 ニュース23に触発されたわけでもないのだが、僕は現日本国憲法の前文が結構好きである。もちろん、翻訳調であることは否定しがたく、突っ込みどころ満載な文章であるのだが、なんというか、一種の「いさぎよさ」のようなものが感じられるのが良い。とりわけ第2~4段落目など、なんかもうお馬鹿なまでの愚直さが、呆れるのを通り越して、もはやかっこいいとすら感じられる。

日本国憲法前文

(第1段落目省略)

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意
     本当に愛しているのか?
した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる
                                本当に努めているのか?
国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
                                   翻訳調だ(笑)
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
            それが国家の普通の姿です
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と
それが普遍的じゃないから、いろいろと難しい問題が発生するわけで
対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
                ここは誰がなんと言おうとかっこいい

 ここで僕が突っ込んでいるようなところは、当然、この憲法を作った人たちも承知していたんじゃないかと思う。証拠はないけれども、第二次世界大戦をくぐりぬけた人たちが「すべての国家は平和を希望しているんだから、信頼できる」なんていうナイーブな世界観を持っていたとは考えにくい。最後で、これは「理想」だって書いてあるわけだしね。
 けれども、あえてこのような「空想的平和主義」の文章を作ってしまったのは、「専制と隷従、圧迫と偏狭」が渦巻いていた第二次世界大戦直後の世界において、軍事力と覇権が世界の趨勢を決めるなんていうシニカルな「現実主義」ではなく(たとえそれが実情だとしても)、馬鹿みたいだと承知しつつもあえて理想を掲げようとの決意がそこにあったからではないだろうか。
 無論、現実の政治はそんなに甘いものではなく、実際には日米安保を含め様々な「現実的」選択を日本政府が行ってきたことは否定しないし、それを全て否定する必要もない。また、私学助成金の問題など、この憲法がいまの社会の実情とそぐわなくなっていることも否定しない。
 けれども、妙なシニシズムが蔓延し、小賢しい「戦略論」ごときが知的であるかのような風潮を省みれば、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」なんて愚直なことを言いきってしまう日本国憲法は、やっぱり結構かっこいいのではないかと思うし、この一点だけでもいまの憲法には価値があるのではないだろうか。
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  by seutaro | 2006-05-04 00:06 | 政治・社会

<日常>ししゃも明太

b0038577_3392354.jpg GWを利用して、箱根に1泊2日で旅行してきたわけだが、そのときに出会ったのがこの焼津いしはらの「ぷちぷちししゃも明太」。
 ししゃもの卵の食感がよく、明太やチーズとの相性も素晴らしい。我が家では非常に評判がよかった。価格をもう少し抑えれば、全国区で勝負できる商品ではないだろうか。
 特に酒のつまみがすきな人は、機会があれば是非一度試されたい。
 
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  by seutaro | 2006-05-03 03:39 | 日常

<政治・社会>いつものように都知事の暴言

とりあえず、日本ではあまり報道されていないようなので、貼っておこう。

(出典)http://www7a.biglobe.ne.jp/~mcpmt/Liberation20060424.html

東京都知事、現代美術を腹にすえかね
カルチエ財団、展覧会の開会式でとんだ「とばっちり」

東京特派員ミシェル・テマン

2006年4月24日 リベラシオン

木曜〔4月20日〕、午後6時過ぎ、東京都現代美術館(MOT)――10年前、木場公園に建設された巨大な建物――の大ホールに、各界の著名人を含む1500人の人々が招かれ、この春もっとも注目される文化イベントの開幕セレモニーが行われた。1年前からパリと東京のカルチエ社スタッフが準備を進めてきた「カルチエ財団所蔵現代美術コレクション」の会場が、ついにその門扉を開け放とうとしていたのである。門扉といっても、ただの門ではない。入り口は高さ5メール、スライド式の巨大な壁でできており、招待客らはそこを通って一般公開前の会場内に導かれるのだ。4つのフロアにわたって19室を占める展示場は、まるで迷宮のよう。美術館の建物がそっくり芸術の宮殿に変身し、現代美術の偉業に捧げられた趣である。

「彼は酔っぱらってるのか?」――普通、日本の式典は、ありがたいお言葉をもって華やかに開会を告げる。この日、開会の式辞の栄に浴したのは、炎と燃える(そして炎を燃やしたがる)東京都知事、石原慎太郎、73歳である。彼の隣には、カルチエ・インターナショナル会長ベルナール・フォルナス、東京都現代美術館館長・氏家齊一郎、カルチエ財団理事エルヴェ・シャンデスも顔をそろえている。会場のざわめきが徐々に静まる。しかし、石原は何も事前の準備をしていなかった。マイクを手に、正面の巨大スクリーンを見据えながら(そこには、硫黄質の雲、ボンデージ・アートの作品、暗殺された写真家アレール・ゴメスによる裸体などが映し出されている)、石原は、いくぶん口ごもりながら、いつもながらの歯に衣着せぬ言辞を繰り出した。

