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<メディア>高校野球とボクシング

 僕はスポーツには非常に疎いのだが、季節柄、こんなエントリを立ててみる。

 今年の高校野球はなかなかに面白く、とりわけ決勝戦+再試合にはそれなりに興味を
もって報道に接していた。

 他方、僕はまったく興味をもたなかったのだが、亀田三兄弟の次男が、インドネシアの
(週刊誌によると1勝1敗1分けの)チャンピオンを1回でノックアウトしたのだそうだ。

 そこでブログなどを見ていると、「高校球児のひたむきさに比べて、なんだあの商業主
義にまみれた亀田三兄弟は・・・」というようなエントリが散見される。

 たしかに、先の亀田長男の世界チャンピオンになった経緯などを見ても、メディアによっ
て創られたチャンピオンだという雰囲気がむんむんしている。亀田次男が試合終了後に
熱唱するのも、スポーツファンから見ればふざけているとしか言えないのではないだろう
か。

 その一方で、高校球児たちの闘いは、真剣そのもの。しかも、勝った相手を褒め称える
というスポーツマンシップも健在だ。

 しかし、高校野球が全くもってメディアによって創られていないか、というと必ずしもそう
いうわけではない。高校野球は、紛れも無い「メディア・イベント」だからだ。

 メディア・イベントとは、そもそもダニエル・ダヤーンとエリフ・カッツというマスコミ研究者
たちが提唱した概念であり、メディアによって報道されることを前提としたイベントのことを
指す。ダヤーンらはメディア・イベントをいくつかに類型化しており、オリンピックなどのスポー
ツは、「競技型」のメディア・イベントである。

 ただし、ダヤーンらのもともとの定義は、あくまでイベントの主催者はメディアの外部に
おり(オリンピックの場合だと国際オリンピック委員会)、メディアはあくまでそれを取材す
る側だということになる。

 それに対し、日本の研究者は、メディア自体が主催する「メディア・イベント」の存在を指
摘した。毎日新聞社と朝日新聞社が主催する高校野球はその際たるものだ。読売新聞社
が関東学生陸上競技連盟と共催している箱根駅伝もそれに近い。

 さらに言えば、亀田兄弟の試合も、実質的にはTBSの主催であると言ってもよいのでは
ないだろうか(リングのマットにあれだけでかでかとTBSと書いてあるわけであるし)。

 こうしたメディア・イベントにおいて重要なのは、それが人びとを感動させる「物語」を生み
出せるか否かという点だろう。亀田兄弟の「感動秘話」は、TBSにより腐るほど放送されて
いるわけだが、高校野球にしても例外ではない。

 チームの士気が下がるなか、泥だらけになりながら自らノックを受けてみせた早実の監
督。「監督にそこまでさせるなんて」と号泣する野球部員。こうしたエピソードが、大会期間
中には次から次へと報道される。テレビ朝日「熱闘甲子園」は、まさにそうした物語を生み
出すための重要な装置である。

 けれども、高校野球の場合、その勝負がガチであるがゆえに、どのような物語が生み出
せるかは偶然に左右されるところが大きい。たとえば、今回の大会で最も物語性を有して
いた高校の一つである八重山商工が準決勝ぐらいまで進んでいたとしたら、メディアはこ
の高校に関する物語を山ほど報道したことだろう。

 したがって、ドラマ性に欠き、それほどカリスマ性のない選手の多い高校ばかりが上位に
進出した場合、どうしても高校野球は盛り上がりに欠け、人びとの注目も集まらない。

 そうしたリスクを回避するためにはどうすればよいのか。それは、最初からあるチームに
スポットを当て、なにが何でもそのチームに勝たせていくということになるだろう。

 地方大会が始まるはるか以前からそのチームに密着取材し、大会が進んでいくにつれ
て「成長する」選手の物語を創っていく。チームの一人一人に「キャラクター」を持たせ、お
茶の間に選手の名前を浸透させる。無論、途中で負けてもらっては話にならないので、絶
対に勝てそうな相手ばかりをぶつけるし、審判にはそのチームに有利な判定ばかりをして
もらう。このようにすれば、かなりの確率でドラマ性に満ちた「高校野球物語」が出来上が
るだろう。

