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<メディア>ブラジルのデジタル地上波

 さて、ワールドカップは散々な結果に終わり、とりわけブラジル相手には全く歯が立たなかったわけだが、デジタル家電の分野ではブラジルに日本勢が攻め込むことができそうだ。

政府は29日、地上波のデジタルテレビ放送で日本方式を採用する方針を決めたブラジル政府に対し、プラズマテレビや液晶テレビ、半導体などを生産している日本企業の誘致で協力する方針を固めた。

 政府は、ブラジルが日本方式を採用したことで日本企業への経済効果は約1兆円に上るとみている。日本とブラジルの両国政府は同日、覚書に調印する見通しだ。

 地上デジタル放送の方式は、日本方式と米国方式、欧州方式があり、ブラジルは日本と欧州方式の間で選定を進めていたが、より多くのデータを送信でき、携帯電話でもテレビ放送を見ることができる日本方式の採用を決めた。ただ、海外で日本方式を採用するのはブラジルが初めてで、米国方式と欧州方式に比べて採用数で劣勢に立たされている。

 ブラジルが日本方式を採用したことで、今後、中南米諸国で日本方式を採用する動きが広がることを日本政府は期待している。両国政府は、覚書を結び、共同作業部会を設置して、地上デジタル放送開始に向けた具体的な計画を協議する。

 日本政府は、日本の電機メーカーや半導体メーカーがブラジルに進出して薄型テレビや半導体を製造する工場を建設するよう働きかける。技術者の育成などでも協力する方針だ。(『読売新聞』2006年6月29日)

 しかしまあ、この件に関しては「ようやく決定したか」というのが印象である。実は、ブラジルでは当初、独自の地上デジタル放送規格(SBTVD)の開発が予定されていた。

 ところが、資金不足からこの計画は頓挫し、外国の規格が採用されることになった。そこで候補にあがったのが、日本のISDB-T、欧州のDVB、米国のATSCという規格だった。

 この三つのなかで、地元のテレビ局が支持を表明したのが、日本のISDB-Tであり、ブラジル通信省のコスタ大臣もISDB-Tが唯一、ブラジル政府が求める技術水準を満たしている規格だと表明していた。他方で、とりわけATSCに対しては技術的な欠陥がいくつもの機関によって指摘され、採用される可能性は低いと見られていた。

 それでは、日本のISDB-Tにあっさり決まったのか・・・というとそうでもない。ここから、日本、欧州、米国、果ては中国やインドまでも巻き込んだ売り込み合戦が始まったのだ。

 そもそも、上の記事でも指摘されているように、南米における地域大国であるブラジルがどの規格を採用するのかを周辺諸国は見守っており、ブラジルの採用した規格を採用するとの見方が強い。実際、アルゼンチンはブラジルと共同歩調と取る見込みだ。

 そんなわけで、ブラジルは地上デジタル放送市場の動向を決める決定的な市場だと見られており、それだけに売り込み競争も激化することになったわけだ。

 しかも、当初は日本の規格を採用する方向に見えたブラジル政府の内部でも揺れが見られるようになった。おそらく、欧州や米国からの様々な影響力が働いていたのだと思われる。さらに言えば、わざと態度を曖昧にすることで、日本や欧州、米国からより有利な条件を引き出そうとする戦略があったことは間違いないだろう。

 実際、米国、日本、欧州は、技術支援や財政支援、投資の増額など、自分たちの規格の様々な「メリット」を強調しながら交渉に臨んだ。しかも、そうしたブラジル政府の姿勢を見て、中国までもインドと組んでブラジル政府に独自規格の開発を持ちかける始末である。上で引用した記事にも、「日本政府は、日本の電機メーカーや半導体メーカーがブラジルに進出して薄型テレビや半導体を製造する工場を建設するよう働きかける。技術者の育成などでも協力する方針だ」とあるが、これは要するにそのような交渉が行われた結果だといえる。

