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<日常>子どもに本を読むこと

 今日、家に帰ると、大勢の子どもがいた。同じマンションに住む子どもたちがお母さんたちと一緒に夕食を食べにきていたのだ。

 夕食を食べたあと、とりあえず子どもたちと一緒に遊んだのだが、いかんせん人数が多い。そこで、絵本を読んであげることにした。

 変なイントネーションと大げさな台詞回しでそれなりにはウケたのではないかと思う。

 それにしても、と思う。子どもに絵本を読んであげることが出来るというのは、なんと楽しいことなのか。

 僕が高校生のときのことだ。僕は学校の催しで、視覚障がい者の講演会に出席した。全体としてどんな話だったのか、さすがにもう覚えてはいない。けれども、一つだけ、とても印象に残る話があった。

 その視覚障がい者の方には、お子さんがいて、絵本を読んでくれとせがまれることがあるのだそうだ。けれども、その方には絵本を読むことができない。とりあえず、手で絵本をなぞってみるのだが、どうすることもできない。そういう話だった。

 もちろん、僕にしても、仕事で疲れているときには、絵本を読んであげるのが面倒なこともある。しかも、3歳のときに親に本を読んでもらったことなど、子どもはいずれ忘れてしまうだろう。
ついでに言うと、スティーヴン・レヴィットによると、親が子どもにどれだけ本を読んで聞かせたかということは、子どもの成績と相関しないそうだ(『ヤバい経済学』)。

 けれども、子どもに絵本を読んであげることができるというのは親の義務というよりも、権利なんだろうと思う。

 少なくとも、僕には、絵本を手でなぞる以上のことができるのだから。
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  by seutaro | 2008-07-31 02:48 | 日常

<日常>微妙なコメント

 ここしばらく、楽しくない毎日が続いている。

 というのも、学期末試験の採点に追われているからだ。現時点で960枚ほどが手元にあり、来週の月曜日に250枚ぐらいが追加される見込みなので、合計すると1200枚ちょっとになる。1日100枚ずつ採点したとして、12日間以上かかる計算だ。

 そもそも、なんでこんなことになってしまったのだろうか。確か去年は800枚ちょっとだったはずなのだが、授業時間を変更(1限→3限)したりしたおかげか、ずいぶんと増えてしまった。某非常勤先では、楽勝科目だとの噂が流れたのではないかと懸念している。(ちなみに、本務校では「たくさん落とす」という悪評高い存在なので、そんなことはないはず)

 採点というのは、本当に楽しくない作業だ。同じような文章、同じようなミス、親の敵のような乱雑な字が延々と続く。文字が頭に入ってこなくなる。けれども、たまにものすごく出来のいい答案があったりすると、一服の清涼剤になる。

 微妙なのは、「先生の授業、すごく楽しかったです」といった類のコメント。無論、嬉しくないわけがない。汚い字の答案に疲れ果てた僕の目に、「楽しかった」というコメントは暗闇の中の一筋の光のようだ。その後にちょっとした感想でもあれば、さらにポイントは高い。正直にいって、AかBかの判断で本当に迷うような出来の答案のばあい、そうしたコメントがプラスに働くことは否定できない。人間だもの。

 が、そうしたコメントが常にプラスに働くとは限らない。つまり、「楽しかったという割に、この答案の出来はいったい何なんだ」というような出来の答案のばあい、むしろそうしたコメントはマイナスに働く。教員にごまをすって、少しでも良い点をもらおうという魂胆が見え見えだからだ。

 もちろん、AかBかで迷うぐらいの答案でも、学生の側にそうした計算が働いていないわけではないだろう(もう、僕の性格はねじくれてしまっているのだ)。でもまあ、AかBかぐらいの出来であれば、「まあ、騙されてやるか」という気持ちになるのだ。

 それに、そこまで計算して書いているのであれば、そのスキルに応じてAをあげてもいいかな、とも思う。

 無論、これは僕のばあいなので、他の教員に同じ手が通じるとは限らないのだが…。
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  by seutaro | 2008-07-26 00:49 | 日常