 もちろん、これは亀田三兄弟の「物語創出プロセス」を、高校野球に適用した場合の話
だ。実際には、高校野球ではそんな演出は不可能だろう。けれども、高校野球にも存在し
ている「物語創出プロセス」に付随するリスクを可能な限り最小化していくと、亀田三兄弟
が出来上がる。その意味で、亀田三兄弟は、是が非でも物語を生み出そうとするメディア
の欲望がもっとも如実に表れた事例に他ならない。

 もっとも、亀田三兄弟の場合、その創出プロセスがあまりに露骨な演出に満ちているが
ゆえに、多くの反発を生じさせているわけであるが。
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  by seutaro | 2006-08-23 07:51 | メディア

<日常>ありふれた日々

 子どもというのは案外、保守的なんだという話を聞いたことがある。

 何度も読み聞かせている絵本の筋をたまに変えてみたりすると、子どもが怒るというのである。つまり、子どもは何度も何度も同じ話を聞き、同じ結末を楽しみたいのだという。

 その理由は、子どもの生活が「新しいこと」に満ち溢れているからだ、ということらしい。子どもにとっては毎日が驚きの連続であり、絵本などに驚きを求める必要はない。そのため、絵本の中にこそ「変わらないもの」を見つけ出したいという欲求がある…ということになるのだろうか。

 僕は心理学に詳しいわけでも何でもないので、この話の正否はわからない。けれども、自分の子どもが生活の「流れ」を少しずつ理解していくのを見ると、納得できなくもない。

 最近、我が家の一人娘は、お出かけというムードになると、勝手に玄関までとことこと歩いていき、座りこむようになった。要は、サンダルを履かせてもらうのを待っているのだ。これは、娘が「お出かけ→サンダルを履く」という流れを予測できるようになったということなのだろう。

 けれども、娘の流れの読みはまだまだ甘く、両親の準備が出来上がるかなり前から玄関に座り込んでいたりする。そういう姿は、思わず抱きしめたくなるほどいとおしい。

 彼女にとって、生活はまだまだ理解できないことだらけで、そのなかで何とかパターンを見つけ出そうとしているのかもしれない。だとすれば、それはかなり疲れる作業だろうし、安定した何かを欲しがる気持ちになるというのもわかる気がする。もっとも、うちの娘が絵本を楽しむことができるようになるのは、まだちょっと先の話だとは思うのだが。

 翻って、大人について考えてみると、我々の日常のほとんどは決まりきったルーティンのなかで流れていく。そのため、日常では味わえないような刺激、もしくは「新しいこと」を求めて、本を読んだり、映画を見たりするわけだ。

 とはいえ、大人にしても、日々の生活が非常に不安定で、次の展開が全く読めないようなときには、「安定した何か」を欲することになる。高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』なんかの分析に基づくならば、たとえばそれは「国家」とか「民族」であったりするのかもしれない。

 まあ、その話は措くにしても、人は退屈な日常のなかに埋没していくにつれて、フィクションに刺激を求めるようになっていくという傾向はあるのかもしれない。だとすれば、フィクションに安定を求める時期と、刺激を求めるようになる時期との境目というのは、いったいいつごろのことなのだろうか。
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  by seutaro | 2006-08-20 01:29 | 日常

<政治・社会>「成果主義型年金制度」解題

 前回のエントリ「成果主義型年金制度」は、当然、冗談である。というか、僕はそもそも年金制度の仕組みもよく分かっていないので、年金制度の是非について論じる資格はない。

 ただ、最近、分譲マンションの購入を計画していて思ったことがある。僕は決して高給取りではないし、貯金もたくさんあるわけではない。

 けれども、僕が何をどう頑張って手が届かないような高級物件が都心を中心として山のように売り出されて、しかもそれが結構な人気を博しているのはどういうわけなのだろう…との疑問を持ったわけだ。ここからも明らかなように、高額所得層も含めて日本人の所得は1995年との比較でかなり減少しているにもかかわらず、である。

 しかし、答えは単純で、要するに夫婦共働きの人たちや独身者がそうした高額物件を買っているのだ。

 さらに言えば、そうした駅近の高額物件というのは資産価値が高く、なかなか値崩れしないというか、むしろ値が上がったりすることもある。が、僕の手に届きそうなのは、都心からかなり離れた郊外の物件でしかなく、そうした物件はすぐに価値が大幅に下落するわけだ。そうなると、資産の面での差もどんどんと大きくなっていくだろう…。

 と、まあ、前回のエントリはこうした僕の私怨から生まれたもので、人様に声高に言えるようなものでは到底ないがゆえに、ネタという形になった。まあ、実際にこんな制度を導入したら、年金の不払いが急増して、あっという間に年金制度そのものが崩壊するだろう。