 ともあれ、そうしたゴタゴタのため、当初は今年の2月に規格が決定されるはずが、3月に延期され、結局は6月末になってようやく決定・・・というのが今回の顛末であろう。

 こういう風に考えると、このエントリの冒頭で「ブラジルに日本勢が攻め込む」と書いたものの、結局のところ、一番ほくほくしているのはブラジル政府かもしれない。
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  by seutaro | 2006-06-30 12:16 | メディア

<政治・社会「子どもを産まない」というモラル 補足

 おそらく人気サイトからのトラックバックをもらったせいで、訪問者が急増したのにびっくりしているそなたんパパです。こんばんは。
 とかいう変な書き出しはともかく、はてなブックマークでみると、このサイトが始まって以来最高となる40ものブックマークをもらった。どうもありがとぉぉぉ。
 が、そのブックマークのコメントを見ていると、どうも前回のエントリで僕が述べたことがうまく伝わらなかった人もいるようだ。無論、それは僕の書き方がまずかったことによる。
 前回のエントリで僕はこのように書いた。

 片や、激化する競争社会でのサバイバル技術を身につけさせるためには、小さいうちから塾に通わせ、英会話を学ばせ、吹き溜まりとなりつつある公立の学校ではなく私立に進学させ、有名大学にまで進学・卒業させねばならないというような脅迫観念がある。

 逆に、子どもを塾にも行かせず、中学や高校は当然公立・・・ということになれば、競争社会から落ちこぼれてフリーターやニート、下手をすると犯罪者になるかもしれないという不安もある。

 だが、これは我が家の教育方針を示したものではない。そうではなく、このような脅迫観念や不安が世間一般での少子化の大きな要因になっているのではないかということが言いたかったわけだ。紛らわしくてごめんなさい。
 ちなみに、我が家の教育方針であるが・・・。主に経済的な理由により、おそらくうちの子ども(たち)は公立の小、中、高に行くことになるだろう。
 ただ、公立の学校にやることは、お金がないという消極的な理由だけによるものではない。
 僕は公立の小、中、高を卒業した。そして、中学校や高校にはそれほど良い思い出はない。むしろ不愉快な思い出のほうが多いかもしれない。けれども、とりわけ中学校において、僕は勉強以外にいろいろなことを学んだ。
 公立の中学校というのは、かなりの確率で人生において最も様々な人びとに接する場になる。勉強のできる奴もいればできない奴もいる。金持ちもいれば(最近はいないのかもしれないが)、生活に困ってそうな家庭の奴もいる。そういう雑多な環境のなかでしか学べないものがあるんじゃないかと僕は思うのだ。
 たしかに、私立の学校に比べれば「リスク」は高いだろうし、「現実主義」的な考え方をする人からすれば「理想主義」的な甘ちゃんの考えだと叱られるかもしれない。けれども、コントロールされた環境のなかで似たような境遇の家庭から来た連中とだけ過ごすことに起因する「リスク」もまた存在しているのではないだろうか。
 とまあ、ぐだぐだと書いてきたが、もちろんこんな教育プランなんてのは思う通りにはいかないのが普通だし、子ども自身にもいろいろと希望があるだろう。不安材料はいろいろとあるが、とりあえず「なんとかなる」んじゃないかと僕は思っていいる。
 でも、子ども自身が私立に行きたいとか言い出したら、どうしたものか・・・。
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  by seutaro | 2006-06-14 22:58 | 政治・社会

<政治・社会>「子供を産まない」というモラル

 「だいじょうぶよ」というのが、その頃の妻の口癖だった。つづく言葉は、「なんとかなるって」。そう言って、いつも疲れてはいるけれど屈託のない笑みを浮かべるのだった。(中略)

 だが、いまの妻は、めったに「だいじょぶよ」とは言わない。「なんとなるって」が「なんとかするわ」に代わってから、もうずいぶんたつ。(中略)

 「俺、7時半に帰ればいいよな」
 「だいじょうぶ?」
 「なんとかなる」
 私もこんなふうに言っていたのだ、確か、昔は。
                      重松清『ナイフ』新潮文庫、p.302およびp.378

