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<日常>ちと感動

 今日、僕が部屋にいると、娘が入ってきた。なぜか上半身裸である。
 「なんで、裸なの?」
 「服が濡れちゃったの」
 「そうか~」
 というやりとりをする。そして、ちと感動する。というのも、理由を尋ねて、その答えがきちんと返ってきたからだ。子どもを育てていると、そんな当たり前のコミュニケーションが感動的に思えることがある。
 しかしまあ、お風呂に入れるために娘の服を脱がそうとすると、「えっち~」と言うのには困ったものである。なんかドギマギしてしまう。
 いったい、どこで覚えたんだ、それは。
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  by seutaro | 2007-06-16 03:01 | 日常

<メディア>週刊誌ジャーナリズムの俗悪

 なんだかんだいって、日本の新聞は慎重である。誤報もあるにはあるが、むしろ誤報を恐れるあまり過度に慎重な報道になっているとの指摘もある。

 他方、そうした新聞の報道姿勢を補完するのが週刊誌ジャーナリズムだといわれる。要するに、多少のリスクを冒しても攻撃的な報道をすることで、売り上げを伸ばすことに血眼になっているというのである。そうした週刊誌ジャーナリズムの姿勢を評価するメディア研究者は多い。

 けれども、そうした姿勢が時として俗悪な報道へと繋がることは否定し難いだろう。

 ごちゃごちゃ書いてきたが、今週の『週刊ポスト』の報道は最低である。読んでないので中吊り広告を見ただけだが、そこから判断するに死者を陵辱しているとしか言いようがない。

 僕はこの歌手の人についてあんまり知らないのだが、聞けばマスコミにほとんど露出しない人だったという。その理由としては、マーケティングな要因もあるようだが、結局、デビュー以前の過去を封印して歌だけで勝負したいという本人の意向があったのだと聞く。

 週刊誌の芸能担当記者ならそんなことは知ってて当然だろう。だとすれば、本人が生前に表沙汰にしたくなかった出来事を、それを知っていながら報道したことになる。記事には「哀悼」などと銘打っているが、なにが哀悼なものか。

 この記事を書いた人物、その掲載を許可した人物は、人間として終わっている。これほどまでにモラルの欠落した連中が、ほかの誰かを批判できるというのが驚きである。
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  by seutaro | 2007-06-05 01:22 | メディア

<政治・社会>「納得できない動機」を聞きたくなるとき

 この前のエントリで、人びとは殺人に関して「納得できる動機」を聞こうとすると書いた。けれども、よく考えてみると、場合によって人は「納得できない動機」を好んで聞こうとする瞬間があることに気づいた。

 それを考えるためには、浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』(光文社新書、2006、p.86)の以下の記述が参考になる。

 当時、この(宮崎勤被告の:引用者)事件について発言した言論人たちは、足並みをそろえるかのように一斉に検察の示した凡庸なストーリーに反発した。あたかも宮崎の意を汲もうとするかのごとく、事件を凡庸な性犯罪に押し込めることに抗った。

 宮崎勤被告の事件では、劣等感にさいなまれ成人女性への欲望を満たすことができない被告がその代償としてか弱い幼女を狙ったのだというストーリーを描いた。しかし、そうした「凡庸なストーリー」に対しては、まず宮崎被告が反発した。「全体的に、醒めない夢を見て起こった。」さらに、一人の幼女の両手を焼いて食べたと告白したのである。そして、この事件にコメントをしていた識者たちもまた、この犯罪の「特異性」を強調し、宮崎被告をある意味で支持したというのである。

 この事件の場合、むしろオーディエンスは「納得できる動機」ではなく、「納得できない動機」を聞きたがった。その動機が異常であればあるほど人びとの好奇心は掻きたれられ、そうした「異常な犯罪性」が一体なにに起因するのかを知ろうとしたのだ。

 ところが、他の事件においては、仮に犯人がそうした「異常な動機」を告白したとしても、まったく相手にされないか、せいぜいが精神障害を装うための詐術だと断ぜられて終わるだけだろう。

 だとすれば、宮崎被告の事件と他の殺人事件とを区別するものはいったい何なのか。その理由の一つは、前掲書でも論じられているように、宮崎被告の事件が「時代の兆候」として最初から取り上げられたということがあるだろう。