 けれども、ここで上記の問題を少子化という現象とからめて考えてみたい。

 日本とは逆に途上国なんかでは、人口爆発が生じている。これは、よく誤解されいるが、別に避妊の知識が普及していないからだとか、他に娯楽がないからとか、そういう理由ではない。そういった国々では子どもをたくさんつくることが合理的だから、子どもが増えるのである。

 栄養状態や衛生状態、さらには治安に問題がある環境では、子どもが成人する前に死ぬ可能性は高い。そのため、たくさんの子どもを保険としてつくっておく必要がある。

 また、年金制度等が完備されていない環境では、老いて働けなくなった後には子どもの稼ぎで生きていく必要がある。そのため、子どもの数が多ければ多いほど、個々の子どもの経済的負担が軽くなる。こうした事情に加えて、医療技術が発達してきた結果、子どもの数が爆発的に増えているわけだ。

 翻って、日本の現状を見てみると、子どもの数が減っているのは、要するに経済的に見て、子どもを作らないことが合理的な選択なのだということに起因するように思う。これまでいろいろな要因を挙げてきたものの、最大の理由は、結局のところ子どもなんぞ作らないほうがリッチに暮らせるということにあるのではないだろうか。

 だとすれば、少子化というのは、端的に言って、働く母親の支援だとかそういうレベルの問題ではなく、富の再配分の根幹に関わる問題ではないだろうか。要するに、子どもを作ったほうが経済的にみて合理的だ(もしくは、子どもを作ってもそれほど大損はしない)との判断ができなければ、人びとの行動パターンは変わらないのである。

 もちろん、子どもを持つという選択は、経済的な側面だけに還元できるわけではない。明け方に夜泣きする子どもをあやしながら近所をうろうろするなんてのは、損得感情だけではやっていられないのも事実だ。経済的に見れば無謀な選択をさせるパワーが、子どもの笑顔には確かにある。

 けれども、だからといって独身者やDINKSの人たちがリッチな生活をするのを横目に、子育てに忙殺される夫婦が満足な消費や旅行もできない現状が続くかぎり、子どもの数が大幅に増えることはないと断言していい。

 だから、なんというか、たとえばだ。税金、もうちょっとまけてくれないかなぁ(苦笑)。

(おまけ)このエントリを書くために、朝日新聞のDBをいじっていたら、『アエラ』の3年ほど前の記事で「シングル差別」に関するものがあった。

 要するに、扶養手当てがもらえないため、シングルは給与面で差別されてという内容である。が、その記事の後半は、シングル差別の「不当性」を訴える内容なのか何なのか、自動車やマンションの消費の中心はシングルなのであり、シングルこそが景気を下支えしているのだ・・・という内容であった。

 正直、これを書いた記者は頭に何か沸いているのではないかと思う。要するに家族持ちにくらべてシングルのほうが可処分所得は遥かに多いことが記事の後段では明らかにされているわけだ。その事実をもって「シングルへの不当な差別」の是正を訴えるというのは正気の沙汰とは思えない。実際、前の職場でも、シングルの同僚はボーナスで新しいPCだのギターだのを次から次へと買っていたのだが。
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  by seutaro | 2006-08-18 12:29 | 政治・社会

<ネタ>成果主義型年金制度

-言うまでもなく、このエントリはフィクションです-

 彼は分譲マンションの購入を予定していた。専業主婦の妻に2人の子ども。それぞれの子どもに勉強部屋を与えるために3LDKの部屋を購入した。もちろん、彼や妻の部屋は寝室だけだ。でも、郊外の、しかも最寄駅からバスで15分もかかるマンションが精一杯だった。
 楽しいはずのマイホーム購入。けれど、彼の心は晴れない。新居からの通勤時間はドアtoドアで1時間40分を越える。しかも、その間は殺人的なラッシュに耐えなくてはならない。
 そういえば、同僚のAも分譲マンションを買うと言っていた。けれども、Aには子どもがおらず、共働きの奥さんがいるだけだ。将来的にも子どもをつくる予定はないそうだ。聞けば、都心の高層マンションの2LDKの部屋を買うらしい。彼には逆立ちしても手が届かない額の部屋だ。その部屋から職場まではわずか2駅、ドアtoドアでも25分で会社に着くようだ。
 彼は何となく不公平な気がした。もちろん、子どもを作ったのは別に社会のためだとかそんな大層なことを思ってのことではない。けれども、次世代の社会に2人の子どもを立派に送り出すであろう自分が郊外の安い3LDKに4人で押し込められ、典型的なDINKSのAが都心の高級物件に住む・・・というのは何か間違っていないだろうか。彼はふと、そんな想いに駆られた。