<メディア>mixiでの脇の甘さについて

 まあ、なんだ、教員なんぞというものは、基本的には悪口を言われるために存在しているのだろう。

 とはいえ、自分の悪口がネット上で書かれているのをみると、やっぱり凹むものである。

 もちろん、blogなんかでストレートに書かれることは多くないものの、mixi上ではみなさん妙に脇が甘くなる。SNSとはいえ、数百万のユーザーを抱えるサービスなのだから、想定外の人が読むことなど当然考えておくべきリスクだ。にもかかわらず、当の本人が簡単に見つけることができるような形で平然と悪口を書く。

 しかもmixiの場合、プロフィールがかなり詳細に掲載されていることが多く、本人を特定することも難しいことではない。実際、僕の悪口を書いている学生は簡単に特定できた。

 というわけで、どう対処するか、なのだが…。

 ぱっと思いつく方法としては、黙って単位をあげない等の報復も考えられるわけだが、さすがにそれは教育者としてどうかと思うし、あまりに陰湿だ。

 というわけで、自分の悪口はあえて見なかったことにするというのが妥当なソリューションであろう。あと、教育的配慮として、担当している学生全員に対し、mixiのリスクをあくまで一般論として語ることが必要だろう。学校の教員なら笑って済む話でも、会社の上司や取引先の相手ともなればそうはいかない可能性が高い。

 しかしまあ、やっぱりストレスは溜まる。まあ、考えてもしょうがないことなのだし、今日はもう寝よう…。
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  by seutaro | 2008-07-25 02:12 | メディア

<政治・社会>自己責任の底が抜けたとき

 現代の若者は「他罰的だ」との指摘がある。要するに、問題の責任を自分ではなく、他人に押し付ける傾向があるということだ。たとえば、ウチダ先生はかつて、ブログにこんなことを書いていた。

現在の若い日本人のほとんどは自分の不幸や失敗を「他の人のせい」にする他罰的説明に依存している。「社会が悪い」「親が悪い」「学校が悪い」「メディアが悪い」などなど。(出典)http://blog.tatsuru.com/archives/000739.php

こういう意見は他でも散見されて、たとえば先月の秋葉原の事件についても、犯人は自分の苦境を「社会のせい」に転化したがゆえに犯行を及んだとの解釈が『毎日新聞』や『産経新聞』のコラムで見られた。
 しかし、本当にその解釈は妥当なのだろうか。たとえば、加害者がネットに書き込んだとされる文章には以下のような記述がある。

『で、また俺は人のせいにしてると言われるのか
悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺 いつも悪いのは全部俺だけ
別にいいけど 実際全部俺が悪いんだろうし 』

 この記述を見るかぎり、彼には自己の現状に対する過剰な責任感があったように思えてならない。この件はむしろ、なんでもかんでも自分一人の責任であるという自己責任論の底が抜けたケースとして解釈すべきなのではないだろうか。

 つまり、なんでもかんでも一人で背負い込んでしまった結果として暴発は起きたのであり、やり場のない憤りが、自分と同じように見える秋葉原の人びとを無差別的に殺傷するという行為につながったのではないだろうか。

 仮に、彼がもう少し自分の置かれた状況を社会のなかに位置づけて考えることができたのなら、言い換えれば「社会のせい」にすることができたのなら、ひょっとして道を踏み外さずに済んだのかもしれないと僕は思う。だから、この犯人に対して「甘ったれるなと一喝するしかない」という産経抄的ソリューションは、無意味であるばかりでなく、逆効果ですらありうる。

 さらに言えば、イタリアの落書き事件における過剰なバッシングもまた、自己責任論の蔓延の帰結なのかもしれない。すべてが自己責任の世界では、他者の過失を攻めることがある種の開放感をもたらすのだろう。こういうバッシングを招いたのも他者自身の責任であり、苦心しながら自分で自分を律している我々には彼ら/彼女らを攻撃する権利がある、というわけだ。自己責任感の強いひとほどクレーマーになりやすい、なんてこともあるかもしれない。

 その結果はといえば、ただただ息苦しいだけの、閉塞的な社会だろう。ネットの発達により、バッシングの対象は公人ばかりではなく一般人にまで及ぶようになった。他者のあら捜しに血眼になっている連中が、隙を見せたターゲットに対して情け容赦なく襲い掛かる。