 つまり、宮崎被告は当時の社会が抱える病を体現した存在として「祭り上げられていた」のだ。したがって、その動機が異常であればあるほど、時代の病もまた深刻だという判断がなされ、「近頃の若者」あるいは「オタク」を憂うコメンテーターの格好の材料になりえたのである。

 以上のことから、いかなる動機であれば受け入れられるのかという問題については、その人物がいかなるフレームで論じられるのかが鍵となる。「時代を象徴する異常者」なのか、それとも「凡庸な犯罪者」なのか。「異常な犯罪者」とされた場合、その動機は納得出来ないものであればあるほど多くの人びとをひきつけることができる。逆に、「凡庸な犯罪者」とされた場合、その動機はあくまで「納得できる」ものでなくてはならない。仮に、宮崎被告が「凡庸な犯罪者」とされていたならば、彼の語る「醒めない夢」は一蹴されていた可能性が高い。

 言うまでもなく「異常な犯罪者」と「凡庸な犯罪者」との境界線はきわめて曖昧である。よって、「異常な犯罪者」とされた人物に「納得できる動機」を認めうる余地があるのと同様に、「凡庸な犯罪者」と位置づけられた人物にも「納得できない動機」を認めうる余地を残しておく必要はあるのではないだろうか。

(ちなみに、宮崎被告が「異常な犯罪者」と位置づけられるにあたって重要な役割を果たしたのが彼の部屋の映像であろう。部屋を埋め尽くす雑誌やビデオ。そして、その雑誌のなかでもとりわけ人目をひく一冊のポルノ雑誌。この映像によって、彼が「異常な犯罪者」だとの印象が大きく強まったのではないか。そのポルノ雑誌は、報道陣によって意図的にそこに置かれたのではないかとの指摘もある。その指摘によれば、雑誌のほとんどはポルノ以外の雑誌であったが、事件後にその部屋を撮影した報道陣が宮崎被告の異常性を強調するために、わざと目立つ場所にそれを置いた可能性が高いのだという。)
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  by seutaro | 2007-06-01 16:51 | 政治・社会

<メディア>メディア・バッシング

 日本のメディアにもいろいろあるというのはご存知の通りだと思う。革新系、リベラル系、保守系など、さまざまだ。で、『朝日新聞』と『産経新聞』の仲が悪いのに代表されるように、それぞれのメディアは結構いがみあっていたりする。

 ところが、時に、右から左まで殆どのメディアが足並みを揃えて特定の対象をバッシングし始めることがある。あるいは、ある問題を徹底的に黙殺することがある。後者の例でいえば、再販制度の是非がその最たるものだろう。

 マス・メディアに接するさいに、最も注意すべきはそうした瞬間だ。特定の集団をみなでバッシングするとき、そこにはある種の安心感が生まれる。普段はいがみ合っていて、すぐに揚げ足を取られるにもかかわらず、その瞬間だけはみな安心して言いたいことを言えるからだ。バッシングを受ける側は、通常は圧倒的な少数者であり、その声が大手のマス・メディアできちんと報じられることは殆どない。

 そのため、そうした集団的なバッシングのなかでは、本来は語られるべき出来事がどんどんと報道から削り取られていってしまう。その結果、バッシングを受ける側を「絶対悪」とするストーリーが簡単に出来上がってしまう。

 ただし、そうした状況がずっと続くとは限らない。バッシングが終わり、その出来事が殆どの人の記憶から消えうせたあとに、以前には全く語られなかったストーリーが姿を現す。「絶対悪」とされたはずの側にもそれなりに妥当な事情と考え方があることが明らかになる。佐藤優氏の『国家の罠』(新潮社)などは、まさしくそうした事例だと言えるだろう(ただ、佐藤氏の場合、その緻密な情報戦略により(世論的には)見事なカムバックを果たしたと言える)。

 けれども、それはバッシングが終わったずっとあとの話なのであり、殆どの人はそうした「語られなかったストーリー」を知ることすらない。そして、バッシングをした側は、自らの罪業を反省することもなく、次なるバッシングのターゲットを探す。バッシングによって世の中が良くなるという大いなる錯覚を抱えながら。

 いったい、我々はいつまでそんなことを続けるのだろうか。
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  by seutaro | 2007-06-01 02:34 | メディア

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