 さて、好評の(?)少子化エントリの第3弾である。

 「子供を産まない理由」として、しばしば挙げられるのが「経済的要因」である。つまり、「子どもを育てるのにはお金がかかる」というものだ。

 ここから、子どもを産まない人々のモラルの欠如を批判する声が時に噴出する。「今の恵まれた日本社会で『お金がかかる』などとは理由にならない」、「今の自由で豊かなライフスタイルを崩したくないという自己中心的な考えが根底にあるのだ」、「要するにモラルや愛国心が欠如しているから少子化が進むのだ」云々。

 けれども、前回、前々回のエントリの話を前提とするなら、それとは全く異なる解釈が導きだせるのではないだろうか。

 確かに、子どもを産んで、衣食住を与えるだけであれば、子どもを持つことの経済的負担は過去に比べてそれほど大きくないかもしれない。だが子どもを「ちゃんと」育てるということを前提とするならば、子どもを持つことの経済的負担は一気に大きくなる。

 片や、激化する競争社会でのサバイバル技術を身につけさせるためには、小さいうちから塾に通わせ、英会話を学ばせ、吹き溜まりとなりつつある公立の学校ではなく私立に進学させ、有名大学にまで進学・卒業させねばならないというような脅迫観念がある。

 逆に、子どもを塾にも行かせず、中学や高校は当然公立・・・ということになれば、競争社会から落ちこぼれてフリーターやニート、下手をすると犯罪者になるかもしれないという不安もある。

 つまり、「周囲に迷惑をかけないような」子どもを社会に送り出すためには、それ相当のコストがかかるということになっているわけだ。しかしそのコストを負担するのが難しい場合、むしろ変な子どもを社会に送り出して迷惑をかけるよりも、子どもを産まない、もしくは産む子どもの数を減らすというのが「倫理的」な行動だとは言えないだろうか。

 したがって、「子どもを育てる自信がないから産まない」というのも、そうした倫理観の裏返しだと言えるのではないだろうか。存在しない子どもは、絶対に社会に対して迷惑をかけないからである。

 もちろん、冒頭で触れたような「享楽的なライフスタイル」を捨てたくないがゆえに産まないという人びとも存在しているとは思うけれども、それらの人びとの自己中心性を非難し、「子どもをきちんと社会に送り出す責任」を訴えれば訴えるほど、そのような「責任」の重さに耐え切れず、モラルゆえに子どもを持たないという傾向を加速してしまいかねないのではないだろうか。

 とまあ、いろいろと書いてきたものの、「こうすれば少子化が止まる」などというアイデアを僕が持っているわけではない。ただ、なんと言うか、「責任感」というよりも、ある種の「お気楽さ」に訴えたほうが、子育てに対する恐怖感やリスク意識を軽減することができるのではないかとは思う。

 躾で多少は手を抜いても、私立中学に入学させなくても、一流大学に進学させなくても、有名企業のコア社員にすることができなくても、人はそれなりに幸せに生きていけるという確信を持てるのであれば、あるいは、子どもが多少の間違いを犯したとしてもそれはいずれ乗り越えていける問題なんだという安心感さえ持つことができれば、「モラル」だの「愛国心」だのに関係なく子どもを持つという選択をする人はもう少し増えるのではないだろうか

 冒頭で引用したのは、重松清の短編「ビタースィート・ホーム」の一節。子育ての難しさに直面した夫婦の物語。この物語で示唆されているように、「なんとかする」という責任感ではなくて、「なんとなる」という楽天主義こそが、子育てというハードルを乗り越えるための打開策になる・・・・といいんだけれど。
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  by seutaro | 2006-06-12 12:25 | 政治・社会

