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<メディア>動機の語彙

 殺人における「動機」にとって最も重要な要素はなにか。それは、「聞く側が納得できる」ことである。だから、仮にカミュの『異邦人』のように「太陽がまぶしかったから」という動機の告白がなされても、誰もそんなものは信じない。だとえそれが本当の動機だったとしても、人は納得できる動機を探し、本人が口を割らなければ精神鑑定でも何でもやって、とにかく納得しようとする。

 この場合、「納得できる動機」というのは「許容できる動機」である必要は全くない。たとえば、「金のために人を殺した」、「性欲のために人を殺した」というのは許容できる動機ではないが、納得できる動機である。「相手が襲いかかってきたから身を守ろうとしていたら殺してしまった」というのは、多くの場合、納得も許容もできる動機だろう。

 問題なのは、この「納得できる動機」、「許容できる動機」が時代や社会に応じて変わるということだ。たとえば、数年前に広島で「悪魔に命じられたから女児を殺害した」という動機を語った殺人犯がいたが、この動機は現代日本では納得も許容もできない動機であり、大きな反発を呼んだ。しかし、中世後期のヨーロッパであれば、魔女狩りを行っていた連中はまさにそうした動機を告白させるために、容疑者を拷問にかけていたわけだ。また、江戸時代であれば許容された「あだ討ちのための殺人」というのは、現代日本では許容されないだろう。

 我々が「納得できる動機」というのは所詮、我々の常識のなかでのみ通用する相対的なものだ。我々が納得できないからといって、それが必ずしも事実でないとは限らない。信仰心のために飛行機をハイジャックしてビルに突っ込むとか、人ごみのなかで自爆するとか、僕の狭い了見では信じられないわけだが、実際にそういう人がいるから世の中は難しい。

 一例を挙げれば、1970年代末から1980年代初頭にかけて世の中を騒がした「イエスの方舟」事件がある。この事件では、「邪教」の主催者とされた千石剛賢氏という人物が若い女性をかどわかして誘拐したというような報道がマス・メディアを賑わせた。

 しかし、実際には、疎外感に悩む女性たちこそが千石氏に強引についていったというほうが正確であり、指名手配された千石氏は警察に出頭するも不起訴処分になっている。千石氏については若い女性をかどわかす邪教の主催者というよりも、女性たちから「おっちゃん」と呼ばれ親しまれる、信仰心の篤い人物だったとも言われる。

 だが、『サンデー毎日』を除く当時のメディアはそうした信仰心に基づく動機では納得することができずに、「若い女性を囲ってハーレムを作る」という常識的な動機のフレームを好んだ。まあ、このあたりの状況はいまもさして変わっていないと言える。

 結局のところ、「納得できない動機」を聞いたとしても、我々がまずなすべきは「嘘だ」とか「でっち上げだ」といって条件反射的に反応するのではなく、とりあえず我々の常識では計り知れない動機に基づく行動がありうるのだということをまずは想像してみることではないだろうか。
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  by seutaro | 2007-05-29 23:53 | メディア

<学問>大学教育に意味はないか

 このエントリを読んでいて、なんとなくやりきれなさを感じてしまった。

ネットを使えば、大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーションを数万人とできるし、それもヌルい学生でなく、本当に学びたい社会人などと密度の濃いやりとりができる。ネットならみんなで寄ってたかって1日で質の良い教材もできるだろう。教室スペースや大学までの距離など、物理的制約を大きく受ける大学で講義する気は一切ないと。

 たしかに、現在の大学教育には様々な問題があるとは思う。けれども、大学に奉職している立場としては、こういうお気楽な発想にはやり場のない憤りを感じる。

 最初から「やる気のある相手」だけを相手にする教育というのは、はっきり言って楽である。たとえば、(まともな)大学院の演習などでは、参加者にも論客がそろっていたりするので、質の高い議論が勝手に進む。教員の仕事は、議論の流れを適切にコントロールすることだけである。

 逆に、やる気のない相手、とりわけ大学一、二年生あたりの大教室での講義をうまくマネージメントするのは非常に難しい。それなりの話術が要求されるし、できるだけ学生にとって身近な話題から始めて、高度なテーマにまでなんとか話を引っ張っていかなくてはならない。

 そもそも自分がいるところから半径50メートル以上向こうの出来事には関心のない、新聞も読まない学生が、どうやったら社会に関心を持つようになるのか。それは試行錯誤の繰り返しであるし、僕も授業が終わるたびに反省の連続である。1コマの授業の準備には、その数倍の時間をあてている。

 ちなみに、僕が勤めている学部の他の教員の皆さんは非常に教育熱心であり、FDも積極的に展開している。たまに教員同士の親睦会などが開かれるさいには、二次会と称してファミレスに行くのだが、そこでは深夜まで教育談義に花が咲く。大学の授業に意味がないというのは、そうした営為がすべて自己満足でしかないということなのだろうか。