 しかし、まあ、好むと好まざるとに関わらず、我々はこういう密告型の社会を生きていかざるをえないのだろう。あまり胸弾むような状況ではないのだが。
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  by seutaro | 2008-07-10 02:14 | 政治・社会

<日常>死者からの贈り物

 あれがいつの事だったのか、はっきりとは覚えていない。おそらく、僕が小学校の高学年だったときのことではないかと思う。

 その晩、僕は眠れないまま、薄暗い部屋のなかでもっと幼かったころのことを思い出していた。そのとき、ふと曾祖母のことが、強い痛みとともに思い出された。

 曾祖母は僕が小学校一年生のときに既に亡くなっていた。晩年、曾祖母はずっと病院で過ごしていたが、いまで言う認知症を患っていたようだ。実質的には監禁に近い状態で、親族が見舞いに訪れるたびに家に帰りたがっていたのだという。

 まだ幼かった僕は結局、一度も曾祖母を病院に訪ねることはなかった。僕にとって曾祖母はなんだか恐ろしい存在で、おそらく自分から近づくこともなかったのではないかと思う。

 ところが、どういうわけか、誕生日か何かの機に曾祖母が僕にプレゼントをくれたことがあった。実質的には人づてに渡されたような気がするが、それはどう見ても女の子向けのキャラクターものの箱か何かだった。当然、僕が気に入るはずもなく、しばらくするとどこかへいってしまった。おそらく、親か誰かが処分してしまったのだろう。

 その後、曾祖母は亡くなり、数年が過ぎた。そしてその晩、僕は曾祖母の記憶とともに、その箱のことを思い出した。僕はその箱が手元にないことを激しく悔いた。どうして亡き曾祖母からの贈り物を大切にしなかったのだろう。それが、たとえ女の子向けのおもちゃであったとしても、いやむしろ、女の子向けのおもちゃであったからこそ、僕はそれを大切にすべきではなかったのか。曾孫の性別すらも判別がつかない状態でなおも渡そうとしたプレゼントであったからこそ、その意味は果てしなく重いはずだったのに。

 もちろん、当時の僕がこういう形で考えていたわけではないと思う。けれども、男の子の曾孫に女の子向けのおもちゃを贈った曾祖母に、一度も感謝の気持ちを伝えることができなかったことをとても悲しく感じたことは確かだ。
 
 一昨年のことだ。僕のアドレスに一通のメールが届いた。それを読んで、僕は驚愕した。大学のサークルで同期だった女性が亡くなったというのだ。その女性とは3、4年ほど音信不通になっていたものの、卒業旅行に一緒に行ったグループの一員だった。

 通夜には大学のサークルの同期がたくさん参加していた。けれども、死の直前に彼女がどんな暮らしをしていたのか、そもそもなぜ亡くなったのか、みんなあまり知らないようだった。

 会場の遺影には、僕が知っている彼女と何も変わらない姿が映っていた。そういえば、大学を卒業してしばらく経って会ったとき、彼女は僕が当時公開していたウェブ日記を読んでくれていると言っていた。結婚した僕の新居に遊びに来たがっていたこともあった。結局は彼女が体調を崩していたこともあって、その話は消えてしまった。

 そんなささいな思い出が浮かんでは消える。もっとちゃんとまめに連絡を取っておくべきだったのかもしれない。せめて一回は新居に招いておくべきだった。人の死はいろんな後悔を呼び起こすし、それによって僕らが学ぶこともある。けれども、何も教えてくれなくてもいいから、とりあえず生きていて欲しいと思う。とりわけ、その人がまだ若いのなら。

 もう8年の前の、ちょうどいまごろのことだ。その時、僕はイギリスに留学する直前だったのだが、彼女も含めた数人の友人が僕のためにささやかな歓送会を開いてくれた。そのさい、僕は彼らから餞別として定期入れを受け取った。

 8年間使い続けた定期入れはいまも現役だ。もう革の色も褪せ、糸のほつれも目立つ。果たして彼女がそれに出資してくれていたのかどうかは知らない。だが、「死者からのプレゼント」を僕は可能な限り使い続けたいと思う。

 それが、曾祖母の死から僕が学んだ唯一の教訓なのだから。
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  by seutaro | 2008-07-07 01:13 | 日常

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