<政治・社会>子育てのハードル

 前回のエントリでは少子化と社会に蔓延するペシミズムとの関係について述べたのだが、今回も少子化ネタでいってみよう。

 最近、我が家ではマンションを買うことを検討しており、その関係でマンション購入に関するインターネット掲示板なんかをよく眺めている。そこでつくづく思うことは、「集合住宅で子育てをするってのは大変だ」ということだ。

 マンション掲示板でよく見られるのが、「DQS親」という表現である。要するに、部屋のなかで子供が大騒ぎして近隣住民に迷惑をかけているにもかかわらず、ろくに叱りもしない親なんかを指す表現である。そこから、「近頃の親は子供の躾をしていない」といった紋切り型の批判が行われ、さらには「うちの子供は家のなかでは『忍び足』で歩くよう躾けてます」といった発言まで飛び出すわけである。

 しかし、冷静に考えて、昔の子供はみな、自分の家のなかで「忍び足」で歩くように躾けられていたのだろうか?自分の家で、声を押し殺しながら暮らすよう教育されていたのだろうか?

 ここで思い出されるのが、広田照幸氏の『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書)という著作である。

 この著作において、広田氏は世間一般のイメージとは異なり、日本人の躾は衰退していない、むしろ現代ほど一般家庭が躾に熱心な時代は存在しないと論じる。広田氏によれば、かつての日本においては、親ではなくむしろ地域社会が子供の面倒を見ていたのであり、親は躾にそれほど熱心ではなかったのだという。

 それでは、なぜ「日本人の躾は衰退した」とのイメージが広がっているのか。それは、要するに、「親による躾」に対する社会の側の期待がものすごく上がったということなのだ。広田氏の表現を借りれば、「礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き」という「パーフェクト・チャイルド」を作らんとする試みが社会で共有されていった帰結として、そのような完璧な基準から逸脱する子どもとその親とが目に付くようになってきた・・・ということになるだろう。いうなれば「子育てのハードル」が気づかないうちに、ずいぶんと上がってしまっているのだ。

 そして、そうしたパーフェクト・チャイルドに対する要請は、家族が密集して暮らす集合住宅においてはさらに大きくなる。集合住宅では、礼儀・子どもらしさ・勉強という基準に加えて、「静かに暮らせる」という基準までもが要請されることになるからだ。

 ちなみに、「子どもらしさ」と「静かに暮らせる」という二つの基準を兼ね備えた子どものイメージとは、広場や公園に行けば急にスイッチが入ったかのごとく快活に大声ではしゃぎまわり、自分のマンションに一歩でも足を踏み入れたならばスイッチが切れて大人しく忍び足で歩くというものだ。それほどまでに大人にとって都合のよい存在へと子どもを躾ける努力は、並大抵のものではないだろう。

 さらに言えば、近年の競争や業績を重視する社会風潮は、激しさを増す競争への耐性をも子どもに求める動きへとつながっている。「ゆとり教育」に批判が集中した一因には、「ゆとり」などといって甘やかすのではなく、競争に勝ち抜くことのできる人材を育成すべきだとの主張がある。たとえば、山崎拓氏は自らのサイトで「ゆとり教育」を批判し「学校で競争を経験したことがない若者が卒業後、いきなり競争社会に放り出されて適応できない人もいるでしょう」と述べている。

 なお、こうした競争に勝ち抜くことのできる力というのは、単なる学力とも違うようだ。それは、創造性や重圧に耐える精神の強さといったものであり、流行の言葉を使えば「人間力」ということになるだろう。

 しかし、問題は、そうした競争社会がどのようなものであるのか、ということだ。たとえば、政府の規制改革・民間開放推進会議議長である宮内義彦氏は次のように述べているという(ここからの引用)。

「コア社員の数を鉛筆の芯のように細くする一方、その周りを取り囲む木の部分は成功報酬型の社員、さらにその周りにパートタイマーやアウトソーシングを置く。必要に応じて木の厚さを調整出来るようにしておく・・・鉛筆型の人事戦略」