「都知事は酔っぱらってるのか?」――彼の最初の数語に「ショックを受けた」ある日本の有名スタイリストが首をかしげる。実のところ、東京都知事は、フロアの招待客たちを前にして、いつもながらのお家芸を披露してみせたにすぎなかったのだ。彼はすべてをぶち壊しにしてやろうと考えた。手加減などまったく抜きにして、彼は現代美術をこき下ろし、愚かしくもそれを西洋芸術だけの専売品のごとく描き出してみせるのだった。招待客に背を向けて話す尊大無礼、決めつけの口調と難解を装った語彙をもって、石原は、展覧会そのものをこっぴどくやっつける。たった今、案内付きで鑑賞してきたばかりの展示がよほど退屈だったのだろう。「今日ここに来て、なにかすごいものが見られるんだろうと思っていました。ところが、実際は何も見るべきものはなかった。」イヤホーンで同時通訳を聴きながら、ベルナール・フォルナスはぐっと息をこらえる。

しかし、東京において、これだけの作家を一堂に集めた現代美術展は過去に例を見ないことであった。コンゴのシェリ・サンバからフランスのジャン=ミシェル・オトニエルまで、アイルランドのジェームズ・コールマンからアメリカのデニス・オッペンハイムまで、イタリアのアレッサンドロ・メンディーニからアメリカ女性作家ライザ・ルーまで、12カ国から32人の作家たちが出品している。ライザ・ルーなどは、今回の企画を「芸術の国連」と評しているほどだ。カルチエ財団が20年前から収集にいそしんできた芸術作品のすべてが、空路、海路、気の遠くなるような取り扱い注意の気配りとともに、今回、ようやく東京に結集させられたのだったが・・・・・・。

札付きのナショナリスト――こうした文化の財宝も、石原慎太郎のお眼鏡にはまったく適わなかったらしい。「ここに展示されている現代美術は、まったくもって笑止千万なものである」と彼は付け加える。たとえば、先頃パリで人々の注目を集めたオーストラリアのロン・ミュエクによる巨大な彫刻作品「ベッドのなかで」も、石原には揶揄の対象だ。「ベッドのなかの巨大な母親像は、まるで赤ん坊のような目をしている。」ほかならぬ、この作品こそは、展覧会のポスターとカタログの表紙にも選ばれた目玉作品なのだ。

常々、ナショナリズムと朝鮮・中国への敵視の言説で知られる石原は(2004年にはフランス語をも痛罵した)、1999年以来、東京都知事をつとめる元・人気小説家である(1955年、日本のゴンクール賞に当たる芥川賞を受賞)。みずから余暇には絵を描いて過ごすというが、末っ子〔石原延啓〕とは仲違いしており、そしてその末っ子というのが、これまた折悪しく画家なのである。ここぞとばかりに彼が述べるところによれば、「見る者に説明を要する現代美術というのは無に等しい。」そして、最後のとどめのように、「日本の文化は西洋文化よりもよほど美しい。」会場内には衝撃が走った。一部には、これを冗談と受けとめ、笑い声を上げる人もいる。しかし、多くの人々は憤慨をあらわにした。

席に戻って天井ばかりを凝視している東京都知事に続いて挨拶に立ったのは、ベルナール・フォルナスである。彼は、一転して、今回の出展作家たちにさかんな讃辞を送った。挨拶のなかでフォルナスが、ジャン=ミシェル・アルベローラ、松井えり奈といった画家たちから、森山大道といった写真家まで、東京都現代美術館に展示されている作品を「重要な傑作」と評するにおよんで、会場から一斉に拍手喝采が巻き起こる。こうして、石原の主張も宙に浮いた格好となる。

 まあ、彼の暴言はいつものことだし、東京都民もこういう無神経な発言を一種のネタぐらいにうけとめたうえで彼を支持しているのだろう。けれども、自分の理解できないものを何のためらいもなく否定する人間が、人様の振る舞いを論難し、道徳を説くことができるというのが驚きである。自分の子供がこんなだったら、大目玉である。
 ついでに言うと、かつて彼は、日本人が危機意識に目覚めるために「半分以上本気で北朝鮮のミサイルが1発落ちてくれたらいいと思う」とインタビューで述べている。こういう発言をする人物が「ナショナリスト」だと自称することを僕は信じられない。なんというか、ホリエモンが共産主義者だと自称することぐらい違和感があるのは、僕だけだろうか。
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  by seutaro | 2006-05-01 02:10 | 政治・社会

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