 30年後、彼はどういう運命のいたずらか与党の有力政治家に転身していた。総裁選を前に、彼は30年間暖め続けてきた構想を打ち上げ、首相の椅子を目指した。その構想こそが、「成果主義型年金制度」であった。
 30年後の日本は少子高齢化がさらに進行し、年金制度は崩壊の危機に瀕していた。年金で暮らす高齢者は増加を続ける一方、その年金制度の担い手である勤労者は減少を続けており、根本的な制度設計の変更が求められていた。
 そこで彼はこう述べた。「『成果』に応じて、年金受給額を決定しようではないか」
 年金制度の存続にあたっては、年金を支払うのみならず、次世代の再生産が不可欠である。したがって、子どもを産んでいない夫婦には年金を受給する資格がない、と彼はまず主張した。事実、ドイツなどでは子どもの数に応じて年金受給額が加算される制度が採用されている。
 しかし、と彼は続ける。単に子どもを産んだだけでは、年金の受給資格として不十分である。なぜなら、その子どもがきちんと年金を納めていることが、制度の存続には不可欠だからだ。たとえば、子どもがニートやフリーターで、年金を納めていない場合、いくら子どもがいたとしても年金制度にとっては何のプラスにもならないではないか、と彼は言う。
 そこで、彼が提唱するのが、所得に応じて年金の支払額を変えるという制度変更を前提とする、子どもがいくら年金を払っているかで親の年金受給額が決定されるという「成果主義型年金制度」である。
 だから、子どもが高額所得者で莫大な年金を支払っている場合、たとえ子どもが一人であっても、その親は高額の年金を受け取ることができる。高額の所得を得ることができるような子どもを育てることに成功した親の「成果」に対して、国は年金をより多く支払う、というわけだ。無論、子どもの数が多ければ多いほど、トータルでの年金受給額は増える可能性が高いため、少子化の抑制にも繋がるだろう、と彼は論じた。
 こうした彼の提言に対しては、「子どもを産みたくても、持てなかった親が気の毒だ」との批判が寄せられた。それに対して彼は「そうした気の毒な事例が存在していることは承知している。したがって、その場合、不妊治療にどれだけの額を費やしたかを考慮した上で、たとえ子どもがいなくても年金受給額を加算する。また、養子を取った場合にも、その子の年金納付額は、親の年金受給額に反映させる」との修正を行った。

 そして、総裁選。彼は大差で、ライバル候補に敗れた。一般の党員の支持が殆ど得られなかったからだ。そしてさらに、彼は次回の選挙でも落選し、政界を引退した。議員年金は既に廃止されており、全てを失った彼は議員宿舎から郊外の3LDKに戻った。成果主義型年金制度を提唱した彼の不人気は想像を絶するものであり、彼の派閥の一員だった議員ですら、もはや彼に近寄ろうとはしなかった。
 築30年以上経ったバス便のマンションは、空室が多く、全面改装する費用も集まらなかった。管理人がいないため、チラシが散乱した郵便受けの前で、久しぶりにかつての同僚Aからの手紙を受け取った。このマンションからインターネットに接続できなくなって以来、連絡手段は電話か手紙しかない。ダイヤルアップ用のモデムなどすでに手に入らなくなっているし、携帯電話のアンテナは30年前の入居以来、ついに一本も立たなかった。
 Aは都心の10年ほど前に都心のマンションを結構な額で売却し、いまはまた別の高級マンションに移っている。なんでも、移転先のマンションは高齢者用のサービスを売り物にしており、様々な介護用ロボットが標準装備となっているらしい。
 彼は手紙を読み終わると、それを細かくちぎり、足元に捨てた。どうせ、ゴミがちょっと増えるだけの話だ。それにしても、娘と息子はもう何ヶ月も連絡してこない。俺が倒れても、連中は介護になんて来てくれないだろうな・・・。
 ため息をつきながら自分の部屋へと戻る彼の横を、安値で部屋を買い叩いて最近入居したらしい、怪しげな風体の男が通り過ぎていった。

(おわり)
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  by seutaro | 2006-08-12 01:35 | ネタ

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