 我々が相手にしているのは確かに「ぬるい学生」かもしれない。けれども、誰かが「ぬるい学生」に向けて教育をしなければならないのであり、良い教育をするためには当然研究もしなくてはならない。与えられた様々な制約のなかで、奮闘している教員は決して少なくない。

 そういう難しさを抱える教育を見下して、「大学というシステムは終わっている」などとのたまい、「大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーション」をしていると言われれば、正直に言って腹が立つ。ためしに、「ぬるい学生」相手に「大学より何十倍もの教育効果があるコミュニケーション」をやってみなよと言いたくもなる。

 最後に、大学教員は「既得権層」ということなのだが、こんな構造的不況産業の従事者をつかまえて「既得権層」と言われても正直困る。僕も大学院を出てから長らく不安定な雇用状態にあったし、初めてボーナスというものを手にしたときには30歳を過ぎていた。しかも薄給のため、ボーナスで毎月の赤字を埋めるので精一杯であった。その後、大学にポストを得ることができたのも、その選考の際の倍率を考えれば、ラッキーだったとしか言いようがない。

 というわけで、嫌な気持ちのまま終わる。どうせ、僕のやってる授業なんて全くの無意味なのさ。うじうじ。
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  by seutaro | 2007-05-29 02:59 | 学問

<ネタ>顔ちぇき!

 携帯のトレンドについてはとんと疎いのだが、新聞で知った「顔ちぇき!」というのをやってみた。

 要するに、携帯のカメラで撮った顔写真データをメールに添付して送ると、顔写真の解析ソフトが似ている有名人を探し出し、それを返信してくれるというものだ。無料かつ登録も不要なので、さっそくやってみた。

 結果は・・・

 ・・・

 ・・・

 一番似ていると判断されたのが上田晋也58%であった。

 が、2位の中村勘太郎も58%。3位の増沢望(誰だそれは)が56%であった。

 この結果に対して、どういう反応を示すべきなのかは正直よくわからないのだが、なんとなくあまり楽しくない。

 ともあれ、このサービス、すぐにできるので、興味のある人はお試しあれ。
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  by seutaro | 2007-05-29 01:36 | ネタ

<日常>目撃者は2歳児

 今日、風呂からあがると、娘が台所の隅っこのほうを指差しながら言った。

 「虫がいるよ」

 「え?」

 僕がいる位置からはその場所は見えなかったのだが、ちょうどゴミ箱が置いてあるあたり。急いで体を拭いて、台所のほうに向かうがもう何もいなかった。

 「虫いたの?」

 「うん。てくてくって歩いてたよ。」

 通常であれば愛娘のボキャブラリーの発達に感涙するところであるが、しかし事態はそれどころではない。

 「大きかった?」

 「うん、大きかった。」

 「何色だった?」

 「水色。」

 んなわきゃないだろうと思いつつ、とりあえずまだ例の黒い奴に対する恐怖心がまだそれほど発達していなさそうな娘に頼んでみる。

 「そうか~、じゃあ、虫がどこにいったのか探そうか」

 こういう時に(だけ)は素直な娘は、「いないよ」などと呟きながら、家のなかをうろうろする。やがて一言。

 「虫いないよ。パパの部屋に行ったのかな。」

 ・・・そういう不吉なことを言うのは止めなさい。
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  by seutaro | 2007-05-27 01:26 | 日常

<日常>はしか襲来

 首都圏の大学で「はしか」が流行しているため、一斉休講を行う大学が増えている。

 かく言う僕の勤務校も明日から一斉休講ということになった。学生はキャンパスに立ち入り禁止である。

 が、明日は僕は非常勤で別の大学に行くので、とりあえずは関係ないのだった。来週の授業はないわけだが。

 それにしても問題は、夏休みが減るのかということである。のんびりしているように見える大学もスケジュールはそれなりにタイトに組んであるので、そう簡単には夏休み削減というわけにもいかない。かといって文科省の方針いかんでは、是が非でも授業日数を確保しなくてはいけない・・・ということで、大学の首脳部は結構頭を抱えているはずだ。

 僕としては、調査で海外に行こうと思っているので、夏休みを減らされては困るというのが正直なところだ。そもそも、非常勤に行っている大学のなかには、異常に夏休みが短いところがあり、僕の夏休みは最初からかなり短いのである(涙)。

 そういうわけで、なんというか、「10日ほど学校が休みだった」という事実を休み明けにみんなで忘れてしまうというのが僕的にはベストだし、教員・学生の97%ぐらいもそれでハッピーなんだと思うのだが、いかがなものだろうか。
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  by seutaro | 2007-05-24 23:07 | 日常