「コアの社員に不景気だから辞めてほしいとか、景気がいいからきてほしい、と言うようなことはできない。コアの社員には長くいてもらって、非正規社員で(調整できるような)配置をする。この国際競争の中で日本が先進国として生き残るためには、そうした経営努力をしなければならない」

「そもそも安定(雇用の安定も含めて)なんてものはないと思っている。あした安全だという保障はない。安定を企業に求めるのではなく、やはり自分の努力です」

 ここで別に宮内氏の見解の是非を述べるつもりはない。ただ、正直に言えば、これは生きていくのが相当にしんどそうな社会である。生き馬の目を抜く競争を一生を通じて繰り広げるというのは、やはり多くの人にとってかなり厳しい条件になるだろう。なにせ、「鉛筆の芯」になれなければ、まともに住宅ローンすら組めないのだ。

 そして、子どもを作るということは、自分がそうした競争を生き抜くだけではなく、自分の子どもにもそうした競争を生き抜くためのスキルを授けねばならないということを意味する。そこで、小さいうちから子どもを塾にやり、習い事をさせ、進学校に放り込んで競争社会でのサバイバル技術を身につけさせていくわけだ。そうそう、「人間力」も身につけさせないと。

 でも、競争でぎちぎちのそんな社会で他人を蹴落としながら生きていくというのは、本当に幸せなことなんだろうか。自分自身が耐えざるを得ないのはしょうがないだろう。もうこの世に生を受けてしまっているのだから。たとえ自殺者が8年連続で3万人を超えようとも、殆どの人は自らの生を全うすべく懸命に生きている。

 けれども、自分の子どももまたそういう社会で生きていかねばならないとするならば、「最初から産まないほうがまし」という価値判断は生じないだろうか?

 長くなったので最後にまとめると、蔓延する日本社会に対するペシミズム、上がる一方の子育てのハードル、生きていくのが厳しそうな競争社会の推進。どれをとっても、子どもを産もうとするインセンティブを引き下げるものばかりである。というか、こういう状況で合計特殊出産率が大きく上昇したとすれば、そのほうが不思議である。

 少子化という現象は、こうした風潮に直面させられた若年層の、階級闘争やストライキなどよりも遥かにラディカルで破壊的な復讐なのかもしれないと思う今日このごろである。というか、誰かどうにかしてください(涙)。

追記:
 少子化といえば、シンガポールや韓国でも深刻化しているそうだが、このエントリで述べたような意味からすれば、どっちも非常に「子育てのハードル」が高そうな国である。

 シンガポールの街頭でのモラルが非常に厳しいことは有名だし、教育制度も子どもが小さいうちから選抜が始まる厳しいものだそうな。韓国でも受験競争の厳しさは日本以上で、母親も子どもの受験を必死で応援するみたいだ。

 そういうモラルや競争に子どもを巻き込むのはしんどいと思ってしまう感覚は、国境を越えて共通しているのかもしれない。
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  by seutaro | 2006-06-08 23:08 | 政治・社会

<政治・社会>少子化とペシミズム

 しばらく更新をやめてちょっと今後のことを考えようかと思っていたのだが、気になるニュースがあったので、とりあえずエントリを立ててみる。

 それは何かというと、「合計特殊出産率」(1人の女性が生涯に産む子供の数)が2005年度は1.25にまで落ち込んだ、というニュースである。何でも5年連続で過去最低を更新したのだという。

 で、『毎日新聞』の解説によれば、仮にこのまま1.25という数字を維持できたとしても、2015年度の出生数は2005年の106万人から70万人にまで落ち込むのだという。

 これは、教員として生業を立てている僕にとっては由々しき事態である。子供がいなければ、そのままマーケットの減少につながってしまうからだ。

 まあ、そういう個人的な事情は置いておくとしても、少子高齢化というのは、やっぱり良くない状況だと思う。高齢化社会も悪くないという声もあるようだが、老人が多い社会というのはどうにも居心地が悪そうだ。

 そもそも、「近頃の若い者は…」というのは、昔からある老人の繰り言である。が、最近は、そうした繰り言がマス・メディアに乗っかり、それを真に受けた良い子まで一緒になって「近頃の若い者は・・・」と言い出す始末(→事例)。

 そうこうしているうちに、道徳主義者が威張りだし、やたらと押し付けがましい説教が世に溢れ、抑圧的な条例だの法律などが気づけば出来上がっている・・・ということになりかねない。というわけで、やっぱり子供の数を少しでも増やす努力というのはするべきだと思う。

 とはいえ、子供を産まない理由というのは人によって様々だろうし、既ににいろいろなところで論じられている。ただ、そのなかでも意外と大きな要因になっていると思われるのが、「ペシミズム」の存在である。

 「子供を産まない要因」としてよく挙げられる理由としては金銭的な理由のほか、「将来が不安」だとか、「子育てに自信がない」などといったことがある。それでは、この「不安」や「自信がない」という感覚はどこから生まれるのだろうか。

 まず、不安ということで言えば、日本の将来に対する悲観があるのだろう。マスコミを見れば、財政赤字により国民一人当たりの借金が○○○万円だとかいう(意味のない)数字が踊っている。さらに、少子高齢化により、働き手が減少する一方で社会保障費が増大し、年金制度も大ピンチだと煽る煽る。

 また、もうちょっと身近なレベルでも、マスコミを見ればやれ少年犯罪だの、ニートだの、ひきこもりだの、フリーターだのといった若者の問題に関する報道が扇動的に行われている。

 とりわけ犯罪について言えば自分の子供が被害者になるばかりでなく、加害者になるという恐怖もある。自分の子供が重大犯罪を犯し、大きな注目を集める事態ともなれば、親もかなりの確率で失職し、引越しを余儀なくされることになる。しかも、精神面に異常をきたした自分の子供に殺される可能性だって否定できない・・・。

 フリーターだのニートだのになってしまえば、いま流行りの「格差社会」のなかで「下流」になってしまうかもしれないという不安もある。いつまでたっても子供の面倒を見続けねばならないという老後は、あまり愉快な将来像ではないだろう。

 こういうマス・メディアの報道に日々接していれば子供を持つことが「大きなリスク」であると思わざるをえないのではないだろうか。そりゃ、「不安」になったり、「自信がない」という状態になるわな。

 なんか、長くなってきたので、中途半端ではあるが、続きは次回。
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  by seutaro | 2006-06-02 12:35 | 政治・社会

<学問>文型学者の辛さ

 昨日、このブログを読んだ人から、「読みにくい」、「文体がなってない」、「内容がばらばら」などと厳しい評価をもらった。
 そう言われて、改めてこのブログを見直してみると、確かにその通りである。そうこうしているうちに、だんだんと適当に書き飛ばした駄文を人様に公開していることが急に恥ずかしくなってきた。訪問客もほとんどいないので、このサイトを閉じようかどうか悩み中である。
 まあ、急に閉じるというのもなんなので、とりあえず最近、気になった『毎日新聞』の記事をコピペ。

理系文化人:エッセーが人気 藤原正彦さん、養老孟司さん……大局観に世間が期待
理系の研究者が専門外の現代社会を論じたエッセーが売れている。今の日本社会にもの申す--などのメッセージを放つ本は常に書店の一角を占めているが、社会学などベテラン評論家による分厚くて小さな文字の本ではなく、新書に代表される手軽で平易な文体の本が目立ち、ベストセラーになっているのが特徴だ。背景を探った。【岸桂子、手塚さや香】

 ◇半年で200万部

 新潮社は先月上旬、数学者の藤原正彦さんが執筆した「国家の品格」(新潮新書)を、一挙に40万部増刷することを決めた。新書の1回の増刷としては「おそらく前代未聞の数字」(新潮新書編集部)。その後も増刷を重ね1日現在で計197万部となり、昨年11月の刊行以来、半年で200万部に達するのは確実だ。