<日常>母校で教える

 今年から僕が卒業した大学で非常勤講師をやっている。

 僕がかつて2年間を過ごしたキャンパスや近辺の商店街は、歩いているだけでものすごく感慨深い。かつての記憶が蘇るとともに、寂しさも感じられる。僕が友人たちとよく行っていた喫茶店はなくなってしまい、たまに朝食を買っていたパン屋は携帯ショップになってしまった。

 僕に青春と呼べるものがあったとすれば、間違いなくそれはこのキャンパスと、そこから電車で一駅行ったところにあった僕の下宿がその舞台だった。

 けれども、僕も気づけば30半ばで、家族持ちになっていて、おまけに住宅ローンまで背負っていたりする。思えば遠くに来たもので、ここに至るまでの面倒臭いプロセスを思えばもう二度とやり直したくなどない。

 が、それでも、「二度と、あのころには戻ることができない」という思いは、僕を切なくさせる。人生の選択を誤ったとは微塵も思っていないが、それでも選択する以前の気楽さはそれだけで魅力的なんだろう。
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  by seutaro | 2007-05-19 02:20 | 日常

<日常>本当に大切なことは語ってはならない

 今日も3コマ。やっぱりしんどいわけだが、とりあわけ4限の授業が結構大変である。今日の講義テーマは「恋愛と情報メディア」ということで、社会学・コミュニケーション論的な観点から「恋愛」について語ってみた。

 んで、そのなかで持ち出したのがこのエントリのタイトル「本当に大切なことは語ってはならない」ということだ。人間にとっての最も細やかで精細な感情は、言葉にしてはならない。なぜなら、その言葉にするという過程そのものが、その感情を歪めてしまうからだ。

 ただ、授業ではうまく学生に伝わらなかったのではないか、と心配ではある。

 「言葉」には限界がある。我々の心のなかの最もプライベートな感情を言葉で伝えることは至難の技だ。たとえば、ほかの誰かを大切に想う感情しても、それを言葉にしようとすると殆どの人は「好き」だの「愛してる」だとのいった陳腐な表現を使わざるをえない。

 そして、その陳腐な言葉を発した瞬間、その自分の感情自体が妙に安っぽく感じられてしまう。言葉によって切なる想い自体が歪められてしまうのだ。だからこそ、我々にとって本当に大切な、細やかな感情は語ってはならない。それは誰にも話さず、心のなかにそっとしまっておくべきものだ。

 ただ、数年前にこういう話を知人の女性にしたところ、「でも、言ってもらわなきゃわかんない」と言われたのだが…。
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  by seutaro | 2007-05-17 02:30 | 日常

<学問>論文提出

 3月からずっと書いていた論文をようやく提出した。これでとりあえず2007年発行の論文は2本になるし、去年の秋から取り組んできたテーマからようやく(暫定的に)解放される。理論はそろそろ飽きてきたし、今度はまた事例分析をする予定。

 それにしても、授業と授業準備の合間に書いているため、書いていた内容がすぐに頭から飛んでしまう。正直、通読したのも数えるほどだし、全体としての整合性がきちんと保たれているかどうか心配ではある。

 まあ、問題があれば校正のときに直せばよいだろうという、印刷屋さん泣かせの言辞を吐いて終わるのであった。
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  by seutaro | 2007-05-15 15:02 | 学問

<日常>遠方より朋来る

 もう昨日のことになってしまったが、遠方より友人が遊びに来た。まあ、遠方というほど遠方でもないのだが、こちらが引っ越して勝手に遠ざかってしまったので、とにかく遠くなった。こんな郊外の、しかも何もないところまでわざわざ幼子を連れてきてくれるのは有難いことである。

 それはともかくとして、子どもの成長というのは本当に早い。以前、Rくん(赤ちゃん)に会ったときには、本当に生まれたてという感じがしていたのだが、今回はもうつかまり立ちをしているし、体もしっかりしてきた。色白で肌のきめが細かいのは、お父さん似なのかもしれない。ちなみに、うちの娘(そなたん)はおそらく僕に似て焼けやすい体質なので、あと何年もすれば別人種になるだろう。

 そなたんはといえば、毎日顔を見ているせいで、なかなか成長を実感できない。けれども、他の子どもを見ると知らないうちにずいぶんと成長したものだと感じる。遊びに来てくれたRくんを抱っこした感じと、そなたんを抱っこした感じとが全然違う。Rくんはまだまだふわふわした感じなのに対して、そなたんは骨と骨とががしっとぶつかる感じである。

 思えば、そなたんもちょっと前まではあんな風にふわふわしていた。普段接しているからこそ、子どもの成長が見えにくくなることもある。

 そういえばちょっと前まで、「ほら、おむつ変えるよ」と言っても「あとで~」なんて言わなかった。というか、誰に習ったんだ、それは。
 
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  by seutaro | 2007-05-04 02:32 | 日常

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