 「国家の品格」は、米国追随一辺倒の政治からの脱却を説き、武士道精神など日本人が持っていた価値観や美徳を取り戻すべきだと明快な文章で主張したエッセー。藤原さんは「若き数学者のアメリカ」(77年)など、叙情に満ちた多数のエッセーを発表しているものの「国家のありよう」を明確に打ち出したのは初めて。自身「こんな売れ方は普通じゃない」と戸惑いを隠さないが、ヒットの要因を四つのポイントを挙げて分析した。

 「文系だと右、左の色がついて中身も類推できるが、理系は色がつきにくい。だから読者は『何を書いているのか』と興味を持つ。第二に、常に視線を世界に広げているから、日本の良さも悪さも自信を持って発言できる。第三に、自説をはっきり主張する人が少ない文系に対し、理系は直線的で主張が明快。第四に理系は斬新さで勝負している。この本も、他の本にはないハッとすることがいくつも書いてあるので、読む人は興味を持ってくれたのではないでしょうか」

 新潮新書からは、415万部と新書の最高部数を更新し続けている養老孟司著「バカの壁」(03年)も生まれた。養老さんは解剖学者だが、「バカの壁」も現代社会について論じた本。つまり、超ベストセラー2冊は、理系学者が専門分野の外に向けた論評となっているのだ。

 ◇拒否反応薄れ

 ただし、「理系」は必ずしもキーワードでないという指摘がある。大手出版社の理工書担当編集者は「読者の立場で考えると、数学者や解剖学者の本であることを意識して買っているかどうかは疑問だ。2人とも文章がうまくて含蓄があり、読んでみると『数学者と情緒』のような意外な組み合わせの面白さがあった」と話す。

 社会論に限らず、「理系」人による本への抵抗が薄れているという見方も。ジュンク堂書店池袋本店の文芸担当者は「小川洋子さんの小説『博士の愛した数式』(新潮社)のヒットを契機に、数学入門書も売れています。これまでは理系の人の執筆というだけでちゅうちょされがちだった本が、違和感なく受け入れられつつあるのでは」と話す。

 ◇「大家」の不在

 かつて、文化芸術から社会時評に至るまで常に発言を期待された人として、作家の司馬遼太郎さんがいた。

 養老、藤原両氏に社会時評を依頼した理由について三重博一・新潮新書編集長は「独創的な視点を持ち、固定観念にとらわれない柔軟さがあるから。理系を意識したわけではない」としたうえで、「2人とも文系理系の枠に収まらない『知性』を持っている。読者は今、大柄な構えをもった思想を説く人を求めている気がします」と話し、専門性に縛られない大局観をもつ人の登場を願う世間の期待が、養老・藤原本のメガヒットにつながったという分析に共感を寄せる。

 藤原さんは「司馬さんのような広い視野は、文化や芸術、歴史、思想という一見何の役にも立たないような教養がなければ身に着かない。そんな人は多くは登場しないけれど、活字文化の衰退と、政治家でさえ大局観を喪失している現状を考えると、出現の頻度はますます低くなるだろう」と将来を懸念する。

 ライターの永江朗さんは「『専門バカ』ではない、『長屋のご隠居』的な存在はいつの時代にも求められる。文系は70~90年代にイデオロギーに左右されて権威を失ったりしたが、理系の人たちは、世界観の変化の荒波をそんなに受けずに済んだのでは」と語る。

 「理系文化人」ブームは今後も続くのか。注目されている一人が、1962年生まれの脳科学者、茂木健一郎さんだ。文理の垣根を壊した論壇・研究活動が光り、昨年は小林秀雄賞を受賞。茂木さんの新刊も出した三重編集長は「ポスト養老・藤原は常に探しています」と打ち明けた。

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 ◆識者はこうみる

 ◇文系との境界なくなった--寺門和夫氏・サイエンスウェブ編集長(科学ジャーナリスト)

 科学を極めた専門家はそれなりの自然観、社会観を持っているから、文系の専門家の自然観、社会観と違う見方ができる。その発想が面白くて独創的だから受け入れられているのだろう。そういう人たちが学術論文ではなく、一般向けのエッセーを書いたり分析したりというのは新しい局面かもしれない。新しい問題提起として考えるべきだと思う。つまり、新しい視点で物を考えなきゃいけない時代になってきたということではないか。

 背景として理系と文系の境界がなくなっている現状がある。学問を理系と文系に分けるという明治以来の考え方自体が不可能になってきた。教育や社会現象、犯罪を社会科学的な観点から分析する方法もあるが、理系の立場から見ると異なる分析が可能なことも多いし、実際に発言する人も増えてきた。人口の問題も環境と関係しているし、宗教対立や紛争などの背景も科学的に分析できる点がある。これからの社会は理系の知恵をもっと利用する時代に入った。

 ただ、昨今ベストセラーになった本は、著者のパーソナリティーという要因も大きく、「理系の文化人」というくくりでとらえるのが難しいところもある。この先、文系の文化人が理系のテーマを書いた本がベストセラーになることもあるかもしれない。(談)

 ◇背景に言論ゴミため化--橋爪大三郎氏・東工大教授(社会学)

 理系文化人が政治や社会を論じた本が支持される背景には、「言論のゴミため化」の進行がある。冷戦後、右、左という対立軸がなくなり、イデオロギーがリセットされた。さらにネット上の巨大掲示板などが登場し、オピニオン誌などに代表されるいわゆる「高級な言説」と、出所の分からないうわさ話との区別がつかない言論のゴミため状態になった。政治も劇場化によってサブカルチャーになり、一部の医師や弁護士はタレント化する。こういう状況で「何を信じていいのか分からない」という方向喪失感覚が生まれる。その中で信頼できる存在として理系が注目されるのではないか。

 理系の学問は、客観的法則や事実、物質が存在するところからスタートしているから信頼できそうに感じられる。理系離れと言われて久しいが、養老氏らの本のヒットも「理系は文系とは違う」という文系人間の過度な思い入れや理系への距離感に由来している。

 また、文系の知識人が文系の異分野で発言する場合、既存の常識をひっくり返すことを意図しているために、読者には難解で説教臭く感じられる。その点、理系知識人が文系のテーマを論じる場合は「こんなこと考えてもみなかった」という意外な点を突いてくるため、常識を捨てるという抵抗感が少なく、関心を持たれやすい。(談)

毎日新聞 2006年5月8日 東京朝刊

 おそらく文型学者の代弁者として橋爪氏のコメントが出ているのであろうが、そうなのであれば、もうちょっと同情的な見方をしてくれてもよさそうなものである。
 世の中の様々な社会問題や社会現象を論じるさい、よく知れば知るほど、「○○すべきである!」とか「××は間違っている!」とばっさり切れなくなることが多い。
 だから、文型学者の多くは、持論を展開する際にも、なにかと留保をつける。「・・・という場合には」といって条件を付けたり、「・・・する傾向にある」と断言することを回避したりするレトリックがそれにあたる。そういう書き方をするのは、むしろ学者としての良心の発露だとすら言える。
 けれども、そういう文体は、残念ながら一般の読者にはあまり受けない。非常にもってまわった言い方に感じられるからだ。
 そこで、そういう面倒くさい留保をつけずに、さくっと物事を断言してくれる「文化人」のニーズが出てくることになる。もちろん、そういう「文化人」は理系に限定されるわけではない。今回、養老氏、藤原氏と理系の文化人が続いたが、それはヒットを生み出すうえでさして大きな要因にはなっていないのではないだろうか。
 文型の学者でも、研究の一線を退き、学会での評判などを気にする必要がなくなった人がよく脇の甘い文明論なんかを出してしまったりするが、マーケティングさえ上手ければそういう人でもメガヒットを飛ばせるだろう。
 ああ、なんか愚痴っぽいエントリになったな、これ・・・。
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  by seutaro | 2006-06-01 13:52 | 学問

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